06:喜びと罪 04
いつものようにオフィスの自分の机で書類に目を通していたななみの背後から、すっと近づく気配があった。
「なんか今日、顔色悪くない?」
声をひそめながら覗き込んできたのは、総務の桐谷真由だ。
「えっ……そんなことないけど?」
「いやいや。肌とか荒れてないけど、なんかこう……“抜け殻感”?」
冗談めかして、真由が小声で耳打ちする。
「もしかして……旦那さん戻ってきて、張り切りすぎた? よ・る♡」
「真~由」
ななみは潜めた声と共に、真由をそっと睨みつける。
「冗談冗談。でも、あんまり無理したらダメだよ♡」
からかい半分、心配半分の表情で真由は笑った。
「メイクのノリが悪かったのかもね」
「ま、お互い給料分以上の仕事はしないようにしましょ」
ななみが苦笑交じりにと誤魔化すと、真由は軽やかにその場を離れていった。
残されたななみは、ふっと表情を曇らせてしまう。
もし顔色が悪いのだとしたら、その原因はわかっている。
チクチクと胸の奥で痛む背徳の傷のせいだろう。
愛されることで罪が癒されることはない。
むしろその傷口は広がっていく。
けれども、隆の愛を裏切ることもできず。
なのに、この身体は別の男を思いもっと深く疼いてしまっている。
「……最低」
机の下で、こっそり指を組み、強く握りしめた。
* * *
「このデータまとめたら上がっていいよ」
「わかりました」
上司である大瀬良良子から指示された作業を終え、ななみが時計を見ると、まだ終業まで30分近い時間が残っていた。軽くファイル整理でもするかと手をつけようとした時、プライベートのスマートフォンが僅かに揺れた。昼休憩の時、マナーモードにし忘れたようだ。
作業に集中する人々の耳には届いていないようで安心しつつ、さっとマナーモードにするため操作をしようとした。だが、その目が通知欄の名前を観て指が止まってしまう。
『驫木』
恭平の名に、心臓が大きく跳ねた。
ななみは周りをそれとなく伺う。誰もこちらに興味は示していない。
今日の作業も提出済み。
「…………」
ななみは逡巡の後、パソコンをスリープモードにすると席を立った。
* * *
給湯室に人がいないことを確認してから中に入る。
業務に支障をきたさない程度であれば、休憩時間に給湯室や喫煙室でのスマホの使用を会社は暗黙ではあるが許可してくれていた。
ななみは一呼吸してから、メッセージアプリを開く。
『ななみ、今、時間ある?』
……無理をすれば早退できないことも……そう思いかけ、過ちに気付いた。
今、恭平は海外へ出張中のはず。でも、もしかしたら……。
そんな期待を抱きつつも、冷静にななみはメッセージを打ち込んだ。
『まだ、就業中です』
待つ時間はわずかだった。
すぐに既読の文字がつき、何か入力されているのがわかる。
たったそれだけなのに、ななみは噛み殺せない喜びを感じてしまっていた。
『しまった。時差のことを忘れていた』
『そちらは何時なんです?』
『午前……3時すぎだね』
『どちらにせよ非常識ですよ』
『参ったな』
他愛もないやり取り。なのに初恋を知ったあの日のように胸が弾んでしまう。
さっさとメッセージを切り上げてしまえば良いのに、つい返事を入力する手が止まらなかった。
『それで、何の用です?』
『ななみの顔が見たくて』
その言葉に否応なく嬉しさがこみあげてしまう。
『写真、送ってほしい』
さすがに写真の使用は躊躇われた。
給湯室とはいえ、会社の一部が映ってしまうことは望ましくない。
『ここ、会社なんですよ』
『見たいんだ、ななみの顔が。ダメかな?』
『ダメです』
まだ自分には理性がある。そう思いながら常識的な言葉を返す。
『どうしても?』
『……そんなに見たいんですか?』
『人気のない場所とか、ない?』
『……少し待っててください』
ななみは給湯室を出ると、どこか……と悩んだ。
階段は人の通りがある。
屋上も、さすがに就業時間中は躊躇われる。
後は……。