ago May/14/2025 17:55

06:喜びと罪 03

 シャワーの音が、無機質に響いていた。
 浴室の曇った鏡に映るのは、自分の裸――見慣れたはずのそれが、今夜はなぜか他人のもののように思えた。

 肩から首筋を伝っていく湯の流れが、隆の温もりを洗い流していく。
 それが寂しかった。
 けれど――それ以上に、腹の奥でまだ火照っている自分自身が、憎らしかった。

(……どうして、まだ疼いてるの? もう、充分だったはずなのに)

 手を伸ばせば、すぐそこに恭平の影がいる気がした。
 唇に重なった熱、首筋に這った舌、喉元で震えた低い声――
 それらの記憶が、熱いシャワーでも洗い流せないほど、しつこく絡みついてくる。

 隆に抱かれたというのに。
 愛してるはずなのに。
 それでも、今、この身体が求めているのは――

(……恭平に、抱かれたいなんて)

 ふいに、喉が詰まり、息が止まりそうになる。
 その瞬間、ななみはシャワーのノズルを壁に叩きつけるように戻した。
 ざあっと、音が跳ねる。湯気が舞い上がる。

 濡れた髪をかき上げ、鏡を見た。
 目が合った。
 けれど、その女は、自分じゃなかった。

「……最低」

 誰に言ったのかもわからない言葉が漏れた。
 それは恭平にではない。
 隆にもではない。

 自分自身への、呪詛だった。

 腰に手を当てて、水をもう一段階熱くした。
 皮膚が焼けるくらいじゃないと、この身体は目を覚まさない気がして。

 この身体は、自分のものじゃない。
 愛してると言ったくせに、
 子供が欲しいと思ったくせに、
 隆に抱かれていたくせに。

 なのに――
 この身体は、恭平を待っている。

 背中を伝った熱湯が、隆の名残と共に流れ落ちていく。
 まるで、恭平に抱かれる準備をしているかのようで、膝が震えた。

(……いや。違う。そうじゃない……)

 言い聞かせるたびに、声が弱くなる。

 浴室の中は、湯気で満ちている。
 そのぬるい湿気が、ななみの皮膚にまとわりついて離れない。

(もう……終わったのに……)

 そう思うのに、心臓が妙にうるさい。
 下腹がじわじわと疼いてくる。
 熱をもったその感覚は、まるで隆ではなく、恭平を思い出して火照っているかのようだった。

 手が、自然と胸元に触れる。
 首筋から下へ、なぞるように滑らせていく。
 隆と交わったばかりの身体なのに、それでも満ち足りていないと訴えている。

(違う……だめ、やめないと)

 そう思っているのに、指が止まらない。
 脚の間へ、手が伸びる。
 じゅっと残った温もりに触れた瞬間、腰が小さく跳ねた。

(……やだ、なにして……)

 なのに、止められなかった。
 それはまるで、もう自分の意志じゃないようだった。

 指先がゆっくりと動く。
 感じてはいけない。
 でも、感じてしまう。
 ――そして、堪えきれず、声が漏れた。

「……きょうへい……っ」

 シャワーの音にかき消されていくその名に、全身が凍る。
 目の前の鏡に映る自分が、恥と後悔と快楽の狭間で、愕然と目を見開いていた。

 もう何が正しくて、何が間違っているのかすら、わからない。
 ただひとつ言えるのは――
 この身体は、隆のものでありながら、心のどこかで、恭平に壊されることを望んでしまっているのだった。

 * * *

 穏やかな日々が続いていた。
 出張から帰ってきた隆は今までと同じく優しい。
 そして少しだけ積極的になったようにななみには思えた。
 仕事の合間に「今日は早く帰るよ」と連絡をくれることも増え、
 週末にはふたりで出かける余裕すら生まれた。

「仕事が上手くいっているからね。一軒家も夢じゃないよ」

 その笑みに疲労が見えることもあったが、隆は充実しているのが伝わってくる。
 だからこそななみは敢えて触れようとはしない。
 彼の健康が維持できるように、食事に少し気を使った程度だった。

 会話も笑顔も、自然だった。
 手を繋ぎながら歩くとき、ふいに頬へ触れてくる掌のあたたかさ――
 そのどれもが、ななみにとっては“愛されている”実感だった。
 ……なのに、夜になるとふいに過去の残影が胸に切り傷を残す。

 ベッドの上で、優しく自分を愛してくれる隆。
 そのたどたどしいキスや、遠慮がちな愛撫、
 そしてななみを満たそうと、疲れているだろうに必死になって腰を動かす。
 彼なりに一生懸命、自分を満たそうとしてくれているのは分かった。

「ななみ……気持ちいい……?」
「うん……♡ いいよ、隆……」

 その想いだけで胸は十分すぎるほどに満たされ、温かい気持ちがあふれ出す。
 けれど――身体は、まだ足りないと戦慄いていた。

 大きな手。力強い腕。そして太く、彼女の奥を知り尽くした恭平の肉欲そのもの。
 脳裏にちらつくその記憶が、ななみの下腹をじわりと熱くさせる。

「ななみ……!」
「あっ、あっ、ああっ♡ もっと、もっときて……♡」

 隆の力強さが増していた。
 ななみが達することができるようにと、懸命に。
 その体温は嬉しいのに。
 彼を受け入れるふりをしながら、ななみは心の奥底で別の体を想ってしまっていた。

「はあっ……あっ……あっあっあっ……♡ ごめんね……隆……」
「イキそう? 大丈夫、俺も、もう限界で……!」
「イクっ、ンッ、ンッ、んぁっ、あっあっあっあっあっぁあっあっあっ……!!」

 声をあげるたび、それが「演技」ではないと信じたい。
 でも、どこかで冷めた自分が不満から目を背けるなと心に釘を刺してくるようで。
 幸福なはずの夫婦の夜に、別の男の影がよぎる。
 そんな自分を、ななみは心の底から恥じていた。

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