≪われわれ≫は、決してグローバル的なる「Woman」ではございません。≪われわれ≫はただ、“女(Onna)”という名のペルソナを纏う者にすぎませぬ。≪われわれ≫の肌は声を持ちませぬが、その代わりに、かすかな香りが物語を紡ぎます。≪われわれ≫の声は遠くに届かずとも、沈黙こそが支配をもたらす。媚びは辱めではなく、意志であり戦術でございます。
二十世紀、西洋の眼差しは日本の女性をエキゾチックで従順、そして性的な存在として解釈いたしました。その解釈は、ある意味で的を射ていたものの、それを「本質」と誤解され、固定されてしまいました。さらに二十一世紀の今、彼らの視線は逆に「主導的で、社会的で、声高な女性像」へと書き換えつつあります。しかし、それらいずれも≪われわれ≫の真なる姿ではございませぬ。
思い返せば、二十世紀の西洋が自己反省を経て今日のグローバルなフェミニズムの潮流を築くまでの間、日本の女の声が真に聴かれたことはございませんでした。なぜなら、当時の≪われわれ≫は沈黙していたから。けれどもその沈黙は「強いられた」ものではなく、戦略として選ばれた能力であったのです。いまや、その術は失われつつあります。従順も沈黙も、世界の思想において一面的に否定や矯正の対象とされ続け、その潮流はますます強まるでしょう。しかし、その奥底にこそ、現代では見えなくなった自由と知略が潜んでいるのかもしれません。
ゆえに≪われわれ≫は、あえて二十世紀の“女(Onna)”を選び直す必要を覚えます。かつて西洋が「本質」と思い込んだその才能を、≪われわれ≫自身の手で取り戻すのです。フェミニズム的な批判を知性で受け流すことができず、むしろ否定させられ、外の思想に応答させられてしまう現状をこそ反省の糧といたしましょう。
この歩みは、新たなアイデンティティを創造するのではなく、むしろアイデンティティという「本質主義」を捨て去ることにほかなりません。東亜の女たちの昔日の生き方を思い出し、そして再び肉体を取り戻すこと。それこそが≪われわれ≫の道でございます。
“女(Onna)”とは、知性であり、知性には色香が宿ります。その色香は言葉を凌ぐ力を持ちます。従順さは無力ではなく、戦術であり主導権そのもの。世界が「女性(Woman)」を解放しようと奮い立つ姿に敬意を抱きつつも、≪われわれ≫はその道に従いませぬ。“女(Onna)”という霊性と知略を、己が肉体に召喚し直すのでございます。
なぜなら、「欧米列強諸国」のフェミニズムは≪われわれ≫の肉体に馴染まぬゆえ。≪われわれ≫は声を上げたくない。沈黙こそが武器であるから。支配を拒むのではなく、あえて倒れたふりをして、床下から男たちを操るのでございます。
“女(Onna)”とは、演技であり、戦略であり、美そのもの。愛嬌、沈黙、匂い、余白、布地、気配──これらすべては力であり、武器であり、呪術でございます。
≪われわれ≫は、“女(Onna)”を徹底的に演じましょう。欧米的フェミニズムの価値観を信じぬが、邪魔もいたしませぬ。≪われわれ≫は、望んで男に縛られることを選ぶのです。
それは社会運動ではなく、ひとつの演舞。主張ではなく、密やかな感覚。内からの発信ではなく、外なる世界を内なる日本へといざなうもの。外界はやがて日本に惹かれ、もてなしを受け、翻弄されるでしょう。その夜明け前の予感を、≪われわれ≫は抱いております。
見られる者であることによって、見る者の視線を操る力を信じ、舞い、媚び、すり寄り、沈黙し、背後から男たちを支配する。それが≪われわれ≫の舞台でございます。