03:恭平と隆 04
最初はただ、確かめるような、そっと置かれただけのキス。
それなのに、焼かれるような刺激が、ななみの身体をほんのわずかに震わせる。
数秒の沈黙。
そののち、恭平の手がななみの背に添えられ、ゆっくりと引き寄せられていった。
呼吸が絡まり合う。
ななみは肩を震わせた。
罪悪感と、快楽の予兆。相反する感情がないまぜになって、頭の中が真っ白になる。
「……恭平、さん……」
名前を、息のように漏らした瞬間――
ふたたび唇が重なった。
深くも、荒々しくもない。
ただ、確信に満ちたキスだった。
まるで彼女の中に、ずっと隠されていた“鍵穴”を、ぴたりと見つけたかのように。
ななみは、肩の力を抜いた。
ワインの熱が体内を巡っていたはずなのに、それ以上に――
恭平の体温が、血の中にまで染み込んでいく。
舌先が触れ合うと、全身がふわりと浮き上がるような錯覚に陥る。
その瞬間、「拒む」という選択肢が、ななみの中で音もなく崩れ落ちた。
ゆっくりと、身体が引き寄せられる。
膝と膝が触れ、ソファの上でななみの脚が自然と揃っていく。
彼の膝に、自分の腿が重なった時――
ようやく、“自分がどれほど彼に近づいてしまったか”を理解する。
やがて、唇が離れた。
恭平は目を細め、ななみの髪の束にそっと口づけを落とす。
「……この髪、あのときより長くなったね」
その囁きが、むしろ官能的だった。
“あのとき”という言葉が、
“今”もまた、連続した過ちであることを、静かに証明していた。
ななみは、ただ黙って彼の胸に額をあずけた。
抱き寄せられたわけでも、押し倒されたわけでもない。
それなのに、逃げられなかった。
ワインの香りと、恭平の肌の匂いが入り混じる。
まるでこの部屋そのものが、彼の延長であるかのように思えた。
「ここでやめてもいい。……君が決めて」
恭平の声に、ななみはかすかに首を振った。
それはYESでもNOでもない曖昧な揺れ――まるで、決断することすら拒んでいるかのようだった。
恭平とこのまま、流されたい気持ち。
でも、その奥には、もしかしたら隆が目を覚ましているのではないかという現実的な恐れもあった。
感情と理性の綱引きに答えを出せずにいるななみを、恭平がふいに抱き上げた。
「あっ……」
膝の上に乗せられ、向かい合う姿勢になる。
恭平の顔がこんなにも近い。
重なる唇。二人の身体が遠慮がちにこすれ合っていく。
その度にななみの下腹部に恭平の熱が重なる。
それはまぎれもなく、彼の欲情の証だった。
「……ずるいです」
抗議のようで、甘えにも似た声だった。
ななみは恭平の肩に顎を預け、そっと耳元に吐息を落とす。
恭平が身体をわずかに動かした。
「…………ぁ」
その存在感が擦れて伝わってくる。
そのたびに、心の天秤がわずかに傾いていってしまう。
(このまま、全部……)
思いかけた瞬間――
テーブルの上でスマートフォンが震えた。
画面に浮かんだのは、隆の名前。
ななみはハッとして、恭平から身体を離した。
「……主人が、目を覚ましたみたい」
乱れた服をそそくさと整え、立ち上がろうとする。
――本当なら、ここで終わらせるべきだった。
それなのに、ななみは一度、恭平の瞳を見てしまった。
自信と余裕に満ちた男の、ふと見せた不安定な眼差し。
ななみは小さく息を呑みふたたび腰を下ろす。
そのまま、静かに恭平へと手を伸ばした。
「……このままじゃ、帰れませんよね」
「いいの?」
「……口で、なら」
ななみが絞り出した言葉は、まるで自分自身に課した呪いのように、静かなVIPルームに響いた。
赤みがかった照明が、彼女の震える声を吸い込む。
ワイングラスを握る手に力がこもり、ガラスの冷たさが、熱を帯びた身体を一瞬だけ引き締めた。
恭平の瞳がほんの一瞬揺れた。
完璧に整えられた彼の表情に、かすかな亀裂――驚きか、欲望か、それとも彼女を試す何かだったのか。ななみには読み取れない。ただ、彼の手がソファの革に置かれた手へと微かに力がこもる
「……本当に、いいの?」
恭平の声は優しく、しかし熱を帯びていた。
問いかけの裏に、彼女を引き込むような響きがある。
「手だと、汚してしまうかもしれないから」
それだけ言い置くと、ななみはゆっくりと彼の膝に顔を寄せた。
隠微な吐息が、彼女の唇から漏れる。
心の奥で、隆の寝顔が一瞬ちらつく。
だが、そのイメージは部屋に漂う生温いようなワインの香りに溶けていく。
スカートの裾がソファの上で静かに揺れた。
シルクのブラウスが肌に擦れる感触が、まるで恭平の視線そのもののように彼女を包みこんでいる。
ななみの息が、かすかに乱れる。
彼女の手は、ためらいがちに恭平のズボンのジッパーに触れた。
金属の冷たさに、指先が一瞬震える。
鼓動のうるささに、ななみは自問していた。
恭平の視線も、彼女の動きを静かに見守っていた。
ななみは目を閉じ、深呼吸をひとつ。
淫靡な吐息が彼女の唇からこぼれ、部屋の静寂を微かに揺らす。
そしてゆっくりとジッパーを下ろす金属製の音が、VIPルームにいる二人の耳にだけ届く。
布の下から現れた熱い塊に、彼女の息が止まる。
それは、恭平の欲望そのものであり、彼女が今、選び取った罪の象徴だった。
ななみは、一度テーブルに置かれたワイングラスに手を伸ばし、残っていた深紅の液体を一口含む。苦みを帯びた芳醇な甘味が喉を滑り落ちていった。
かすかな水音が彼女の喉で小さく響く。
まるで恭平の記憶を、罪悪感を、ほんの一瞬だけ洗い流してくれるかのように。
だがその熱はすぐに彼女の身体を再び焦がした。
グラスを置く手が、かすかに震える。
彼女は恭平の膝に身を寄せ、そっと顔を近づけた。
恭平の吐息が、彼女の髪をかすめる。
ななみは、愛してはいけない恭平そのものを、ゆっくりと口に含んだ。
「っ……!」
恭平の身体がわずかに揺れた。
その瞬間、彼女の身体も小さく震え吐息が鼻から漏れた。
熱と柔らかさと脈打つ存在感が、彼女の感覚を埋め尽くす。
かすかな水音が静かな部屋に響き、罪の重さを刻む。
恭平の指が、ななみの髪にそっと触れる。
まるで、彼女を肯定するように、慈しむように、導くように。
(……だめなのに)
心の奥で、声が叫ぶ。
隆の笑顔。ホテルの部屋で静かに響く彼の寝息。
あの無垢な温もりがななみの胸を締め付ける。
なのに、彼女の身体は恭平の熱に反応してしまう。
口の中で感じる彼の存在が、罪悪感と快楽の狭間で彼女を揺さぶる。
ななみの手が、恭平の膝を握る。
まるで、そこにしがみつかなければ、自分が崩れてしまうかのように。
彼女の舌が動くたび、かすかな水音が響き、部屋の空気を震わせる。
恭平の吐息が、わずかに乱れた。
「ななみ……」
彼の声が低く響く。
その呼びかけに、ななみの心が一瞬だけ揺れる。
それは、かつての撮影の夜、彼が彼女を「特別だ」と囁いた声音に似ていた。
あの夜もこうして彼の熱に触れた。
あの夜も彼女は自分の心を抑えきれなかった。
なのに、今また、同じ過ちを繰り返している。
罪悪感が胸の奥で燃え上がり、彼女の目尻に熱いものを滲ませる。
(隆、ごめん……ごめんね)
ななみの隠微な吐息が、恭平の肌に触れるたび、罪悪感が彼女を刺す。
隆が待つ部屋が同じホテルのどこかにある。
あの純粋な笑顔が彼女を待っている。
なのに彼女は今、恭平の膝に顔を埋め彼の欲望に応えている。
この裏切りがどれほど深い傷を隆に与えるのか。
想像するだけで息が詰まる。
彼女の舌使いが、一瞬だけ躊躇いを見せる。
だが恭平の指が彼女の髪を優しく撫でる。
その仕草に彼女の中の罪は薄れていく……。
「君は素晴らしいよ……」
恭平の声はまるで呪文のように低く響いた。
ななみは答えない。
答えられない。
ただ彼女の舌がゆっくりと彼を包み込む。
かすかな水音が彼女の動きに合わせて響き、罪と快楽の境界を曖昧にする。
恭平の吐息がさらに乱れ、声がかすかに震える。
「ななみ……」
ななみの動きが深くなる。
彼女の荒い呼吸が恭平の肌に溶け合う。
部屋の空気がワインの香りと彼の匂いで重くなっていく気がした。
「ぅ……」
恭平の身体がかすかに震え始める。
ななみはその変化を感じ取り、動きを緩めない。
彼女の舌が恭平をさらに強く包み込む。
かすかな水音は徐々に響きを大きくし、彼女の罪を刻む。
恭平の指がななみの髪を、耳を、切羽詰まったように撫でていく。
その瞬間、彼女の心にほんの一瞬、別の感情が芽生える。
――彼をここまで導いた満足感。
やがて、恭平の身体が大きく震え、熱い奔流がななみの口に溢れた。
それはワインの余韻を一瞬で吹き飛ばすほどに濃く熱く、確かな生の証だった。
一瞬、息を止めたななみは、躊躇いながらもそのすべてを喉奥に迎え入れていく。
――拒めなかった。
恭平の熱を受け入れることで、自分の中に“罪”がしっかりと刻まれていく感覚。
それは罰ではなく、選んだ報い。
舌先が、ゆっくりと彼を清める。
名残惜しさを隠しきれずに唇を離すと、唾液が艶めく糸となって二人の間に引かれ――
やがて、ぷつりと断ち切られた。
彼女の舌が、ゆっくりと彼を清拭した後、名残惜しそうに解放する。
粘り気のある唾液が糸となり二人の間で伸び……千切れた。
小さな水音が、空気に混じって部屋に溶ける。
ななみは、恭平の膝に顔を伏せたまま、微動だにしなかった。
喉の奥に残る余熱と、胸の奥を這いまわるような罪悪感。
それなのに、自分の所作ひとつで彼を“満たした”というかすかな満足が、静かに心を揺らしていた。
恭平は静かに息を整えると、ななみの髪にそっと唇を落とした。
ゆっくりと顔を上げた彼の瞳には、深い充足と、どこか幸福に満ちた光が宿っている。
いつもは余裕をまとった微笑みが、今はどこか柔らかく、まるで少年のような無垢さを帯びていた。
ななみは、その表情に思わず息を呑んだ。
彼の幸せそうな顔が、胸の奥にじんわりと多幸感を灯す。
――この表情を引き出したのは、自分。
その実感が、罪悪感と混じり合いながら、じくじくと複雑な熱を生み出していく。
「ななみ……君は、特別だよ」
恭平の声は優しく、まるで彼女を包み込む天使の翼のようだった。
けれど、その言葉が、ななみの胸に新たな棘を刺す。
「特別」――あの夜も、彼はそう言った。
その言葉に縋り、縛られ、そしてまた今日、彼女は罪を重ねた。
目尻に、じんわりと涙がにじむ。
恭平の幸せそうな微笑みが、皮肉のように胸を締めつけた。
裏切ったはずの自分が、彼を満たしたことで得てしまったこの多幸感――
そのあまりに矛盾した感情が、心の奥をじくじくと切り裂いていく。
ななみはソファに身を起こし、乱れたスカートの裾を静かに引き下ろした。
唇に残るワインと、恭平の熱。
その余韻が、彼女の身体に罪の印を残していく――確かに、確実に。
グラスの中で、赤い液体が微かに揺れていた。
けれど、もうその誘惑には手が伸びなかった。
部屋の空気が、さっきまでとは違う重さを帯びている。
まるで、何かを終えてしまった静寂のように。
背中に、恭平の視線を感じた。
それは優しく、触れもせず、ただそこに“在る”だけの気配。
けれど、ななみは振り返らない。
恭平もまた、沈黙のまま彼女の選択を待っていた。
何かを問うことも、促すこともなく――ただ、見守るように。
(隆のところに……戻らなきゃ)
ななみはそっと立ち上がり、バッグのストラップを握る。
だが、足が一瞬だけ止まった。
肌に残る香り――恭平の気配が、まるで見えない紐のように彼女を縛っていた。
罪の重さが、衣服の下、素肌に張りついて離れない。
その場に残された、吐息の名残が微かに空気を震わせる。
ななみは唇を噛みしめると、何も言わずドアへと向かった。
その背に、小さく、でも確かに届く声がある。
「……また、会えるよね」
振り返らない。
返事もしない。
ただ、ドアを開ける。廊下の冷気が肌を撫で、現実へと引き戻す。
でも、彼女の胸の奥では――
罪悪感、満足感、そして抗えぬ多幸感が、なおも静かに燃えていた。
隆の待つ部屋へと歩を進める。
その足取りには、清算されない罪の重さが、確かに影を落としていた。