ago Apr/21/2025 17:55

03:恭平と隆 01

03:恭平と隆 01

「隆さん、このプロジェクトは、まさにIT技術の最先端をいくものです。言い換えれば——才能ある人間にしか、触れることすら許されない領域です」

 恭平はそう言って、重厚なレザーケースから分厚い資料の束を取り出し、静かに隆の前へ差し出した。その瞬間、空気がわずかに張り詰めたように感じた。

 隆は少し躊躇したが、資料を開いた瞬間、その目は一変した。

「これは……!  この構造……リアルタイム処理とブロックチェーンの融合ですか? それに、このアルゴリズム……まだ理論段階のはずじゃ……」

 目の前のページに引き込まれるように指を走らせる。呼吸が浅くなり、頭の中ではすでに処理構造の組み立てが始まっていた。

「こんな大口の案件、僕に任せていただけるんですか?」

 その声は、興奮を抑えきれない少年のように弾んでいた。

「ええ。これは高難度なプロジェクトです。でも、それ以上に革新的で……やりがいがある。普通のエンジニアじゃ到底手に負えない。でも、あなたなら」

 恭平は言葉を一つひとつ、計算された間で置く。まるで舞台の台詞のように、効果的に。

「隆さんのセンスと誠実さ、それに行動力。こういう案件は、信頼できる人間にしか任せられませんから」

 そして、意図的に目を見つめる時間を延ばす。

「僕は、あなたを——信じてる」

 その一言で、隆の中の何かが揺れた。
 誰かに自分の「腕」を評価され、任される——それは、報酬よりも何よりも、技術者としての渇望を満たす甘い言葉だった。

 ——これまで誰にも注目されなかった、自分だけのやり方。
 ——誰にも見せることなく深夜に試作していたコード。
 ——“いつか誰かに見つけてほしい”と思いながら、夢のように描いていたシステム。

 それが、今ここで、陽の目を見るのかもしれない。

「……これは、難しい。でも……やってみたいです。今の自分が、どこまでいけるのか、試したい」

 隆の声には決意がにじんでいた。覚悟ではない。挑戦者としての純粋な渇望だった。

「ありがとうございます! 必ず成功させて、期待に応えます! 僕の技術で、世界を変えてみせます!」

 立ち上がって、深々と頭を下げる。どこまでもまっすぐなその背筋は、未来に手を伸ばす若者の象徴のようだった。

 恭平はその姿を見つめながら、ふっと微笑んだ。

 だがその笑みは、慈しみではない。獲物を手なずけた捕食者の、それだった。

「期待してます。——本当にね」

 その声の奥に、わずかに潜む「意図」。隆には届かない微細な毒。

 彼はまだ知らない。この“夢のような仕事”が、
 自分と、そして——ななみの未来に、どれほど深い爪痕を残すのかを。

 * * *

「すごいじゃない、隆さん! ついに念願のプロジェクトが始まったのね!」

 ななみは、隆の報告に目を輝かせた。久しぶりの夕食。美味しい手料理を囲み、隆との会話を楽しむ。まるで新婚の頃に戻ったみたいだ。

(今夜は、久しぶりに隆さんと……)

 ななみは、心の奥底で期待を膨らませた。

 しかし、夕食を終えると、隆はそそくさと立ち上がった。

「ごめん、ななみ。ちょっと仕事の準備があるんだ。今日は遅くなるかもしれない」

 隆が仕事部屋に入って扉を閉める音が、カチリと小さく響いた。
 その瞬間、リビングの空気がひときわ静かになる。ななみは手に持ったグラスの水をひと口飲み、深く息をついた。

「……そっか、今は仕方ないよね」

 隆は、彼なりに頑張っている。大きな仕事を任されて、目を輝かせていた。
 久しぶりの一緒の夕食に、ななみは密かに期待していた。たとえば、食後にテレビを観ながらソファでくつろいで、そのまま寄り添って——そんな何でもない時間を。

 ……そして、今夜はきっと、その先も。

 だけどそれは、彼の「やらなきゃ」の前に、あっさりと押し流されてしまった。

 ななみは一人でテーブルを片づけ、食器を洗いながら、流れる水音にまぎれて小さくため息をつく。

 ——大学時代、狭い1Kの部屋だったけれど、あの頃はすぐそこに隆がいた。 ——机に向かう背中が、視界の端に映っていた。
 ——話しかければすぐに笑ってくれて、それだけで安心できた。

 今は、別々の部屋。扉の向こうにいる彼の姿も、気配すらも感じられない。

 子供ができたときのことも考えて、二人で決めた引っ越しだった。個室があることは、未来のためには必要だったはず。
 だけど今夜は、その壁が妙に分厚く感じる。

 ふと、頭の中に声が響く。

「僕なら、そんな思いはさせないよ」

 ——あの夜、撮影の帰り道。ふいに恭平が見せた、優しいまなざしと、その声。
 思い出したくなんてない。比べるなんて、間違ってる。わかってるのに。

 ななみは両手を水に沈めたまま、ぐっと目を閉じた。

「バカだな、私……」

 思わずこぼれた言葉を、シャワーの音がかき消していく。
 心の揺らぎを振り払うように、彼女は水を止め、タオルを手に取った。

 ——今夜は、少し早めにお風呂に入ろう。
 気持ちも、少しは切り替えられるかもしれない。
 そう思って、ななみはバスルームへと足を運ぶ。

 けれど、その背中には——
 小さな寂しさの影が、なお色濃く残っていた。
 そしてその影は、恭平の甘い囁きによって、これからもっと、濃くなっていく。

 * * *

 エレベーターが開いた瞬間、ななみの視界に、見慣れた横顔が飛び込んできた。
(……え?)
 恭平だった。足が止まり、息を呑む。
「乗って大丈夫だよ?」
 恭平の隣にいた中年の男性が優しく声をかけてくる。役員である彼は、ななみが躊躇した理由を勘違いしたようだ。
「どうぞ、お嬢さん」
 恭平は一歩下がって道を譲ったが、まるで初対面のようなそっけない視線を向けるだけ。ななみは踵を返すこともできず、小さく会釈してエレベーターに乗り込む。
 ドアが閉まり、密室になる。役員と取引先の社長、そして自分――何でもないはずなのに、鼓動が抑えきれず速くなる。
 ドアが閉まり、密室になる。役員と取引先の社長、そして自分――何でもないはずの組み合わせなのに、鼓動が抑えきれず速くなる。手のひらがじっとりと汗ばむ。
「緊張してる?」
 恭平が柔らかく声をかけてきた。どこかあの夜を思い起こさせる、優しい声音で。
「い、いえ……」
 ななみは視線を落とし、言葉を絞り出す。喉が詰まるような感覚に耐える。
「驫木さん、優しいね」
 役員が笑う。恭平は「はは」と軽く笑って流した。ななみはエレベーターの隅で、気配を消すように立ち尽くす。上昇する機械音が、いつもより遠く感じられた。
 ――チン。
 目的のフロアに着き、恭平と役員が降りようとした、そのとき。
「そうだ」
 恭平がふと思い出したように立ち止まる。ポケットから名刺ほどのサイズのカードを取り出し、ななみに差し出した。
「僕、使わないから」
 悪びれもせず、軽くウインクを残す。ななみは一瞬、息を呑んだまま動けなかった。無表情を装い、受け取る手がわずかに震える。
 恭平の背中が遠ざかり、エレベーターの扉が閉まる。ふたたび密室。
 その時、ななみの鼻にどこか懐かしい香りがした。
 手に持ったカードに視線を落とす。これは、カード型のフレグランスだ。
 その裏には、手書きの文字。
「美しい君に」
 瞬間、あの夜の記憶が胸に蘇り、頬が熱くなる。カードから漂う香りにハッとした。どこかで嗅いだ記憶――あの夜、彼が纏っていた香りに似ている気がした。
(……なぜ、こんなことを)
 鼓動がうるさい。誰かに聞こえそうなくらい。ななみは香水をバッグに押し込み、乱れた息を整えようとする。
 ――チン。
 ななみのフロアに着き、別の社員が乗り込んでくる。彼女は顔を見られないよう視線を落とし、そっとエレベーターを降りた。胸のざわめきは、まだ静まらなかった。

 * * *

 昼休み。早足でデスクに戻ったななみは、隠すように手に持っていたカード型フレグランスをしまおうとした。
 ちょうどそのとき、後ろを通りかかった総務の女子社員、桐谷真由が声をかけてきた。

「ん、なんだか良い匂い……」

 驚いて振り返るななみに、真由は興味津々に身を乗り出す。

「それ、カード型のフレグランス? どうしたの?」

「あ……ええと、試供品……もらって」

 ななみは慌ててサンプルを引き出しにしまい込んだ。
 真由は一瞬だけ怪訝な表情を見せたが、すぐに表情をくるりと切り替えると、ななみの耳元にそっと顔を寄せてきた。

「てか、今さ、下のフロアにIT社長来てるの知ってる?」

 ドキッと心臓が跳ねる。

「轟木ホールディングスの社長! 超ダンディでかっこいいんだ~」

 どう答えても、自分の秘密に触れる気がして、ななみは息を呑む。

「私、ああいう人って苦手だったけど、やっぱ社長ってだけでオーラ違うよね~。あのスマイル、ヤバくない?」
 は~、一度でいいからあんな人とご一緒してみたいな~……って、新婚のななみには関係ないか」

 曖昧な笑みを浮かべるななみへと一気に話し終えると、満足したのか真由は軽い足取りで去って行った。

 引き出しの中のカードの感触が、ななみの指先に蘇る。
 そのわずかな硬さが、胸の奥をざわつかせた。

(私だけが……知ってる。あの夜のことも、あの声も)

 指先をそっと顔に近づける。
 フレグランスの香りが、かすかに鼻をくすぐった。

 ほんの少し、背筋が伸びる。
 それは、ひとつの誇りのような感覚だった。

 けれど同時に、うっすらと胸の奥に忍び込んでくる感情がある。

 罪悪感。

 このカードをどうするべきか。
 引き出しを閉じた指先はまだ決めかねていた。

 * * *

 夕方のホーム。列車の到着を知らせるアナウンスが、冷たい風にまぎれて響く。

 ななみは、駅のベンチに腰を下ろしていた。
 手の中には、ハンカチに包んだカード型のフレグランス。

 そっと包みを緩めると、甘くてやさしい、けれど少しだけ残るスパイシーな香りが立ちのぼる。

(……いい香り)

 嗅いだ瞬間、心の奥にしまっていた記憶が引き出される。
 ホテルの夜。恭平の低い声、熱のこもった視線。そして、あの優しさ。

 何度も忘れようとして、結局忘れられなかったことばかりだ。

 ななみはバッグからスマートフォンを取り出し、メッセンジャーを開く。

(まだ、お礼……言ってなかったよね)

 打ちかけては消し、言葉を選んで、やっとひとこと。

 『今日はありがとうございました。香り、とても素敵でした』

 ただのお礼。深い意味なんてない。ただ、伝えたかっただけ。
 自分にそう言い聞かせながら、指が「送信」ボタンにかかる――

 その瞬間、スマホが震えた。

 画面に浮かび上がったのは、隆からの新着メッセージ。

 『今日ね、ななみが喜びそうなお知らせがあるんだ。家に帰ってからのお楽しみってことで』

 指が止まる。

 ななみはしばらくスマホを見つめたまま、そしてそっとメッセンジャーの画面を閉じた。

 香水の香りがまだ手元に残っている。けれど、それ以上に胸をくすぐったのは隆の「楽しみにしてて」という言葉だった。

(……バカみたい、私)

 立ち上がると、ちょうど電車がホームに滑り込んできた。
 ななみはスマホをバッグに戻し、ハンカチごとカードをしまうと、電車に乗り込む。

 閉まりかけた扉の向こう、夜風がそっと髪を撫でた。

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