夜のひつじ 2019/07/10 12:22

【小説】選択的青少年別性制度

本作は2017年5月のComitia120で頒布したオリジナル小説です。ジャンルはTS。全年齢向け。微リョナ。
イラストは表紙1枚、本文2枚。描いてくださったのはwk.さん

短めではっきりした結末もないものですが楽しんでいただければ。

本来縦書きのものなので横書き用に改行などを追加して読みやすくしています。


選択的青少年別性制度 本文






 高校に入学して三日目。
 羽山順はバスに揺られていた。学校近くから出て、彼の生活範囲を循環している路線。
(学校の拳闘部はダメだな)
 窓の外をなんとなく眺めながら、今日見学した部活のことを思い出す。
 ――なっちゃいない。
 そう思ったところで、ぽんぽんと肩を叩かれた。

「……?」
 座席に座ったまま振り返ると――制服姿の美少女が立っていた。
 彼女は少しはにかんで笑いながらピースサインを順のほうに向けている。
 柔らかそうな長い髪と濃いめのまつげと桜色の唇。背はかなり低いほうだけれどそれは顔の造形とは関係がない。美少女だ。そう表現するほかない。
(……誰?)
 しかし順に心当たりはなかった。

「あっ。わからない……かな」
「…………」
 もともと口下手なのもあって順は何とも答えられなかった。
「えっと。中学の時、同じクラスだった……十夏。木崎十夏だよ」
「……は?」
 順が一音だけ発生して返すと、彼女はびくりと肩を震わせた。
 その小動物的で臆病な仕草を見て思い出した。
「十夏か」
「うん。わかった?」
「……ああ」

 頭のなかは混乱している。
「あの……、ほら。選択的せいしょーねん別性制度で……。えっと。そのほうがいいって勧められて……、ほら。未来のために」
「……ああ」
 日本国内に住む人は、満十六歳になる年のはじめに、選択的青少年別性制度の説明会に参加しなければならない。
「高校はクラス別になっちゃって。挨拶もできなかったんだけど。いま見つけて。せっかくだから……」
 少年であった頃の木崎十夏の印象は薄い。けれど、整った顔立ちとどこかおどおどした仕草なら覚えている。

「お前が」
「あっ。うん……。ぼくは友達も少なかったし。ちょうどいいのかなと思って……」
 ちょうどいい。そんな理由で生まれ持った性別を変えられるものだろうか? 順にはわからなかった。
 しかし疑問を感じつつ順の目線はしげしげと美少女になった十夏を見てしまう。
(確かに面影はある)
 なんて思いながら――目線はやがて胸元に。
(ぺったんこ……ではない)

「おうち帰るところ?」
「……ああ。いや……。ジムに寄ろうと思って」
「ボクシング続けてるんだ」
 ああとかうんとかいい加減な返事をして、順はやっと十夏から目を逸らした。
 よくわからないが、小動物みたいな可愛い生き物が眉毛をぱしぱしさせながら話しかけてくると妙な気持ちになってしまう。

「ぼ……ぼくもお邪魔していいかな」
「は?」
「あっ。え……えっと。ジムの見学。……だめかな?」
「ダメじゃない」
「じゃあ」
「でも男ばっかりだぞ」
「平気だよ。だってぼくは――」



 日本国内に住む人は、満十六歳になる年のはじめに、選択的青少年別性制度の説明会に参加しなければならない。
 別性を選ぶケースは稀で、おおよそクラスに一人いるかいないかという確率。ただ別姓を選ぶなら、高校入学前の春休みはかなり一般的だった。次に多いのは高校二年の夏休み中で、特に女子の別性選択がピークに達する。理由は色々ある。問題も多い。




 十夏はおとなしく見学を続けていた。こじんまりとしたジムだ。表には一応女性も歓迎というような張り紙もしてあるが、内部は清潔感はあるとはいえどうしようもなく粗い男っぽさがあった。
 ベンチに座って辺りを見回す。全体的にはそれなりに綺麗に清掃されているけれど、コンクリートが剥き出しの壁と電球の照明が寒々しい。
 仰々しく設置されたリングの上には誰もいない。脇では順が黙々とトレーニングを続けている。

(……せっかく勇気出して話しかけたんだから。もっと色んな人と……関わらないと)

「順くん」
「……なんだよ」
 無口で、いつもどこか不機嫌に見える羽山順。
 それが彼の常態であることを思い出して十夏は気を取り直す。誰が相手でも順は態度を変えない。十夏はそこを好ましく思っていた。

「練習相手になろっか。ほら……あはは」
「……は?」
 またそんな答えを返されて本当に心が折れそうになるけれど――十夏は壁際に無造作に置かれていたミットのようなものを拾い上げた。
「これでトレーニングするんでしょ? うつべしうつべし、みたいな」
「素人がやったら怪我するぞ」
「ちょっとだけ。ちょっとだけ……」

 映画のなかのトレーナーがやっていたみたいに両手にミットをはめて素振りしてみる。
 ……ぶかぶかだった。今の十夏の身長は百五十センチほどしかない。高校一年の女子にしても小柄なほうだった。
「ワンツー、ワンツー、みたいな――」
 十夏が曖昧に笑いながら両手のミットを掲げた瞬間、順の目つきが変わった。

(え――)
 戸惑ったのも一瞬、何の予備動作もなく拳が飛んできてバシッと乾いた音を立てた、のを認識した瞬間自分の右手に強い痛みを感じた。
「うわ、すごいね――」
 ミットにパンチを打ってくれたんだとやっと認識し、慌てて構えなおす。

 バシッ、バンパン!

 たった三度打たれただけなのに体が後ろにのけぞりそうになり、やっぱりもう十分だからやめておきますと言いかけたところに――。

 下腹にも拳が飛んできた。
 パンチのコンビネーションの癖なんだろうか、と思ったのもつかの間、防具も何もつけていない制服姿の少女の下腹に拳がめり込む。

 鈍い音。
 速度と体重の乗った拳で柔らかい下腹の肉とその下の内臓が一瞬大きく形を変える。

「えぐっ! かはっ、はぁ、あ……、ぁあ……!」
 弾かれたように胴が前屈みになり、それから膝が崩れ落ちてその場にへたりこむ。
「わ、悪い。つい――」
「っ、あ……ぁ、はっ、あ……、けほっ」

 息ができない。
 倒れ込んだ十夏はコンクリートの床の冷たい感触を顔で味わいながらなんとか友人の顔を見上げた。
 順は青くなって呆然としている。
 本当に悪いことをしたと思ってはいるんだろう。
 しかしその一方で、彼の瞳が放っている輝きを見て――十夏は二週間前の昼下がり、先輩の女子に首を締められた午後を思い出していた。









 二週間前の朝。十夏は歯を磨くために洗面台に立って、鏡に映った自分を見た。
(背が低い)
 まずそう思ってしまう。頭ひとつ分くらい、顔が映っている位置が下がった。
 パジャマは今までも着ていたものだがサイズが全然合っていない。

「いー……」
 唇を軽く引っ張って歯を見る。歯の大きさは変わったようには思えないけれど多少は小さくなっているんだろうか。
(この見た目、どうなんだろ……)
 母親は可愛らしいと言ってくれたが所詮身内の言葉だ。自分では美醜の判断はあまりできなかった。ただ髪がふわふわで長いのは少しうれしい。

 しかしこれを維持するためにどうすればいいのか見当もつかない。
「十夏? お母さんはもう出るけど。今日は出かけるの?」
「あっ、うん。多分……」
「戸締まりしっかりして。車に気をつけてね」
「はーい……」
 じっと鏡を見ていたところに声をかけられたのでばつが悪かった。

(とにかく出かけて……。もっと人と話したり関わったりしなきゃ)
 それが別性選択を推奨された青少年の義務であるという。
 昨日のうちに母親がネットで注文してくれた衣料品が昼過ぎに届いたので、十夏はとにかく袖を通した。

 一応、仕方なく下着も変えた。シャツとカーディガンと、それからスカート――はまだ早い気がしたので細身のパンツと。出かけるのはすぐそこまでだけど、顔を見られるのが恥ずかしい気もしたのでキャスケットもかぶる。
「あ……靴」
 サイズの合うものがなくて、仕方なく母親の靴を出した。




 十夏が生まれる少し前くらいに、二十二世期からタイムマシンを使ってやってきた猫型ではないロボットが報告した。二○八八年の人類は、二○七○年から太陽活動の縮小による長い冬を耐え忍んでいる。おおよそ二十年のうちに飢餓や疫病などの要因で人口が激減し、打開策を過去に求めていると。

『世界終末時計』というものを知っているだろうか?
 二十世紀の冷戦時にもてはやされた、人類滅亡を零時とした場合に今何時何分なのかという時計である。
 未来からの警告以来、新たに世界終末時計に似たものが設置された。あらゆる気象データは太陽活動の変化が真実であることを裏付け、人類は一致協力して新たな氷河期に備えることになった。
 現在、西暦二○五七年。
 新氷河暦の開始は当初予定されていた二○八八年から二○九三年まで順延されている。現代に生きる人間のたゆまぬ努力と未来からの助言の結果、氷河期到来から決定的な打撃を受けるまでの猶予は長くなっていた。




 十夏は自宅から歩いて三分ほどの家の前に立った。
「はぁ……」
 すれ違った通行人はほんの数人だけだったけれど、随分緊張した。
 呼び鈴を押して、名前を伝える――。

「わー……、本当に女の子になったんだ!」
「はい。それで挨拶に」
「わざわざありがとう」
 招かれて家の中に入る。
 小学生だった頃に何回かお邪魔したことはある。二歳年上の、近所のお姉さん、七尾月子さんの家。
 中学時代は疎遠だったけれど、この四月から通うことになる高校が同じだ。

「へぇー……、可愛いじゃない」
「そ、そうですか」
「うん。とっても。あ、帽子とってみて」
「はい……」
「やっぱり。すごく可愛いよ」
 月子の笑みは華やかだなと十夏は思った。中学一年のときに、たまに学校で見かけた印象と変わっていない。少し憧れるような気持ちがあったのは事実だけど――まあ相手になんてされないだろうとも思っていた。

 当時は中学一年と三年。
 今は高校の新一年生と三年生。

「へぇ、へぇー、へぇー……」
 穏やかだが興味本意さも感じられる頷きを何度も繰り返しながら月子は十夏をしげしげと眺めている。
「あ、ごめんね。お茶でもいれましょうか」
「よかったら、いただきます」
「声も可愛いね~。あはは、新しく妹ができたみたい。紅茶でいい?」
「はひ」

 照れながら返事をして、とにかくリビングのソファに座った。
「別性を選ぶ人って初めて見たかも。やっぱり役所の人に色々言われるの?」
「……はい。色々……。未来のデータとかもだされて」
「そっかー。大変だったね。でも偉いねー」
「そんな、全然」

 新氷河期の到来から人類が受ける打撃を減らし、繰り延べするためには――ひとりひとりの努力が肝心になる。
 ひとりの力は小さくても集まれば大きなうねりを生み出し、猶予が延長される可能性は高まる。

 選択的別性制度もそのひとつだ。明らかに男になったほうがいい女や、女になったほうがいい男が人類の中には存在するらしい。未来人は生まれ持った性別から転性したほうが良い人物を選び出し、現在に報告し、生体と脳のデータの移植まで提供する。


「ただ心がけを変えて頑張れ、っていうだけだとあまり効果がないらしくて」
「うん?」
「いっそ全部入れ替えちゃったほうが、新たな……歴史のうねり?が起こりやすくなるんだって。言われました」
「そうなんだぁ……」
 平静に納得されてしまって、あれ今ので伝わったのかな、というか自分ばっかり喋ってるみたいで恥ずかしくなってきたな、と十夏が焦ったところに紅茶とお菓子が運ばれてくる。

 いい香りだ。
 そして高校三年生にもなったら、もう十分大人なんだとも思う。誰かの家にお邪魔して、親を介さずにこんな風にもてなされたのは初めてだった。
「だから……その、せっかくそういうことに決めたんだから、役に立たなきゃいけないと思ってて」
「うん」
「何かあったら……、えと。相談?とか。してください」
 微妙に思い詰めたような十夏の言い方に月子は少しだけ眉をひそめた。

「相談……相談かぁ……」
「あっ、はい。いきなり言われても困りますよね。ただそうしたほうがいいって……周りの人ともっと関わりなさいって言われました。そうでないと――」
「そうでないと?」

 返されて、十夏は役所で受けた説明を思い出す。
 未来から提供されたデータによると、別性を選ばなかった木崎十夏は何の意味もなく誰にも影響を及ぼさず子孫も残さない人生を歩んで――。

「……なんでもないです」
 ソファに座った姿勢のまま前のめりになって、背筋は緊張した猫みたいにぴんと伸びてしまっている。十夏はそんな自分の状態に気付いて嘆息した。

「ぼくって、友達も少なくて……、あれ? こんなこと言いたいわけじゃなくて。ただ……」
「うん。大丈夫。わかってるよ」
 年上の女性らしい気遣いで月子は十夏の背を撫でた。
 あたたかくて優しくて安心してしまう。
 そして同性になった今ではその気遣いを下心なく、憧れの人に接する気持ちだけで受け取れるのは嬉しかった。

 一方で――わかってなんかないだろうなと思う。
 説明会で見せられた映像とデータが脳裏をちらつく。"あの現実"は、少年だった心を打ち砕くには十分なものだった。

「と、とにかく……一緒の学校に通うことになるし。月子さんのこと、一番に思いついて……。あの。よろしくお願いします……」
「はい、よろしくね。あー、もう私も三年かー……」
 優しくて穏やかで気安い口調で言って、月子はソファに深くもたれかかる。

 それを見て、十夏もやっと肩の力を抜いた。出された紅茶とお菓子に手をつける。
「……おいし」
「あはは、そう?」
「は、はい……。え? あれ? お菓子おいしい……甘い」
「味覚も変わったのかもね」

 言われてそうかもしれないと思う。
 そういえば昨日は甘いものを食べなかった。だから気づかなかった。
 さくさくのクッキーをひと噛みするごとに頭のなかがぴりぴりと痺れ、甘味で舌が蕩けそうになる。
 そしてチョコが食べたいと強く思った。

「相談……相談ねえ」
「んく……っ、なにかありますか?」
 クッキー二枚を平らげてしまったところで月子がぼんやりとした声をあげた。
「なくはないけど……すごく個人的なことで」
「個人的なことでも。それが積み重なって……みたいなことはもらった冊子にも書いてありました。だからどんなことでも――」
 十夏はごく純粋な気持ちで言い募った。

 別性選択が推奨される人物には二つの条件がある。まずひとつは生まれもった性での歴史への影響が薄いこと。ふたつめは、にも関わらず周囲には歴史に強い影響を残した人物がいることだ。

「私、恋人がいるんだけど」
「は――」
 手に持っていたティースプーンを取り落としそうになった。

 恋人。
 確かに。居てもおかしくはない。
 高校三年生で、美人で、長い黒髪も綺麗で笑みは穏やかで華やかで性格も良い月子さんなら。

(別性を選ばなきゃ、こんなことすら多分知らないままだったんだ……)
 予想できたはずなのに予想しなかった事実を聞いて、十夏はつまりぼくはバカなんだなと結論づけた。

「恋人がね、最近困ったことを言ってくるの」
「ど、どういう……困ったことを」
「私の首を締めたいって」
 からーんと今度こそティースプーンがフローリングに落ちた。持っていたのがカップじゃなくて良かった。

「くび? しめる……?」
「ごめんね。びっくりさせたかな。変だよね。でも……今の十夏くん――十夏ちゃんになら話してもいいかなと思って」
 相談して欲しいと確かに言った。
 個人的なことでも良いと言った。

「性癖……みたいなものなのかな。ちょっと偏ってるのかも」
「そ――そうですね」
 頷いてしまってから、十夏はひとつ前のセリフを思い出す。
 今の十夏になら話してもいいかもしれないこと。
 恋人の特殊な性癖のこと。

 ふたつを並列させれば見えてくるのは、十夏の別性選択は、月子のなかでは性癖として処理されているらしいことだった。
 違うのに、と抗議したくなる。十夏の場合は性癖ではなく、推奨されて、ただ純粋に人類の未来を――役に立ちたいと思って。何かできることがあればと思って。

「ど、どうして首を締めたいって思うんでしょうか」
「さあ。それは本人に聞かないとわからないし……。そのほうが興奮する?とかじゃない」
「――――」

 あっさり言われてしまって二の句が継げなくなる。
 いきなりとんでもない男女の、大人の世界だった。
 少女になったばかりの十夏が戸惑い半分で聞かされる類のことではない。
 想像してしまう。
 体格の良い男が月子の上に馬乗りになってのしかかって、ドラマで見るみたいに首に手をかけて――。

「相談っていうと、それくらいかなぁ」
「う……は、はい。ぼくも……ちょっと、考えてみます……」
 とぎれとぎれにお茶を濁す答えを言うことしかできなかった。
「あ、そうだ」
「……?」
「どうせなら自分でしてみればわかるかも」
「……え? 自分で、って――」

 月子は立ち上がり、まず十夏が落としたティースプーンを楚々とした仕草で拾い上げてローテーブルの上のソーサーに戻した。
 それから十夏に向き合うように正面にしゃがむ。

「やってみていい? 首。締めさせて」
「な――」

 月子の手が十夏の肩にかかる。
 冗談だろう、と思ってまだ動けずにいる十夏を、月子は一瞬冷たい視線で見た。
 ぞくっと背筋に悪寒が走る。
 肩にかかった手に力がこもり、十夏は思い切り引き寄せられた。その拍子にソファから落ちてフローリングにしりもちをついてしまう。

(抵抗――)
 できなかった。
 そもそも体格がひとまわり違う。男女の差ほどではないし、月子はスリムなほうではある。だが十五センチほどの身長差は圧倒的だった。

「可愛いね」
 耳元でささやかれる。
 月子は十夏を後ろから抱きしめる形で拘束しながら、ゆっくりと喉に手をかけた。
「やめてくださ――」
 あわてて月子の腕に手をかけて押し戻そうとする。
 だけど無駄だった。
 すぐに月子の片腕が両手とも抱きすくめて動けなくした。



(力……、全然入らない……)
 熱い吐息が耳元にかかる。
 背には月子の胸の膨らみを感じてはいる。
 だけどその柔らかさよりも恐怖のほうがずっと大きかった。

 体温がどんどん上がっている気がする。喉に食い込んだ指は離れてくれない。意識が遠くなっていって、それと同時にドクドクという血流の音だけを大きく感じる。

「あは……、ほんと、かわいい」
 視界は白み、自分と背中に接している体温だけになって、でも耳にかかる吐息は熱い――じゃなくて、多分耳を食べられている。口に含まれている。
 感じる圧迫と痛み。

「のど仏、なくなってるね」
 ひゅ、という自分の喘鳴が冗談みたいに聞こえる。
 どうしたらいいのかわからない。どうしてこんなことになったのかもわからない。
 細い指がますます食い込んでくる。

 耳の形にそって髪の毛が張り付いているのを感じる理由は、そこを舐め上げられているからだ。
 遠のく意識。
 でも耳孔に誰かの粘膜が直接触れるのは初めての経験で、耳の中で直接鳴っている水音をひどく卑猥に感じた。

 少しくすぐったくて、けれど圧倒的に痛くて苦しくて、そしてなぜかとても悲しかった。もう本当にここで死んでしまったりするんだろうか、と思ったところで――意識が途切れる前のほんの数秒、耳から生じて体の奥から白く湧き上がる快感。

「あ……、あ……」




「あ……」
 ――目が覚めた。
 いつの間にか十夏はボクシングジムの更衣室のベンチの上に寝かされていた。気を失っている間に見た夢は、記憶が再生したものだ。

「ぅ……。あ……、はぁ、はぁ……」
 全身にはびっしょり汗をかいている。体を動かそうとすると下腹に鈍い痛みが広がる。

「気が付いたか」
「う、うん……」
「悪かった。本当に。痛むか?」
「そりゃ……、いた……っ、痛いよ……」

 なんとか半身を起こしてベンチに腰掛ける。痛みのせいでうずくまるのに近い姿勢になってしまうけれど。
「……すまん」
 言いながら、気配が近づいてきて――十夏は体をびくりと震わせてしまっていた。

 怖かった。暴力の気配や、男性の汗の匂いを感じることが。
「ち、近寄らないで」
「すまん」
 順は謝ってはいるが十夏の言葉を聞き入れてはくれなかった。隣に座って十夏の背を撫でてくる。
 怖気が走る。記憶も蘇る。

 だけど今はそれを拒否することもできない。男を強く拒否すること自体が怖かった。とにかく落ち着くために口だけを動かす。
「他の子にこ、こんな……殴ったらダメだよ」
「当然だろ」
 当然ならどうしてぼくを殴ったんだと思う。
「とにかく……悪かったよ」
 言いながら順は更に体を寄せてくる。
 また怖気を感じたところで――今度は彼の手が十夏の胸に伸びた。

「えっ、ちょっ……、な、なんで」
「…………」
「やめ……なんで胸にさわって――、や、やめてよ」
「いや……」
「こ……、声出すよ」
 精一杯それだけ言って、手が引いた隙に立ち上がる。
 それから逃げるように更衣室を出た。







 週明けの学校。
 昼休み。
 十夏は母親にもたされたお弁当を机の上に出してからため息をついた。
 女子の制服もスカートもだいぶ着慣れたと思う。
 別に変には見えないと思う。

 ただ――友達ができる気配は一向に無かった。
 別性を選択したことを知る人はほんの僅かで、同じクラスにはいない。だけどどこかびくびくしながら過ごしてしまう。暴力をふるわれた二つの事件が十夏の胸に濃い影を落としている。

「木崎さん」
「……?」
 唐突に話しかけられて顔をあげると、同じクラスの女子だった。

「私たちとお弁当食べない?」
「え――いいの?」
「いいよいいよ、歓迎」
 誘ってくれたのは、普通そうなグループの女子だ。
 彼女の後ろでは三人ほどが興味深そうに十夏たちのやりとりを見ている。

「あの子たちも一緒に。同じ中学で――。よかったら」
「あ、うん。ぜ、ぜひ」
 やった、誘われた。友達を作るチャンス――と思ったところで教室の入り口に見知った顔が現れる。

「十夏ちゃん、こっちこっち」
「え……。つ、月子さん」
 クラスメイトがざわつく。一年生の教室に三年生が現れたからだ。しかも美人。
「ごめんね、ちょっと借りていくね」
 手を引っ張られ、十夏はお弁当を持ったまま教室の外に連れ出されてしまっていた。当然、声をかけてくれたクラスメイトは置き去りにして。



 月子に連れられて十夏は生徒会室に案内された。
 生徒会のメンバーは生徒会室で昼食を摂ることも多い、なんて説明を聞きながら――。
「へえ。キミが木崎さん?」
「はじめまして。木崎十夏です……」
 月子は生徒会の副会長。彼女に紹介されて話しかけてきたのは、生徒会長の桐島絢香。朝礼のときに目にした覚えはある。もちろん三年生。すらりとした美人。でも気の強そうな印象。

「十夏ちゃんにも、もしよかったら生徒会に入ってもらいたいなって思って」
 月子は笑顔で優しげに言うけれど、十夏はじわじわとした恐怖と消せないわだかまりを感じていた。
 首を締められた一件の後、月子はまるであんなことが無かったかのように明るく穏やかに接してくる。なんなら一緒に登校しようかという誘いを断って、入学以来わざわざバスに乗る時間をずらすよう気をつけてまでいるのに。

(どうしてこんな……普通に接してくるんだろう)
「十夏ちゃん。十夏くん。どっちなんだろうね」
「…………」
 桐島絢香の皮肉げに面白がるような口調を聞いて、十夏は自分の出性が伝わってしまっていることを理解した。皮肉げに笑う絢香と、その隣でニコニコと穏やかな笑みを浮かべている月子。月子経由で伝わったに違いない。

 いやな予感がする。
 なんて程度の悪寒で済んでいたのはここまでだった。
「この前話したっけ? 私の恋人ってね、絢香のことなの」
「え――」
 思い出す。相談されたこと。
 首を締めたがる、恋人。てっきり屈強な男だと思っていたけれど――。
 同性の恋人。十夏はぽかんと口を開けてしまっていた。

「なにバカみたいに口開けてんの?」
「あ……、す、すみません」
「女同士で付き合ってたって、アンタよりは正常じゃない?」
「な、」
 何も言い返せずに口ごもった十夏に絢香は一歩近づく。
 相変わらず皮肉げに笑っている。その後ろに控えて、月子も穏やかな笑みを浮かべたままだ。

「オトコ女。オンナ男? どっちがいい?」
「そんな……、そんな言い方しないでください。ぼくは別に、その……」
「気持ち悪い」
 パンッと音がした。
 視界が大きく揺れて、目線はいつの間にか絢香のほうではなく、そこから九十度逸れた生徒会室の窓のほうを向いてしまっていた。

 頬が熱い。

「え……?」
 熱い頬を押さえながら十夏は顔の向きを元に戻す。
(……ぶたれた? どうして――)
 絢香は笑みを浮かべたままだった。そして――その瞳の奥には、今まで何度か見た欲望の色がけぶっている。首を締められたとき。お腹を殴られたとき。月子や順が浮かべていたのとまったく同じ色。

「ぷ……、ふふ、良い玩具見つけたわ」
「おもちゃ――どういうことですか。どうしていきなり、」
 パンッ。
 また視界が揺れる。
 脳みそがシェイクされて一瞬気が遠くなりかけて、さっきは手加減されていたんだと知って――それから今度は頬と鼻の奥が同時に熱くなった。

 気がつけば床にしりもちをついてしまっていた。ぽた、と床に血が落ちる。鼻血だ。
「大丈夫? 鼻の根本を手で押さえて……。そうそう。とりあえず座ろっか?」
 絢香の代わりに月子が前に出てきて、優しく介抱してくれる。十夏を椅子に座らせ、ハンカチで血を拭き取った。
 月子は優しく接してくれてはいる。でも――。

(い、異常だ。こんなの……。ぶたれたのに、月子さんは何も言わないままで)
「ねえ、アンタ」
「……っ」
「今日のこと言える相手、居ないでしょ」
「え――」
「役所にでも駆け込む? 元に戻してくださいーって。無理だと思うよ。わたしは優秀だから」
「で、でも……こんな暴力がゆるされるわけ……」
「歴史に良い影響が出てるなら許されるんじゃない?」
 おかしそうに笑いながら絢香は十夏の隣の椅子を引いて座った。そして――手を伸ばしてくる。

 触れる。胸元。
「ちゃんと胸もあるんだ? へぇ……」
「や、やめてくださいっ」
「ぶたれたいの?」
「……っ」
 助けを求めるように月子を見る。だけど――彼女は穏やかに笑っているだけだった。瞳の奥にはあの色を宿らせて。

「あ……そういえば十夏ちゃんに聞きたいことがあったんだけど」
 月子は鼻血を拭き取ったハンカチを広げると、汚れた面を内側にして綺麗に折りたたんだ。
「生理、きた?」
「――――」
 絶句する。
「この顔。まだなんでしょ」
 嘲笑しながら絢香は手をゆっくりと移動させる。十夏の胸元から下腹へ。

「痛っ……」
「うん? なに? 怪我でもしてるの」
「やめ、痛、ん……!」
 手が十夏の制服の裾をまくりあげる。
「……これ」
「み、見ないで」
 数日前に殴られたそこには痣ができていた。椅子に座ったままうずくまるようにして下腹を隠そうとする十夏だったが、絢香の手は容赦なくその部分を強く押した。

「あ……!」
「私にも見せて。うわー……ひどい。女の子の体なのに。痕になっちゃうかも。可哀想……」
「誰にやられたの? 男だよね」
「……っ」
 興味深げに絢香と月子はその痣を眺め、手でゆっくりと撫でさする。
「ま、やっぱりね。みんな考えることはいっしょなんだよ」
 一通り撫でてから絢香は手を離した。

「みんな考えること……って、何ですか」
「私たちは務めを果たして楽しく遊び、また務めを果たす。――これからも昼休みは遊び相手になってくれるなら教えてあげてもいいよ」
 美しく皮肉げな笑みを見てただ戸惑っている十夏に、今度は月子が告げた。
「ねえ、私も痕つけていい?」
「え」
 するすると十夏のスカートがまくりあげられる。それから白い内股に月子はそっと唇をつけた。ごく自然に。

「……っ」
 吸われた、と思った瞬間にちくりとした痛みが生まれた。その後に感じるのはこもった吐息の熱さ。湿った唇と、見上げてくる瞳の粘膜。昏い色。







 十夏は校舎の廊下をうつむいて歩いていく。終わりかけの昼休みとその喧騒を遠くに感じた。結局食事はほとんど喉を通らなかった。
 昼休みが終わるまでただ歩いているだけのつもりだったけれど、視界の端に映った人陰にふと気がついてしまって顔を上げた。
 すると――陰の主が目で礼をしてから歩み寄ってくる。

「十夏」
「…………」
「悪かった。この間は」
「だいじょうぶ。……もういいよ」
 ばつの悪そうな表情を浮かべた羽山順の顔を見上げて、彼のほうが身長が二十センチ以上高いことを改めて意識する。

「あの。順くんは……」
「なんだよ」
 訊きながら何かに気づく。
「ボクシング頑張ってるんだよね」
「まあな」
「そっか。えらいね。目標とかあるの?」

 順ははっきりとは答えなかった。そのかわりにゆっくりと歩きだす。十夏も歩調を合わせる。何人かの生徒とすれ違ってから改めて口を開く。

「あのとき……どうして殴ったの」
「……悪かった。自分でもわからない」
「いいよ。だけど……。あ、あのことは内緒にしておくから、ぼくのことも内緒にしておいてくれるかな」
「内緒?」
「別性のこと。気持ち悪がられるかもしれないから」
「……ああ」

 十夏は自分の下腹をなんとなく手で押さえる。
 順はそれを横目で見た。
 校舎から渡り廊下に出る。順は一応、当初の自らの予定通り、校舎のわきにある水飲み場に向かった。
 十夏がついてきているのはもちろん意識しながら。

 水飲み場には他の人影は無かった。先が逆さになっている蛇口をひねる。
「ぼくも」
 十夏もつぶやいて体を屈め、ぎこちなく髪をかきあげた。
 その仕草をまた横目で見ていた順と十夏の目が合う。
「どうしたの?」
「いや……」
 順は顔を上げ、袖口で口元を拭いた。

 それから――まだ腰を屈めて水を飲んでいる十夏を後ろから見た。
 その無防備で小ぶりな腰つきと、華奢な膝の裏を見ているうちに衝動が訪れる。
 考える暇もなく順は十夏の肩を掴んだ。

「うん? なに――」
 振り向かれる前に手に力を込め、中途半端な姿勢だった十夏を無理やり引き倒す。順がイメージした通り、十夏は地面に倒れ伏した。イメージと少し違うのは、十夏が驚くでも抗議するでもなくただぼんやりと見上げてくることだ。

「……順くん」
「悪い、俺は――、俺が」
 今は驚いているのは順のほうだった。今更自分のやってしまったことに説明をつけようとして思考が空転する。

 一方で、十夏は――気づきかけていた何かに気づいた。息をひとつ小さく吐いて、倒れた姿勢からゆっくり半身を起こす。肘に泥がつく。
「あのね。ひどいことしてもいいから、他の人にはぼくのこと言わないで」
「あ……ああ」
「そんな顔しないで。迷惑かけてるのはぼくのほうだと思うから」

 どうせ何も生み出さない性なら自分で殺せばよかった。他人任せにしたから罪悪感とか快楽を与えるかわりに殺してもらわなければいけなくなった。
「ごめん、肩貸して」
 素直に応じてくれた異性の肩に抱きついて、抱きしめた。




(了)






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本作の紙版はBOOTHに卸していたのですが、ずいぶん前に売り切れて入荷していませんでした。先日部屋を整理していたら4部だけ余っているのを見つけたので、BOOTHに送って現在入荷作業中です。
残り4部だけですが、もしタイミングがあえばご購入ください。
入荷作業が終了して買えるようになったら一応Twitterでも告知する予定です。

※7月11日追記
 BOOTHに入荷されております。
※7月12日追記
 完売しました。

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