迂回
「……はい、次の信号を右折します。……え、怒ってるって誰が? いや、私は普通ですけど、何にも考えてなかったんですけど。昨日仮免取ったばかりなので、路上練習できるの楽しみだなって思ってたくらいで。ええ、次の信号を左折します。……え、今日の朝食ですか? 納豆とご飯と味噌汁です。……まあ美味しかったですけど。……次も左折ですね。……例えば人を、じゃなくてチワワを叩きたくてたまらない人がいるとするじゃないですか。その人には愛犬家の友人がいて、その方がある日曜日に知り合いを家に招いて昼食をふるまってくれることになったんです。彼は友人のチワワを叩くチャンスを得たぞと喜び、スキップしながら向かうわけです。……ああ、二人が知り合った頃はチワワ叩き欲求の波が低めだったのと、時々別のチワワを叩いて憂さ晴らしをしていたからです。それなのに友人が愛くるしいペットの写真を度々見せてくるものだからどうしようもなかったんです。見知らぬ人間の匂いを嗅ぎつけてキャンキャン鳴きながら走ってきたそいつのマズルに初めましての一発を決めたい。ひっくり返ったそいつの貧弱な肢を握って、一本ずつ可動域を確かめたい。歩けなくなったそいつの尻尾を引っ掴んで、飼い主との思い出溢れるリビングが、寝室が、浴室が客人の匂いに侵されてゆく場面に立ち会わせたい(立てないけど)。……さっきから指示がないですけど、直進でいいんですよね。……じゃあ、戻りますね。約束の日曜日、その男を出迎えたのはチワワではなく、十歳の少年だったのです。少年は明らかにがっかりした表情の男の手を引いてリビングに入り、テレビの前に座らせました。カーペットの上にはゲームのコントローラーがいくつか置いてあって、男はしぶしぶそれを手に取ります。適当に少年の相手をしてからチワワを探しに行こうと心に決めますが、ゲームをやり始めると、十数年ぶりに遊んだからか誰かと並んで遊んでいるからか夢中になり、はっと我に返った頃には他の招待客も到着しており、テーブルはごちそうでいっぱいになっていました。隣室で吠える小犬に乾杯! ……はい、次の信号を左折します。……どこまで話し、うわぁ!? ブレーキありがとうございます。って、今落ちてきましたよね。あれって『ごみ箱に収まらないごみ』ですかね。めっちゃ痛そう。色々飛び散ってるのにジタバタ動いてる。病院連れて行ったほうがよさそう……え、座席が汚れる? まあそうですけど、管理局には通報しないんですか? ……次のコマも入ってるっちゃ入ってますけど、それにしたって……わかりました。発進して二つ目の交差点で左折します。……え、怒ってないですよ。全然普通ですよ。それに、仮に私が怒っていたとしてもハンドルから手を離せない以上あなたをやっつけられないじゃないですか」