投稿実話シリーズ「声優の母…の、過去…」
七月の午後。
蝉の声が空気を震わせるように響く中、風鈴がチリンと鳴っていた。
築十数年の二階建ての家。小ぢんまりとしてはいるが、掃除の行き届いたリビングには、穏やかで、どこか柔らかい空気が流れている。
その空気の中心にいるのが、新田惠美(あらた・えみ)、41歳。
栗色の髪を後ろでひとつにまとめ、ノースリーブの白いシャツに淡い花柄のロングスカート。
どこか舞台で見たような、品のある立ち振る舞いで、スムージーをミキサーにかけていた。
「もうすぐ帰ってくる頃ね、尚人……」
時間にすれば、午後三時すぎ。
扉がカチャ、と音を立てる。
「ただいまー」
乾いた声だが、どこか甘えが残る。
玄関に現れたのは、中学1年生の新田尚人(あらた・なおと)。
黒髪に、ぱっちりした目。中性的な顔立ちに、どこか大人びた雰囲気をまとっている。
学校の友達からは「落ち着いてる」「クール」と言われるが、家では全く別の顔を見せていた。
「おかえり、尚人。暑かったでしょ。冷たいの作っておいたわよ」
惠美が差し出すグラスには、黄緑色のスムージー。
キウイとバナナと、ヨーグルトの香りがふんわりと広がる。
「ありがと、母さん。……うん、うまい」
「でしょ? ビタミンたっぷりよ」
尚人は当たり前のように、惠美の隣に座る。
二人の間には、どこか恋人のような空気さえただよっていた。
尚人にとって、母・惠美は“自慢”であり、“味方”であり、“女神”だった。
母一人で自分を育ててくれていることに、物心ついた頃から彼なりに感謝していた。
そして母はただの「母さん」ではなかった。テレビのナレーションでその声を聞いたこともあるし、ラジオで流れる楽曲の中に、惠美の透き通る歌声が混じることもあった。
「すごいよな……母さんって、なんでもできるし、綺麗だし」
そう思うたび、尚人の胸は誇らしくなった。
「尚人、今日の英語どうだった?」
「リスニング、結構できたよ。母さんの発音聞いてるから、かもね」
「ふふ、じゃあ、今度英語の詩でも朗読してあげるわね」
「えー、それ録音して提出できたら満点だな」
そんな冗談を交わすやりとりも、日常の一部だ。
ある日曜日のこと。
尚人はリビングのソファでゴロリと横になりながら、スマホをいじっていた。
最近の宿題で「家族の仕事について調べてまとめる」というレポートが出たことがきっかけだった。
(母さんの職業って、ちゃんと書くと何なんだろう……)
舞台女優、声優、ナレーター、ラジオパーソナリティ、歌手。
ジャンルは多岐に渡っているが、肩書きとしては“フリーの表現者”とでも言うべきか。
(そういえば……ちゃんと調べたことって、一度もなかったかも)
母親の仕事に対して、尚人はどこか「触れてはいけない」ような、神聖さを感じていた。
だからこそ、スマホで名前を検索する、ただそれだけの行為にすら、わずかな背徳感があった。
(……“新田惠美”って、検索したら何が出てくるんだろう)
母は芸名など使っていない。
あくまで本名で活動している。だから、検索すれば何かしら出てくるはずだ。
尚人は指先を画面に滑らせ、「新田惠美」と検索窓に打ち込んだ。
最初に出てきたのは、出演した舞台の記録。朗読会の情報。
ファンのブログ、レビュー、そして過去のラジオアーカイブを集めたページ――
(……ああ、これだ。これが母さんの仕事)
どこか誇らしさを覚えながら、尚人は次々にリンクをタップしていった。
舞台の写真、朗読会の映像、ファンのブログ。
「母さんは本当にいろんなことをやってるんだな……」
けれど、ふとスクロールを続けていくと、今までとは明らかに異質なタイトルが画面に浮かび上がる。
《大人気声優○○ ハメ撮り流出》
……え?
一瞬、脳が追いつかず、指が画面の上で止まる。
まるで他人事のように、その言葉の意味を考えてしまう。
(……母さん? これ……?)
タイトルの横には、小さくモザイクのかかったサムネイル。
それでも、どこか母の面影を感じる。目元、輪郭、雰囲気――
ざわっと背中に寒気が走った。
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