06:喜びと罪 02
風呂上がりのななみは、鏡の前でネグリジェの肩紐を整えていた。
つるりとしたシルクの布が肌に滑り、首元から鎖骨、胸元までをわずかに透かしている。
こんなもの、普段なら選びもしない。
けれど――今夜だけは、違っていた。
(……隆、気に入ってくれるかな?)
自嘲気味に笑って、隆が待つ寝室へ向かう。
寝室のドアを開けると、隆がベッドの端に腰を下ろしていた。
足をそろえて座り、スマホをいじっていた指がぴたりと止まる。
「……え?」
一瞬、時間が止まったようだった。
「……な、ななみ、それ……」
「似合ってない?」
「いや、ちがっ……すごく、綺麗。びっくりしただけ」
隆は目をそらし、耳まで赤くしている。
その反応が、なんだか新鮮だった。
「いいの? ……本当に、いいの?」
声が掠れていた。まるで息を呑んだまま、喉が震えているみたいだった。
「それ、こっちのセリフ。出張、疲れてない?」
「ううん。疲れ、もう全部飛んだ」
隆が立ち上がり、ななみを抱きしめる。
タオルの香りが微かにする。あたたかい胸に顔を預けた、その瞬間だった。
――恭平のキスが、ふいにフラッシュバックする。
唇の形、舌の動き、熱、息。すべてが、なまなましくよみがえる。
けれど隆のキスは、どこまでもたどたどしい。
何度も離れそうになりながら、優しく口づけてくる。
それでも――その不器用さが、ななみにはたまらなかった。
(……愛してる、隆)
ただその事実だけが、今のななみを、かろうじて支えていた。
* * *
ななみの背中がベッドに沈むと、隆はその上に覆いかぶさるようにして膝をついた。
彼の温もりを感じながら、ななみは不安そうに目を閉じた。
隆の手がそっと、自分の体に触れてくる。
その指先が、普段は感じないような熱を持っていた。
けれどななみの身体を労わるように優しい。
本当ならもっと乱暴に求めたいのに、意識的に抑えているのが下腹部から伝わってきた。
ゆっくりと滑るように肌を撫でられるたび、彼の愛情を再確認するように感じる。
なのに、その指の温もりの下で脳裏に浮かぶのは恭平の手だった。
すぐ隣で感じた彼の強くて深い温度が、無意識に重なり合ってしまう。
唇が触れたときに流れた息の香り、すべてが鮮明に蘇る。
(……だめ、こんなこと考えたら)
気づけば、身体が自然に反応している。
心の中で反発しながらも、体は隆の手に引き寄せられていく。
隆のキスが深くなるたびに、その不器用さがいっそう愛おしく感じられる。
彼の唇はどこかぎこちなく、だけどそのひとつひとつにななみを思う気持ちが込められていた。
「ななみ、好きだよ……」
隆の言葉が、耳元でかすかに響く。
真剣な眼差しと、それに重なる温もり。
「……いいよ。きて」
ななみが腕を広げて、愛する隆を迎え入れる。
隆は不器用に微笑むと、腰の位置を正し――
「……あ……んっ……♡」
隆が静かに腰を沈める瞬間、ななみの体が小さく震えた。
その感触に、ふと気づく。
――何も、隔てていない。
(……そうか、隆とは……)
その事実に、じわりと胸が熱くなる。
あたりまえのようで、どこか新鮮だった。
(恭平さんは……必ずつけてくれていたから……)
夫婦であることの意味が、改めて胸に沁みてくる。
そう、これは隆にだけ許していること。
その重みに、ななみはそっと瞼を閉じた。
彼の体温がまるで自分を包み込むように広がっていく。
「う、動くよ……」
「うん……♡」
長く離れていた時を取り戻すように二人は互いを求めあった。
だが、隆の腕の中で感じる身体的な充足感と恭平の記憶がななみの中で交錯していく。
そのぎこちなさ、戸惑いへの愛おしさが、ますます胸を締めつけた。
隆はその様子に気づかず、やっと彼女を手に入れたことに幸せそうな顔をしている。
その表情に、愛を込めて自分を感じてもらいたいとななみは抱きしめ返した。
隆の身体がしっかりと重なり、彼の動きがますます激しくなっていく。
彼の律動に合わせて、自分の身体が次第に深く応えていく。
刹那、恭平の影が過ぎる。
ななみの弱い部分を知り尽くし、心の奥までを埋めてくれる交わり……。
けれど、その影が長く続くことはなかった。
隆のぬくもりがそれを打ち消し、次第に彼女はその感覚を隆に委ねていった。
「ななみ……!」
隆が再び彼女を名前で呼んだ。その声には愛情が溢れていた。
その声に、ななみは心の中で答える。
「愛してる……!」
恭平とのことを振り切らんと、ななみは叫んだ。
彼の求める愛を、今、この瞬間だけは素直に受け入れる。
彼がどんなに優しくても、どんなに愛してくれても――自分が過去にしたことからは逃げられない。けれど、今は、この時間だけ、心の奥底で隆に全てを委ねたかった。
胸に抱かれ、彼の動きに身を任せる。
やがて、流れ込むように二人の呼吸がひとつになっていく。
隆の手が背中を撫でるたび、少しだけ胸の奥の苦しさが溶けていくように感じた。
隣で、隆が静かに寝息を立てている。
その呼吸は、まるで波打ち際のように穏やかで、心地よいはずなのに、ななみにはどこか遠く感じられた。
一度、果てたあとの彼は、すぐに眠ってしまった。
出張の疲れがあるのはわかっていた。
むしろ、そんな状態で最後まで自分を抱いてくれたことに、ななみは胸が熱くなった。
(……ありがとう、隆)
掛け布団の隙間から覗いた下腹部が、ぬるく、熱をもっている。
自分の奥に、隆のものが注がれている。
その重みと温度が、じんわりと身体の奥に残っているのがわかる。
(……こんなに、出してくれて)
ふと、腹の奥を意識する。
もしかしたら、これで子供ができるかもしれない――そんな思いがよぎった。
結婚当初はまだ早いと考えていたのに。
けれど今は違う。
「ふたりの子供が欲しい」と思っている自分に気づいて、ななみは静かに目を閉じた。
だというのに、体の奥が、まだ疼いている。
愛されたのに、抱かれたのに、
――まだ、足りない。
布団の中で、脚をすこし閉じる。
奥から、かすかに零れていく隆の名残を、受け止めるように。
けれど、閉じるだけでは不安だった。
このままでは、愛された証がこぼれてしまいそうで。
ななみはそっと、自分の指を伸ばした。
それは確かに、“押し戻す”ためだった。
そのはずだったのに――
指が触れたとたん、電流のように走った快感に、喉がかすかに震えた。
思わず口を覆い、息を殺す。
隣には、無防備な顔で眠る隆がいる。
(……ごめんね。でも、もう少しだけ)
ゆっくりと、押し込むように指を這わせていく。
体の奥が、隆の名残を絡め取るたびに、小さな声が喉元から漏れそうになる。
けれど、それは決して淫らな欲望だけではなかった。
――あのときの、恭平の手。
唇。
舌の、深さ。
ふいに、その記憶が身体の内側を走る。
隆ではない誰かの影が、またしてもななみを揺らす。
けれど、今だけは、それを追い払いたかった。
(違う。……私は、隆のものなの)
そう心で繰り返しながら、もう一度、奥へと指を滑らせた。
温かい液体が指に絡み、すぐに体内へと吸い込まれていく。
それが、愛された証――夫婦だからこそ許された距離だと、自分に言い聞かせながら。
けれど、その証を自らの手で確かめていなければ、安心できなかった。
それほどまでに、自分は満たされていない。
そしてなにより――
隆が眠るこの隣で、自分がこんなことをしているという事実が、胸を痛めつけていた。