山葵は今こんなことを考えている~京都アニ事件と命の価値について~

あいも変わらず、良い、悪いではない話、当たり前だろって思う人には当たり前でしかないことを書く。

7月18日、京都アニメーションと言う会社が焼けた。放火である。建物にガソリンを撒いて火を点けたようで、激しく燃え盛る炎は社屋全体を舐め尽くした。
懸命の救助活動や消火活動が行われたが、この文章を書いている時点で時点で33名の死者と36名の負傷者が出ているとのことだ。大量殺人事件として有名な津山事件を超えている。

今まで生きていた人間が、未来を奪われる。殺人とはそういうものだ。
あらゆる殺人事件がそうであるように、本件も非常に痛ましい事件である。

Twitterにおいて18日は一日中この話題ばかり流れてきた。事件報道に驚愕する、死者の冥福を祈る、犯人に憤る、オタクバッシングを危惧するなどなどの反応が見られた。大きなショックを受け、心身に不調をきたしている人もけっこういた。それも仕方のないことかもしれない。

京都アニメーションと言う会社は、文字通りアニメを制作する会社で、山葵の世代だと、「涼宮ハルヒの憂鬱」や「らき☆すた」「けいおん」の製作会社という印象がある。

様々なアニメを世に送り出してきた会社で、オタク文化に触れている人間にとっては、近い存在だったのだろう。
そこまで深く京アニの作品に触れてこなかった山葵の印象は「酷い事件だな。すげえ人死んだんだな。ガソリンって火力やべーんだな」という程度のモノで、他の方のように取るもの手につかずという風にはなっていなかった。
しかし、興味はあった。
山葵の興味は犯人の動機と事件に対する他人の反応だ。

命の価値には差があるのか

事件報道の反応を眺めていて、少し引っかかったことがあった。
かいつまんで言うと、放火で死んだ人が今まで作品を世に送り出してきた人であるから大きな損失である、人に与えた幸福量が多いが故に今回の事件が悲しい、というような話である。
他方、そういった価値のある人物を殺害したかどで犯人は即死刑にすべきだ、殺してやりたい。というような話も見られた。
ある特定の条件を満たした命は価値が高く、反対に価値が低くなることがある、つまり命の価値や重さには差異があるということになるだろう。

命の価値は平等なはずである、または、命そのものには価値は存在しない。
これは客観的事実であると信じる。
価値は命が容れてある器の働きによって生み出されるもので、命そのものに付随する価値ではない。
ある失われた命を別の命で贖うことは不可能である。
重さを計っても、数を数えても同じだろう。
そもそも、価値という概念を適用するべきかも疑問である。

しかしながら、現実には命に価値や重さが付与されている。
誰か、もしくは何らかの規定が価値を定めるからである。
命は主観的には平等ではなく、各個人・団体・主義・思想がそれぞれに、命の価値というものを推量するのである。

例えば、自分の肉親と見ず知らずの遠い地方の老人の命ではどちらが大切か?
長年連れ添った友人と、仕事先で一緒になるだけの人とが死の危機に瀕している時、所与の条件が同じでどちらかを見捨てなければならない時いかなる選択をするか?
そういったことを考えてみればわかりやすいだろう。
他にも知っている芸能人、Twitterでのフォロワー、好きな異性と嫌いな同性、そして自分自身。それらすべての命の価値が自分にとって等価などと答える人はまずいない。

付け加えるならば、社会的に、経済的にというのは合理的判断ではあろうが、視点の一つでしかなく客観的判断とは言い難い。それらの立場からの言い分が客観的であるならば、哲学的、文学的、神学的な立場からの判断も同じく客観的と言えるだろう。
世の中には視点というのは存外沢山あり、絶対的に正しい価値判断基準など存在しない。

つまり、命の価値というのはアングル・視点・視座・立ち位置・ポジション・利害関係・観点・イデオロギーなどによって変わるものなのである。
今回の件に関しても、多くのTwitterのオタクが無意識か意識してかは別として、アニメーターには価値があると考え、容疑者を無価値とみなしていた。
さだめし、アニメ作品を通じて接点がある、或いは、接点があると思い込んでいた人、或いはまた、自分に愉しい思いをさせてくれた誰か、というのは彼らにとっては自分に無関係の、ニュースと言う距離で眺める相手とは受け止められなかったのだろう。そして反対に、自分と卑近であると感じている他者を殺傷したという点で、容疑者を許せないと感じても不思議なことではない。

山葵はその感覚に同調は出来ない。これは根本的な思想の問題であるから一生同調することはないだろう。しかし、理解することはできていると信じたい。

主観は偏っていると留意し続けて欲しい

命の価値はそれを計る人によって変化する。それは、当たり前のことである。
しかし、その価値はそれぞれの主観やエゴイズムに由来するものであるということは、肝に銘じておくべきではないだろうか。
山葵も時々忘れそうになるので、ここに書き留めた。
不安である。山葵自身もエゴや主観を正しい意見と勘違いしてしまわないとは言い切れないからだ。
物事は多面的で、主観と言うのは偏りを持つものだ。しかしながら、総意だと感じたり正しいと感じたりした主観は多数という力を得ると、簡単に暴力や私刑に至る勢いを持つ。
お前の価値基準は、お前のものでしかない。
憤りもお前のものだ。他人のものではない。
だからこそ、大切だ。ただ、誤りがあれば修正する柔軟さを持って欲しい。
憤りを感じた時には、なぜ自分が憤るのかじっくりと内省してみて欲しい。
それが、自分がどういう人間であるかを知る手がかりになるのだから。

犯人の動機はわからない。「パクリ」というワードが出てきている。パクリを事実と断定し、それを行ったものを悪人と見、その悪人の命の価値を軽んずることも主観的には正しい主張であろう。
主観的判断である、という事実を見落とし―ー或いは瞞着し―ー自己の視点に基づいた言説や行為に正当性があると思い込んでしまう人間の中から、ガソリンを撒き火を点けられる人間は出てくるんじゃないだろうか。

……まあ、その意見が主観的でそれがエゴだと自覚してても覚悟が決まってるやつはやっちまうけど。
また、締まりのない話になった。尻切れトンボ。

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