03:恭平と隆 03
ホテルの部屋の空気は、酔った身体に心地よい涼しさだった。
柔らかな間接照明が広々とした空間を温かく照らし、カーテンを開ければ窓の外には夜の街が無数の光を散りばめている。
ダブルベッドには白いリネンが整然と敷かれ、部屋の隅に置かれたソファのクッションが、まるで誰かを待つようにふくらんでいた。
スウィートルームほど豪奢ではないが、一泊の値段は二桁に届くのではないか。
隆が手に入れたのは、ディナーチケットだけではなく、こんな贅沢な部屋までだった。
ななみはハイヒールを脱いだ足をカーペットの上に下ろした。柔らかな感触が、疲れた身体をほぐすようだった。だが胸の奥のざわめきは、部屋の静けさに溶けることなく、なおも彼女を締め付けていた。
ベッドに倒れ込んでいる隆はすでに深い眠りに落ちている。
頬はワインのせいで真っ赤に染まり、ネクタイは緩くほどけ、シャツの襟元から覗く首筋は子供のようになめらかだった。「着替えないと」とななみは言ったのだが、ジャケットとズボンを脱いだところで限界だった。
慣れないディナーに緊張しグラスを重ねすぎたのだろう。ななみは彼の寝顔を見つめ、そっと微笑んだ。隆の無垢な姿はいつも彼女の心を温める。だが今夜、その温もりの裏で別の熱が彼女の身体の奥で燻っていた。
(素敵な時間を、過ごせると思ったんだけど……)
ななみは苦笑にも近い曖昧な微笑を浮かべてしまう。
ディナーの華やかさ、隆のぎこちない笑顔、二人だけの夜――すべてが恭平の記憶を消し去るための時間になるはずだった。
彼女は隆との絆を取り戻し、首筋に残るあの感触を、熱を帯びた囁きを頭から追い出したかった。なのに、恭平の影はなおも彼女の心に絡みつき静かに毒を滴らせている。
彼女は立ち上がり、バスルームのドアへと向かった。
冷たいシャワーを浴びればこの熱――身体を焦がすようなざわめきを洗い流せるかもしれない。
バスルームのタイルが足裏に冷たく触れ、鏡に映る自分の姿が一瞬、目を引いた。
シルクのブラウスは、恭平の視線を思い出させるように肌にまとわりついている。
ななみは慌てて視線を逸らし、シャワーのノブに手を伸ばそうとした。
その時、鏡台に置かれていたスマホが小さく震えた。
ななみの手が止まる。
静かな部屋に、バイブレーションの音がやけに大きく響く。
彼女は一瞬、息を呑んだ。なぜか、胸の奥で予感がざわめく。
ゆっくりと手を伸ばし、スマホの画面を手に取る。
ロック画面に浮かんだ名前を見て、彼女の心臓が強く跳ねた。
恭平からだった。
画面に映る彼の名前は、まるで部屋の光を吸い込むように、ななみの視線を絡め取った。
指が震えながら、メッセージを開こうとする。
だが、その動きは一瞬で止まる。
隆の寝息がかすかに聞こえてくる。
彼女はスマホを握りしめ、目を閉じた。
首筋に残るあの熱が、ふたたび身体を駆け巡る。
(どうして……今)
ななみは唇を噛み、スマホをソファに置いた。
だが、画面の光はなおも彼女を誘うように瞬いている。
バスルームのドアは半開きのまま、冷たいタイルが静かに彼女を待っていた。
だが、彼女の足は動かない。
恭平のメッセージが、彼女の決意を試すように薄暗い部屋の中で煌煌と照っている。
* * *
ホテルのバーは、静謐な夜の奥に沈んでいた。
柔らかな間接照明が、琥珀色の光をガラスの壁に反射させ、人々の声もグラスの音も、まるで水底から聞こえるように穏やかだった。受付にいたボーイが、静かに口を開く。
「佐々木様ですね」
懐かしくも、捨てたはずの旧姓が呼ばれた瞬間、ななみの胸がぴくりと跳ねた。
「VIPルームへどうぞ」と言われたときには、もうすでに遅かった。
これは恭平の――ほんのいたずら。でも、それが彼の“流儀”だった。
“お酒を飲むだけ”――そう自分に言い聞かせ、ななみは奥へと歩を進める。
案内された個室は、バーの中でも一番奥まったところにあった。まるで夜の小箱のように静かだ。赤みがかった間接照明に照らされたサロンには、6人ほどが座れる重厚なソファと丸いテーブル。そしてその向かいに彼はいた。
「……来てくれて、嬉しいよ」
立ち上がることもせず、恭平はただ優しく微笑んだ。
「ここは僕が所有しているホテルだから、こんな隠れ家みたいな部屋を用意してしまったんだ」
ブルーグレーのシャツに、落ち着いたネイビーのジャケット。整えられた髪に、ひとつの乱れもない。崩れていない。――だからこそ、危うかった。
「赤が好きだったよね。重めのやつ、選んでおいた」
ワインはすでに開栓され、深紅の液体が静かにグラスの中で揺れている。
ななみは少し距離を保ち、ソファの端に腰を下ろした。
恭平が自然な所作で注いだワインは、甘く、そしてどこか胸を締め付ける香りがした。
「乾杯は……やめておこうか。今夜は、そういう気分じゃないんだ」
低く、落ち着いた声。
ななみは視線を落とし、ワイングラスのステムをそっとつまむ。
顔の前までリムを上げると、そっと赤黒い液体を回しながら小さく呟いた。
「……どうして、あんなメッセージを?」
「会いたかったから」
即答だった。その言葉は綿よりも柔らかく、それでいて剣のように深く刺さる。
「君なら、もう少し飲みたいんじゃないかって思ったんだ」
恭平はグラスを軽く回すななみを穏やかな瞳で見つめた。
「それにななみがワインを飲む仕草、僕は好きでね」
その声に、ななみの指先がかすかに震えた。冗談のようでいて、からかっているわけでもない。嘘偽りを感じさせない声音がななみの胸をくすぐった。
「そのブラウス……似合ってる。ほんの少し肩が透けるところが、特に」
だからこそ、ひとつ間違えれば女性に不快感を抱かせるような言葉すら心の奥深くにまで届く。薄いレースから覗き見せる細い肩に注がれる視線。そのまなざいの奥にあるものに、ななみは気付いてしまう。あの撮影の日、熱を孕んだレンズ越しの視線を――。
まるで皮膚の奥が思い出したかのように疼いてしまうのがわかる。
「さっきの歩き方も姿勢がとても美しくて目を惹くんだ。……そういうとこ、変わらないね」
ななみはたまらず、グラスに口をつける。苦みの奥に、かすかな甘さがある。流れ込むアルコールの熱さで総てを誤魔化そうとした。
「……恭平さん、やめてください。そういうの、ずるいです」
「本心を語ったまでだよ」
ななみの一切を傷つけまいとする優しい微笑みが、ただそこにある。
何も強要せず、何も責めず、ただ褒めて、ただ静かに見つめてくる。
彼が与えてくれる慈しみが、ななみの足元を溶かしていく。
「疲れてる顔してる。帰ってもいいよ。無理しないで」
その一言が、一番危険だった。優しく背中を押してくれるのに、なぜか足が動かない。ななみはグラスを見つめたまま、唇を軽く噛んだ。隆の寝顔が、頭の片隅に浮かぶ。ホテルの部屋で、静かに響く彼の寝息。なのに今、恭平の慰撫するような声が、そのすべてを塗り替える。
「……もう少しだけ、ここにいてもいいですか?」
声が震えた。ななみ自身、なぜそんな言葉が口をついて出たのかわからなかった。恭平の微笑みが、ほんの一瞬、深くなる。
「もちろん」
その声は、今夜で一番優しかった。ななみはグラスをテーブルに置き、ソファに身を預けた。恭平との距離は触れ合うことのない安全なものだった。なのに、すぐ隣に熱がある気がした。ワインの香りが彼女の心を静かに揺らし続ける。
部屋の外では夜が深みを増していた。だがこの小さな空間では、時間が止まったように静かだった。ななみの胸のざわめきだけが静寂を破るように響いている。
グラスに入っていた液体を、ななみは嚥下する。美しく上下する喉の動きを恭平にじっと見つめられていた。
「飲むだろう?」
ななみは無言で頷いた。恭平は身を乗り出し、ななみのワイングラスになみなみと注ぐ。初めて恭平とお酒を飲んだ時、その酒量に驚かれたのを思い出す。恭平もまた酒豪であり、二人して夜遅くまで楽しんだ。
(何を考えているの)
楽しかったなどと、良い思い出のように考えてはいけない。あれは過ちなのだからと、ななみは自分を戒め、忘れるために冷たい液体で喉を焼く。
「はぁ……」
熱い吐息が漏れる。――と、恭平のグラスが空になっていることに気付いた。なのに彼は注ごうともしていない。ボトルの中にはまだ十分に熟成された液体は眠っている。ななみが問うような瞳を向けてしまった。
「……もう、飲まないんですか?」
彼はわずかに目を細めた。その表情を、ななみは覚えている。在りし日のこと、一緒に夜を明かした時、彼が求めてきたことが脳裏にフラッシュバックする。
「ねえ、ななみ」
あの頃のななみにとっては、ただの戯れだった。ワインを口に含み、口の中でデキャンタージュし、恭平の口へと流し込む行為。
「君に飲ませてほしいんだ」
恭平はゆったりとした姿勢を崩さぬままに、ななみに甘くおねだりをする。
そんなことできるはずはない。寝室に愛する夫を残してきているのに。同じ建物の別の部屋で、主人でもない別の男にそのような真似。
できません。
きっぱりと言い張るつもりだったのに。
ななみはグラスを持ったまま、自分の腰の位置をずらしていた。
自分の身体の奥で燻っている熱に、皮膚の下の疼きに、操られているようだった。
恭平とふれあうほどの距離まで近づいたななみは、グラスをくっと煽る。
そうして恭平のたくましいからだへと、自らの身体をしなだれかからせた。
グラスを煽った余韻が残る唇。
ななみは、ほんの一瞬、息を止めた。自分がしていることの意味を、身体が理解するよりも先に。
恭平は何も言わない。ただ、ななみの動きを受け入れるように、腕を少し開いた。
その動作があまりにも自然で、まるで最初からそこに来るのが当然だったかのように――ななみの身体を受けとめた。
「……あのときより、熱いね」
低くささやかれた声が、耳殻の内側をかすめた。
ななみは小さく震えた。背中にまわされた手が、あまりにさりげなく、だが確実に彼女を囲っていく。
ただ触れられているだけなのに、肌の奥で火種が爆ぜるようだった。
(だめ……だめなのに……)
そう思いながらも、抗う手段をななみは持たなかった。
目を閉じると恭平の吐息が肌に触れる。それはかつての記憶ではなく、今この瞬間の感覚として鮮明に焼きついていった。
恭平の腕の中で、ななみは抵抗の言葉を飲み込んだまま動けなかった。
腕をまわされているわけではない。ただ、そこに存在する体温と気配が、背中からじんわりと染み込んでくる。まるで水面下で絡まる蔓のように、ゆっくりと、しかし確実に引き寄せられていた。
「……だめです、恭平さん」
言葉にしてみると、それがあまりに脆いものであると自分でもわかった。
ただ、やってはいけないことを確認するための呟き。
「やめたほうがいいなら、やめる。でも――」
恭平はななみの腰に回した腕を上げていく。背中をやさしくなぞっていき、長く美しい黒髪にそっと指を通した。耳の後ろの産毛がくすぐられ、ななみは小さく息を吸う。
囁くように続ける声が、肌のすぐ上で振動する。
「……今、君の目は、僕を求めたよね?」
指先が、ななみの頬をかすめた。
その柔らかな接触に、喉の奥が震える。
息を呑んだ瞬間、恭平の顔が近づいた。
ななみは目を閉じる――顔を背けることができなかった。
そして、唇が触れる。