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遠蛮亭 2024/07/12 18:55

24-07-12.【翻訳】テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・ツール・ドーヴェルニュ

ちょっとヒマになったのでカクヨムさんの「古今統帥者列伝」を更新しました。1つはアルバニアの「キリストの戦士」スカンデルベグ、もう一人はフランスの「ナポレオンが尊敬した大元帥」テュレンヌ。スカンデルベグのテキストは2万文字超えてここに入りきらないので、テュレンヌを。

テュレンヌ子爵(1611-1675)
ルイ14世の将帥のみならず17世紀の将帥の中で、テュレンヌほど傑出した戦術家、戦略家はほとんどいないと言っていい。常に戦備が整っており、かつ即興でしのぐ適応力があり、彼ほど完全に完成された戦術的、戦略的エキスパートはそうはいなかったし、著述家としても彼は秀逸であった。彼の奉職は30年戦争に見習い将帥として参加したのをはじめに、1650年から1660年代にはルイ14世の最強のフランス軍の中でも頭抜けて優れた軍事的才覚を発揮するに至った。彼が究極的に作戦行動の最高の大家として完成されたのはその人生の最後の2年間であった。たとえ貴族としてテュレンヌが政治に無関心であったとしても、彼は彼の兵士たちと一緒に家族のように過ごすことを楽しんだ。
 初めにこの世紀の軍事的スタイルを確立してリードしたのはナッサウのマウリッツとグスタフ・アドルフであった。テュレンヌはこれら進んだ技術を彼の国家の為に広範囲に学んで、1660年から1700年まで、彼が体得したスキルを超えるものは現われなかった。彼は先入観を持たず、自らの失敗に学び、 特に30年戦争最後の1年、1645年の間における彼のバヴァリア人に対する作戦活動の非凡さは群を抜いていた。慎重で用心深く計算高い戦術家であるテュレンヌには、大いなる聡明さと速やかに立場を判断し、しかるのち行動する行動力があった。
 1667年までに、テュレンヌはフランス軍を世界一級のレベルにまで向上させた。彼の戦術は常に攻撃的であった。また、その命令は大いに自由を保証し、軍から脱走する者を減少させた。彼は兵站および後方業務の重要性を至当に認識し、定期的な通信防衛システムと兵站ラインを構築した。テュレンヌは常に敵のテリトリーを狙い、かつ兵站路を妨害してフランスの戦争におけるコストと危険性を減少させた。これはかつてスウェーデン人が作った原則「戦争の対価」に従ったものである。賢明な彼は軍隊の士気と秩序を維持するために、兵士たちを優遇するのではなく、普通とは逆に田舎のくたびれた駐屯地に分散させ、代わりに高額の給与配当金を支払った。1674年から5年の神聖ローマ帝国軍とのアルザスの防衛戦において、彼は戦闘開始前の偵察中、流れ弾に当たって死んだ。

フランス国王への奉職
 アンリ・ド・ラ・ツール・ドーヴェルニュは1611年9月11日にセダンの半独立公国の支配者、ブルボン公と彼の二度目の妻、ナッサウのエリザベス、すなわち沈黙公ウィレムの娘の間の次男として生まれた。一家はカルヴァン主義であった。テュレンヌは生来身体が弱く成長が遅かったし、その上ひどい吃音症に悩まされ、これは終生治る事がなかった。貴族の息子として彼は修道院かあるいは軍隊にはいることを義務付けられた。彼は身体の虚弱から当然前者を選ぶと思われたが、彼は身体的健康的ハンデを克服して1625年軍籍に投じ、彼をよく知るオランダの叔父、すなわちナッサウのマウリッツとフレデリックのもとオランダ軍に入った。後年私的にテュレンヌのボディーガードとなるフレデリックは、1626年、テュレンヌを士官に任命した。それから四年間、彼はいわゆる「ナッサウ・スクール」で近代戦の技術を学び、また1629年のヘルトゲンボッシュの攻囲戦を含めて広範に経験を積んだ。
 1623年、彼の偉大なる二人の叔父、マウリッツとフレデリックはブルボン王朝の公爵として大政治家、枢機卿リシュリューの熱心な勧誘によりフランス王国の権威に奉職することになった。はじめリシュリューはスダン公国の独立権力を削ろうとした。エリザベスとフレデリックはこれらの申し入れに反抗し、ただテュレンヌだけはオランダ軍の内向性から1630年、スダンから王室への忠誠の証明として非公式にパリに送り出された。リシュリューは初見でこの青年に好意的な印象をいだき、彼を歩兵連隊長に任命した。テュレンヌはいったんオランダ軍に帰り、配置換えされ、しかる後1635年、フランス王国の全く忠実な一武将としてそのキャリアを開始させる。

徒弟時代
 奉職後しばらくはユグノーの同僚たちの下に置かれた。のちの元帥アンリ・ド・ラ・ツール・ドーヴェルニュは、1634年ロレーヌの攻囲戦でラ・モットの指揮下に入り、大胆にして決断力に富んだ最後の突撃での戦場働きによって少尉に昇進された。1635年、テュレンヌは今度はラ・ヴァレット枢機卿の下でマインツの攻囲戦を行って8月8日、補給を求めた。ヴァレットがメッツで引退し隠遁すると、テュレンヌは指揮官として混乱する後衛を率い、将軍マティアス・ガラスと戦い、深刻な傷を負ったが、その名声は世間に非常に強い印象を与えた。しかし1636年から1137年まで戦闘をやめて帰還。その後1638年にはザクセン・ワイマール公ベルンハルトの指揮下で12月17日 アルト・ブレイザッハの戦いを指揮、1639年、彼は北イタリアに転じ、コンテ・ド・ハルコートの軍隊を指揮し抜群の働きと結果とで1640年中尉に昇任せられる。彼は1641年から1642年までルシヨンで彼自身の軍隊を指揮した。

フランス元帥
 彼と彼の一家はプロテスタントであったため、スダン公国自体が政治的に疑われた。1642年、テュレンヌは自分の立場が彼の兄弟家族を巻き込むことをおそれて、マルクス・ド・シンク・マースと共謀しリシュリューの隷下に自分を置いた。しかしながらテュレンヌが継続して彼の中世が常にフランス王室の上にあることを証明し続けたにもかかわらず、彼の雇用者の猜疑はなおしばらくの間止むことがなかった。1643年、リシュリューは彼に北イタリアでの独立指揮権を与え、カリニャーノ公トマスにつけた。この作戦活動中、1643年12月9日、アルザスでザクセン・ワイマール公ベルンハルトが残した「ワイマール軍」の指揮をとっているさなかをもって彼はフランス元帥に昇任せられ、続いてチューリンゲンを速戦で陥とし、このアルザスとドイツ間の作戦は30年戦争が終わるまで続いたが、彼は運命の混じり合いを楽しむかのように不完全な軍隊を教育し、神聖ローマ帝国、スウェーデン及びバヴァリアの好ましくない兵に比較して熟練した兵士を手に入れる事に成功した。
 1644年6月、テュレンヌとワイマールの軍はフランスからの援軍、超然たる指揮官アンギャン公、すなわち未来の大コンデ公、王家の血に連なる名将と合流し、体面上彼に指揮権を委譲した。彼らはバヴァリアのフランツ・フォン・マーシーの軍をフライベルグ・イ・ブライスガウで打ち破り、疲れ切って撤退する彼らを騎兵突撃で追撃し、これをフィリップスベルグでとらえることに成功した。8月25日から9月12日の事である。翌春、定説ではフォン・マーシーの軍は軍隊の強化を消耗して弱体化していたので神聖ローマ帝国に軍隊の強化を申請したが、イエナでスウェーデン軍の反転攻撃に遭い、テュレンヌにライン渡河中を襲われて捕らえられたという。しかし実際にはマーシーは十分頑強な軍隊を保持しており、テュレンヌはこれをスワビアの深みに誘いこみ、彼の交信手段を失わせてその補給物資を見失わせ、その上で壊滅させなけ彼はればならなかった。攻めるに易い平地でマーシーを急襲し驚かせ、マーシーはマリエンタル・バート・メルゲンハインで5月5日 、下手を打った。アンギャン公はテュレンヌの軍隊と撃破したバヴァリア人たちをそのまま吸収して、次いで8月3日 、ノルトリンゲンの戦いに移った。
 翌年、テュレンヌはスウェーデンの将軍カール・グスタフ・ウランゲルに同道し、神聖ローマ帝国からバヴァリア軍を引き離した。神聖ローマ帝国の最高権力者、最高権力者マクシミリアン一世は1647年に至って、もはや和平を結ぶしかないと思ったが、なお最後の反攻作戦としてマクシミリアンはあがき、テュレンヌとウランゲルは徹底的にヨースト・マクシミリアン・フォン・グロンスフィールド伯及びペーター・ミランダー・フォン・ホルツァフェル伯指揮下の帝国‐バヴァリア軍を1648年5月17日 アウグスブルク近辺のザウスマルスハウゲンで打ち破った。この勝利をもって長く長く血なまぐさい戦争は終焉を迎える。
 国内情勢の不安の中で、フランスは一般にフロンドの乱(1648年、および1653年)といわれる内戦に突入、テュレンヌは幼い国王ルイ14世と、彼の首席司祭にして枢機卿のマザランの、最も重要で確定的な勝利のために1652年、王室の正規軍を率いて貴族軍を破い、コンデ公をスペインに追い落とした。しかしコンデ公は亡命先のスペインで兵を借り、スペイン軍をひきいて貴族たちとともにフランス王室を攻撃し、この結果フランス‐スペイン戦争が1653年と1659年の2度にわたって繰り広げられた。テュレンヌの軍事技術は円熟して絶頂を迎えており、彼はフランス正規軍を率いてコンデ公のスペイン軍を破り、またこれに合流するハプスブルグの軍を1658年6月14日、ダンケルク近辺、デューンの戦いで完璧に打ち破った。
 テュレンヌはフランス王国の最も忠実で有能なしもべであることを証明した。彼は1661年、ルイ14世からフランス大元帥に任命された。しかし王室は彼がローマ・カトリックに改宗しないことからカトリック教会の主要な柱であるフランスに対する不忠としてユグノーへの改宗を強く勧めた。ついに1668年、彼は田舎の風習であったプロテスタンティズムを放棄させられた。

フランス‐オランダ戦争( 1672 ‐3 )
1660年代になってルイ14世はミヒャエル・テーラーとその息子マーカス・ド・ルーヴォアを補佐官に、 王国に仕える各位の長官に常時陸軍および海軍をもってハプスブルグとオランダ共和国へ対して優勢たらんとした。テュレンヌは1660な年5月24日 八万人を率いてオランダ国境を超えスペイン軍と相対した。八万人の遊撃隊はベルギーを占領し、カーレロイ、トゥールナイ、オーデンナード、およびアロストとリールを抜いた。オランダ人は依然としてフランスよりも神聖ローマ帝国を支持していたが、フランスの成功に恐慌ををきたし英国およびスウェーデン望遠郷して1668年、三国同盟を結んだ。テュレンヌはこれに対してオランダはスペインの手打ち倒されるであろうとコメントした。ルイ14世は1672年、決然としてオランダを懲罰することに決し、テュレンヌを先遣隊として進ませ、長らくサンブレー沿いをコンデ( フロンドの乱に際してスペインに亡命していたが、許されてフランスに帰服していた)とともに行進してロレーヌ地方のミューズの渓谷で二個軍団は合流し、リーグ司教区を保持した。彼らはマーストリヒトに向かって陽動のフェイントを仕掛け、それによってオランダ人をラインアウトの強化された要塞駐屯地からひきはがし、しかる後ケルン司教区にとって返すとライン川からロビスへ渡り、オランダ軍をオランダに囲い込んだ。
 コンデはラインの水の中に入って残余のオランダ人に対し、テュレンヌはまずマーストリヒトで1672年8月31日、15000の兵でラインを横断し、示威行動を起こした。彼はつづけて南方のコブレンツまで行って転身し、モセルまで下ってロレーヌでの冬営を行った。彼が彼の兵士たちにラインとモセルの渓谷の間で略奪することを許し、「消耗させよ」と命じたのは確かなことであり、それは帝国軍のこの地方での作戦行動を阻害する意図を持っていた。次の作戦行動でもフランス軍は略奪をおこない、ユトレヒトとオランダの両翼と後背から攻め立てた。田舎の小作農は植林していた丘や平地を荒らされ、飢えて凶暴な戦士となり猛然と反撃した。
 1673年、マーストリヒトを攻囲したセンターピース作戦において、テュレンヌは二月から三月にかけて場を仕切り、帝国軍のブランデンブルクの軍隊を脅迫する準備をした。四万人の兵士が立てこもる城をライン川沿いに長いこと囲んだ。マーストリヒトの兵士たちはテュレンヌが西方への行動を封鎖してウィック方面へのマースの崖沿いの道を全く封鎖してしまった時、深く考えなかった。マーストリヒトは6月30日 陥落したが、テュレンヌはこのオランダ共和国の土地を1673年8月30日 スペインの新たな同盟に備えてすぐに強化し、1674年2月19日、イギリスとの戦争が終結するまで要塞化を続けた。この戦争は最初は短く、限定された征服作戦であったが、ルイ14世はこれをヨーロッパ連合への大いなる対抗戦争へと転換させた。

アルザス防衛戦、1674 ‐ 1675
1674年の間じゅう、テュレンヌは巨大なドイツ‐ 帝国軍の行動を妨害し阻害することをオランダ共和国のスペイン領あるいはフランシュ・コンテのどちらかから常に行っていた。これに対し、帝国軍のアイネイアース・カプラーラはラインの西の崖を完全に横切ってシュトラスブルグの野営地近くまで迫った。彼はラインを東から南に通過してロレーヌの公爵カール4世を打ち破り、フランシュ・コンテをおびやかそうとしたが、テュレンヌはロレーヌ公カールを粉砕し下して勢いに乗る突撃をかわした。テュレンヌはラインの崖のそばで敵から生き延びる方策を練った。彼の軍隊は6000の騎兵とわずか1500の歩兵隊だけであり、広範囲から集まってくる敵に対応するにはあまりに劣弱に過ぎた。六月に入り、彼とユグノーの兵士たちはラインの東側から離れ、フィリップスブルグの橋の上に背水の陣を敷いてカプラーラらを待ち受けた。誰も彼らが北方に行進した結果、フランクフルト・アン・マインの慎重な公爵アレクサンドル・ド・ボーモンヴィルと合流してこれを隷下に加え、強化されていることを知らなかった。五日間で100マイルを踏破し、テュレンヌはカプラーラの7000の騎兵と2000の歩兵に追いついた。しかるのち彼はボーモンヴィルと相談し、6月16日、ジンツハイムの戦いで事を決しようとした。
 この時点でテュレンヌは騎兵において優勢だったけれども、彼はなお迅速な行軍と広範囲にわたる作戦で敵を包囲殲滅することを戦闘の理想とした。カプラーラも同様に村落の辺縁のラインで敵を包囲すべく銃士を並べたが、テュレンヌは彼の竜騎兵を下馬させ、徒歩で静かに接敵させた。いくつかの小競り合いの後、カプラーラは軍を撤退させエルザ川を越えて村に入ろうとして、軍隊後方を戦線からより高地のジンツハイムに撤退させようとした。フランス軍は今やようやくその機動性を生かして帝国軍の騎兵隊を高原で襲撃、撃破することが可能となった。テュレンヌはそこでフランス軍の戦闘力を底上げする新戦術を披露、彼の歩兵隊と下馬した竜騎兵隊に狭いわき道を進ませ、高地のふちを取り囲み、夜、城砦といいブドウ畑といい全てを占拠した。彼はこのあたりに落ち着き、騎兵を動かして間道に戦闘行動を邪魔されないポイントを設置した。テュレンヌは銃士たちの中に混じり、またスウェーデンの騎兵隊の作法が規則ただしくに感服した。また敵に備えて火力を追加し、前衛を秩序ある縦深陣形にして帝国軍に攻撃を加えた。フランス軍の前進は予想以上に早く、その結果の破壊力も強大であった。しかし歩兵隊がブドウ畑を荒らすと反撃の打撃および狙撃が始まった。テュレンヌは命令を下し将軍たちに前進を命じるとともに、銃士部のサポートに回り、着実に勢いに乗って帝国軍を丘の後方に後退させた。疲れ切り、幾分ずさんになったけれども、テュレンヌの戦士たちは帝国軍に戦場からの撤退を許す好ましい命令をくだした。両軍の被害者、損耗数はおよそ2000人を数えた。
 幸運と実力によって彼は戦功を重ね成功した。テュレンヌはハイデルベルクで誇示したよりも早く、ラインのニュースタダットのキャンプで結果を見せた。1674年六月初旬、彼はそれをより強固なものとし、ラインの崖沿いを撤退して行進する帝国軍首脳部に対し、ハイデルベルグに前進した。 ボーモンヴィルの軍は戦いを求めた。ボーモンヴィルはしかしライン川の本流から北に進むことを拒んだ。テュレンヌの軍隊は相変わらず国外にあり、ライン川辺縁の崖のそばで生活していた。彼は指揮官として強奪と略奪と暴行を許し、寄付という名目で財貨を徴収し、小作農の報復攻撃に対して主に孤高であったが、ごくたまにパーティーを開催してご機嫌をとったり、逆にならずものを惨殺して見せしめとする事もあった。この「プファルツの荒廃」は引き続き、ボーモンヴィルが八月の終り、ライン川沿いのマインツでロレーヌと北アルザスを脅して30000人を得るまで続いた。テュレンヌは25000人に及ぶ激しい虐殺をやめさせるまでの間に、ウィッセンブルグとランダウでボーモンヴィル以上の略奪と虐殺を行って彼の軍隊を大いに満足させたと確信した。ボーモンヴィルはラインの南に行軍してスタッドブルグ攻撃をラインの橋上からサポートすることを大いに期待されたが、しかし引き離されたまま動けず、テュレンヌはサポートなしで上アルザスおよびフランシュ・コンテの征服を求められた。
 ボーモンヴィルは36000の兵をエンツハイムの村に堅持していたが、動こうとはせず、スタッドブルクの西ブレスヒ川の後ろで強大なフレデリック・ウイリアム・フォン・ホーフェンゾルム、通称「偉大なるブランデンブルク選帝侯」の到来を待ちかまえた。テュレンヌはそれと知ると、リスクを冒しても戦闘する彼のために通信を開き、上アルザスからボーモンヴィルとフレデリック・ウイリアムの接触を妨げる手を打った。
ボーモンヴィルがブレスヒでの交戦のすべてに失敗したのを見届けたのち、十月なかばの夜、テュレンヌは静かに軍を動かし、川を越えモルスハイムのボーモンヴィルに合流すると彼と一緒にシュトラスブルグを攻撃し、これを攻め下した。文献によれば、ボーモンヴィルはエンツハイムの戦いで「最も長く届き、もっとも執拗な大砲が並んだ。未だ嘗てこのような光景を見たことがなかった。」とされるフランスの2500門の砲兵士官の出身であった。事実のままを述べるのならばボーモンヴィルは正面からの突撃にこだわり、側翼に回ることをしなかった。彼は危険と悟ると3500人の死傷者を出す撤退を経験したが、最後まで戦場に立って勝利をつかんだテュレンヌの損害は3000人を超えることはなかった。
 10月10日 フレデリック・ウイリアムはラインの西崖を通ってケヒに20000の兵と33門の大砲をもってシュトラスブルグを通過し、ボーモンヴィルが創り上げそして遺した50000の兵と合流した。圧倒的に数で勝る敵に対し、テュレンヌはデットウェイラーまで撤退、しかるのちサヴァーネとハーグナウの砦に立てこもった。彼はひたすら防衛につとめ、そして33000人の兵力があればこの敵を倒すに足ると計算した。テュレンヌは冬営の間にボーモンヴィルの屯所で今はフレデリック・ウイリアムの物である土地を訪れ、ライン川近辺から手を引くようにと率直に述べた。1674年十二月初頭、テュレンヌは九つの大軍をサヴァーネとハーグナウで迎えた。彼の後ろには後進の軍隊が続いたが、北と西からあつまるこれらを合わせても小部隊というほかなかった。
 大雪と霜の中、彼と彼らは南方へ逃げるように見せかけ、しかるのち律動的に東のベルフォート・ギャップ領へ入った。彼は保有の軍とベルフォートのそれを合せて再編し、12月27日 、テュレンヌはライン川近辺の平地に打って出た。帝国軍のだれもが驚いた事に、点在する守備兵は帝国軍の1/4にも満たなかった。ボーモンヴィルは騎兵隊の先頭に立ってフランス軍の時間稼ぎに尽力した。彼の軍隊はコルマーおよび小ティルクハイムの小諸都市からかき集めたものだった。前回急いで北に逃げたあと、テュレンヌが帝国軍をミュールハウスで撃破すると12月29日にティルクハイムの兵をひきい、1675年1月4日 テュレンヌのもとにはせ参じた。ボーモンヴィルは暫時フレデリック・ウィリアム率いる30000と対決したが、時間稼ぎ以外彼らは全体として期待できるのではなかった。
 テュルクハイムの兵は正規の守備兵の下に置かれた。彼らは劣弱で役に立たなかったが、テュレンヌは彼の対向者と対決するために彼らを使えるよう鍛えて配置に付けた。しかる後彼は自らフランス軍を率いて命令しつつ30000人が待ち受ける戦線に突入した。フランスは前進し、帝国軍左翼と中央は主な努力をティルクハイムとの闘いに割いた。帝国軍は着実だったが街の頑強な妨害とボーモンヴィルの献身的な努力によって主力が町の郊外に引きずり出された。
 そしてよりフランス軍にとって僥倖だったのは戦闘の辺縁でティルクハイムがボーモンヴィルに率いられて帝国軍中央と左翼をうまいぐあいに引きつけたことにあった。彼は人が変ったかのようにティルクハイムの兵を率いて敵をブロックしてはそのぶん前進した。宵闇になって、帝国軍左翼はテュレンヌの支配する戦闘圏内に入り、ついに帝国軍はラインを超えてシュトラスブルグから撤退した。

テュレンヌの作戦と死
 1675年からの作戦活動は、皇帝レオポルトのリコールにより名うてのイタリア人、古強者のライモンド・モンテクッコリが帝国軍総司令官に起用されライン地方を狙ったことにはじまる。彼はまちがうことなくケヒ‐シュトラスブルグからアラスに侵入し、35000の兵力をもってシュトラスブルグを直撃した。彼はテュレンヌ率いる25000を挫き、ついでモンテクッコリがフェイントをかけた機動によって北を突くと見せると、今度はテュレンヌが敵の思惑を見ぬいてこれをブロック、阻んでのけた。真に用兵の原則をわきまえた両将は、ラインの崖附近で互いに譲らない戦いを繰り広げた。テュレンヌが川を越えて機動作戦を行おうとすれば、モンテクッコリはこれを理解してテュレンヌをはばみ、その逆もまた真であった。彼はたがいに余人の知らぬレベルでのコミュニケーションをとって、わずかなアドバンテージを奪い合ううちに七月が終わろうとした。モンテクッコリは機動戦によって敵に損害を与えようとし、ニーダー・ザスバッハでテュレンヌに勝負を避けられない状況を作り、フランス軍を引き出した。テュレンヌは戦闘前の砲兵陣地視察のさなか、思いも寄らず敵砲兵の誤射の流れ弾がテュレンヌの頭に直撃し、フランス最高の名将はあえなく落命した。7月27日のことである。彼はSt.デニス大修道院に埋葬され、フランス王ルイ14世がじきじきにその魂の安息を祈った。その墓は外観を損なうことなく、フランス革命後までそのままで存在する。のち1800年ナポレオンの命令により、救国の英雄として廃兵院に移送された。

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遠蛮亭 2023/12/15 14:58

23-12-15.中国史書翻訳(北斉書_斛律光)

こんにちはです!
さっきまで台本制作やってたんですが、あまりに先が見えない作業なのでちょっとくじけてちょっと休憩。その間に「これでも上げとくか……」とカクヨムさんにあげましたのがこちら。「古今統帥者列伝」100話目、中国南北朝時代、北斉の名将斛律光。普通に変換すると国立校って出てしまいますが……、まあ武辺優れた名将です。ただ、治軍厳正に過ぎて厳酷なサド、また後半生はあきらかに傲慢で彼が悪い部分もあり、清廉潔白な人物とはいきません。かつて「中華名将録」というブログでこの人のことを「きわめて謙虚で篤実な人物だった。傲慢とするのはおかしい」と論戦を挑んできた方がいらっしゃいましたが、北斉の世が終わり、斛律光のことを惜しむ歴史家が書いてなお彼の驕慢ぶりを隠せなかったのですから推してしるべしです。

ちなみに遠蛮は中国史のなかでも「史記」「三国志」に関してあまり書きません。もうあまたの研究者と作家さんがうんざりするほど書いてある時代だし、だれがどう書こうがもとの時代と人物が変わらないのだから多少切り口を変えたところで変わり映えもしません。唯一すげぇわこれ、と思ったのは「泣き虫弱虫諸葛孔明」における新釈孔明像でしたが。なのでこの2つ時代にはあまり魅力を感じないのでした。それでもたまには書きますし、そっちのほうがpvとか回りますけども、はっきりいってやる気は出てません。面白いのはやっぱり宋と明。宋であれば孟キョウ(最盛期のモンゴル軍相手に不敗、しかも人格が完璧と言っていい高僧のような人物)だし、明であれば戚継光(名将にして拳法と剣術の達人。鴛鴦陣という8人で倭寇1人をボコる戦法の創始者。のちにこの戦法は日本の土方歳三に踏襲され新選組で猛威を振るいました)です。ほかに特筆すべきなのは唐初の二大頭脳、李靖と李勣。宋代であっても岳飛とかは正直どうでもいいです。岳飛という人物は史書読んでても「あー、こいつ誣告したくなるのわかるわ……」って思うタイプなので、岳飛を称揚する方々の気持ちというのは正直わかりません。

………………
斛律光(こくりつ・こう)
斛律光、字は明月。若くして騎射に巧みであり、武芸を以て世に知られた、というのは異民族系の武将には少なくない。まあ普通の経歴であろう。東魏末年、斛律金に従って西征する。周文帝の長史・莫者暉が行軍しているところに馳せて矢を射掛け、これを生捕り擒えたとき、まだ十七歳。驚嘆すべき若者であった。高祖は非常に喜んで彼を賞し、十七歳の若造を即刻、都督に抜擢する。世宗が嗣子として立つと、推薦を受けてその親信都督となり、漸々と昇遷して征虜将軍さらに官を加えられ衛将軍に。武定五年、永楽県子に封ぜられる。世宗が?橋で狩猟しているとき、たまたま一羽の大鳥が舞い上がり、雲に向かって飛翔したところを、斛律光は一箭これを射、みごと首を貫いた。鳥は車輪を描き、旋回して墜ちるとこれ信じられないほどの大雕だったという。世宗はこれを見て詠嘆し、斛律光の弓技の冴えを讃えて、丞相属の刑子高も感嘆して、「これ射雕の腕なり」と。それでついたあだ名が落雕都督。ついで左衛将軍を兼ね、伯爵に進められる。

北斉建国当初、斛律光は開府義同三司を加えられ、伯爵位とは別に西安県子に封ぜられた。天保三年、出塞して北伐に従軍、斛律光は真っ先に敵中に躍り込み、首を獲ることきわめて多く、また多くの牧畜を得て還る。帰還後、晋州刺史を拝す。晋州の北には北周の天柱、新安、牛頭という三か所の城があり、常に擾乱絶えない必争の地であった。天保七年、斛律光は歩騎五千でこれらを攻め、大いに北周の将・王敬儁らを破り、五百数十人を捕獲し、牧畜千余を得た。九年、また周を率いて北周の絳州、白馬、?交、翼城の四城を取る。同年、朔州刺史。十年、特進して正式に開府義同三司とされた。同年二月、一万騎を率いて北周の開府・曹迴公を討ち、これを斬る。時の柏谷義同・薛禹生は城を棄てて逃げ出した。斛律光はさらに文侯鎮を取り、さらに営を置き柵を立ててから還った。乾明元年、并州刺史とされる。皇建元年、爵を鉅鹿郡公に進められた。時に楽陵王・百年が皇太子とされ、粛宗は斛律光を以てその教育係に任じ、さらに彼を王室に入れるためその長女を太子の妃とした。大寧元年、尚書右僕射。中山郡に俸邑を得る。翌年太子太保。河清二年四月、歩騎二万を率いて識関(職は正しくは車編)に勲掌城を築き、万里の長城を二百里に渡って修築、十三の戌営を置く。三年正月、北周は将軍・達奚成興らを遣わして平陽に侵攻させたが、斛律光は詔を受け歩騎三万を率いてこれを迎撃、達奚成興らを潰走させる。斛律光は敗軍を北に追い、境内に入って俘虜二千余を獲て還る。同年三月、司徒。四月には騎兵を率いて北に突厥を討ち、軍馬一千余を獲て還った。ここまで武功が重なればただ武芸に長じ騎射に優れただけの猪武者ではないと誰もが信じるであろうが、さらにその名将ぶりを際立たせる大戦役が発生する。この年冬、周武帝は柱国大将軍・尉遅迥、斉国公・宇文憲、柱国庸国公・可叱雄らに十万の兵を与えて遣わし、洛陽を攻めさせた。対するに北斉は斛律光が五万の兵を率いて反撃、?山において戦い、半数の兵で尉遅迥らを大敗させる大殊勲を挙げる。斛律光は自ら矢を射て可叱雄を射殺し、斬獲三千余を獲た。尉遅迥、宇文憲らは単身かろうじて逃れる。武器甲冑と輜重多数を鹵獲して、また戦死者を洛陽を望む丘の堆肥に埋めた。世祖は自ら洛陽まで駕御し、斛律光の驍名勲功を賞して太尉(軍総司令官)に任ずる。このとき世祖の命にて斛律光の次女がまた太子の妃とされた。天統元年、彼女は皇后に封ぜられ、斛律光は大将軍の任を受ける。三年六月、父の喪に服して官を辞したが、同月、詔が下って斛律光とその弟斛律羨を前任に復すとされた。秋、太保に任ぜられ、父の爵位を世襲して咸陽王に進み、斛律一族の酋長となった。咸陽王とは別に武徳郡公に進められ、趙州に俸邑を得る。遷せられて太傅。

天統元年十二月、北周は兵を遣わして洛陽を囲み、糧道を截つ作戦に出た。武平元年正月、斛律光は歩騎三万を率いてこれを討ち、軍を定隴に屯す。周の将軍で張掖公の宇文桀、中州刺史・梁士彦、開府司水大夫・梁景興らは鹿廬交道上に駐していたが、斛律光は甲をかぶり矛を取り、身を士卒に先んじて敵陣を衝き、鉾が刃こぼれするまで戦い抜いて、宇文桀らを潰走させ斬首二千余を獲る。そのまま直ちに宜陽に向かい、北周の斉国公・宇文憲、申国公・?抜顕敬(?は正しくは手偏)らと対峙すること百日。斛律光はその間、統城、豊化の二城を築き、宜陽の交通にダメージを与えた。軍を還すとついで安?に往き、宇文憲ら五万の攻撃をその背に受けながら、騎兵をほしいままに動かして反撃し、敵兵を大潰走させ、開府・宇文英、都督・越勤世良、韓延らを俘虜とし斬首三百余を獲る。宇文憲はさらに令じて大将軍・中部公・梁洛都と梁景興、梁士彦らに歩騎三万で鹿廬交道の要路をふさがせるが、斛律光は韓貴孫、呼延族、王顕らと兵を合して大いにこれを破る。梁興興を斬り、軍馬一千頭を得た。詔により斛律光は左丞相兼并州刺史とされる。同年冬、斛律光ははまた玉壁にあって歩騎五万を率い、華谷、龍門の二城を築城、ここで宇文憲、?抜顕敬らと対峙するも、過去幾たびも苦渋をなめさせられている宇文憲らは敢えて動かず。斛律光はそこで兵を進めて定陽を囲み、南汾城を築城、州治を置いて夷華の衆万余を帰服させる。

武平二年、斛律光は平隴、衛壁、統戎など十三鎮を修築。北周の柱国・枹罕公・普屯威、柱国・韋孝寛ら歩騎余万が平隴戌を攻めたので、斛律光はこれを迎えて汾水に戦い、大いにこれを破った。韋孝寛はのちに斛律光を除かぬ限り北周の覇業ならぬとして謀略を駆使、ついにこれを斉廷の手で殺させるという斛律光最大の敵手なのであるが、このとき両者はそれを知らない。ともかく、斛律光は周軍一千余を斬り、中山郡公に進められる。食邑は一万戸。大軍を返還するも詔によって再び出征、歩騎五万で平陽道に出て、姚襄、白亭などの城戌を攻め、ことごとく攻め下し、城主、儀同、大都督ら九人を俘虜とし、捕縛したものは数千に上った。また特進を受け長楽郡公とされる。同月、北周は柱国の?干広略を派遣して宜陽を囲む。斛律光は歩騎五万を率いて救援にはせ参じ、城下で大戦の末、逆に北周の建安など四城戌を奪い取り、千余人を捕獲して還る。大軍がまだ?都に還る前に皇帝は命令を下してこれを解散させた。これは斛律光の大きくなりすぎた勲功を警戒したと見るべきであろう。事実斛律光は軍の解散に対して恩徳が施されず、密通の疑いが(そんな事実はないが)自分にかかっているのではないかと恐れて、軍を解散させずに?都まで進んでいる。朝廷が使者を派遣して命令の遅延をとがめるとようやくにして軍を還した。その後紫陌、光に営使として派遣される。帝は斛律光の部隊が已に軍営に入っていると聞いて心に甚だこれを憎み、急ぎ舎人を遣わして斛律光の入見を追う、とあり、斛律光と北斉朝廷の齟齬はここに始まる。しかるのち斛律光は部隊の兵を労ってこれを解散させた。再び左丞相を拝し、また別に清河郡公に封ぜられた。憎しみはあってもすぐに逮捕して牢屋にブチ込んで○問、処刑なんてことは行われないのがこの時代救いではある。まあしばらく間を置いて処刑、というのはよくあることなわけだが。斛律光の側にも国家最大の功臣と言うおごりが見え始め、互いの擦れ違いは日増しに深く大きなものになって行く。

斛律光は入朝に際して、朝堂に御簾を垂れることをゆるされる。祖?がこれを知らずに馬に乗って斛律光の前を走り抜けると、斛律光は怒りをあらわにして手近の人に曰く「この人はついに我が前を犯した!」と。のち祖?は宮内から省かれ、声高に斛律光の驕慢を鳴らす。斛律光は多所でこれを聞き、ふたたび怒りを発したというがこの場合祖?が正しかろう。知らずに犯した罪なら許すのが大度というものだろうに、この時期の斛律光にはそれがない。ともかく祖?は斛律光の態度を聞いてまた憤懣やるかたなく、斛律光の奴婢を賄賂で買収して曰く「相王、孝徴(祖?の字)に瞋るや?」と問えば応じて曰く「あなたたちが在朝して以来、相王は毎晩膝を抱えて言っておられます。“盲人たちがある限り、この国は必ず破れるであろう!”と。」穆堤婆が斛律光の庶娘を妻にと求めたが、斛律光はかたくなに拒んだ。帝は穆堤婆に晋陽の田地を賜ったが、斛律光はそれにすらケチをつけて「この田は神武帝以来、常に種を発芽させ、馬数千を養うに足ります。今は寇難の時、堤婆ごときのために軍務を欠くのですか?」と。これより祖、穆両氏は斛律光に深い恨みを抱く。

周の将軍・韋孝寛は斛律光の英雄を忌み、歌を作ってこの謡言をお得意のスパイ網を使って?都に流した。曰く「百升上天に昇り、明月長安を照らす(百姓の上に登極する皇帝は、明月と言い長安を照らす)」あるいは「高山推さずして自ら崩れる、斛樹扶けなくして自ら立つ(高氏の天下自壊して、斛は助けなくして自立するであろう)」祖?はこれらの童謡に言葉をつなげ、「盲目の老翁は背に大斧を上下させ、饒舌の老婆も語るを得ず」と。これらの童謡を城中の子供たちに教え、ひろめさせた。穆堤婆はこれを聞き、その母令萱に告訴。令萱は饒舌を以て周囲の女たちから罵られており、盲目の翁というのはまさに祖?のことであったが、韋孝寛の作に比べわかりづらく取るに足らん謡であると断ぜざるをえない。やはり詩賦の才が違うのだろう。ともかくも祖、穆の両家は共同して謀議し、皇帝に告訴し、「斛律家がいくら代の全部族の大将であり、明月また北周を震わし、豊楽から突厥を討ってすなわち威光あり、その娘は皇后、公主であるといっても、今世に流行る謡が明月の野心を現しております。」と。皇帝は斛律光拿捕のため韓長鸞を遣わしたが、韓長鸞は証拠不十分で斛律光を逮捕できなかった。祖?はまた独り皇帝に時間を取らせ、ただ一人何洪珍をそばに置いた。皇帝は言う。「先日汝が彙めた報せは、もとより打算からの行動であろう。韓長鸞が言うに斛律光謀反の事実はない」祖?はこの正当性に当たりえず、かわって何洪珍が口を開くに「もし今は翻意がなくとも、もしかしたら地下でひそかに活動を起こしてい連中がるかもしれません。万一それが露見した場合、いかがなされますか?」と。帝曰く「洪珍の言うこと、尤もである」しかし事ここに至っていまだ決せず。たまたま丞相府の佐・封士譲が密告して「斛律光は前に西を討った還り、勅命で兵を放つべきところを聞かず、全軍で京師に逼りました。まさしく行動不軌、事果さずして止むものの、家には弩甲が蔵され、奴僕は数千、ことごとに使いして豊楽、武都と連絡し、陰謀往来であります。もし早晩これを討たずば、恐るべきこと測るべからず」と言ったので、そう言えば「軍を以て京師に逼る」という前科があったなと皇帝もここで斛律光への疑義を抱く。何洪珍のいう所に依れば「人心とはまさに恐るべし、わたくしは前に斛律光が兵を帯びて京師に逼った時から疑いを抱いておりました。果たしてまさにそのとおりではありませんか!」と。皇帝は性格怯懦であり、心に大変の発生が刻み込まれるとなると何洪珍の言葉に完全に惑わされる。祖?は乗っかって曰く「まさしく経営の地より呼び戻しましょう。彼が自身にかかった疑いに肯んずなら恐れず来るはず、その時は駿馬の一頭でも与えてお茶を濁せばよろしい。しかし彼が朝廷の恩に肯んぜぬならば入室して逮捕すべきであります」皇帝はこれを聞き彼らの話を了解。まもなく斛律光は懼れずやってきたが、凉風堂に引き込まれて劉桃枝に急襲され、殺害された。時に享年五十八歳。詔が下り、斛律光は謀反を企み、国法に伏さなかったという罪で一門全員が誅殺された。のちまた詔が下り、九族誅戮とされる。愚帝と昏臣により殺戮された斛律光だが、その死には彼自身の傲慢にも十分な原因があった。

斛律光は性言葉少なにして剛健、急変を好み、その統御するところの部下には厳、彼の督するところの兵は、みな杖刑を恐れたというからよほど厳しかったかサディストであったのか。常に鞭撻の士を左右に控えさせ、一般人でも彼の暴虐には困らされたらしい。十七歳で軍に入って以来、闘っては一度の敗北を喫することもなく、隣敵は彼を畏れ恐れて忌み憚った。その罪により屠殺されたとき、斉の朝野はこれを痛惜したが、周武帝は斛律光の死を大いに喜び、境内に大赦を出したほどである。のち?都を蹂躙した際、彼に上柱国、崇国公を追贈して詔に曰く、「この人ある限り、朕は?の土を踏めなかったであろう!」と。

………………

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遠蛮亭 2023/09/02 21:08

23-09-02.お絵かき(お狐様、VenusBlood)+中国史翻訳(西漢_衛青)

こんばんわです!

今日はゲーム制作進捗ほとんどありません……。ノベプラさんにくろてん3幕、pixivさんにくろてんリライトをそれぞれ連載はじめて、昼前に「お狐様」のイベント絵を一枚修正、そのあとお昼からは漢籍翻訳をやりまして、夕方からエロ絵を描いて今pixivさんにあげてきたところです。

これが本日修正したイベントイラスト。辰馬くんがあまりにもブサイクになっててこれでは魅力値ゼロだと思ったので線修正だけでなく全部描き直し。初音もけっこう手直ししました。修正できる限り修正する、のつもりでしたがもはや全部修正ですね。すでに大半の手直しが終わってるので修正作業、それほどつらいことはありませんでした。

で、翻訳。「108位中国千古将帥」という本がありまして、これを底本にして翻訳するわけですが、本日は西漢の衛青でした。こんな感じ。

【人生】
 衛青は西漢の名将である。字は仲卿、河東平陽のひと。もとは平陽公主に仕える家奴だったがのち漢の武帝の寵遇を受け、大将軍、長平侯に。武帝の元朔二年(前127)、衛青は軍を率いて大いに匈奴を破り、河套地区を漢の版図に入れた。元狩四年には霍去病と共同で匈奴の主力を撃破する。彼は前後七回にわたって塞外に出撃し、匈奴と隣接する諸郡を安定させ、また西漢開闢以来の匈奴の脅威を取り除いた。大司馬と大将軍を兼ね、元封五年(前106)逝去。

【簡評】
 衛青は生涯に七回塞外にでて匈奴と戦い、敵中に深入りしつつ奇兵と正兵を兼用し、その号令は厳にして士卒と甘苦をともにし、作戦に当たっては先陣を切って奮戦し、将士みなかれのために力を致そうと願った。またその処世は慎ましやかであり、法を奉って職分を越えず。これ一代の将帥たるものの模範であった。

【故事】
 衛青は私生児である。母は平陽公主(漢の武帝の姉)の女僕であり、衛という男との間に一男三女をもうけた。衛某の死後、母は県吏の鄭李と密通し、そして生まれたのが衛青であった。衛青は少年時代、父親からすこぶる疎まれ、終日山で放羊して過ごした。やや長じて鄭家の奴○として使われ、いいように母の身の回りの世話に酷使された。彼は鄭家に対して恨みこそあれど親情などなく、このとき鄭姓を衛姓に戻した。

 ある説によれば衛青には幼時から貴人の相があったという。あるとき、衛青がひとにつき従って甘泉宮に詣でた時、人相見をよくするひとりの囚人が「あなたは今困窮しているが、将来は貴人となるだろう。官につき、王侯に封ぜられるだろう」といった。ただしこれは伝説であって、想像の域を出ない。衛青が幼くして異常の人というべき気質を有していたことを喧伝するためのでっち上げかもしれない。衛青は成長してのち母の主人であった平陽公主にまみえ、公主は衛青の相貌堂々を見て自分の騎奴としたので、外出の都度公主に随行した。衛青はここに至ってようやくある程度の文化知識を学ぶ機会を得、また謹んで上流階級の礼節を学んだ。

 衛青の雄飛のきっかけを作ったのは彼の異母姉・衛子夫である。武帝の健元二年(前139)春、衛子夫は選抜されて美人として宮中に入り、衛青は姉の引き立てで召されて建章宮に上った。これが衛青の人生における最大の転機であったことは疑いない。

 衛子夫は宮中にはいるやほどなく妊娠した。陳皇后は武帝のために一男半女も生むこと能わず、武帝の寵愛は衛子夫に移ったため、陳皇后はひどい嫉妬を衛子夫に向けた。しかし衛子夫は無事に男子を出産し、彼が太子としてたてられた。母は子をもって貴し、彼女の地位は出産によって陳皇后を凌ぐに至る。衛子夫は正式に武帝の寵幸を受けた。陳皇后はもはや彼女を害することができなくなったが、そうなると今度は衛青に矛先を向け、手下に命じて襲わせた。衛青は死を覚悟したが、これを聞き知った朋友・公孫敖にすんでのところで助けられた。公孫敖は衛青奪回と同時に人をやって武帝に報告し、武帝はこれを聞いて大いに怒る。今後襲われることのないようすぐに衛青に建章宮監兼侍中の官を与え、公孫敖および彼とともに衛青を救った仲間たちも尊貴に上った。まもなく武帝は正式に衛子夫を夫人に立て、それに伴って衛青は大中大夫となる。衛青の人生におけるもっとも輝かしい瞬間は七たび長城を越えて塞外に長躯したことで疑いないが、ここに見るように、その始まりは姉の後光によるものだった。

 武帝の元光六年(前129)、匈奴が兵を興して南下、その先鋒が上谷を襲う。このとき武帝は衛青を車騎将軍に任じ、匈奴を迎撃させた。ここから衛青の戎馬(=軍人生活)に捧げた人生が始まる。

 この年、衛青と太僕、軽軍将軍の公孫賀、大中太夫、騎将軍の公孫敖、衛尉、驍騎将軍の李広はそれぞれ1万の兵を領し、それぞれ別路上谷を目指して雲中、代郡、雁門から出発した。衛青は竜城にあって初戦に捷ちを告げ、敵を殺すこと数百。しかしほかの三路のうち二路は敗北(公孫敖が死者7000人を出し、李広は生け捕りに遭った)し、一路(公孫賀)は功なくして還り、 四万の鉄騎は2万3000までへらされてしまった。

 衛青の最初の出征はこうして失敗に終わったが、個人的にはこれは幸運であった。漢軍が損失惨憺たるありさまのなか、衛青だけがほとんど損害を受けることなく勝利を飾って突出した成果を上げたのだから。衛青には第一等の爵位——関内侯が授けられた。同時に、これまでの衛青は皇の国戚としての官であるという侮りを受けたが、自らの武功をもって彼はその功業をひとびとに認めさせた。

 いちどは追い払われた匈奴だが、その報復は迅速かつ残忍に行われた。元朔二年(前127)秋、匈奴は再び侵入すると遼西の太守を殺し、漁陽の民二千余を虜囚とした。武帝は匈奴がもっとも恐れる飛将軍・李広を右北平に鎮守させたが、李広を畏れる匈奴はこれを避けて雁門関に入り、漢の北辺を脅かした。武帝は再度衛青を出征させ、同時に李息を代郡から出兵させた。衛青は騎兵3万を率いて長躯進軍し、速やかに前線に到達すると身を士卒に先んじて奮戦、これを見た将士はことさら死戦し、斬獲数千をあげて匈奴を大いに破り、敗走させる。

 衛青の二度目の戦いは大勝利で終わる。この一年は衛氏の家族にとって記念的な意義をもつ年になった。衛子夫は武帝との間の太子劉据の陰をもって皇后となり、衛青は外戚としての地位をさらに確固たるものにした。

 元朔二年(前127)、匈奴の酋長たちは大兵力を結集、再度上谷、漁陽を攻める。武帝は「実を避けて虚を撃つ」に決し、みたび衛青を派遣。衛青は大軍をもって匈奴の盤踞する河南を攻めた。この戦いは西漢と匈奴の最初の大戦役といわれる。衛青は4万を率いて雲中を出発、迂回側撃戦術を採用して匈奴の後方にまわり、高闕を占領して河南の匈奴王、白羊王と楼煩王、および単于王の連携を断ち切る。しかるのちに衛青はまた精兵で南下し、朧西に至って白羊王、桜煩王を包囲撃滅。形勢不利と見た白羊、桜煩の両王は倉皇として逃走する。漢軍はここで河套地域を制圧、水豊かで土地の越えた肥沃なこの一帯はまた険要の地でもあり、武帝は衛青に命じて朔方城を建てさせ、朔方郡と五原郡を置いた。内地の民10万余が移住してここに住まい、衛青は彼らを労働力に秦の蒙恬が築いた辺塞を修復、川沿いの防御を強化する。このようにただ匈奴騎兵を長安から威嚇するのみならず、一歩踏み込んで匈奴の前線基地に反撃を加えた。功により長平侯。

 衛青の三度の勝利にもかかわらず、殺した敵の数は多くない。しかしこの戦勝は大きな意義があった。ひとつには匈奴の作戦方式の探査であり、もうひとつが河南の奪取及び朔方城の修建である。朔方城は西方にある匈奴に打撃を与える前線基地となった。こうして衛青はこの先の漢朝の勝利、その系譜の基を築いていく。

 匈奴の酋長たちは河南での敗北から、関心を朔方に切り替えた。この数年内しばしば出兵するが、しかしすべて漢軍に撃退され、敗走する。

 元朔5年(前124)春、衛青は3万を率いて高闕を出兵、同時に李息、張次公らの軍を統べ、総兵力10数万で匈奴を撃つ。これが衛青四度目の匈奴出征であり、彼の個人的名声を高める意味では最高潮に達する戦役だった。この作戦における標的は匈奴の左賢王。匈奴社会の階級区分は単于を頂点として、左右の賢王、左右の谷蠡王、左右の大将、左右の大都尉、左右の大当戸、左右の骨都侯と続く。歴史上右は西方を指し、用兵の指向性からも西を目指す衛青は右賢王とその麾下の勢力に標的を定めた。

 右賢王は漢軍を軽視し、漢兵は遠く離れたところにあって自分の領土まで到達することは不可能であると認識、警戒を放棄した。衛青は急行すること600~700里、右賢王の幕舎に夜襲をかけ、営を包囲する。そのとき右賢王は帳の中にあって美女と美酒に溺れていたが、状況よろしからずと見て愛妾を連れ、精兵100騎で囲みを突破し逃げ去った。衛青は右賢王の副将10余人を捕え、男女1万5000人と牧畜数万を得て帰る。

 武帝はおおいに悦び、衛青が班師まだ至らずのところに、塞上まで迎えの使者をよこした。ここに衛青を大将軍に封じ、諸将の統率者として上位に置いて名義上、大漢帝国の軍中における第一人者に任じた。衛青の三人の息子も武帝の引き立てを受け、列侯に封ぜられる。衛青という人物はひじょうに謙虚であり、これを再三固辞したが、まさに皇帝と諸将に推されて栄誉に浴した。さらに武帝は衛青の作戦に随行した公孫敖らにも褒賞を与えた。衛青はまごころから暇を返上し、皇帝の面前で甘苦をともにした将士のもとに帰ることを請うた。これこそが衛青の名将たるゆえんであると言われる。

 数回の激突を経て、なお匈奴の猖獗は続く。元朔6年(前123)春、衛青は大将軍となってのち最初の出征に出て、斬首1万9000余という非凡な成績をあげる。この戦役で霍去病が歴史の表舞台に正式に登場し、彼は精騎800で参戦、敵兵2000を殲滅するという輝かしい戦果をあげる。これより以降、霍去病の輝さに衛青の戦果はややかすむかに見える。衛青は一連の作戦中、蘇建が軍を失った問題を処理した。
 蘇建と趙信は3000余の兵で単于の大軍に遭遇、苦戦すること一晩、兵は死に将は尽きた。趙信はもと胡人で匈奴の誘引を受けて単于のもとに走ったが、蘇建は全軍覆滅して単身漢の軍営に逃げ帰った。この蘇建の処遇をどうするかで軍中の意見は割れ、衛青は自らに裁量の権があるといえども武将をみだりに殺すべきではないといい、蘇建を囚車に乗せて長安の武帝のもとに護送した。武帝は蘇建を許し、贖金を納付させて平民に落とした。

 衛青が第一線で活躍した最後の戦いは漠北の戦いである。
 武帝の元狩4年(前119)、漢王朝は匈奴と雌雄を決する気が熟したと判断し、武帝は全国の財力と物力を結集して衛青と霍去病にそれぞれ5万の騎兵を与え、それぞれ漠北に進軍させて匈奴の主力を殲滅するよう命じた。

 この戦役において、衛青と霍去病の身分はすでに対等である。出征にあたっての布陣からしても、武帝はあきらかに霍去病に肩入れし、衛青に主役を譲るよう暗に迫った。のち、情報の失誤が露見すると武帝は戦略を調整、衛青に主役を渡して霍去病を困難から遠ざけようとしている。

 衛青は前将軍・李広、左将軍・公孫贅、右将軍・趙食其、後将軍・曹襄ら四将をしたがえて定襄から出兵、李広と趙食其に命じて二人の軍を合併させ、右翼から進ませて敵を包囲させると同時に、自らは公孫敖、曹襄を従えて敵の正面、単于の駐屯地を直撃する。

 漢の降将・趙信は単于・伊稚斜に策を献じて「漢軍は無道にして害をなし、まさに砂漠を越えんとしておりますが、漢人は熱砂にあえぎ馬は乏しく、われらは逸を以て労を待つべし、さすれば敵どもを俘虜とすることが叶いましょう」単于はすべての物資を漠北に移動させ、漢兵を待った。

 衛青の条件は困難だった。まず先んじて匈奴の主力を捕捉しなくてはならないが、戦闘力に優れた部隊はすべて霍去病に連れていかれており、残った兵力も4人の偏将に分かち与えなければならない。さらに趙食其と李広の部隊は戦場に間に合わず、さらに天の時と地の利は匈奴の側にあって「逸を以て労を待」たれている。千里を離れて匈奴の主力を撃つに予定の戦場へ正確に到達することは不可能に近く、衛青はいまだかつてない困難な局面に直面した。

 逆境に激発した衛青はむしろ静かに沈潜し、厳に陣を敷いて匈奴の軍を待った。衛青は危機に臨んで怖れるところなく、彼の命令に部隊は手甲と兵車を用いて柵営を築き、堅固な防衛線を形成した。歩兵をもって弓手とするのは防戦の基礎であり、また騎兵を方陣の前衛に並べ、さらに両翼に予備の騎兵を置く。もって完成した陣をもって戦闘開始し、衛青はまず騎兵5000をもって匈奴の陣に冲撃、匈奴は1万でこれを迎撃する。時間の経過とともに匈奴は逐次援軍を投入、漢軍は敵が包囲の「袋」に入ったとみるや軍の収縮を開始し、匈奴の出入りする袋の入り口を両翼から包囲して叩く。戦闘は黄昏まで続き、このとき突如大風が吹いて砂礫舞い散る。局面は一気に混乱に陥ったが、衛青は鋭敏にここぞ反撃の機と感じ取った。両翼の騎兵隊に突撃を命じ、包囲を完成させる。単于は匈奴に不利と見ておそれ、逃亡を図り、数百騎で囲みを突いて西北の方角に走る。衛青はこれを追うこと200里、匈奴はただ腰兵糧のみで壊散、全軍退却し、逃げ切れない味方に火をつけ焼き殺して逃げた。衛青は匈奴の拠点をことごとく粉砕し、殲滅する。

この一戦で衛青があげた首級は1万9000余だが、より重要なことは匈奴の主力に重創を負わせたことである。これ以降、漢と匈奴の実力比、その天秤は漢王朝へと傾く。

 漠北の戦いよりのち、衛青は大司馬となって霍去病の上位に置かれる。しかしこれ以後衛青が実戦の場に出されることはなかった。

 のち、衛青は寡婦となっていた平陽公主を娶る。武帝の親任はより重きを加え、はなはだ寵信を受けた。ただし衛青はひととなり謙恭仁和、生活ぶり恬淡として派手さがなく、派手好みの武帝の寵愛は日々霍去病のほうへと移る。大将軍門下から霍去病門下へと奔る将軍も非常に多かった。衛青の門前はしだいに零落していったが彼は誰を恨むこともなく、これも人の情の常と甘んじて平静に日々を送った。

 衛青は恬淡とした人柄と赫赫たる戦功で重用されたのであって、のち衛皇后が廃され武帝の彼に対する寵愛が失われたあとも彼の公人としての立場に何らの影響もなかった。

 武帝の元封5年(前106)、大司馬大将軍衛青逝去。諡は烈侯。武帝の命により武帝の陵墓・茂陵の東、廬山に墳墓と像を建てられ、その赫赫たる戦功に彩られた一生を象られた。

以上ここまで。衛青って非常に恭仁なひとで甥っ子の霍去病に比べてはるかに聖人様なのですが、武帝のアホは霍去病の方が派手で好き。やっぱり地味な人って魅力に欠けるのかなぁとか思うのです。霍去病とかどう考えてもチンピラだし、間違いなくヤリチンのクズですよ? いやまあその辺どうでもいいんですが。

そして夕方からのお絵描き。

VenusBlood-ABYSS-、聖女セレナ・オペコット。嫁にいただいたのはVBHのルセリなんですが、ルセリを描くのはすこし憚られるところがあるのです。なのでVBのイラスト描くときはもっぱらセレナ。

以上でした! ここまで閲読いただき、ありがとうございます!

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遠蛮亭 2023/02/17 20:35

23-02-17.「日輪宮」イベ絵とライブドアブログに名将録4名

こんばんわです!

今日も体調不良……なんと2時ごろに起きていられず、2時間ほど昼利してしまうていたらく。この大変な時期に体調が悪いとか言ってられないはずなんですが、いかんともしがたく……。

そておいて今日やったことですが、まず朝言いましたスキル作り。これが3~40個しか進まず、まだ全体500分の300ぐらい。このスキルにはこのステートとか、プラグイン機能のためにメモ記述とかやってるとどうにもなかなか、進みません。

そして5時から昨日の晦日さんイラストを塗りましたのがこちら。

メイドたるものガーターベルトとストッキング必須な気がしますが、そのへんは寧々さんがガーターベルト装備なのでいいかな、と。とにかくアングルがなれない構図なのでえらい苦労しました。

そしてストックしてある中華名将録のテキストを4つ、ライブドアブログに放出。4人とも五代の名将です。

李克用
https://enban-no-toraware.blog.jp/archives/18959897.html
李存孝
https://enban-no-toraware.blog.jp/archives/18959947.html
周徳威
https://enban-no-toraware.blog.jp/archives/18959989.html
郭崇韜
https://enban-no-toraware.blog.jp/archives/18960056.html

以上になります。今日はこんなところで、それではです!

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遠蛮亭 2023/02/11 10:50

23-02-11.「日輪宮」イベント下絵1枚+「百将伝」翻訳着手

おはようございます! ちょっと体調崩して朝の間倒れてましたが。

昨日は大したことをしていません。いや、ゲーム制作外のことでいうと中国の「百将伝」翻訳に着手して100人分の3人(姜子牙、慕容恪、王忠嗣)を訳したとかあるのですが、くろてんとは関係ない(作中の軍略とか、そういう意味では非常に関連してますが)ですからね……。とりあえず1人、ここに上げてみましょうか。

62.慕容恪~静をもって動を制す
慕容恪は字を元恭といい、慕容皝の子である。慕容恪は落ち着きがあって度量が広く、胸には常々城府のこと(国家経略のこと)があった。15歳にして8尺7寸、体貌はきわめて立派であり、雄々しく毅く、粛然と整っていた。口を開けば往々にして国を治めるすべと天下を平らげる業であり、つねづね謀略と計策を出して国家に貢献した。慕容恪は遼東に鎮守すると非常な威力を発揮し、高句麗の兵は決して国境を騒がせることができなかった。

慕容皝は臨終を前にして慕容雋に「今、中原は統一を見ず、まさに功業のたてどき。慕容恪は智勇双全、かならず重任に応えるであろう。」慕容雋は即位すると慕容恪に重きを加え、慕容恪はそれに答えてしばしば戦功を立てたので、太原王。慕容雋の病が重くなると慕容評のことを嘱託された。慕容愇が帝を称すると慕容恪は朝中の大権を総覧した。慕容雋歿後、東晋王朝はみな中原を回復すべしと息巻いたが、桓温は「慕容恪が生きている、かれはまったく(晋にとって)心腹の大患である。」と廷臣たちを説いた。

慕容根が殺された後、朝廷の内外はみな恐れ已まず。しかし慕容恪の挙措は変わらず、神色自若。朝廷に出入りするにも随従は一人しか連れなかった。あるひとが慕容恪に身の安全を注意するよう勧めたが、慕容恪は「あなたたちが危うい時、わたしはさらに鎮定を保持しておかねばならない。いかでか我が魂が恐れて定まらないようなことがあれば、あなたたちはいったい誰を頼りにすればいいだろうか?」ひとびとはこういわれて納得し、引き下がった。

慕容恪はだれに対しても胸襟を開き、快活であり、たやすく人を近づけ、人を任ずるに才覚をもってした。大権を掌握しても決して専権することなく、つねづね朝臣たちと諮問してよく彼らの論を聞いた。そして朝廷から帰って私人となると政治を忘れて心身を養った。慕容恪が洛陽を攻囲すると、前秦は震撼した。苻堅は自ら潼関の守備に就いた。慕容恪の軍が撤退すると苻堅は一気に反撃に出た。慕容恪は兵を帯びるも威厳を尊ばず、恩信の方法は軍心を得るのみと確信していた。彼が重んじるところは大略のみであって将士たちの細枝末節にもこだわらなかった。軍士が法を○すと慕容恪はひそかにその罪を免減してやったので彼らは勇憤して敵を斬り殺し全軍を震撼させた。慕容恪の軍は陣形などばらばらであったが、敵軍いたると百出、防御はなはだ厳重であり、逆襲してこれを打ち破った。

臨終のとき、慕容恪は「わたしが聞くに、温情に応えるには、推薦された人を才能に応じて活かさなければならないと。呉王は文武兼備し、管仲や蕭何の風あり。陛下がもしよく彼を用いられれば、国家は安定に向かうでしょう。もし、さにあらずば、隣国から寇敵に襲われ、都は欲望に沈むことでしょう。」言い終わって、慕容恪は世を去った。

<孫子兵法・謀攻>篇に曰く、「輔周は則ちかならず国を強くす。」将帥が周密に君主を補佐すれば、国は必然、盛強となる。慕容恪存命時、桓温はまさにかれは(東晋にとって)心中の大患であるといい、また<孫子兵法・行軍>篇に曰く「卒、いまだ罰につかざれば、すなわち服さず。」士卒の信頼を得るために軽率な処罰を行う将は多いが、それでは士兵の反抗を避けられない。慕容恪は兵を領して敵を打つにあたり、兵を復させるに恩信をもってして威厳をもってしなかった。

こんな感じで1人1人に関しての記述はそれほど長くありません。これを後日1冊にまとめて出版するかなと思ってます。

で、昨日のお絵描きですが……、こちらは下書きが1枚のみ。

沼島寧々さん和姦イベ①。あまみその御景先輩イベントを手本に。ホント和姦イベントはクロシェットからばっかりお手本にしてます。寧々さんは雫おねーちゃんの旧友、名雪さんは瑞穂さんの友人ということで、関係イベント(3P)とかも考えてますがそのあたりまだ未定。瑞穂さんの場合はフミハウとの今後の友情もあるのでそっちも考えないといけません。

それでは、以上でした!

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