06:喜びと罪 01
土曜の夕方。
洗濯物を畳み終えたななみは、ソファに腰を下ろした。
テレビからニュースが流れているが、ただぼんやりと画面を見つめるだけ。
身体の奥に、まだ余熱が残っていた。
それは快楽の余韻というより、罪の形をした火傷だった。
思い出そうとしなくても、恭平の指先が、声が、体温が、じわりと甦る。
――もう、しばらく会うことはない。
その事実は正しいもの。
いいや、本来ならば『もう二度と会ってはいけない』はずなのに……。
――その時、突然視界に赤が差し込んだ。
赤い、バラの花。一輪だけ、やや不格好にラッピングされている。
「――サプライズ、成功かな?」
バラの向こうに、隆が立っていた。
笑顔。ほんの少し照れたような、それでいて子どもみたいに無邪気な表情。
「隆……? え、どうして……なんで……?」
声が裏返りそうになるのを、ななみは必死に抑えた。
隆はスーツケースを片手に持ったまま、花をななみに差し出す。
「出張、今日で終わったんだ。内緒にしてた。……驚いた?」
「……うん。びっくりした」
ななみはどうにか平静さを保ちながら言葉を返す。
手は自然とバラを受け取っていた。
ラッピングされた茎の部分が、ほんの少し湿っている。冷たいのに、手のひらがじんわり熱い。
「会いたかった」
そう言って笑う隆は、何も知らない。
ななみが、つい数時間前まで、別の男に抱かれていたことなど。
この指が、どんな場所を這っていたかも。
この唇が、誰に奪われていたかも。
「……ありがとう。嬉しい」
それは嘘ではなかった。
でも、その言葉の奥に、罪悪感が滲んでしまうのを止められない。
隆がキッチンに向かい、冷蔵庫の麦茶を取り出す。
その後ろ姿を見つめながら、ななみの胸は締めつけられるように痛んだ。
――もしも、気づかれたら。
――もしも、あの曇った窓の向こうで、隆が見ていたとしたら。
(……まさか、そんなはず……)
けれど、さっきまで彼の中にいた温もりが、まだ残っている。
それは罪の証拠であり、消せない刻印だった。
振り返った隆が、にっこりと笑った。
「今からじゃ準備、大変だしさ。夜は出前にしない?」
その声はいつもと変わらず、優しかった。
ななみは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「……隆が食べたいもの、選んでいいよ」
バラの花を抱きしめるように持ちながら、ななみは小さく答えた。
ドライヤーで髪を乾かし終わった隆が、ピザの箱を開けた。
濃厚なチーズの香りがふわりと立ちのぼってくる。
「おお~! 美味そう~!」
地元の小さなピッツェリア。駅前からほど近くにあるけれど、外観は目立たない。だが味は確かで、何より職人が焼く石窯のピザが絶品だ。
特に隆が今日注文した四種のチーズピザは、ななみのお気に入りだった。トーストされた四種のチーズが、こんがりと焼けた生地の上でとろけ合い、香ばしく鼻をくすぐる。
「石窯焼きって、全然違うよな」
隆は満足そうにピザを手に取り、ぱくりと頬張った。
「ピザと……ボロネーゼも。あと、カルパッチョと、盛り合わせも頼んでみた」
「頼み過ぎ」
「いいでしょ、久しぶりなんだから。ハムとチーズの。ななみ、好きだったよね、これ」
そう言って差し出されたプラスチックトレイには、生ハム、サラミ、ブリーやゴルゴンゾーラが彩りよく並んでいた。
そう、どれもななみの“好み”だった。
隆は自分が食べたいからというより――彼女のために、選んでいた。
(……本当、隆だなぁ)
ななみは肩が触れる距離で座っている隆を横目で見た。
無邪気に笑っているが、こういう優しさが嬉しくて、彼を愛したのだ。
だからこそ、胸の奥がひりついた。
今朝まで自分がどんな場所にいたか。どんな行為をしていたか。
この唇で、誰を貪り、この身体で、誰を悦ばせていたか。
それを、何も知らずに――隆はただ、笑っている。
「やっぱり一緒に食べると最高に美味しいね!」
「……うん。すごく、おいしいよ」
ななみは笑った。
作った笑顔じゃない。ちゃんと、微笑もうとした。
罪を隠してでも、愛する夫を喜ばせたかった。
隆の表情がふわりと和らぐ。
それだけで、救われる気がした。
「ワインも開けちゃおうか。確かまだあったよね? いつものアレ」
「うん、ストック冷やしてあるよ」
ななみが立ち上がろうとしたが、隆が先にキッチンへと向かう。
そしてワインとグラスを持って帰ってきた。
二人で選んで買った透明なグラスに、ワインが注がれていく。
リーズナブルで、飲みやすくて、二人のお気に入り。
ピザのチーズが糸を引き、湯気の中でワインのグラスがかちんと鳴る。
夫婦の団欒――何ひとつ、欠けていない。
けれどそのワインの香りも、味も、どこか弱く感じてしまう。
恭平と一緒に飲んだワインが蘇ってしまっていた。
口当たりも、香りも――まるで別物だった。
比較してはいけないと思うほどに、味蕾が、嗅覚が、違いに敏感になってしまう。
ななみはそれを押し隠して、幸せのみを掬い取ろうとした。
この幸せは、ななみにとって隠蔽によって支えられた平穏だった。
壊してしまったものを隠して大切に笑う。
それが今のななみにできる、たったひとつの「愛」だった。