あっくんへ
あっくんが学校に通わなくなって二年が経ちました。今では大半の同級生があっくんのことを忘れています。たまに話題に上がるとしても「教室の中心で水溜まりを作ったあいつ」としか呼ばれていません。あっくんの本名もあっくんが時々学校のトイレットペーパーを盗んでいたことも私しか覚えていません。安心しましたか?
これで安心してくれないところが実にあっくんらしいです。私達が初めて喋った日を思い出します。ほら、遠足で城の跡を見に行った日のことです。そこに立ってる羽ころの石像の碑文を先生が読み上げて、大蛇から主人を守って死んだ羽ころの手柄を称えて皆で拍手しましたよね。ところが、クラスで一人だけポッケに手を突っ込んだままの子がいました。何か腑に落ちないことがあるような顔つきで地面に視線を落とし、ぶつぶつ独り言を言っているようなのです。それを聞き取ろうとして近づいて、気づいたら私はその子のほっぺを触っていました(今更ながら言い訳をさせてほしいのですが、当時女子の間であっくんのほっぺが柔らかそうだと話題だったのです)。
「お前って変態なの?」
「違うよ」
即答した私からあっくんは三歩距離を取りました。肯定されても否定されても不安になるくせに何で訊いたんでしょうね。
それからの日々は思い出すだけで笑いが止まりません。あっくんのほっぺを触るためならいくらでも金を払うと宣う娘をしばき、指を詰めるとほざく娘をしばき、右腕を差し出すと抜かす娘をしばき……というのは冗談で、もはや私達二人の仲を邪魔する者はいなくなったので存分に絆を深めることができるのです。人に怯えるチワワを手懐けるよりも易しくはありませんが、人心掌握に焦りは禁物です。「まずはあなたの存在を意識させるところから始めましょう」と家庭教師からも教わりましたからね。とにかくあっくんの視界に陣取ることだけ考えていました。
頻繁に目が合うようになってからは警戒したあっくんが定規と鉛筆を携行するようになり(かわいい武器ですね)、こちらが両手を上げているのに、一歩近づかれたら一歩下がるという調子で参ってしまいました。だから、待つことにしたのです、獲物が無防備になる瞬間を。体操服に着替える時間を(公立の小中学校に男女別の更衣室を用意する余裕はないですからね。本当に残念です)。旧態依然とした教育制度を味方につけた私は、シャツを捲り上げたあっくんに素早く接近し、脱ぎ終えたところで対面したわけです。
まさか漏らすほど驚いてくれるとは思ってもみませんでしたし、泣かせるつもりなんてさらさらありませんでした。人生はハプニングの連続ですね。
「怖がらせてごめんね。保健室に行こうか」
そう言って差し出した手をあっくんは握ってしまいました。
あァあァあァ、かわいそうなあっくん! あれほど女子からかわいいと密かに言われていたのに、いざ困った時には誰も助けてくれないなんて。それどころか皆から引かれて、頼りになるのは元凶のクソ女だけだなんて。呪われた星の下に生まれてしまったんだね。かわいそうに!
水溜まり事件以降あっくんに話しかける人は減りました。「水溜まりが来たぞ」「今日も作るのかな」などとコソコソ話す連中は増えましたが。たった一度の失禁でなくなるなんて友情は儚いものですね(私はあっくんが何度漏らそうが愛想を尽かすことはありませんので安心してください)。
家庭教師の教えに従うなら、あっくんが学校で孤立を深めるほどその心に付け入るのが楽になるはずでした。だから、私が近寄っても怖がらず、話に相槌を打ってくれるようになり、大分手応えを感じていたものです。勘違いだったみたいですけど。
卒業式の日に校門の前で撮ったツーショットを見ればそれがよくわかります。一人は幸せ味の飴玉をしゃぶる子供のような顔を、もう一人はコーヒーをしこたま飲んで胃腸を痛めたおじさんのような顔をしているのですから。当時の私はあっくんと肩が触れ合うほどの距離にいたのにその表情に気付けなかったというのは不思議ですよね。
あっくんがどうして不登校になってしまったのか今でもよく考えます。最後の登校日の放課後、校門を抜けた辺りで「本を置き忘れたから取って来る。待ってて」と言って教室に戻りましたよね。私はもちろん後をつけました。私の知らないところであっくんが同級生からひどい扱いを受けていないか心配だったからです。下駄箱で駄弁っていた女子達はあっくんをチラッと見た後で日焼け止めクリームの話に戻りました。階段ですれ違った先輩は掲示物を貼り換える作業に夢中でした。教室では無言で体を擦りつけ合っていた野球部員が入室者をぼうっと見つめていましたが、再び二人きりになると激しさを増しました。そして、私は別のルートで校門前に戻り、何食わぬ顔であっくんを迎えたのです。これがいけなかったのでしょうか。少し目を離した隙に誰かがあっくんの心を深く傷つけたとでも言うのでしょうか。果たしてそんなことが可能なのでしょうか。わかりません。私には何も。
長々と書き連ねてきましたが、あっくんにしてほしいことというのは特にありません。今まで通りに生きてください。高校も通信制に進めばいいと思います。ただ、私があっくんを想い続けることだけは許してください。ついでにア〇ギフを贈ることも許してください。