03:恭平と隆 01
03:恭平と隆 01
「隆さん、このプロジェクトは、まさにIT技術の最先端をいくものです。言い換えれば——才能ある人間にしか、触れることすら許されない領域です」
恭平はそう言って、重厚なレザーケースから分厚い資料の束を取り出し、静かに隆の前へ差し出した。その瞬間、空気がわずかに張り詰めたように感じた。
隆は少し躊躇したが、資料を開いた瞬間、その目は一変した。
「これは……! この構造……リアルタイム処理とブロックチェーンの融合ですか? それに、このアルゴリズム……まだ理論段階のはずじゃ……」
目の前のページに引き込まれるように指を走らせる。呼吸が浅くなり、頭の中ではすでに処理構造の組み立てが始まっていた。
「こんな大口の案件、僕に任せていただけるんですか?」
その声は、興奮を抑えきれない少年のように弾んでいた。
「ええ。これは高難度なプロジェクトです。でも、それ以上に革新的で……やりがいがある。普通のエンジニアじゃ到底手に負えない。でも、あなたなら」
恭平は言葉を一つひとつ、計算された間で置く。まるで舞台の台詞のように、効果的に。
「隆さんのセンスと誠実さ、それに行動力。こういう案件は、信頼できる人間にしか任せられませんから」
そして、意図的に目を見つめる時間を延ばす。
「僕は、あなたを——信じてる」
その一言で、隆の中の何かが揺れた。
誰かに自分の「腕」を評価され、任される——それは、報酬よりも何よりも、技術者としての渇望を満たす甘い言葉だった。
——これまで誰にも注目されなかった、自分だけのやり方。
——誰にも見せることなく深夜に試作していたコード。
——“いつか誰かに見つけてほしい”と思いながら、夢のように描いていたシステム。
それが、今ここで、陽の目を見るのかもしれない。
「……これは、難しい。でも……やってみたいです。今の自分が、どこまでいけるのか、試したい」
隆の声には決意がにじんでいた。覚悟ではない。挑戦者としての純粋な渇望だった。
「ありがとうございます! 必ず成功させて、期待に応えます! 僕の技術で、世界を変えてみせます!」
立ち上がって、深々と頭を下げる。どこまでもまっすぐなその背筋は、未来に手を伸ばす若者の象徴のようだった。
恭平はその姿を見つめながら、ふっと微笑んだ。
だがその笑みは、慈しみではない。獲物を手なずけた捕食者の、それだった。
「期待してます。——本当にね」
その声の奥に、わずかに潜む「意図」。隆には届かない微細な毒。
彼はまだ知らない。この“夢のような仕事”が、
自分と、そして——ななみの未来に、どれほど深い爪痕を残すのかを。
* * *
「すごいじゃない、隆さん! ついに念願のプロジェクトが始まったのね!」
ななみは、隆の報告に目を輝かせた。久しぶりの夕食。美味しい手料理を囲み、隆との会話を楽しむ。まるで新婚の頃に戻ったみたいだ。
(今夜は、久しぶりに隆さんと……)
ななみは、心の奥底で期待を膨らませた。
しかし、夕食を終えると、隆はそそくさと立ち上がった。
「ごめん、ななみ。ちょっと仕事の準備があるんだ。今日は遅くなるかもしれない」
隆が仕事部屋に入って扉を閉める音が、カチリと小さく響いた。
その瞬間、リビングの空気がひときわ静かになる。ななみは手に持ったグラスの水をひと口飲み、深く息をついた。
「……そっか、今は仕方ないよね」
隆は、彼なりに頑張っている。大きな仕事を任されて、目を輝かせていた。
久しぶりの一緒の夕食に、ななみは密かに期待していた。たとえば、食後にテレビを観ながらソファでくつろいで、そのまま寄り添って——そんな何でもない時間を。
……そして、今夜はきっと、その先も。
だけどそれは、彼の「やらなきゃ」の前に、あっさりと押し流されてしまった。
ななみは一人でテーブルを片づけ、食器を洗いながら、流れる水音にまぎれて小さくため息をつく。
——大学時代、狭い1Kの部屋だったけれど、あの頃はすぐそこに隆がいた。 ——机に向かう背中が、視界の端に映っていた。
——話しかければすぐに笑ってくれて、それだけで安心できた。
今は、別々の部屋。扉の向こうにいる彼の姿も、気配すらも感じられない。
子供ができたときのことも考えて、二人で決めた引っ越しだった。個室があることは、未来のためには必要だったはず。
だけど今夜は、その壁が妙に分厚く感じる。
ふと、頭の中に声が響く。
「僕なら、そんな思いはさせないよ」
——あの夜、撮影の帰り道。ふいに恭平が見せた、優しいまなざしと、その声。
思い出したくなんてない。比べるなんて、間違ってる。わかってるのに。
ななみは両手を水に沈めたまま、ぐっと目を閉じた。
「バカだな、私……」
思わずこぼれた言葉を、シャワーの音がかき消していく。
心の揺らぎを振り払うように、彼女は水を止め、タオルを手に取った。
——今夜は、少し早めにお風呂に入ろう。
気持ちも、少しは切り替えられるかもしれない。
そう思って、ななみはバスルームへと足を運ぶ。
けれど、その背中には——
小さな寂しさの影が、なお色濃く残っていた。
そしてその影は、恭平の甘い囁きによって、これからもっと、濃くなっていく。
* * *
エレベーターが開いた瞬間、ななみの視界に、見慣れた横顔が飛び込んできた。
(……え?)
恭平だった。足が止まり、息を呑む。
「乗って大丈夫だよ?」
恭平の隣にいた中年の男性が優しく声をかけてくる。役員である彼は、ななみが躊躇した理由を勘違いしたようだ。
「どうぞ、お嬢さん」
恭平は一歩下がって道を譲ったが、まるで初対面のようなそっけない視線を向けるだけ。ななみは踵を返すこともできず、小さく会釈してエレベーターに乗り込む。
ドアが閉まり、密室になる。役員と取引先の社長、そして自分――何でもないはずなのに、鼓動が抑えきれず速くなる。
ドアが閉まり、密室になる。役員と取引先の社長、そして自分――何でもないはずの組み合わせなのに、鼓動が抑えきれず速くなる。手のひらがじっとりと汗ばむ。
「緊張してる?」
恭平が柔らかく声をかけてきた。どこかあの夜を思い起こさせる、優しい声音で。
「い、いえ……」
ななみは視線を落とし、言葉を絞り出す。喉が詰まるような感覚に耐える。
「驫木さん、優しいね」
役員が笑う。恭平は「はは」と軽く笑って流した。ななみはエレベーターの隅で、気配を消すように立ち尽くす。上昇する機械音が、いつもより遠く感じられた。
――チン。
目的のフロアに着き、恭平と役員が降りようとした、そのとき。
「そうだ」
恭平がふと思い出したように立ち止まる。ポケットから名刺ほどのサイズのカードを取り出し、ななみに差し出した。
「僕、使わないから」
悪びれもせず、軽くウインクを残す。ななみは一瞬、息を呑んだまま動けなかった。無表情を装い、受け取る手がわずかに震える。
恭平の背中が遠ざかり、エレベーターの扉が閉まる。ふたたび密室。
その時、ななみの鼻にどこか懐かしい香りがした。
手に持ったカードに視線を落とす。これは、カード型のフレグランスだ。
その裏には、手書きの文字。
「美しい君に」
瞬間、あの夜の記憶が胸に蘇り、頬が熱くなる。カードから漂う香りにハッとした。どこかで嗅いだ記憶――あの夜、彼が纏っていた香りに似ている気がした。
(……なぜ、こんなことを)
鼓動がうるさい。誰かに聞こえそうなくらい。ななみは香水をバッグに押し込み、乱れた息を整えようとする。
――チン。
ななみのフロアに着き、別の社員が乗り込んでくる。彼女は顔を見られないよう視線を落とし、そっとエレベーターを降りた。胸のざわめきは、まだ静まらなかった。
* * *
昼休み。早足でデスクに戻ったななみは、隠すように手に持っていたカード型フレグランスをしまおうとした。
ちょうどそのとき、後ろを通りかかった総務の女子社員、桐谷真由が声をかけてきた。
「ん、なんだか良い匂い……」
驚いて振り返るななみに、真由は興味津々に身を乗り出す。
「それ、カード型のフレグランス? どうしたの?」
「あ……ええと、試供品……もらって」
ななみは慌ててサンプルを引き出しにしまい込んだ。
真由は一瞬だけ怪訝な表情を見せたが、すぐに表情をくるりと切り替えると、ななみの耳元にそっと顔を寄せてきた。
「てか、今さ、下のフロアにIT社長来てるの知ってる?」
ドキッと心臓が跳ねる。
「轟木ホールディングスの社長! 超ダンディでかっこいいんだ~」
どう答えても、自分の秘密に触れる気がして、ななみは息を呑む。
「私、ああいう人って苦手だったけど、やっぱ社長ってだけでオーラ違うよね~。あのスマイル、ヤバくない?」
は~、一度でいいからあんな人とご一緒してみたいな~……って、新婚のななみには関係ないか」
曖昧な笑みを浮かべるななみへと一気に話し終えると、満足したのか真由は軽い足取りで去って行った。
引き出しの中のカードの感触が、ななみの指先に蘇る。
そのわずかな硬さが、胸の奥をざわつかせた。
(私だけが……知ってる。あの夜のことも、あの声も)
指先をそっと顔に近づける。
フレグランスの香りが、かすかに鼻をくすぐった。
ほんの少し、背筋が伸びる。
それは、ひとつの誇りのような感覚だった。
けれど同時に、うっすらと胸の奥に忍び込んでくる感情がある。
罪悪感。
このカードをどうするべきか。
引き出しを閉じた指先はまだ決めかねていた。
* * *
夕方のホーム。列車の到着を知らせるアナウンスが、冷たい風にまぎれて響く。
ななみは、駅のベンチに腰を下ろしていた。
手の中には、ハンカチに包んだカード型のフレグランス。
そっと包みを緩めると、甘くてやさしい、けれど少しだけ残るスパイシーな香りが立ちのぼる。
(……いい香り)
嗅いだ瞬間、心の奥にしまっていた記憶が引き出される。
ホテルの夜。恭平の低い声、熱のこもった視線。そして、あの優しさ。
何度も忘れようとして、結局忘れられなかったことばかりだ。
ななみはバッグからスマートフォンを取り出し、メッセンジャーを開く。
(まだ、お礼……言ってなかったよね)
打ちかけては消し、言葉を選んで、やっとひとこと。
『今日はありがとうございました。香り、とても素敵でした』
ただのお礼。深い意味なんてない。ただ、伝えたかっただけ。
自分にそう言い聞かせながら、指が「送信」ボタンにかかる――
その瞬間、スマホが震えた。
画面に浮かび上がったのは、隆からの新着メッセージ。
『今日ね、ななみが喜びそうなお知らせがあるんだ。家に帰ってからのお楽しみってことで』
指が止まる。
ななみはしばらくスマホを見つめたまま、そしてそっとメッセンジャーの画面を閉じた。
香水の香りがまだ手元に残っている。けれど、それ以上に胸をくすぐったのは隆の「楽しみにしてて」という言葉だった。
(……バカみたい、私)
立ち上がると、ちょうど電車がホームに滑り込んできた。
ななみはスマホをバッグに戻し、ハンカチごとカードをしまうと、電車に乗り込む。
閉まりかけた扉の向こう、夜風がそっと髪を撫でた。