03:恭平と隆 02
03:恭平と隆 02
家に着く頃には、夜風が少しだけ冷たく感じられるようになっていた。
「ただいま」と呟いて玄関を閉めると、リビングに小さな包みが置かれているのに気づいた。隆の丁寧な字で《ななみへ》と書かれたメモが添えてある。
《取引先からもらったんだ。たまには二人でおしゃれしてごはんでもどうかな?》
包みの中には、高級ホテルのレストランチケットが二枚。
それも、あの有名な五つ星ラグジュアリーホテルのディナーだ。
「……え?」
声が漏れた。突然のことで、どう反応していいのかわからない。
それでも胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じる。
隆の気遣い。自分を思って選んでくれた時間と場所。
(そうだよ……こんなに大事にされてるのに、何を迷ってたんだろう)
ななみは恭平のことを頭から消した。
ディナーに行くのであれば、相応のドレスコードが必要である。
恭平はスーツで良いとしても、女の自分が彼に恥をかかせるようなことをしてはいけない。
ななみは、クローゼットを開ける。
何枚かのワンピース。スカート。ジャケット。けれど、どれも何かが“違う”。
(……着ていける服が、ない)
少し沈んだ気持ちで、ふと目線が奥へといった時だった。
きれいに包まれた、箱。白地に金のリボンがかけられた、恭平からの贈り物。
レースディテールが上品なシルクのブラウス。
思わず、手が伸びていた。
柔らかな光沢、繊細な袖口。鏡の前に立ち、そっと肩にかけてみる。
(……似合ってるかも)
だけど、次の瞬間、胸に刺さる感情がある。
(これを着ていくって、どうなの……?)
葛藤の中で、ななみは鏡の中の自分を見つめる。
そのブラウスは、どこか背筋が伸びるような、洗練された雰囲気を与えてくれる。
ホテルのレストランで隣に並ぶ隆に、自信を持って笑える姿でいたい。
そして何より――恭平の影に、心が負けたくない。
ななみはハンガーにブラウスを戻し、クローゼットの前でしばし立ち尽くす。
次に選ぶのは、どのスカートか。ジャケットは? 色合わせは?——そんな考えが、少しずつ心を軽くしていく。
罪悪感を完全に拭い去ることはできない。
それでもななみは、“選ぶ”という行為を通して、ほんの少し前に進もうとしていた。
* * *
——なのに。
当日、ななみが着ていたのは、やはりあのブラウスだった。
どうしても、違和感をごまかせなかった。
新しい服を買う余裕なんてない。
恭平から受け取った金は、借金返済にあててしまった。それでも足りていない。
贅沢をしていい立場では、なかった。
「その服、すごく似合ってるよ。いつ買ったの?」
「えっと……会社の知り合いが、サイズ合わないからって譲ってくれて」
「そうなんだ」
隆は疑いもせずに、優しく微笑むだけだった。
ななみの胸には、静かな罪悪感が宿る。
何も責められていないのに、微笑みがやけに刺さる。
(……私、何してるんだろう)
けれど何も言えないまま、ディナーへと向かうことになった。
* * *
シャンデリアの光が、磨き上げられたテーブルクロスに柔らかく映り、ワイングラスに揺れる赤い液面をきらめかせていた。五つ星ホテルのレストランは、さすがと言うべき華やかさで、ななみと隆を静かに包み込んでいる。
窓の外では夜の街が宝石のように広がり、遠くのビルの灯りが瞬いている。空気には、ほのかにハーブとスパイスの香りが漂い、隣のテーブルから聞こえる低い笑い声が、場に穏やかな活気を与えていた。
隆は、目の前のフォークを握る手にわずかな緊張を宿していた。スーツの襟を何度も直し、メニューを手に持つ姿は、どこか子供のようだ。こんな高級な場所は彼にとってなじみがないと自分でも言っていた。ななみは、隆のぎこちない仕草を見つめながら、胸の奥で小さな疼きを感じた。
「ななみ、こういうとこ慣れてるんだな。俺、なんか場違いな気がしてさ……」
隆が照れ笑いを浮かべると、瞳に純粋な光が宿る。それは、ななみの心を温めると同時に、鋭く刺すものだった。
「ううん、そんなことないよ。学生の頃、友達とこういうレストランに来たことがあって……ね」
言葉を紡ぎながら、ななみは視線をグラスに落とした。嘘だった。つい先日、恭平と似たような場所で食事をしたばかりだ。。彼女は慌ててグラスを手に取り、ひと口飲んだ。冷たい液体が喉を通る感触に、記憶を押し流そうとした。
「さすがななみ」
隆は無邪気な微笑みを浮かべる。
フォアグラのテリーヌ、子羊のロースト、デザートのタルト――今日のメニューを思い出しながら、隆は期待に目を輝かせた。ななみの心に温もりと重さを同時に与えた。
「隆、ワインは少しずつ飲むと味がわかるから」
彼女のアドバイスに、隆は「なるほど!」と頷く。ななみはそんな彼を見つめ、楽しいはずの時間に、なぜか喉がいつもより渇くのを感じていた。胸の奥で、ざわめきが静かに広がっていく。
ななみは気づけば、ワインをもう一杯頼んでいた。アルコールのほのかな熱が、身体をじんわりと温めたが、心のざわめきを消すことはできなかった。
コースが進むにつれ、隆は少しずつリラックスしてきたようだった。子羊のソースをスプーンで掬い、「これ、すごく美味しいね」と笑う彼の声に、ななみもつられて微笑んだ。
だが、その笑顔の裏で、彼女の指はグラスの縁をそっと撫でていた。まるで、触れていないと心が落ち着かないかのように。
(楽しいはずなのに……どうして)
ななみは自分に問いかけた。隆の笑顔、ホテルの華やかな雰囲気、二人の特別な時間――すべてが完璧なはずだ。なのに、胸の奥に引っかかる何かがある。恭平の影が、ふとした瞬間に頭をよぎる。シルクのブラウスが肌に触れる感触が、その影をさらに濃くする。彼女は唇を軽く噛み、目を伏せた。
「ななみ、大丈夫? なんか顔赤いけど」
隆が心配そうに覗き込む。彼女は慌てて笑顔を取り繕った。
「うん、大丈夫。ちょっと酔っちゃっただけ」
その言葉に、隆は安心したように笑い、「俺もちょっと酔ったかな」と頬を掻いた。ななみは彼の無垢な表情に、胸が締め付けられる思いだった。嘘が、こんなにも簡単に口をついて出るなんて。彼女はグラスを手に、もう一口ワインを飲み込んだ。
やがて、メインの皿が下げられ、デザートが運ばれてくる前に、ななみはふと身体の変化に気づいた。ワインのせいか、トイレが近い気がする。彼女は隆に気づかれないよう、そっとバッグを手に取った。
「隆、ちょっとお手洗い行ってくるね」
「うん、ゆっくりでいいよ」
隆はデザートのメニューに目を落としながら、気楽に答えた。ななみは微笑みを浮かべ、席を立った。ハイヒールの音がカーペットに吸い込まれ、彼女の背中をレストランの喧騒が静かに見送った。だが、彼女の心は、なぜかざわめきを抑えきれなかった。まるで、これから何かが起こる予感に、胸が締め付けられるように。
* * *
ななみがトイレを済ませて廊下に出た瞬間、その人影を見た。
反射的に足が止まる。心臓が、ひときわ強く脈打った。
「……え?」
数メートル先、ラウンジへと向かう廊下の端に立っていたのは——恭平だった。
変わらない、どこか場違いなほど落ち着いた佇まい。ネイビーのジャケットに身を包み、ポケットに片手を入れたまま、こちらを見つめている。
「……ななみ?」
その声が現実を引き戻す。
逃げ場のない名前の響きに、背筋がこわばった。
「どうして……ここに」
ななみの声は、かすれていた。
恭平は近づいてくる。まるで、すべてが偶然であるかのように自然に。
「仕事の打ち合わせでね。上のバーに寄ろうかと思ってたところ」
口元に笑みを浮かべたまま、目はななみの全身をすっとなぞる。
そして、彼はすぐに気づいた。
「……それ、俺が贈ったやつだよね」
ななみの息が止まりかけた。
誤魔化す間もなく、恭平の指がさりげなく、彼女のブラウスの袖口を摘む。
「そのブラウス……やっぱり君にぴったりだ。すごく似合ってる」
恭平の声は、まるで秘密を共有するかのように低く響いた。ななみは一瞬、息を呑んだ。彼が贈ったもの。この瞬間、それがただの布切れではなく、彼女の罪悪感そのもののように感じられた。彼女は反射的に襟元に手をやったが、その仕草すら彼の微笑みを引き出すだけだった。
「や、やめてください……」
声がかすれる。ななみは後ずさろうとしたが、背中が冷たい壁に触れる。恭平はもう一歩近づき、彼女の逃げ場を静かに塞いだ。そして、まるで時間が止まったかのように、ゆっくりと顔を寄せる。ななみの身体が凍りつく。次の瞬間、彼の唇が彼女の首筋に軽く触れた。ほんの一瞬、熱を帯びた吐息が肌を撫でる。
(見られたら、どうしよう……)
周囲を見回す。今のところ、隆の姿はない。
だが、この静寂もいつまで続くかわからない。鼓動が、首筋にまで届くほど早くなる。
「……こんな場所じゃ、いやです」
ようやく絞り出した声に、恭平はゆっくりと微笑むだけだった。
そして——
「ななみ、ここ、すごくいい香りがするね」
言うなり、彼は彼女の首筋にわずかに顔を寄せ、ほんの一瞬、唇を落とした。
キスとは呼べないほどの軽さ。けれど、それは確かに、彼の意図を持った“侵入”だった。
「君は、いつも綺麗だよ」
その言葉は、甘く、毒のように響いた。ななみは目を見開いたまま動けなかった。心臓がうるさい。誰かに聞こえそうなくらい。恭平は満足したように微笑むと、何事もなかったかのように身を引いた。
「じゃあ、またね。楽しんで」
彼はそう言い残し、悠々と廊下の奥へと消えていった。スーツの背中が、照明の光に溶けるように遠ざかる。ななみは壁に凭れたまま、震える息を整えようとした。首筋に残る感触が、罪悪感とともに焼き付いている。彼女の手が、無意識にブラウスに触れる。まるで、それを脱ぎ捨てたい衝動に駆られるように。
冷たいものが背中を走ったかと思えば、次の瞬間には体中が熱を持ち始めていた。
目の前で起きた出来事が、現実であることを、体のどこかが拒絶していた。
視線を左右に泳がせる。誰も——いない。
それでも、あの行為が肌に残した感触が、火傷のように消えない。
立ち尽くしている時間はない。隆が待っている。レストランに戻らなければ。なのに、足が動かない。頭の中が、恭平の声と視線で埋め尽くされている。ななみは目を閉じ、深呼吸を一つした。それでも、胸のざわめきは収まらない。
彼女はふらつく足取りで、再び化粧室のドアを押し開いた。静かな空間が、まるで逃げ場のように彼女を迎え入れる。鏡の前に立ち、震える手でハンカチを取り出す。首筋を拭う仕草は、まるで恭平の痕跡を消し去ろうとするかのようだった。だが、鏡に映る自分の目には、動揺と、ほのかな別の感情が揺れている。
頬がほんのり赤い。けれどそれはワインのせいじゃない。
彼女は唇を噛み、鏡の中の自分に問いかけた。
(どうして……こんなときに)
ななみは唇を噛み、鏡の中の自分を睨みつけた。隆との夜を取り戻すために、ここに来たはずなのに。彼女はハンカチを握りしめ、もう一度深呼吸をした。そして、ゆっくりとドアへと向かう。レストランの光と、隆の笑顔が待つ場所へ。
ドアに手をかけたとき、ふと首筋がまだ熱を持っていることに気づく。
けれどななみはその熱を忘れたふりをした。