03:恭平と隆 05
ななみはホテルの部屋のドアを、そっと開けた。
廊下の冷たい空気から逃れるように、静かな室内へと足を踏み入れる。
キングサイズのベッドが、照明の柔らかな灯りに包まれていた。
その穏やかな光景とは裏腹に、ななみの身体の奥では、罪悪感と恭平の熱が絡み合い、静かに燃え続けている。
唇に残るワインの香りと、肌に染みついた彼の痕跡が、逃れようのない重さとなって彼女を締め付けた。
部屋の奥、ベッドの端に座っていた隆が顔を上げ、安堵の表情を浮かべる。
第二ボタンまで外されたシャツから覗く首筋には、ディナーで染まった淡い赤みが残っていた。
彼の視線がななみを捉える。だが、いつもの無垢な笑顔には、かすかな不安の影が差していた。
「ななみ、遅かったから心配したよ。『すぐ戻る』って言ってたのに……」
その声は優しく、しかしどこか落ち着かない響きを孕んでいた。
ななみは一瞬、息を詰めた。
バッグをソファに置き、ハイヒールを脱ぎながら、平静を装う。
「ごめん、バーに寄ってたの。メッセージ届いたとき、ちょうどトイレにいて……それで少し遅くなっちゃった」
声が、かすかに震えていた。
視線を逸らし、髪を整えるふりでごまかす。
だが、心臓の鼓動がうるさくてたまらない。
恭平の腕の中で過ごした時間が、彼女の身体に刻まれている。
防音の個室で、彼の熱に溺れた記憶が、鮮明に蘇る。
嘘をつき、罪を重ねた意識が、鉛のように胸を押し潰していた。
隆がベッドから立ち上がり、彼女に近づいてくる。
「そっか。そういえば、バーチケットもついてたんだよね」
彼の微笑みは、疑いのない純粋さを湛えていた。
その無垢な言葉が、ななみの胸を締め付ける。
「気持ちよさそうに寝てたから……起こすの悪いかなって思って」
また、嘘だった。
隆の寝顔を思い浮かべたその瞬間、恭平の唇が首筋を滑る感触が蘇る。
彼女はそっと目を伏せた。
心にまとわりつく罪悪感が、冷たい鎖のように体を締める。
「僕がもう少しお酒に強ければ、一緒に行けたのに。残念だな」
その言葉に、ななみはまるで冷水を浴びせられたように血の気が引いた。
(もし、「もう一度行かない?」と聞かれたら、私は――)
「……シャワー浴びてくるね」
ななみが向けた背に、隆が甘えるような声をかけてきた。
「一緒に入っても、いい?」
心臓が大きく跳ねる。いつもなら嬉しくて手招きをするところ。むしろ自分から誘っていただろう。でも今日は、喉の奥に残る恭平の熱が声を詰まらせる。
「……ごめんなさい。酔っちゃったみたいで」
「そっか」
隆の声は、落胆を隠しきれなかった。
その響きに、胸が痛む。
「今日は……色々あって、疲れてるもんね」
その言葉に、ななみは酷く胸をえぐられる。
他意のないはずの優しさが、なぜか全てを見透かしているようで――。
「先に休んでて」
そう言って、ななみは浴室のドアをそっと閉めた。
* * *
シャワーを浴びたななみがバスルームから出ると、薄暗い部屋に隆の静かな寝息が響いていた。
ベッドの上で彼は穏やかに眠り、頬には柔らかな安らぎが滲んでいる。まるで、ななみの抱える闇など知らないかのように。
ななみはそっと近づき、隆の頬に唇を寄せた。
微かなキスは、彼の純粋さに許しを乞うようでもあった。
指先でその輪郭をなぞりながら、彼女は一瞬、頭の中に響く恭平の囁きを振り払った。
そっとリネンに身を滑り込ませると、隆の体温が彼女の肌に伝わってくる。
寝返りを打った彼の腕が、まどろみの中で彼女の腰に触れた。
「ななみ……」
息をのんだ。
夢の中にいる隆の声は、凍えた心をゆっくりと溶かし……そして深く刺さる棘となる。
そうだ、癒される資格など自分にはない。
過去の自分も、今の自分も、それを嘲っている気がする。
それでもななみは、隆の寝息に耳を澄ませ、そっと目を閉じた。
眠りの淵へ沈んでいく心の奥で、罪の熱がかすかに疼き続けていた。