『わたくしだけの雨傘』 (進行豹
『わたくしだけの雨傘』 進行豹
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「……ああ」
ざあ、と心地よい音が立ちます。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
何かが肌に触れたかしらとのんきに思っておりましたのは、ほんの数秒前でしたのに――
「まいったな、これは本降りになりそうだ。舞台の雨は、美しいばかりのものであったが」
「双鉄様、どうぞこちらへ。せっかくのお召し物が濡れてしまいます」
「こちらもそちらも大差ないさ。大木とはいえ落ち葉の季節だ。雨を遮る力などたかがしれている」
「……かもしれませぬが」
双鉄様に、雨粒がしたたり落ちて染みになります。
焦りが、どんどん大きくなります。
「濡れてもいいさ。雨降って地、固まるだ。僕とお前は、実際そうしてきたではないか」
「……それも左様でございますが」
たった今観劇してきたばかりの、御一夜鉄道の成功をモチイフにしたという舞台劇。
その劇中に描写されることがあるはずもない――双鉄さまとわたくしだけが知る、ひとつのシイン。
「随分濡れたものだった。あの雨の冷たさと比べたら……」
双鉄様とわたくしと、同じ情景を思っている。
なんとしあわせなことでしょう。
「……寄り添いあえるこの雨宿りには、ぬくもりだけしか感じんさ」
「わたくしもおなじく感じます」
からだも、こころも。
とてもここちよく、ぽかぽかと。
けれど――
「あのときとはお召し物が違います」
「おおげさな、単なる古着だ」
「汰斗様からの下がりものだというお話ではございませぬか」
フロックコオト。
舞台劇の主役のモデル――双鉄様へと届けられた、
記念すべき初演の貴賓席への招待状に応じての観劇に赴くにふさわしい、と。
真闇様がひっぱりだして、日々姫が手づから仕立てなおした、正真正銘の正装です。
「いわば右田の宝のひとつと感じます。おろそかに濡らしてはいけませぬ」
「ご説まことにごもっともだが……まさか降るとは思わなかった。傘も雨具もなにもない。
多少は濡れても、ここでしのぐ他なかろうさ」
いってぼんやり空を見上げて――
その目がすぐに、わたくしを捉え直します。
「ああいや、日々姫なり凪なり呼び出して」
「わたくしが!」
声。
自分でも驚くほどに大きな声がでてしまいました。
この場所に、双鉄様とわたくしだけの思い出の場所に……
たとえ日々姫であるとしたって、立ち入ってほしくはありませぬ。
「わたくしが一走りして雨傘を持ってまいります」
「それはだめだ、ハチロク」
「ご心配なく、双鉄様。わたくしはレイルロオド。風邪をひくなどありえませぬので」
「それはだめだ、すず」
「!」
名を呼んで――
双鉄さまが、わたくしを抱き寄せてくださいます。
少し湿ったフロックコオトのその内に、すっぽり隠してくださいます。
「お前自身が言ったことだぞ。右田の宝を、おろそかに濡らすなどありえんと」
「はい。ですからわたくしが傘をとってまいりましたら」
「最高に価値ある宝が濡れる。少なくとも、僕――右田双鉄にとっての」
「!!?」
「ああ、うん。そうだな。
お前という最高の宝を守るためであるなら、むしろ」
(ふあさっ)
「あっ」
双鉄さまが、フロックコオトを持ち上げて――
「汰斗さんも許してくれるさ。雨傘としては、守れる範囲があまりに狭いが」
「いえ! いえ! いえ!」
なんと光栄なことでしょう。なんと恐れ多いことでしょう。
最高級のフロックコオトを惜しげもなく――わたくしを雨から守るそのためだけに、使ってくださる。
「……とても、もったいないことです」
わかっています。わたくしは今すぐにだって、この雨傘から出るべきなのだと。
わかっていても――けど、どうしても――
「……」
顔が、ほころんでしまいます。
双鉄さまにぎゅっと、ぎゅうっと、体がくっついてしまいます。
「――わたくしだけの、あまがさ」
「ははっ、いいな。今までで拝命したなかで、二番目に喜ばしい役職だ」
「二番目、でございますか?」
「ほう? 一番目をわざわざ言わせたいのか」
「あ!」
にやけが、いやです、とまりません。
わたくしの顔、どれほどゆるんで――あああ、真っ赤になってしまっているのがわかります。
「野暮だな、僕の花嫁は」
傘が、くるんとたたまれて――
「……双鉄さま」
……わたくしの、くちびるだけに、雨が降ります。
;おしまい