遠蛮亭 2022/11/30 19:03

22-11-30.中国史-李克用(五代)

おつかれさまです!

翻訳の方をもう一個。中国史上、騎兵の突撃力ということならこのひとはかなり屈指だろうかなと思います。実のところ漢人ではなくて沙陀族ですが。Twitterにも書きましたけども、朱全忠が悪でこのひとが善人、とかいうわけではないのです。現実の戦争に善悪なんてものはないし、今あってる胸糞悪い事柄についてもですが、戦争があってる時期には当事者はおろか周囲で冷静ぶってる人々にも判断などできません。戦争仕掛けたほうが悪いとか国際法に照らせば明瞭とかどうとか、あの辺の議論は戦争の本質をまったく理解してないと思います。国を動かすのは民衆ではなくてトップにいる個人であって、その気分や機嫌を損ねたせいで戦争が起こることって多い…むしろそれ以外の原因が少ないぐらいですが。なので喧嘩売ってる強国が絶対悪くて、国力が少なくて防衛に徹してる小国は絶対に正義だなどとはまったく思えないところです。もちろん大国の侵略が正しくて小国が間違ってるというつもりもないですが、歴史を読めばあの侵略の原因と大国の言い分というのは理解できるので。…ってこれ言うと怒られそうではありますが。現実として起こっていることの是非は確かとして、その是非がどうして引き起こされたか民衆レベルの視点に降りてくるのって戦争が終わって数十年、数百年後なので、今の現実の部分を忘れずに記憶しておきたいと思います。人間ってすぐに忘れますからね。

さておいて李克用も悪いんだよという話ですが、略奪の度が激しいという点古代中国史ナンバー1でしょう、この人の鴉軍。「沙陀の通った後は草も生えぬ」といわれた具合ですからね、イナゴみたいなもんです。

………………
李克用(り・こくよう。八五五-九〇七)
 李克用、本姓は朱邪、もとは隴右金城の人である。先祖の朱邪抜野は唐太宗に随い高麗、薛延陀の討伐に功を建て、金方道副都護を授かる。太宗は北庭に都督府を置くとその地・大沙堆に因んで沙陀都督府と名付け、高宗のとき朱邪抜野は沙陀都督とされる。これ以来沙陀を部族の名とした。祖父・朱邪執宜は徳宗のとき陰山府都督、憲宗のとき仮北行営招撫使。父・朱邪赤心は懿宗の咸通中年(866頃)龐勛の乱平定の功により金吾上将軍を授かり、李の姓と国昌の名を賜る。李克用は大中十年(856)に神武川で生まれ、六、七歳の時にはすでに騎射を良くし、十三歳の時空を飛ぶ二羽の鳥を見て矢を放ち、両発両中であった。十五歳で父に随い出征し、戦場で冲撃陣を落としてその勇猛果敢なことがあまりに非凡であったことから軍中に“飛虎児”と称され、戦後まもなく中牙将に。かつて韃靼人と遊んで腕比べし、韃靼人が空を飛ぶ大鳥を指して「あなたはよく一箭であの大鳥を落とせますかな?」と問われたので、李克用は連射して二つの大鳥を落し、境内にその名を響き渡らせた。成年して雲中守提使。

 乾符三年(876)、僖宗が段楚文を雲州防御使に任じた。当時農業は飢饉の発生により潰滅的ダメージを蒙っており、段楚文は軍糧を削減したので、雲州の将士はみな彼に対して恨みを持つに至った。李克用は雲中防督辺将であり、彼の部下も再三軍糧が足りないと訴上して、口々に不満を並べた。防辺軍校の程懐素、王行審、蓋寓、王存璋、薛鉄山、康君立らは一斉に李克用を擁立して雲州に進入、彼を将士の代表として段楚文に軍人の飢餓の実情を陳述させ、食糧の増量を請求する。周りを囲む駐留軍の雲中将士はこれに一斉して行動し、雲州に到り衆万余を聚めて、斗鶏台に在って強烈に軍糧問題解決を請うた。段楚文と李克用は代表として談判し、まず双方の解釈をなしてから、とひきのばそうとしたので、代表らはこの物を軍法に照らして処断すべしということになり、一様に激怒した大衆を宥めるため、彼を城外に引き出し軍糧横領のかどで斬首に処した。将士大衆は李克用を後任の防御使にということで一致し、朝廷に官爵を授与さるべく上奏するが、朝中の将相は朝廷の任じた官者を斬るとは造反行為と認じ、職を授与するどころではなく、軍を編成してこれを討伐すべしと討伐の準備を進めた。李克用は防御留後を自称して雲州を拠守し、反逆行動もやむなしとの措置を取る。

 乾布五年(878)、農民起義軍の領袖、黄巣はその部を率いて長江を南に渡り、勢力を迅速に拡大して、国内の局勢は危急を告げた。僖宗は李克用を大同軍節度使、検校工部尚書に任じてその心を穏当に保たせ、叛乱と合致しないよう手を打つ。当時李克用は父親に任ぜられて振武軍節度使を名乗ったが、吐谷渾と戦って敗北。李克用は辺軍を集め彼の父を頼って雲州に到ったが、雲州の守将は堅く拒んで門を開かず。李克用は怒り、自ら帯びる数人の将兵とともに蔚、朔二州を取り、兵馬を招いて三千余人を集め、神武川の新城に進駐する。吐谷渾はその兵力の寡弱であることから昼夜これを囲んだが、李克用は兄弟三人とともに四面これに応じ、父・李国昌も蔚州から兵を帯びて到来したので吐谷渾は退走した。ここにおいて李克用の軍威は大いに震う。朝廷は李克用がクーデターを起こしたとして吐谷渾の将軍赫連鐸に大同軍節度使を授け、もってこれを鎮圧させようとする。

李克用親子が蔚州を占拠した後、朝廷は各路の兵を招集し連合してこれを討たんとする。最初の年の冬、天から大雪降り、南方の士卒は寒さに耐えられず。しかるに李克用とその将兵はみな北方人なので寒冷を懼れず、かくして官軍は大敗し、総指揮官の北面招討使・李釣は射殺される。翌年、僖宗はまた元帥・李琢に兵数万を授けて蔚州を攻めさせ、李克用親子は敗北、その領する部族を率いて韃靼部に亡命する。韃靼部に住まうことになって数か月、吐谷渾の赫連鐸が人を派遣して秘密裏に韃靼部を調査し、賄賂を使って李克用と韃靼の間を離間せしめようとする。李克用は発覚後も泰然自若、韃靼貴族と将官をともなって狩りに出、門から百歩の外に馬を奔らせこれを射て、ある時は馬に括りつけた鞭を射て、またあるときは先のとがった矢で標的を射て、皆外すことがなく、これにより韃靼部の人はみな彼に敬服し、あえて裏切りの挙動を取ることがなかった。まもなく、黄巣が南方より北上して江淮地帯に打って出たという消息を聞き、李克用は牛を殺し酒を飲んで韃靼の酋長と宴を張り、これ痛快事よと。李克用曰く「我ら親子を奸臣の讒言よって迫害し、ここに落ち延びさせ、使いを致して報国させるの門なくば、忠を献じる路なし。今聞くに黄巣北上し、江淮を侵犯し、将来必ず中原の一代災禍となろう。晨に皇帝が我を赦し罪なしとして兵馬を集めさせるを許すのなら、我はあなた方とともに挙兵し南進して天下を定むものを。これは我が希望であるが、人生世に在り、多少の年に非ず、いかでか沙堆の間に老死するや! 願わくば諸君と報国の努力できんことを!」韃靼人はこれより彼がここにとどまる意思なしと知り、猶友好を結び、彼と行動をともにすることに決した。

広明元年(880)冬、黄巣は進軍してついに潼関を衝く。僖宗は河東監軍・陳景思を北起軍使とし、黄巣の軍を阻ませる。黄巣はまもなく長安に進み、僖宗は逃げて蜀中に避難する。陳景思と李友金は代北から沙陀各部の兵五千騎を帯びて長安に赴く。李友金は李克用の叔父であり、沙陀の兵を帯びて雁門に駐留した。刺史・瞿正は三万の精兵を招募し、惇県(惇は正しくは山偏)の西に軍営を建てた。この新兵はみな北方の大部族から徴収されたもので、驍勇剽悍ではあるが軍規軍法を守らないこと甚だしかった。瞿正と李友金はこれを管理しえず、李友金は陳景思に建義を提出して「衆人を聚めて大事を辧ずるに、必須であるのは威信あり名望ある将領であります。大家には残念ながら領導の才なく、しかるに今我らは幾万の兵を招募したといえども一個の好将領なし。すなわち出戦せば、勝ちを獲て功を建てることかなわずかな」陳景思はその慮んぱかるところなきを以て「良く兵を帯びてここに些かの功を建てうる将領とは誰ぞや?」と問えば、李友金答えて「我が兄親子は去る年朝廷に罪を獲、今は韃靼に身を寄せております。彼らは皆勇あり謀あり、北方の人士みな佩服しており、しかるに朝廷に奏してこれに尽力させるべく、彼らの罪を赦し北より帰らせんことを。これに新兵を管理させれば、代北の人皆集い呼応し、黄巣の平定など問題にもならないでしょう」陳景思はこの建議を容れてすぐさま朝廷に上奏した。僖宗は答えて李克用に雁門節度使を授け、あわせて彼に命じ自らの部下を率いて黄巣を討伐せよと命ず。李克用は韃靼諸部一万余を率いて雁門に駐守し、ここにあって忻、代、蔚、朔、韃靼の兵馬を各路より募り、総勢三万五千人を得て、しかる後部を領して黄巣を掃蕩すべく長安に進発した。

中和三年(883)正月、李克用は弟の李克脩に先鋒五千を率いさせ、黄河を渡り敵情を威力偵察させる。黄巣の派遣した人員を買収した李克用はこれに高官厚禄を許す。李克用は当面黄巣の書信を焼き捨て、金銀財宝を収奪しては身辺の将領に分配した。当時、長安救援に各路からの兵は多かったが黄巣軍の士気が旺盛であり、あえてこれに当たろうという者はなかった。ただ李克用の部隊だけが黄河を渡り、黄巣の将領はみなこれを「鴉児軍は励害、応対して彼の兵鋒を避くべし」といって恐れた。ここにおいて尚譲、林言、王璠、趙璋の四大将が十五万の大軍で梁田陂に屯する。翌日、李克用はよく軍を率いてこれを攻め、両軍交戦して正午から晩まで戦い、ついに黄巣軍は大敗し、夜に乗じて華州に奔る。李克用は華州の包囲を指揮し、再び発起攻撃するも、黄巣の弟・黄鄴、黄揆は拒んで戦わず、城池を堅守する。ただ李克用の英雄頑強を以て、華州はたちまち危急の時を迎える。尚譲は兵を帯びて救援に向かうも李克用は主動的に出撃し、増援部隊の道を截ち、これが双方の陣地戦に発展して李克用また勝ち、進軍して渭橋に。黄揆は華州を棄てて長安に奔り、長安城中の黄巣は李克用の凶猛に恐れをなし、抗うべからずとして、ただ拱手長安を譲るのはむかっ腹が立つとして宮院に火を放ち、焼き毀す。このとき李克用はまた北面行営都統、検校尚書左僕射に任ぜられた。李克用は良く準備して長安に兵を進め、ときに黄巣は長安を脱し東は蘭関に到る。李克用が長安に入城した時、見る限り一片の焦土であり、遍く瓦砕けていた。それでもついに京師回復ということで国家のため皇帝のために功を建てたとして、僖宗は喜んで彼に金糸光禄大夫、太原節度使を授け、晋王に封じた。時に李克用二十八歳。

李克用が黄巣に勝ちを獲て長安を修復したことは、その威声を大きく震わせ、各路軍の将帥はみな彼に畏れを抱いた。直接彼に文句を言うことはないが、彼の片目が潰れていることを綽名して“独眼竜”と呼んだのもこの時期に始まる。淮南の守将・楊行密は彼の独眼を一個の妙手丹青と思い、商人に身をやつして太原に到り、彼の図像を描かせるべく画匠を呼んだ。李克用はコンプレックスを暴かれることを嫌い画匠を擒え難詰したが、画匠は「淮南方面にあなた様の絵を送るのは、必ずその技芸が非凡であられるからであり、今わたくしがあなた様の絵を描くのは、果たして十分にその象を伝えるべしにであります。これを家の石段に飾り、あなた様が至られたと思い胸襟を正すのです」といって紙に筆を走らせた。時に猛暑炎熱、李克用は手の中の八角扇を揺さぶりいらだちを表し、画匠はこれに怯えてあたかも李克用に両目があるかのように描いた。李克用はこれを見て「汝はこれで有意とするか、よろしからず。汝が我を描くにあたって、美化は不用である!」画匠はそこで新たに画きなおし、新たに画面上に描かれた李克用は腕に上袴を佩いて大弓を取り、千里の外に矢をつがえ、まさしく単眼で狙いを定め弓を曲げんばかりに振り絞っている姿であった。李克用はこの一幅の絵に大層満足し、画匠に重い賞与を授けて彼を釈放した。
同年十二月、汴州宣武節度使・朱温と徐州節度使・時溥、陳州刺史・趙犨らが相次いで李克用と連携し、ともに出兵して黄巣を討った。

中和四年(884)春、李克用は五万の兵を帯びて出征、太康地区に在って朱温、時溥らと師を会してのち、一挙黄巣の大将・尚譲を攻め、大勝し斬獲万余に上る。さらに進軍を続けて西華に屯する黄鄴の部隊と戦い、時に大雨雷電、平地が水深く数尺まで水に浸され、黄鄴は営を棄てて逃げ、兵士たちは荒涼として潰乱し、各自命を逃れる。李克用は王満渡にあって黄巣の軍を大いに破った。まもなく、黄巣自ら大軍を率いて征戦、李克用はその軍が汴水を渡りきらないうちに迎撃して痛撃を与え、陣に臨んで大将・李周、王済、陽景らを殺し、夜ただちに到り、黄巣軍を大敗させる。黄巣は妻子と一族一千余人を連れて東に逃れ、李克用はまた曹州にこれを追撃し、しかるのち班師朝廷に還る。

李克用が汴州を通り過ぎる時、汴州節度使・朱温が封禅寺にあって慰労歓迎の意を表した。李克用は請うて彼の府第に休息し、これに将官三百人と監軍使・陳景思が上源駅の官舎で休憩する。その晩、朱温は上源駅で歓待の宴を張り、歌舞と妓芸とで李克用をもてなし、朱温みずから酒を取って勧める。李克用は酩酊して耳まで厚くなり、朱温の手を取りいかにして黄巣に勝利を得るか、得意洋々、志にためらいなし。しかしこのとき朱温は内心で彼の威名を怨み、ここを彼の死地とすべく諂って見せていた。果たして今門前に送り出そうというとき、彼を陥れるべく罠が発動する。ここにおいて副将・楊彦洪が密かに部署を完了し、楊彦洪は巷の要道に軍車と木柵を設置して障碍をなし、もってその逃路を截った。宴席上、李克用と彼の随行官員は酩酊して大いに酔っぱらっていたが、このとき、楊彦洪が彼らを排除すべく上源駅の官舎から突然将兵を発し、四面から一辺に殺さんと声を上げる。李克用とその随員十余人は抜刀して自衛し、李克用の侍中・郭景銖が急ぎ慌てて李克用滅亡の謀略を見破る。彼は蔵に到り、またカーテンの裏から外の格闘音を近くに聞き、根本から謀られていたことに気付いた。干戈の中に酒もすっかり冷めた李克用は眦を吊り上げ、計られて及ばざるを知って言うに「朱温我を害さんとするか、既に殺しにかかるとは!」李克用はようやく驚嘆の体から冷静をとり戻し、床下に隠れ弓矢を取って抵抗する。このとき四面から炎発して彼らを焼き殺さんとし、李克用の随員将領・薛鉄山、賀回鶻らは協議して囲みを衝き、このあたりの不習熟な地理街道を、大体の判断で進む。しかるに火は旺盛であり跨ぎ越えて近寄る。彼らは死中に活を求める精神で炎の中に囲みを衝いた。このとき忽然と巨雷轟き天地どよもし、盆上の水を覆すかのような大雨が降って、ゲリラ豪雨。五指を伸ばしても相手の顔が分からない状況になり、火は鎮火したものの雨更に大。彼らは閃電的に城墻に上り、しかるのち下にロープを垂らし、城外に出てようやく本営に走って帰る。監軍・陳景思、大将・史敬忠は上源駅の舎中で没した。翌日早朝、李克用は考えあって汴州を攻め立てるが、彼の妻劉氏が「あなたはこれ国家のために賊寇を討たんとするお方、汴人に謀られ害されかけたと言えど、それを決裁なさるのは朝廷でありましょう。果たしてあなたは今反撃の矛を取って城を攻めますが、これが我らの理を曲げ話の柄を変えてしまわないよう願う所です」李克用は夫人の言葉に兵を引き揚げ、ただ朱温に手紙を出してその原意を質問したが、朱温は「あの夜は不愉快な出来事が起こりましたが、わたくしの本意ではございません。これは朝廷の天子と牙将・楊彦洪の共謀したところであります」李克用は朱温の辧辞をもはや信ぜず、ここに両人の人心照らしてよろしからず、冤讎を結ぶ。李克用は太原に帰ったのち、朝廷に上書して理由を申明にされたしと問うも、朝廷は李克用の大功により太傅、同平章事、隴西郡王とするにとどめて釈明しなかった。しかるに李克用は官を加えたことで満足せず、彼の本意である朝廷の奸臣と汴州への恨みを八次に分かって上表し、朱温の職を剥奪してしかる後彼に本軍を率いて進討させよと請うた。僖宗はただ恐怖して彼ら二人を共に節度使とし、同時にまた頗る実力ある二大将の間に戦闘が起こらぬよう、絶えず人を派遣して自分がどれだけ貴公らに服しているかを説き、慰労の旨意を勧めたが、李克用が感覚顕明となることはなく、皇帝はどちらかと言えば朱温を恃みにした。

光啓元年(885)、各地の軍閥、割拠勢力が中原に鹿を逐い、反覆常なく州府鎮城を奪い合った。文徳元年(888)三月、昭宗即位、李克用は旧官に加えて開府義同三司、検校太師兼侍中を授けられる。この一年後には地方節度使の間の権力闘争が混迷の色をまし、李克用は朱温らの人を連名で上表してこれを譴責している。昭宗はついによく彼の職を奪い、朱温は汴、幽、雲、華州節度使として連合をなし、攻撃してきた。李克用は兵を率いて戦うも勝ちあり負けあり。勝ちは多く負けは少なかったのが救いか。大順二年(891)に到り、李克用はとうとう本格的に苦戦するようになり、秋毫ほどの進展もなく、将士は疲れ倦み、前途茫然として、当初本来国家社稷のために南下して入関し、黄巣を掃蕩して長安を修復した後は、叛族匪賊と見られ、名誉を棄損されて官を削られ、四面に敵を受け、長らくこの下に在って、何ぞ自立を考えんや? 改めて自己を取り巻く環境の変化を好転させるに最良の辧法は皇帝への上書申告であり、彼は奏文の中に自己の心跡と功績を連ね、削官以来の自己の境遇について誰何し、しかるのちこう書した。「我今無官にして名義上は国家の罪人、ゆえにあえて提出の蒙昧を冒さず! 皇上に帰服し、ただ望むは河中に寄寓し生存することのみ、今後いかなる行動をとるか、すなわち皇上次第であります、我只命ぜらればこれに従うのみ」李曄はこの李克用の上奏文を読んでその誠心誠意をくみ取り、情理を尽くした中に感じて、彼を河東節度使、西隴郡王に復し、また中書令を加えた。

大順二年からの十八年間、李克用は主に朱温と晋、絳、沢、潞、刑、磁州を争った。一戦区一局面での直接対決では太原に分があったが、全方面的な関係と双方彼我の勢力では河北の利は消え、重要な関区を取られ、双方反覆常なくして争った。その間、李克用はかつて乾寧二年(895)関中に進軍し、李貞茂平定に参与し、王行瑜および韓建が朝廷の逆臣となると昭宗を保護している。天復元年、二年(901-902)、朱温が二度にわたって太原を冒すと、城を破られることはなかったが李克用と雖も勝ちを獲ることが困難になり、ついに寡兵無力を以て出撃し、形勢以前朱が強く李が弱なり。天佑4年(904)、朱温が帝位を僭称して国号を梁と定める。李克用は唐の復興を念願にこれと相争ったが、翌年晋陽において病逝、享年五十三歳。

李克用は臨終に際して三本の矢を手に取り、長子李存勗に示して曰く、「一本の矢は劉仁恭に用いよ。汝はまず幽州で攻め克ち、すぐに河南を取るべし。一本の矢は契丹に用いよ。契丹王・阿保機はかつて我と兄弟の契りを結んだが、唐朝の社稷回復のための攻守同盟は破られ、今やあい反目する敵である。汝は必ず彼を討伐し、父の仇に報いよ。一本の矢は朱温を滅ぼすに用いよ。汝が良くこの三項に随い、実現させるのであれば、我は死すとも遺憾なしである」李存勗は涙を含んで矢を手に取り、必ず父の意に従い意を果たすと誓った。しかるのち三本の矢は祖廟に陪葬された。まさに彼は準備して劉仁恭を討ち、祖廟に祭祀して一箭を特製の錦袋に入れ、親族将領が出征するに当たってはこの矢を授けて大軍の先鋒を任せた。戦勝して凱旋した時には一箭をもって俘虜と祖廟に同行し先人に告げ、しかるのちまた再起の時を待った。こののち契丹征伐、朱氏勢力滅亡にあたっても挙行に当たっては「請矢」の儀式、凱旋しては「帰矢」の儀式を執り行った。李存勗は重托を背負って龍徳三年(923)、後梁を滅ぼし、魏州にあって登極して国号を唐とし、年号を同光として、父李克用に追諡して武皇帝の名を捧げた。

………………
以上でした、それでは!

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

月別アーカイブ

記事を検索