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歴史の記事 (13)

遠蛮亭 2022/11/30 19:03

22-11-30.中国史-李克用(五代)

おつかれさまです!

翻訳の方をもう一個。中国史上、騎兵の突撃力ということならこのひとはかなり屈指だろうかなと思います。実のところ漢人ではなくて沙陀族ですが。Twitterにも書きましたけども、朱全忠が悪でこのひとが善人、とかいうわけではないのです。現実の戦争に善悪なんてものはないし、今あってる胸糞悪い事柄についてもですが、戦争があってる時期には当事者はおろか周囲で冷静ぶってる人々にも判断などできません。戦争仕掛けたほうが悪いとか国際法に照らせば明瞭とかどうとか、あの辺の議論は戦争の本質をまったく理解してないと思います。国を動かすのは民衆ではなくてトップにいる個人であって、その気分や機嫌を損ねたせいで戦争が起こることって多い…むしろそれ以外の原因が少ないぐらいですが。なので喧嘩売ってる強国が絶対悪くて、国力が少なくて防衛に徹してる小国は絶対に正義だなどとはまったく思えないところです。もちろん大国の侵略が正しくて小国が間違ってるというつもりもないですが、歴史を読めばあの侵略の原因と大国の言い分というのは理解できるので。…ってこれ言うと怒られそうではありますが。現実として起こっていることの是非は確かとして、その是非がどうして引き起こされたか民衆レベルの視点に降りてくるのって戦争が終わって数十年、数百年後なので、今の現実の部分を忘れずに記憶しておきたいと思います。人間ってすぐに忘れますからね。

さておいて李克用も悪いんだよという話ですが、略奪の度が激しいという点古代中国史ナンバー1でしょう、この人の鴉軍。「沙陀の通った後は草も生えぬ」といわれた具合ですからね、イナゴみたいなもんです。

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李克用(り・こくよう。八五五-九〇七)
 李克用、本姓は朱邪、もとは隴右金城の人である。先祖の朱邪抜野は唐太宗に随い高麗、薛延陀の討伐に功を建て、金方道副都護を授かる。太宗は北庭に都督府を置くとその地・大沙堆に因んで沙陀都督府と名付け、高宗のとき朱邪抜野は沙陀都督とされる。これ以来沙陀を部族の名とした。祖父・朱邪執宜は徳宗のとき陰山府都督、憲宗のとき仮北行営招撫使。父・朱邪赤心は懿宗の咸通中年(866頃)龐勛の乱平定の功により金吾上将軍を授かり、李の姓と国昌の名を賜る。李克用は大中十年(856)に神武川で生まれ、六、七歳の時にはすでに騎射を良くし、十三歳の時空を飛ぶ二羽の鳥を見て矢を放ち、両発両中であった。十五歳で父に随い出征し、戦場で冲撃陣を落としてその勇猛果敢なことがあまりに非凡であったことから軍中に“飛虎児”と称され、戦後まもなく中牙将に。かつて韃靼人と遊んで腕比べし、韃靼人が空を飛ぶ大鳥を指して「あなたはよく一箭であの大鳥を落とせますかな?」と問われたので、李克用は連射して二つの大鳥を落し、境内にその名を響き渡らせた。成年して雲中守提使。

 乾符三年(876)、僖宗が段楚文を雲州防御使に任じた。当時農業は飢饉の発生により潰滅的ダメージを蒙っており、段楚文は軍糧を削減したので、雲州の将士はみな彼に対して恨みを持つに至った。李克用は雲中防督辺将であり、彼の部下も再三軍糧が足りないと訴上して、口々に不満を並べた。防辺軍校の程懐素、王行審、蓋寓、王存璋、薛鉄山、康君立らは一斉に李克用を擁立して雲州に進入、彼を将士の代表として段楚文に軍人の飢餓の実情を陳述させ、食糧の増量を請求する。周りを囲む駐留軍の雲中将士はこれに一斉して行動し、雲州に到り衆万余を聚めて、斗鶏台に在って強烈に軍糧問題解決を請うた。段楚文と李克用は代表として談判し、まず双方の解釈をなしてから、とひきのばそうとしたので、代表らはこの物を軍法に照らして処断すべしということになり、一様に激怒した大衆を宥めるため、彼を城外に引き出し軍糧横領のかどで斬首に処した。将士大衆は李克用を後任の防御使にということで一致し、朝廷に官爵を授与さるべく上奏するが、朝中の将相は朝廷の任じた官者を斬るとは造反行為と認じ、職を授与するどころではなく、軍を編成してこれを討伐すべしと討伐の準備を進めた。李克用は防御留後を自称して雲州を拠守し、反逆行動もやむなしとの措置を取る。

 乾布五年(878)、農民起義軍の領袖、黄巣はその部を率いて長江を南に渡り、勢力を迅速に拡大して、国内の局勢は危急を告げた。僖宗は李克用を大同軍節度使、検校工部尚書に任じてその心を穏当に保たせ、叛乱と合致しないよう手を打つ。当時李克用は父親に任ぜられて振武軍節度使を名乗ったが、吐谷渾と戦って敗北。李克用は辺軍を集め彼の父を頼って雲州に到ったが、雲州の守将は堅く拒んで門を開かず。李克用は怒り、自ら帯びる数人の将兵とともに蔚、朔二州を取り、兵馬を招いて三千余人を集め、神武川の新城に進駐する。吐谷渾はその兵力の寡弱であることから昼夜これを囲んだが、李克用は兄弟三人とともに四面これに応じ、父・李国昌も蔚州から兵を帯びて到来したので吐谷渾は退走した。ここにおいて李克用の軍威は大いに震う。朝廷は李克用がクーデターを起こしたとして吐谷渾の将軍赫連鐸に大同軍節度使を授け、もってこれを鎮圧させようとする。

李克用親子が蔚州を占拠した後、朝廷は各路の兵を招集し連合してこれを討たんとする。最初の年の冬、天から大雪降り、南方の士卒は寒さに耐えられず。しかるに李克用とその将兵はみな北方人なので寒冷を懼れず、かくして官軍は大敗し、総指揮官の北面招討使・李釣は射殺される。翌年、僖宗はまた元帥・李琢に兵数万を授けて蔚州を攻めさせ、李克用親子は敗北、その領する部族を率いて韃靼部に亡命する。韃靼部に住まうことになって数か月、吐谷渾の赫連鐸が人を派遣して秘密裏に韃靼部を調査し、賄賂を使って李克用と韃靼の間を離間せしめようとする。李克用は発覚後も泰然自若、韃靼貴族と将官をともなって狩りに出、門から百歩の外に馬を奔らせこれを射て、ある時は馬に括りつけた鞭を射て、またあるときは先のとがった矢で標的を射て、皆外すことがなく、これにより韃靼部の人はみな彼に敬服し、あえて裏切りの挙動を取ることがなかった。まもなく、黄巣が南方より北上して江淮地帯に打って出たという消息を聞き、李克用は牛を殺し酒を飲んで韃靼の酋長と宴を張り、これ痛快事よと。李克用曰く「我ら親子を奸臣の讒言よって迫害し、ここに落ち延びさせ、使いを致して報国させるの門なくば、忠を献じる路なし。今聞くに黄巣北上し、江淮を侵犯し、将来必ず中原の一代災禍となろう。晨に皇帝が我を赦し罪なしとして兵馬を集めさせるを許すのなら、我はあなた方とともに挙兵し南進して天下を定むものを。これは我が希望であるが、人生世に在り、多少の年に非ず、いかでか沙堆の間に老死するや! 願わくば諸君と報国の努力できんことを!」韃靼人はこれより彼がここにとどまる意思なしと知り、猶友好を結び、彼と行動をともにすることに決した。

広明元年(880)冬、黄巣は進軍してついに潼関を衝く。僖宗は河東監軍・陳景思を北起軍使とし、黄巣の軍を阻ませる。黄巣はまもなく長安に進み、僖宗は逃げて蜀中に避難する。陳景思と李友金は代北から沙陀各部の兵五千騎を帯びて長安に赴く。李友金は李克用の叔父であり、沙陀の兵を帯びて雁門に駐留した。刺史・瞿正は三万の精兵を招募し、惇県(惇は正しくは山偏)の西に軍営を建てた。この新兵はみな北方の大部族から徴収されたもので、驍勇剽悍ではあるが軍規軍法を守らないこと甚だしかった。瞿正と李友金はこれを管理しえず、李友金は陳景思に建義を提出して「衆人を聚めて大事を辧ずるに、必須であるのは威信あり名望ある将領であります。大家には残念ながら領導の才なく、しかるに今我らは幾万の兵を招募したといえども一個の好将領なし。すなわち出戦せば、勝ちを獲て功を建てることかなわずかな」陳景思はその慮んぱかるところなきを以て「良く兵を帯びてここに些かの功を建てうる将領とは誰ぞや?」と問えば、李友金答えて「我が兄親子は去る年朝廷に罪を獲、今は韃靼に身を寄せております。彼らは皆勇あり謀あり、北方の人士みな佩服しており、しかるに朝廷に奏してこれに尽力させるべく、彼らの罪を赦し北より帰らせんことを。これに新兵を管理させれば、代北の人皆集い呼応し、黄巣の平定など問題にもならないでしょう」陳景思はこの建議を容れてすぐさま朝廷に上奏した。僖宗は答えて李克用に雁門節度使を授け、あわせて彼に命じ自らの部下を率いて黄巣を討伐せよと命ず。李克用は韃靼諸部一万余を率いて雁門に駐守し、ここにあって忻、代、蔚、朔、韃靼の兵馬を各路より募り、総勢三万五千人を得て、しかる後部を領して黄巣を掃蕩すべく長安に進発した。

中和三年(883)正月、李克用は弟の李克脩に先鋒五千を率いさせ、黄河を渡り敵情を威力偵察させる。黄巣の派遣した人員を買収した李克用はこれに高官厚禄を許す。李克用は当面黄巣の書信を焼き捨て、金銀財宝を収奪しては身辺の将領に分配した。当時、長安救援に各路からの兵は多かったが黄巣軍の士気が旺盛であり、あえてこれに当たろうという者はなかった。ただ李克用の部隊だけが黄河を渡り、黄巣の将領はみなこれを「鴉児軍は励害、応対して彼の兵鋒を避くべし」といって恐れた。ここにおいて尚譲、林言、王璠、趙璋の四大将が十五万の大軍で梁田陂に屯する。翌日、李克用はよく軍を率いてこれを攻め、両軍交戦して正午から晩まで戦い、ついに黄巣軍は大敗し、夜に乗じて華州に奔る。李克用は華州の包囲を指揮し、再び発起攻撃するも、黄巣の弟・黄鄴、黄揆は拒んで戦わず、城池を堅守する。ただ李克用の英雄頑強を以て、華州はたちまち危急の時を迎える。尚譲は兵を帯びて救援に向かうも李克用は主動的に出撃し、増援部隊の道を截ち、これが双方の陣地戦に発展して李克用また勝ち、進軍して渭橋に。黄揆は華州を棄てて長安に奔り、長安城中の黄巣は李克用の凶猛に恐れをなし、抗うべからずとして、ただ拱手長安を譲るのはむかっ腹が立つとして宮院に火を放ち、焼き毀す。このとき李克用はまた北面行営都統、検校尚書左僕射に任ぜられた。李克用は良く準備して長安に兵を進め、ときに黄巣は長安を脱し東は蘭関に到る。李克用が長安に入城した時、見る限り一片の焦土であり、遍く瓦砕けていた。それでもついに京師回復ということで国家のため皇帝のために功を建てたとして、僖宗は喜んで彼に金糸光禄大夫、太原節度使を授け、晋王に封じた。時に李克用二十八歳。

李克用が黄巣に勝ちを獲て長安を修復したことは、その威声を大きく震わせ、各路軍の将帥はみな彼に畏れを抱いた。直接彼に文句を言うことはないが、彼の片目が潰れていることを綽名して“独眼竜”と呼んだのもこの時期に始まる。淮南の守将・楊行密は彼の独眼を一個の妙手丹青と思い、商人に身をやつして太原に到り、彼の図像を描かせるべく画匠を呼んだ。李克用はコンプレックスを暴かれることを嫌い画匠を擒え難詰したが、画匠は「淮南方面にあなた様の絵を送るのは、必ずその技芸が非凡であられるからであり、今わたくしがあなた様の絵を描くのは、果たして十分にその象を伝えるべしにであります。これを家の石段に飾り、あなた様が至られたと思い胸襟を正すのです」といって紙に筆を走らせた。時に猛暑炎熱、李克用は手の中の八角扇を揺さぶりいらだちを表し、画匠はこれに怯えてあたかも李克用に両目があるかのように描いた。李克用はこれを見て「汝はこれで有意とするか、よろしからず。汝が我を描くにあたって、美化は不用である!」画匠はそこで新たに画きなおし、新たに画面上に描かれた李克用は腕に上袴を佩いて大弓を取り、千里の外に矢をつがえ、まさしく単眼で狙いを定め弓を曲げんばかりに振り絞っている姿であった。李克用はこの一幅の絵に大層満足し、画匠に重い賞与を授けて彼を釈放した。
同年十二月、汴州宣武節度使・朱温と徐州節度使・時溥、陳州刺史・趙犨らが相次いで李克用と連携し、ともに出兵して黄巣を討った。

中和四年(884)春、李克用は五万の兵を帯びて出征、太康地区に在って朱温、時溥らと師を会してのち、一挙黄巣の大将・尚譲を攻め、大勝し斬獲万余に上る。さらに進軍を続けて西華に屯する黄鄴の部隊と戦い、時に大雨雷電、平地が水深く数尺まで水に浸され、黄鄴は営を棄てて逃げ、兵士たちは荒涼として潰乱し、各自命を逃れる。李克用は王満渡にあって黄巣の軍を大いに破った。まもなく、黄巣自ら大軍を率いて征戦、李克用はその軍が汴水を渡りきらないうちに迎撃して痛撃を与え、陣に臨んで大将・李周、王済、陽景らを殺し、夜ただちに到り、黄巣軍を大敗させる。黄巣は妻子と一族一千余人を連れて東に逃れ、李克用はまた曹州にこれを追撃し、しかるのち班師朝廷に還る。

李克用が汴州を通り過ぎる時、汴州節度使・朱温が封禅寺にあって慰労歓迎の意を表した。李克用は請うて彼の府第に休息し、これに将官三百人と監軍使・陳景思が上源駅の官舎で休憩する。その晩、朱温は上源駅で歓待の宴を張り、歌舞と妓芸とで李克用をもてなし、朱温みずから酒を取って勧める。李克用は酩酊して耳まで厚くなり、朱温の手を取りいかにして黄巣に勝利を得るか、得意洋々、志にためらいなし。しかしこのとき朱温は内心で彼の威名を怨み、ここを彼の死地とすべく諂って見せていた。果たして今門前に送り出そうというとき、彼を陥れるべく罠が発動する。ここにおいて副将・楊彦洪が密かに部署を完了し、楊彦洪は巷の要道に軍車と木柵を設置して障碍をなし、もってその逃路を截った。宴席上、李克用と彼の随行官員は酩酊して大いに酔っぱらっていたが、このとき、楊彦洪が彼らを排除すべく上源駅の官舎から突然将兵を発し、四面から一辺に殺さんと声を上げる。李克用とその随員十余人は抜刀して自衛し、李克用の侍中・郭景銖が急ぎ慌てて李克用滅亡の謀略を見破る。彼は蔵に到り、またカーテンの裏から外の格闘音を近くに聞き、根本から謀られていたことに気付いた。干戈の中に酒もすっかり冷めた李克用は眦を吊り上げ、計られて及ばざるを知って言うに「朱温我を害さんとするか、既に殺しにかかるとは!」李克用はようやく驚嘆の体から冷静をとり戻し、床下に隠れ弓矢を取って抵抗する。このとき四面から炎発して彼らを焼き殺さんとし、李克用の随員将領・薛鉄山、賀回鶻らは協議して囲みを衝き、このあたりの不習熟な地理街道を、大体の判断で進む。しかるに火は旺盛であり跨ぎ越えて近寄る。彼らは死中に活を求める精神で炎の中に囲みを衝いた。このとき忽然と巨雷轟き天地どよもし、盆上の水を覆すかのような大雨が降って、ゲリラ豪雨。五指を伸ばしても相手の顔が分からない状況になり、火は鎮火したものの雨更に大。彼らは閃電的に城墻に上り、しかるのち下にロープを垂らし、城外に出てようやく本営に走って帰る。監軍・陳景思、大将・史敬忠は上源駅の舎中で没した。翌日早朝、李克用は考えあって汴州を攻め立てるが、彼の妻劉氏が「あなたはこれ国家のために賊寇を討たんとするお方、汴人に謀られ害されかけたと言えど、それを決裁なさるのは朝廷でありましょう。果たしてあなたは今反撃の矛を取って城を攻めますが、これが我らの理を曲げ話の柄を変えてしまわないよう願う所です」李克用は夫人の言葉に兵を引き揚げ、ただ朱温に手紙を出してその原意を質問したが、朱温は「あの夜は不愉快な出来事が起こりましたが、わたくしの本意ではございません。これは朝廷の天子と牙将・楊彦洪の共謀したところであります」李克用は朱温の辧辞をもはや信ぜず、ここに両人の人心照らしてよろしからず、冤讎を結ぶ。李克用は太原に帰ったのち、朝廷に上書して理由を申明にされたしと問うも、朝廷は李克用の大功により太傅、同平章事、隴西郡王とするにとどめて釈明しなかった。しかるに李克用は官を加えたことで満足せず、彼の本意である朝廷の奸臣と汴州への恨みを八次に分かって上表し、朱温の職を剥奪してしかる後彼に本軍を率いて進討させよと請うた。僖宗はただ恐怖して彼ら二人を共に節度使とし、同時にまた頗る実力ある二大将の間に戦闘が起こらぬよう、絶えず人を派遣して自分がどれだけ貴公らに服しているかを説き、慰労の旨意を勧めたが、李克用が感覚顕明となることはなく、皇帝はどちらかと言えば朱温を恃みにした。

光啓元年(885)、各地の軍閥、割拠勢力が中原に鹿を逐い、反覆常なく州府鎮城を奪い合った。文徳元年(888)三月、昭宗即位、李克用は旧官に加えて開府義同三司、検校太師兼侍中を授けられる。この一年後には地方節度使の間の権力闘争が混迷の色をまし、李克用は朱温らの人を連名で上表してこれを譴責している。昭宗はついによく彼の職を奪い、朱温は汴、幽、雲、華州節度使として連合をなし、攻撃してきた。李克用は兵を率いて戦うも勝ちあり負けあり。勝ちは多く負けは少なかったのが救いか。大順二年(891)に到り、李克用はとうとう本格的に苦戦するようになり、秋毫ほどの進展もなく、将士は疲れ倦み、前途茫然として、当初本来国家社稷のために南下して入関し、黄巣を掃蕩して長安を修復した後は、叛族匪賊と見られ、名誉を棄損されて官を削られ、四面に敵を受け、長らくこの下に在って、何ぞ自立を考えんや? 改めて自己を取り巻く環境の変化を好転させるに最良の辧法は皇帝への上書申告であり、彼は奏文の中に自己の心跡と功績を連ね、削官以来の自己の境遇について誰何し、しかるのちこう書した。「我今無官にして名義上は国家の罪人、ゆえにあえて提出の蒙昧を冒さず! 皇上に帰服し、ただ望むは河中に寄寓し生存することのみ、今後いかなる行動をとるか、すなわち皇上次第であります、我只命ぜらればこれに従うのみ」李曄はこの李克用の上奏文を読んでその誠心誠意をくみ取り、情理を尽くした中に感じて、彼を河東節度使、西隴郡王に復し、また中書令を加えた。

大順二年からの十八年間、李克用は主に朱温と晋、絳、沢、潞、刑、磁州を争った。一戦区一局面での直接対決では太原に分があったが、全方面的な関係と双方彼我の勢力では河北の利は消え、重要な関区を取られ、双方反覆常なくして争った。その間、李克用はかつて乾寧二年(895)関中に進軍し、李貞茂平定に参与し、王行瑜および韓建が朝廷の逆臣となると昭宗を保護している。天復元年、二年(901-902)、朱温が二度にわたって太原を冒すと、城を破られることはなかったが李克用と雖も勝ちを獲ることが困難になり、ついに寡兵無力を以て出撃し、形勢以前朱が強く李が弱なり。天佑4年(904)、朱温が帝位を僭称して国号を梁と定める。李克用は唐の復興を念願にこれと相争ったが、翌年晋陽において病逝、享年五十三歳。

李克用は臨終に際して三本の矢を手に取り、長子李存勗に示して曰く、「一本の矢は劉仁恭に用いよ。汝はまず幽州で攻め克ち、すぐに河南を取るべし。一本の矢は契丹に用いよ。契丹王・阿保機はかつて我と兄弟の契りを結んだが、唐朝の社稷回復のための攻守同盟は破られ、今やあい反目する敵である。汝は必ず彼を討伐し、父の仇に報いよ。一本の矢は朱温を滅ぼすに用いよ。汝が良くこの三項に随い、実現させるのであれば、我は死すとも遺憾なしである」李存勗は涙を含んで矢を手に取り、必ず父の意に従い意を果たすと誓った。しかるのち三本の矢は祖廟に陪葬された。まさに彼は準備して劉仁恭を討ち、祖廟に祭祀して一箭を特製の錦袋に入れ、親族将領が出征するに当たってはこの矢を授けて大軍の先鋒を任せた。戦勝して凱旋した時には一箭をもって俘虜と祖廟に同行し先人に告げ、しかるのちまた再起の時を待った。こののち契丹征伐、朱氏勢力滅亡にあたっても挙行に当たっては「請矢」の儀式、凱旋しては「帰矢」の儀式を執り行った。李存勗は重托を背負って龍徳三年(923)、後梁を滅ぼし、魏州にあって登極して国号を唐とし、年号を同光として、父李克用に追諡して武皇帝の名を捧げた。

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以上でした、それでは!

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遠蛮亭 2022/11/30 18:12

名将伝-中国史-劉鄩(五代)

おつかれさまです!

ゲーム制作を必死こいてやらないと駄目なんですが、すこしだれた(アイテムとかモンスターのデータにばっかり向き合ったので、疲れた)のでちょっとだけ別のことを。というわけで中国語翻訳です。《新五代史》から劉鄩。末帝がアホで戦え戦え言わなければ生涯無敗もありえた名将ですね。本当のところを言うと「十歩百変」劉詞のほうをやりたかったんです。面白いから。でも名将として定義する場合劉詞は「完璧な作戦力にもかかわらず天に見放されているとしか思えない魔の悪さで尽く策を外す」という人物なので今回は劉鄩で正解かもしれません。ともかくもこれでリフレッシュして、今からまたゲーム制作やりますが。
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劉鄩(りゅう・じん。中国・五代・汴梁)

劉鄩は密州安丘の人である。若くして青州の王敬武につかえた。敬武が死にその息子王師範が起つと棣州刺史張蟾が叛き、師範は指揮使・盧洪を遣わして張蟾を撃たせようとしたが、盧洪もまた背いて自立。師範は辞を低くして盧洪を召し寄せ、盧洪がやってくるや郊外にこれを迎え、劉鄩に命じてこれを斬らせた。つかわされ、劉鄩は張蟾を攻撃、これを破り、師範の上表で登州刺史、行軍司馬。

梁の太祖(朱全忠)が西に鳳翔を攻めた時、師範は梁の虚に乗じて攻撃、ひそかに人を分けて寮の諸州県を襲わせた。しかしながら謀の多くは漏れて事はならず。ただひとり劉鄩だけはもとより兵法をこのみ、変幻自在の機略あり。このとき、梁はすでに朱瑾を破り、兗州・惲州をことごとく手に入れ、葛従周を兗州節度使とした。葛従周は城外、劉鄩は城内で両軍対峙し、劉鄩は城楼から焼けた油を流して攻城の梁軍を苦しめ、虚実を探って出入りさせなかった。劉鄩は水も漏らさぬ防御から一転して500人で水路梁軍を攻撃、これを破ると同時、葛従周の母を捕らえ、礼を尽くして拝礼し甚だ慰撫と恩愛を加える。

 太祖は鳳翔で昭宗を弑すと東に帰還.朱友寧を遣わして王師範を攻撃する。葛従周は劉鄩を攻めた。劉鄩が葛従周の母を城郭上に安置すると母は葛従周を呼んで絶叫。「劉将軍は私を遇すること甚だく厚く、孝行なること汝に劣らぬ。人臣なればそれぞれに主あり、汝察すべし!」怒鳴られて葛従周は攻撃の手を緩めた。劉鄩はそこで婦人および疾病持ちで敵と戦えない民を集め、ひとり彼らとおなじ辛苦を味わい、彼らに衣食を分け与え、堅守をつづけた。外からの援軍いたらず、人心すこぶる離れる。副使・王彦温城壁を越えて逃げ、守備弊の多くも逃亡した。劉鄩は王彦温に人を遣わし表向きは「副使・多くをもって出る勿れ、みな持っていく勿れ」と弱気を見せたが、城内に向けては「副使のおかげで出るを得る、否者(否定者)も朋友なり」と言った。城中の民はみなとまどい、逃亡すら止んだ。梁兵これを聞くに至り、果たして王彦温は降者を疑い、城下でこれを斬る。これにより城内の防備は堅牢になった。

 王師範はすでに屈し、葛従周は劉鄩に書信を持たらして禍福を諭す。劉鄩は応えて曰く「わが主すでに降る、すなわち城をもって梁に還らん」師範がやぶれ、梁に下ったことで劉鄩もまた下った。葛従周は劉鄩に装備をもたらし、ともに梁に帰還。劉鄩いわく「降将梁に誅されずして恩を受く。幸いなり! あえて乗馬して衣をまとうか?」といって平服のまま乗馬して梁に向かった。太祖は冠帯を賜り、杯を与えて酒を飲んだ。劉鄩は差し出された酒をほとんど飲まずに辞したが、太祖は「兗州の広さはいかほどか?」と問い、もとどおり官は都押衙。このとき太祖はすでに四鎮を領し、将吏みな古くからの功臣。劉鄩は降将でありながら一足飛びに彼らの上位に置かれたが、諸将は劉鄩を見るに及び軍礼をもって接し、劉鄩の方も泰然自若として委縮する風がなかった。太祖はこれを奇と舌ものである。

太祖即位後、累進して右龍武統軍。劉知俊が叛き長安を落とすと太祖は劉鄩に牛存節をつけてこれを討たせ、劉知俊は鳳翔に奔る。太祖が長安を永平軍と改めると竜人は節度使を拝命、末帝即位すると鎮南軍節度使とされ、開封尹。

魏・相には楊師厚が両鎮を鎮護していたが、かれが死ぬと魏兵の反乱を畏れた末帝は劉鄩に兵を与えて魏県に向かわせた。魏兵は果たして乱を起こし、まず駕徳倫が晋に下った。劉鄩は兵たちに向かい、晋兵ことごとく魏に赴く、太原襲うべしと。ここに人々を結束させ、旌旗をとって、驢馬に乗って城上を往来し、しかしてその間に決死隊が黄澤関から太原を攻撃した。晋兵は梁の旗が積み重なり、往来しているのを見たが彼らが去る姿を確認することができず、当然、追撃もできなかった。劉鄩は逆撃のため楽平に出たがたまたま雨に会い、勝てずして進師を班師させる。いそぎ臨清に赴き、魏に粟を積み、晋の周徳威が攻め寄せてくるのを莘県に迎撃、甬道と黄河沿いに野戦築城して待ち構えた。

 これよりさき、末帝は書を致して劉鄩の責を鳴らし、「欄外のことはすべて将軍の付託、にもかかわらず、河朔の諸州一日にして覆滅す。今倉廩のたくわえはつき、兵の鍛錬は不十分。将軍、国と思いをおなじゅうするならばよろしく良思を致せ!」劉鄩は応えて曰く「晋兵甚だ鋭なり。いまはまだ撃つべからず。よろしく気を待つべし」末帝はまた書簡を往復させて劉鄩に必勝の策を問うたが、劉鄩は「わたくしに奇策はございません。願わくば米十斛を賜わらんことを。米が即ち敵を尽く打ち破るでしょう」末帝は怒り、劉鄩をなじって「将軍の畜米は病気対策か飢饉対策ではないか、敵を破ることなどできるのか?」といって使者を遣わし、彼らに劉鄩を監視させた。劉鄩は諸将を召し、はかって曰く「主上は禁中奥深くにおられ、白面児と謀っておられる。これでは決して勝てない。いま、敵は盛んであり、軽挙妄動すべきではない。諸君の考えはいかに?」諸将はみな戦いを欲し、劉鄩は諸将全員を軍門に座らせると人をやって彼ら全員に黄河の水を1杯飲ませた。諸将がこのことの意味を諮りかね、あるいは飲みあるいは辞すと「一杯の杯を飲むか辞すか、それを測ることすら難しい。これが滔々と流れる黄河そのものであったなら、その流れを測ることができようか?」諸将みな慄然として失色したという。

このとき、荘宗は魏にあってしばしば勁兵で劉鄩を圧伏、劉鄩は誘いに乗ららかったが、また末帝がしきりに戦いを催促するのでやむなく出戦した。荘宗は諸将を集め軍議して「劉鄩は六韜を学び、用兵の転変を好む。弱を示してもって我を誘い、強をもって我を叩くつもりであろう。今その危難迫る、必ず速戦して劉鄩の策を破るべし」として太原に帰ると揚言し、符存審に命じて魏を護らせ、西に帰ると見せかけて貝州にみずから埋伏した。劉鄩は果たして末帝に報告して曰く、「晋王西に帰り、魏に備えなし、撃つべし」すなわち兵万余をもって魏の東を攻めるも、荘宗は貝州から反転、戻って劉鄩を挟撃した。劉鄩は現れた晋軍に驚き「晋王ここにありか!?」とわずかに兵を下げ、元城にいたる。荘宗と符存審は前後から劉鄩を挟撃し、劉鄩は陣形を円陣にして晋軍を防いだ。兵を合した後、劉鄩は大敗して南に奔り、黎陽から黄河を渡り滑州に入ってここを護る。反省した末帝は劉鄩を義成軍節度使となし、翌年、河朔の晋人全員を下した劉鄩は毫州団練使。

 兗州の張進萬が叛くと劉鄩は兗州安憮制置使を拝す。進萬の死後、泰寧軍節度使。朱友謙が叛き、同州を落とすと末帝は劉鄩を河東道招討使とし、陝州に入らせた。劉鄩は書をもって朱友謙を招いたが、朱友謙は応えず、数か月の事実が過ぎた。尹皓、段凝の二人はもとより劉鄩と仲が悪く、そのためにこれをそしり、劉鄩と朱友謙のが手を結んで族を養っているとでっちあげた。劉鄩は朱友謙を破り、軍権を返上して洛陽に戻ったが、鴆毒を賜わり殺される。享年64歳、のち中書令を追贈された。

………………

以上でした、それでは!

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遠蛮亭 2022/11/17 17:31

22-11-17.中国史-南宋の孟洪

おつかれさまです!

今日は晦日さんの立ち絵が完成したりゲーム制作もまた進みましたが、身体中痛かったり脳がしびれてしまったりするのでそちらはいったん区切り、久しぶりにカクヨムさんに中国史の訳文をあげましたので同文をこちらにもアップするとします。南宋の名将、といっても岳飛とか文天祥といった名前先行の人物に比べたらマイナーな人物でして、孟洪って人物なんですが。実際のところ岳飛より戦功に関しては上なぐらいです。

孟洪のすごいところをリストアップするなら

1.岳飛が結局勝てなかった金を滅ぼしている(これは状況や金の国力が変動していますから、どちらが上とは言えませんが)
2.最盛期のモンゴル軍を相手にして一度も負けていない。
3.負けてないどころかガタガタの南宋軍を率いて、一部の版図を取り返している。
4.優れた多くの将帥を育成した(とはいえ南宋の衰勢を覆す名将を排出するには至らなかった)。

こんなところでしょうか。中国史上比類がないくらいの武功です。比肩しうると言えば秦の王翳、漢の韓信、唐の李靖と明の戚継光ぐらい。この5人に兵法鼻祖たる孫武と呉起を加えて7傑ということになるんじゃないかと思いますが、岳飛だったり霍去病だったりの声望が実のところ高いのですよね。墨子の功みたいなもので、派手に活躍を喧伝すれば名前は残るのですが功を誇らないと誰にも知られない。岳飛は秦檜に謀殺されましたが案外高宗の寵臣でしたからね、国を挙げて名前は顕揚されたのです。まあそれはさておき、さっさと本文いきます。

………………

孟洪(もう・きょう。1195-1246)
孟洪(正しくはサンズイではなくオウヘン)。南宋後期~末期の名将。高祖父は岳家軍の将領であり、父は名将・超方麾下の勇将孟宗政。若くして名将としての才覚があり、金軍と戦ってしばしば戦功を立てた。1224年、モンゴルとの対金挟撃線で南宋の指揮官として出撃、その用兵巧者ぶりはモンゴルの名だたる勇将たちを驚かせる。金滅びて後、モンゴル(元)が北の脅威となると荊・襄地方を中心に防衛線を展開、この地方における南宋唯一絶対の守護神として雲霞のごとく攻め寄せる元軍を相手に奮戦、むしろ逆に圧倒してあの状況下で奪われた版図を奪回するという離れ業をやってのけたが、1246年、病に没した。彼の死後南宋に名将排出することはなく、一気に頽勢に傾くことになる。易や仏教に造詣が深かったという。

孟洪、字は璞玉。随州棗陽の人である。四世の祖、孟安は岳家軍の中にあって功あり。嘉定十年、金人が襄陽を寇し、団山に駐す。父孟宗政は時に趙方の将であり、兵を以てこれを防ぐ。孟洪はその必ず樊城を窺うを料り、父に献策して羅家渡渡河中を討つべしと論ずる。孟宗政はこれを然りとした。越して翌日、諸群渡しに沿って布陣し、金人はたして至るや河を渡るの半ばで伏兵を発し、その半ばを殲滅する。孟宗政は檄を受けて棗陽の応援に向かい、陣に臨んで父子相失し、孟洪は敵騎中に素袍白馬の者を見つけて曰く「わが父なり。」急ぎ麾下の騎兵隊をもって陣に突撃し、ついに孟宗政を助ける。功を以て勇副尉に進む。

 嘉定十二年、完顔訛可が歩騎二十万を以て分路棗陽を攻め、城下を環の如く囲む。孟洪は城郭に登りこれを射たので、将士皆驚き服した。孟宗政は孟洪に金人の退路を急襲すべしと命じ、孟洪は見事十八の砦を抜き、千余級を斬り、大量の俘虜と軍器を獲て帰った。金人は逃がれ、功績を以て下班祇応。

 嘉定十四年、制置使趙方に拝謁し、一見してこれは奇なりと認められ、引き立てを受け光化尉、転じて進武校尉とされる。十六年、功を持って特に承信郎。父の憂いに中り、制置使は孟洪の復帰を請うたが、孟洪は辞して葬儀と喪の間職に就かず、また辞し、転じて成忠郎。理宗は即位すると特別に忠翊郎を授けた。まもなく峡州兵馬監押兼城巡検、京湖制置使兼提督虎翼突騎軍、また昇進して京西第五副将、仮管神勁左右軍統制。

 はじめ、孟宗政は唐、鄧、蔡の三州から壮士二万を集め、號して「忠順軍」とし江海にこれを統べさせたが、衆が不安がったので制置使は孟洪を以てこれに代えさせた。孟洪はその軍を三つに分かって統制し、衆は落ち着く。紹定元年、孟洪は制置使に言上して平堰を棗陽に造る。それは城から軍の西まで十八里、八畳河を経て漸水の側に至り、水を跨ぐこと甚だ多く、通天槽八十三丈を建て、灌田十万頃、十荘を立てて三つに分かち、軍民の分屯に使わしめる。この歳十五万石を獲た。また忠順軍に馬を自宅で養うよう命じ、栗粟を官給したので、馬はますます盛んに繁殖した。二年、さらに昇進して京西第五正将、棗陽軍総轄とされ、本軍は駐屯する忠順三軍。翌年、京西兵馬都監となるも、母の憂いに丁る。さらに翌年、復帰して京西兵馬鈐轄、棗陽軍駐箚に京西兵馬都監で三軍を統べる。

 紹定六年、元の大将ナヤン・ベンチャン(スブタイのこと洪)が金主完顔守緒を追い、蔡州に逼る。孟洪は檄により鄂を守りつつ、金の唐、鄧行省武仙を討つ。武仙は武天錫、鄧守移刺洪とともにを為し、金のために尽力して守緒を蜀に迎えるを欲し、光化を犯して鋒剽甚だしかった。武天錫は鄧の農夫で、乱に乗じて二十万を集めて辺境に患いを為したが、孟洪はその塁に逼り、一鼓のもとにこれを抜く。帳下の壮士張子良が武天錫を斬ってその首を献じた。この戦役で首級五千、俘虜四百余、戸十二万二十を得て、江陵府副都統制と金帯を授かる。

 制置使は檄を以て孟洪に辺事を尋ね、孟洪曰く「金人もし呂堰に向かうなら、すなわち八千人で足りぬこと無し。しかるにすべからく木査、騰雲、呂堰らの砦みな渡るに節制を受けるべし」すでにして劉全、雷去危の両将が金人と夏家橋で戦い、小捷。同じころ、金人は呂堰を犯し、孟洪は喜び手を打って「吾が計を得たり。」命を極めて諸軍呂堰に追撃し、大河に逼って進み、山険に逼って退き、塞四つを抜いて、金人の棄てた輜重無算、甲士五十二、斬首三千、牛馬に駱駝万計、帰服する民三万二千余を獲る。移刺洪はその部曲の馬天章に書を奉じて降るを請い、それによって得られた県は五、鎮は二十二、官吏百二十二、軍馬千五百、歩軍四万、戸三万五千三家、口十二万五千五百五十三戸口に及ぶ。孟洪は入城し、移刺洪は階下に伏して死を請う。孟洪はその衣冠をただし、賓礼をもって見えた。

 はじめ、武仙は順陽に屯し、宋軍を悩ますところなれど、退いて馬洪に屯す。金の順陽令李英は県をもって降り、申州安撫張林州をもって降る。孟洪曰く「帰属の人、よろしくその郷土につかわしてこれを耕させよ。その人民をとらえてしかるに立つの利は少壮軍に籍を為すのみ。俾は自ら耕して自ら守る。才能ある者には土地を分かち、職使をもって任ぜよ。おのおのその徒をもって招くは勢いそれを殺すなり。」制置使これを是とす。七月己酉、武仙の愛将・劉儀が壮士二百を連れて降り、孟洪は武仙の虚実を問う。劉儀曰く「武仙は九砦に拠し、その大なるは石穴山。もって馬洪、沙窩、洪山の三砦その前に蔽し、三砦破れずば石穴未だ囲む易からざるなり。もし先に離金砦を破り、ついで王子山砦をまた抜けば、洪山、沙窩孤立し、三師擒らえるを為すなり。」孟洪は翌日離金に兵を向かわせ、廬秀の黒旗師を執るべく入砦したと言わす。金人宋軍を疑わず、すなわち分拠して鉱山の坑道に案内し、宋軍はそこで太呼して火を放ち、掩殺甚だし。この夜、壮士楊青らに王子山砦を衝かせ、護帳の軍は酔って眠る。王建が帳の中に飛び込んでその金将の首を取り、その佩嚢に入れた。外が明るくなって首を見れば、金の小元帥であった。

 丙辰、馬洪に出師、樊文彬を遣わしてその前門を攻めさせ、成明らに西路を截撃させ、一軍を以て訖石烈を囲み、一軍を以て小総帥砦を囲ませた。火は天を衝き、殺戮山を為す。逃れ得たものもまた成明の伏兵によって捕えられた。壮士老少二千三百が帰順。軍を還し、沙窩の西に至って、金人に遇い大捷。この日、三戦して三捷。まもなく、丁順らが黙候里砦を破る。孟洪は劉儀を召して「この砦すでに破れ、板橋、石穴かならず震撼、汝能く吾のために誰を招くや洪」劉儀答えて「晋徳と花腿王顕、金の安撫安威の旧友なり。招けば必ず来る。」廼ち晋徳に遣い行く。劉儀は請うて婦人三百人を偽って逃がし、懐柔して軍にもって入ろうとするよう差し向けようと。孟洪はこれに従う。安威は晋徳を見るや叙情好歓甚だしく、晋徳を介して懐かしく花腿王顕を見、花腿王顕は即日書を致して降った。晋徳はまた孟洪に請うて劉儀を遣わして武仙に去就をうかがえという。花腿王顕の軍は約五千、なお甲冑をほどかず。孟洪は令して宴席を作り、入陣、長い間周りを見て、すなわち去る。かくのごとくかざりなく撫循し、牛を潰し酒を興じて宴を張り、皆酔い飽食して歌舞する。孟洪はまさに上の洪山の絶頂に居る武仙を料り窺い、樊文彬に令して翌朝洪山を奪わせ、その下に軍を駐させ、前鋒に伏兵を埋伏させ、後ろには帰路を遮断させた。すでにして武仙の衆は山を登り、半ばに及んで樊文彬の旗が靡いているのに気付く。そこで伏兵発し、武仙の衆挙措を失い、折り重なって崖に堕ち、山は朱く染まる。その将兀沙惹を殺し、擒者七百三十人、他は鎧甲を棄てて山に逃げた。薄昏、孟洪が進軍して小水河に至ると、劉儀が還り、武仙に降るつもりが無いことを告げ、謀を以て商州の険要に依って守るが、しかるに老人稚児は北に去るを願わずと。孟洪曰く「進軍を緩めるべからず。」夜十刻、樊文彬を召して方略を授け、翌日石穴九砦を攻める。丙辰、寝床で食事をとると出発し、晨のうちに石穴に至る。時に雪積りいまだ晴れず。樊文彬これを患うも、孟洪は「この雪は呉元済を擒らえるの時の雪なり」馬に策を当てまっすぐ石穴に至り、兵を分かって進攻し、しかしてもって樊文彬は行き来して孟洪の側に給事する。寅から巳に至るまで力戦し、九砦一時にすべて破れる。武仙は奔り、宋軍は鮎魚砦まで追求した。武仙は遠くから宋軍を見て、服を替えて逃げる。また銀葫蘆山で戦い、軍また破る。武仙とともに逃げるもの五、六騎。これを追うも隠れて見えず。その降る衆七万人、甲兵は無算。軍を襄陽に帰し、転じて脩武郎、鄂江江陵府副都統制。

 元兵は宣撫王洪を遣わしてともに蔡州を攻めんと約し、制置使は孟洪に諮る。孟洪は二万人で行くことを請い、命により孟洪の諸将尽く護るを為す。金兵は二万騎で眞陽の横山から南に懸ったが、孟洪が鼓を鳴らして前進するところ金人は戦い敗れ、退き走り、これを追って高横陂に至って斬首千二百級。ベンチャンはミャンブティ、モヘグチュ、アシの三人を遣わして孟洪らを迎えた。孟洪は彼らと狩猟し、獲物の地を啜り、馳せて帳に入る。ベンチャンは喜び、孟洪と兄弟の契りを交わし、馬乳を酌してこれを飲んだ。金兵万人東門より出撃するも、孟洪によってその退路を遮られ、汝河に覆い入れられる。その擒らえるところの偏裨八十と七人、さらに蔡州からの降人を獲る。城中飢えに中ると聞いて、孟洪は「已にして窘めるなり。まさに尽く死すまで守り、囲みを突かれてもって防ぐか。」孟洪とベンチャンは互いに約し、南北の軍が相犯さないことを決めた。堰水を決し、瀑布に竹の垣根を建てる。ベンチャンは万戸侯張柔の師精兵五千でもって入城し、金人は鈎兵二卒でもってこれに対す。張柔が流れ矢に中って落馬しかけると、孟洪は麾下の先鋒を遣わしてこれを救い、張柔ともって挟撃に出る。撥発官宋榮はかしこまらず、まさにこれを斬り、衆下馬しとりまいて礼拝を請うも、なおこれ戦う。黎明、孟洪は進んで石橋に逼り、鈎兵をもって郭山を生け捕り、戦いやや却く。金人突至するや、孟洪は馬に飛び乗り入陣し、郭山を斬りもってその衆を侒え、軍気また張って殊更死戦する。進んで柴潭の立柵に逼り、捕えた金人百二人、斬首三百余級。翌日、諸将に命じて柴潭楼を奪わす。金人は争って楼を守ろうとして、諸軍魚を串刺しにしたように列をなし上る。金人はまた飾り立てた美婦人をもって相いに蠱毒し、麾下の張禧らこれを殺してついに柴潭楼を抜く。捕らわれの将五百三十七人、蔡人は潭の固めを恃みと為し、外には即ち汝河を恃み、潭の高さから河において五、六丈の、城上から金字號楼と称す巨弩を伏せた。相伝えるところによれば下に龍あり、人敢えて近づかず、将士疑い畏れる。孟洪は麾下を召して酒を飲むや、再び近づいて曰く「柴潭は天が造ったものにあらず地が設けたものにもあらず、楼に弩を伏せ能く遠くを射ることができるかもしれぬが近くを射る能わず。彼の恃む所は所詮この水のみ。決してこれを注がせ、立ち枯れるを待つべし。」みな曰く「洪堅くして未だ鑿する易からず。」孟洪曰く「いわゆる賢者は両洪の首を築くに一旦止む。その間隙を狙い両翼に鑿すべし。」潭ははたして決壊し、薪蘆もって実り、ついに渡河して攻城に移る。その両将を擒えてこれを斬り、殿前右副都點検温端を擒らえて城下に磔とし、進んで土門に逼る。金人は老稚を殺した油で駆動する大砲、號して「人油砲」を繰り出し、人々はその酸鼻に耐えられず、孟洪は道士を遣わして説きこれを停止させた。

 端平元年正月辛丑、城上に黒気厭厭、日の光なく、降ったもの曰く「城中の糧が絶えて三か月、駱駝のコブを破り形を留めないまでに煮えた粥を喰らって皆を鼓し、かつ聴くに以て老若相食み、諸軍日に畜骨と芹泥をもってこれを喰らう。また往々にして敗残全滅の軍、拘えられてその肉食まれる。故に降るを欲する者衆なり。」孟洪は令を下して諸軍に銜を含ませ、雲梯を城下に布した。己酉、孟洪の統帥する師は南門に向かい、金字楼に至って、雲梯を並べ、諸将に令してまさに鼓を聞いて乃ち進む。馬義が先駆けとなり、趙榮これに継ぐ。万衆競って登り、城上は大戦となる。丞相・烏古論栲洪が降り、その元帥兀達林および偏将二百人が死んだ。西門開き、ベンチャンを招き入れ、江海が参政張天綱をとらえて以て帰参する。孟洪は守緒の所在を問うてまわり、張天綱曰く「城危うきときに宝玉を取って小室に置き、草を以て環と為し、號泣して首をつり、曰く『我、火に便じて死す』と言い硝煙の中未だ絶えず。」孟洪とベンチャンは守緒の遺骨を分かち、金の諡宝、玉帯、金銀印牌各種を獲て還った。軍を襄陽に還し、特に武功郎、主管侍衛馬軍行司公事を授かる。さらに抜擢されて建康府都統制兼侍衛馬軍行司職事。

 太常寺簿守楊祖、看班祇候林拓朝廷に入朝、諜報に謂う元の兵河南府に争い来ると。歩哨すでに盟津、陝府、潼関、河南でみな増屯設伏するに及び、また聴くに淮刻日進師して困窮し、衆畏れ前なしと。孟洪曰く「淮東の師は淮、泗を遡って洪に及ぶ由、十日に達さずして達すこと非ず。吾精鋭選抜の騎馬で疾馳し、十日にして竣事なかるべく、師を逮捕して東京に至らん。吾すでに帰りたれば。」ここにおいて昼夜兼行、二人を使いに出して陵下に至り、御表を奉り宣べ、礼を成して帰る。制置使は奏して孟洪を留め襄陽兼鎭北軍都統制となした。鎭北軍の者、孟洪の招くところ中原精鋭百戦の士一万五千。これを分屯して襄北、樊城、新野、唐、鄧の間に配す。俄かに令がくだって枢密院に赴き議を申し上げ、帯と御器械を授かる。二年、主管侍衛馬軍司公事を授かり、時に暫時黄州に駐箚、朝廷は辞して上(皇帝)曰く「卿は名将の子、忠勤礼国、金を蔡州に破り滅ぼし、功績昭著なり。」対するに孟洪曰く「これも宗廟の威霊と陛下の聖徳、そして三軍の将士の労であります。臣の力などなにほどのものでありましょうや洪」帝に問いを返し、曰く「陛下に願いますは民に寛大であられ、人材を蓄え、以て機会を待たれますことを。」帝は更に言葉を重ねるが、孟洪は答えて「臣は所詮甲冑の士、戦いを謂いはいたしますが、それ以外を語る言葉を持ちませぬ。」賜物を賜与されること甚だ厚し。兼ねて知光州、さらにまた兼ねて知黄州。

 端平三年、孟洪黄州に至り、垣を増築し井戸をさらって深くする。軍宝の検査が訪れ、辺境の民で来帰するもの日に栓を数え、家屋三万間を為してこれに住まわせ、厚く殷賑を加え金を貸した。また兵民の雑居を慮り、高阜に斉安、鎭淮の二砦を築いてもって諸軍をここに済ませる。章家山、毋家山の両堡に先鋒を為し、虎翼営、飛虎営を置いた。兼主管内安撫司公事、節制黄薪光および信陽の四郡軍馬。

 元兵、薪州を攻め、孟洪は兵を遣わして囲みを解き、また襄陽を攻められると鄧の守りを張亀壽に、荊門の守りを朱楊祖に、郢の守りを喬士安にそれぞれ郡を委ね去る。復州の施子仁が死ぬと江陵が危急を告げる。詔により沿江、淮西から援軍が遣わされ、衆に孟洪を越えるというものなし。すなわち先遣隊の張順が江を渡り、孟洪が全軍を以てこれに継ぐ。元兵は兵を二つに分かち、一つを復州攻めに、もう一つは枝江の監利県から筏を編んで長江を窺う。孟洪は変事に旌旗と服の色を変え、循環往来、夜篝火を並べて江を照らし、数十里の所に接近しているのを確認すると、外弟の趙武らを遣わしてともに戦い、節度自ら往き、砦二十四を破り、民二万を解放した。嘉熙元年、県男に封ぜられ、高州刺史に抜擢され、忠州団練使兼知江陵府、京西湖北安撫副使。まもなく、鄂州諸軍都統制とされる。

 元の大将ティムゲが漢陽の境に侵攻し、大将クオン・ブケが淮甸に侵攻すると、薪州守張可大、舒州の李士達ともに軍を委ねられながら去る。光州の董堯臣は州をもって降った。三郡の人馬糧機械を合わせても黄州守王鑑、江師万文勝は戦って利あらず、孟洪が入城するや黄州の軍民喜んで曰く「わが父来れり。」城楼に駐留し、指で戦守の策を書き、その城すべて兵の気概を持たせ、逗留者四十九人ことごとく斬って徇えた。上は御筆をもって将士に戦功の賞を約し、特に孟洪には金洪を賜与し、孟洪はそれに白金五十両を益して以て諸将に賜った。将士は数か月にわたって苦戦し、病傷者相継いだが、孟洪が医師を遣わして診療させると士卒皆感涙した。

 二年春、寧遠軍承宣使を授かり、帯と御機械を賜与され、鄂州江陵府諸軍都統制とされる。孟洪は三軍の賞典未だ頒されずを見て、辞を表す。詔に曰く「功あって賞さずば、人は朕をなんと謂うか洪 三軍の勲労、その来趣や上。封爵の序、将帥より始める、卿ここに至って辞すまいや洪」まもなく枢密副都承旨、京西湖北路安撫制置副使兼督視行府参謀官とされ、さらにまもなく制置使兼知岳州とされる。すなわち江陵節制司の檄を以て襄、郢の回復に乗り出し、まず張俊が郢州を復し、賀順が荊門軍を復す。十二月壬子、劉全が冢頭に戦い、樊城に闘い、郎神山に戦って、しばしば勝ちを以て聞く。三年春正月、曹文鏞が信陽軍を復し、劉全が樊城を復し、ついに襄陽の回復成る。枢密都承旨、制置使兼知鄂州を授けられた。劉全を譚深に遣わして光化軍を復させ、息州、蔡州を降し、孟洪はこれ逆らうを以て兵と為すと命じ、壮士百余を得た。籍を忠衛軍と為す。

 はじめ、詔により孟洪は京、襄を修復し、郢を得てしかるのちかならず軍費を贈って以て通ずべしといい、荊門を得たのちもって奇兵を出すべしと。この由をもって方略を指授し、兵発深く入り、至る所捷ちを聞く。孟洪は略を奏して曰く「襄陽を取るは難しからずしてこれを護るは難しく、将士不勇にあらねど、車馬機械不精にあらねど、実在する事力の不給を辞すものであります。襄、樊は朝廷の根本、今日百戦してこれを得ても、まさに経理を加えねば、元気護る如く、甲兵十万をもってしても非ず、それを分守するに不足であります。その兵を課して敵来る後、これを保つに全勝を執若するや洪 上兵は謀を伐つと申し、ここは争わずして取るべきでありましょう。」すなわち先鋒軍を置き、もって襄、郢の帰順した人を隷属さす。

 庚寅、諜報により元兵大挙して江に臨む。孟洪は策を講じて敵は必ず施、鈐を通って湘湖に出ると読んで、粟十万石を以て軍餉とし、兵二千で陝州に屯し、千人を帰州に置く。忠衛軍の旧将晋徳を光化から還らせ、孟洪進んでこれを用う。孟洪は弟の孟瑛に精兵五千を与えて松滋に駐留させて洪州を応援させ、晋徳に命じて帰州の隘口万戸谷に造兵させる。元兵より江を窺い、孟洪は密かに劉全を遣わして敵を拒み、伍思智に千人を授けて施州に屯させる。元の大将タハイは万州湖難、施、洪州を震撼させたが、孟洪は兄孟璟を湖北安撫使、知峡州となし、急ぎ策謀を以て防備に備えた。孟洪自身は請うて督府にあり、軍を師して西上、孟璟は調略した金鐸の一軍を帰州の大亜砦で迎撃した。劉全は巴東県の清平村で捷つ。孟洪の弟孟璋には選抜した精鋭二千を与えて洪州に駐留させ施、鈐路を守らす。四年、子爵に封ぜられた。

 孟洪は條文を上に上奏し三層防備の策を説く。まず制置使および移関外都統の一軍を洪州に置き、洪の万以下江に面して責務を負う、これ第一層、鼎、洪を第二層となし、辰、洪、靖、桂州を以て第三層となす。峡州、松滋にはすべからく万人を屯して水師を隷させ、帰州には三千人を屯させ、鼎、洪、辰、洪、靖州におのおの五千人、洪、桂州に各千人、しかして江西を保つべしと。また楊鼎、張謙を辰、洪、靖の三州に遣わし行かせ、同地を守る卒に蛮民を熟知するよう諭告し、思、播、施、鈐に請求して支柱と為し、もって来上を図る。

たまたま諜報が元兵襄樊において攻めるを知る。信陽では衆を集め軍民に種を配り、船に材木を積んで鄧から順陽に向かう。そこで張漢英がから出撃し、任義が信陽から出で、焦進が襄陽から出て、分路その勢をめる。王堅がひそかに元の造船所に近づいて材木を焼き、また師を過ごすために必須の糧を蔡州から失わせるべく、張徳と劉整が分路蔡州に入り、積み上げられた食糧に火をかけた。この功により孟洪は寧武軍節度使、四川宣撫使兼知洪州とされた。麻城県、巴河、安楽磯、管公点ら淮河の民三百五十九名、みな沿辺で戦いを経た士となり、號して「寧武軍」。孟璋がこれを領す。孟洪は進められて漢東軍侯兼京湖安撫制置使。

フファイリ・バートルが壮士百人を師し、老稚百十五人を従え、馬二百六十匹をもって降る。孟洪は「飛鶻軍」と號し、フファイリの名を改めて艾忠孝となし、飛鶻軍の統括に充てて官につけた。四川制置使・陳隆之と彭大河は仲が悪く、朝廷においても交わりを持たなかった。孟洪曰く「国事はかくのごとく困難であり、智を合し謀を并せ、それでもなお払い勝つに懼れあり。しかして両司方は勇ながら私闘し、これでは廉破と蘭相如の風ありとはいえませんぞ。」馳せ書してこれを責める。陳隆之、彭大河は得心して大いに恥じるところがあった。

蜀政の弊害を改め、諸郡県の団体に条目を列挙させて、曰く管轄を計らず、曰く論功不明であり、曰く軍糧減り、曰く官吏貪暴、曰く上下互いに欺く。また曰く「険要を選ばすして砦柵を立て、則ち兵の民を護るに難、流離を集めずして安楽に種を耕し、則ち民を以て兵を養うの難なり。」管吏の功労の上下を設けてもって賞罰を課し、奉行をつかさどらせて諸々を可能とさせる。黎の守閻師古が言うに大理国は黎、雅を通って入貢を請い、孟洪は大理からの報せに洪、広を自ずから通り、川蜀の道を取るのはよろしからずとしてこれを退けた。兼洪路制置大使兼屯田大使。軍に宿の儲けもなく、孟洪は大いに屯田を興し、軍を動かして堰を築き、農民を募集して種を給与し、洪帰から漢口まで、屯田二十、荘百七十、併せて十八万二千二百八十頃を為し、上屯田の始末の所減とひもで巻いて保管した食料の数について、詔を降して奨諭していただいた。靖州徭の林賽児が乱を為し、王洪がこれを平らぐ。

 淳祐二年、孟洪は京、襄の死節死事の臣の要請を受けて入朝し、岳陽に祠を建てる。歳時に祭りに至り、祠に名を賜って閔忠廟。淮東兵を受け、枢密俾として孟洪は応援し、李得に精兵四千を与えて遣わし、息子の孟之経を監軍となす。間諜の報せで京兆府のヤカダテイが騎兵三千を以て商州の鶻嶺関を取り、房州の竹山から出る。王令を遣わして江陵に屯させ、ついで郢州に進晋させる。劉全が沙市に屯し、焦進が千人を引っ提げて江陵から襄陽の荊門に出、劉全は檄して十日分の糧を齎し、南洪を通って襄に入り、諸軍と合する。

 元兵三川に至り、孟洪は令を下し戌主兵官として応出、寸土の失地も許さず。開州の梁棟の糧が乏しくなると請うて司に還り、曰く「この城は棄てるなり。」と言って梁棟を洪州に遷す。使いの高達の首を斬って随える。この由は諸将の間で令を凛としこれを謹ませた。元兵瀘に至り、孟洪は重分に司の兵を分かって応援させ、張祥を洪州につかわし屯させた。功により檢校少保、爵を進められて漢東郡公。孟洪曰く「洪の険阻は辰ほどではなく、靖の険阻は洪ほどではない。三州皆措置に当るなら靖が尤も急であろう。今三州では一寸の米粒も兵に出るところなく、これ京湖の憂いの一である。江の防御は洪帰から壽昌に及び、二千里に渡って、公安から峡州まで難所およそ十余カ所あるも、隆水冬には涸れ氷り、節制して防備に当るべくねも、兵は備えを忌むもの多く、これ京湖の憂いの二。今尺屋に幸いにも数人を数え、既に守り河原の難、また守るは険隘、これ京湖の憂いの三。陸抗の言葉に謂う『荊州は国の藩表、それに如くは虞に有り、ただ一郡を失うに非ず、まさに傾国の争い。もし増兵八万にして併せて防御するに非ずば、韓信、白起といえども復す能わず、巧みに展くところなし。』と。今日の時勢大略はそれに似る、利害至重なり。」余洪は四川の宣諭ながら行政の区を過ぎて孟洪に賛同し、孟洪は以て重慶にわずかながらの粟と餉の屯田米十万石を搬入し、晋徳を師とする六千の兵を遣わして蜀を援けさせ、孟之経を策応司都統制とする。四年、知江陵府を兼ねる。孟洪は左右に云って曰く「政府はまだ我らの窮状を知らぬ。もし朝廷が兵を以て我に合さば、君臣怒涛をなすというに、なにゆえ伝わらざるや洪 洪、往かばすなわち上に我が虚を報せ、行かざればすなわち誰も実際の捍患を知ることなし。いかんすべきや。」識者はこれを是とした。

 詔により京湖の兵五千が安豊に移され、寿春を援ける。孟洪は劉全を遣わしてまさに往かせる。ついで命有って分兵三千を斉安に備え、孟洪曰く「黄州と寿昌は三江口を隔てて一水があるのみ、すでに全兵水を渡り、なんで予め兵を遣わす必要があろうか洪 まず一日さらに一日を費やして、無益にして損有れば、万一上が遊びなさるに警鐘を要する。我が軍は既に疲れており、この計を得ざるなり。」劉全従わず。端平五年、御筆を以て職事の脩挙を授かり、転行両官、令を許すを回復する。孟洪は江陵に在り、白に登って詠嘆して曰く、「江陵は三海をたのみとし、自然低湿の地にある。変あっては桑田の者たちは敵の鞭一鳴りしただけでさっさと城外に逃げるだろう。ここは城から東を以て、古嶺先鋒から三洪に至らせれば、隔てるところに限りはない。」廼ち内隘十一か所を修復し、また別に城から数十里の所に十の隘路を築く。沮、洪の水が城西から江に流れるよう旧来の方法を取るも、東がこの障害となる。湾曲して城北から漢口に入らせ、しかして三海一つに通る。従うにその高下、櫃から畜泄をなすこと三百里に及び、大河果てしなし。土木工事には職工百七十万が動員されたが、民はその徭役に駆り出されることはなく、上は造形美術であるとこれを讃えた。

 孟洪は身を江陵に鎭し、兄孟璟は武昌に師す。故事に謂う、兄弟同処一路の者になかりせば、田に帰るを請うて許されず。詔によって五千の援兵が淮に送られ、孟洪は張漢英の師につかわす。枢密の兵が移動して広西に赴き、孟洪は執政の書を執って曰く「大理から洪の間数千里には部落数千、今まさに選ばれしものが数郡に分布し、生夷を分かち治めて険要の形勢に依りるのみ。よろしく措置しながら屯兵を関に創り、積糧とまぐさをこの地に聚めて、声勢すでに張り、国威自ら振う。この風聞を調す計出ず、空しく錢糧を費やす。ことに益なし。嗚呼」聴かれることなし。元の大将ダイナが江陵に至り、孟洪は楊全を遣わし荊門に伏せさせて戦う。孟洪は先んじて間諜から情報を知り、枢密に達し、檄を飛ばして両淮で備えをなすも、両淮知らざるなり。のち、はたして報せの如く。孟洪は奏して「襄、蜀は離散して士、帰るところなく、蜀士は公安に聚まり、襄士は郢渚に聚まっております。臣が公安と南陽に両書院を創りて、もって田廬の隷となることを否定したのは、いささか教養を教え込むためでありました。」帝に提題を請うとを賜与された。

 はじめ、孟洪が招かれて襄陽の鎭北軍に駐留すると李虎、王旻らが乱を起こし、鎭北また潰え、降るものが後を絶たなかったのでそこで厚くこれを招いた。行省范用吉は密かに降るものたちと通款をなし、もって報告を受けてはこれを質と為した。孟洪が朝廷でそれを申上げても朝廷は従わなかったので、孟洪は「三十年中原の人心を収攬したものが、今志を得ずして伸びざるとは!」ついに病を発し、休退を請う。檢校少師、寧武軍節度使を以て致仕。江陵府にて没。時に九月戊午、月は朔日。大隕石が境内に堕ち、雷鳴の如く音轟いたと思うや、薨ず。台風が発生して家屋の横木が折れた。訃報に接し、帝は震えて哀悼の意を示し、銀絹それぞれ一千を贈り、特に少師を贈り、のち更に太師を追贈、吉国公に封じ、諡は忠襄。廟号は威愛。

 孟洪は忠君礼国の念、金石を貫くべし。在軍中参佐部が論事を枉げると、人に謂い人これを異とした。孟洪は折衷の事について片語をもってのぞくことをしなかったので、衆士みな満足した。人を謁して客と遊び、老校退卒しても敬意を恩威と慰撫を以て接して敬意を表された。名と位は重しと雖も、これ鼓と旗を立て、将吏に臨んで色凛然、敢えてその死に泣かざるものなし。位を退くとすぐに焼香して地を掃き清め、背なしの椅子に背筋を伸ばして座り、蕭然として事の他に自分を置いた。貨殖に遠く、物事に深い味わいを好んだ。その学識は易学に顕著で、六十四卦を各々四句で繋げ、名付けて警心易賛。また仏教にも堪能で、自ら號して「無庵居士」といった。

………………

以上でした、それでは!

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遠蛮亭 2022/10/13 10:00

22-10-13.中国史-呂布

おはようございます!

本日拙宅売却について買取業者さんと相談があるので作業不能、なのでくろてんの推敲もやってる暇がなく、なのでどうしよーかなと思いましたが昨日の夕方作った翻訳文がありましたので、とりあえずそれでお茶を濁させていただきます。なんでもいいから毎日記事をあげる、というのを絶やしたくない遠蛮でした。

翻訳したのは三国時代の呂布。じつのところ、大して強いというイメージはないです。関羽・張飛・劉備と3対1で戦って圧倒したとかいうのも「三国志演義」の創作ですしね、董卓を殺したという功績で顕揚されているだけで、実際このひと名将と言えるのか? という気がするんですがどうなんでしょうね、一応、有利な状況で張飛には勝ってますが。あと、後漢の来歙はカクヨムさんにあげてからここにあげたかどうかわかんなくなってるんですが、今度確認して上げてなかったら改めてアップします。

………………

呂布(?-198)
 呂布は五原九原の人である。東漢末の群雄の一人であり、著名な将帥であった。呂布は驍勇善戦、当世当たるべからざる武勇をもち、「人中の呂布、馬中の赤兎」の誉称で呼ばれた。しかしながら勇はあっても籌がなく、物事万事に軽率であり、その場その場の利を求め、信義を積むことがなかった。ゆえに終わりを全うできず、失敗して終わる。

武芸超群・董卓を誅殺す
 呂布は人となり驍勇猛武、若くして并州で官途に就き、并州刺史・丁原は騎都尉に任ぜられて河内に屯すと、呂布を主簿に任じ自らの腹心として重用した。

東漢末、漢王室は衰微しその大権は落剝し、天下ふんぷんとして四方に群雄が起った。189年、漢の霊帝が崩じ、士大夫と宦官の間で権力闘争が繰り広げられた結果、士大夫の代表である禁衛軍官・袁紹が皇室外戚の何進に従い宦官排斥の密謀を進めたが、何進の妹何皇后はこれに同意しなかった。二人は相談し、河東に駐屯する董卓を迎えた。董卓は軍を率いて洛陽に進みつつ、まだ現地に到着する前から宦官誅殺の必要性を訴え、太后を脅迫した。当時、丁原は并州刺史として招きに応じ洛陽に赴いており、世上、まず宦官が何進を殺したので、ここにおいて袁紹は兵を率いて閹党を平定した。丁原はこのとき叛乱平定の功により執金吾。このとき董卓はようやく洛陽に入り、丁原殺害を画策した。一つには丁原の存在が邪魔で障害になるためであり、もう一つには丁原の勢力拡充のため相対的に董卓の勢力が薄められるためだった。これにより董卓は人を遣わし、丁原の曲部司馬となっていた呂布に調略をかけ、呂布の利を重んじて義を軽んじる人柄を使嗾して、丁原の油断に乗じこれを殺させた。董卓は丁原の部曲を傘下に編入し、勢力を大幅に増すと、ついに迫って袁紹、曹操らを走らせ、洛陽城を抑えた。

 董卓は呂布を騎都尉に任ずると高い信頼を寄せ、非常にその武勇を愛して親子の情誼を結んだ。呂布は当世比類ない膂力を誇り、号して《飛将軍》。のち、彼は徐々に昇進して中郎将に進み、都亭侯に封ぜられた。

強大な権力を手にした董卓は驕慢にして恐れを知らず、縁故によるひきたてを乱発したので、これに反発した敵がつぎつぎと頭角を現した。ゆえにどこへ行くにも安心できる身ではなく、つねに呂布に身辺を警護させる。董卓は性、凶暴にして躁鬱の気があり、ちょっとしたことで憎悪や恨みを興した。あるとき、呂布が言うとおりに動かないということで董卓は手戟をとってこれを投げつけ、呂布は閃光の身ごなしで遠く避け、なんども宥め賺すと董卓はようやく怒気を消したが、これ以降呂布の心には董卓を忌み警戒する気が首をもたげる。そうとは知らない董卓は呂布を中閣の守りに派遣し、呂布はこの機に董卓の侍女のひとりと密通した。

この少し前、司徒・王允は呂布を并州の勇士と称し、互いに深い結納を結んだ。呂布は王允に相対すと董卓が自分を殺そうとしていることを述べて嘆き、教えを請うた。当時王允と朴射の士孫瑞は密謀をめぐらして董卓誅殺を画策、呂布が董卓に恨みを持っているとみるや打算を巡らし、彼に内応を
請うた。呂布ははじめ躊躇い、「わたしと丞相(董卓)は父子の間柄であり、わたしが彼に叛けば世人のそしりを受けはしないだろうか?」と。王允は「あなたが彼を父と思っても、彼はあなたを子と思うだろうか? あなたたちの間に親子の情があろうとは思われないが」呂布はついに王允の乞いに応じた。

 192年4月、献帝の病気快癒を祝って朝臣が美央殿に会し、董卓は朝服に着替えて朝見に備える。防御のため、道路両脇に兵を並べ、左面には歩兵、右面には騎兵を並べ、宿営の帳に起居してそこから宮門に向かった。警備は厳にして森のごとく。同時に呂布に自ら親しい将領を率い従えさせて自らの身辺を警護させたが、このとき呂布は王允の使者に接し、機に乗じて董卓を殺すべしと聞く。呂布は騎都尉・李粛と勇士秦誼、陳衛ら十余人をみな衛士の服に着替えさせて北掖門に埋伏、董卓を待たせ、董卓がやってきたところに李粛が戟をあげて、勇士たちが一斉にかかることを計画した。しかしながら董卓はずる賢く、朝服の上に鎧と面頬をまとって備えた。李粛らは董卓の脇を刺したがトドメには及ばず、董卓は大いに恐れ、駕車から墜落していそぎ呂布を呼んだ。呂布は応じて応え、「逆族董卓、詔によって討つ!」槍をもって進み出、矛を構えて董卓を刺し殺し、部衆に命じてその頚を斬らせた。董卓の死によって国家の大害は除かれ、王允は呂布を称え奮武将軍に任じ、仮節、儀比三司を与え、爵を進めて温侯に封じた。

反復投奔、終に徐州を取る
 呂布が董卓を殺したことで、董卓の武将たちは呂布を畏れ、あるいは恨むようになった。その後まもなく、董卓の武将李寉が長安を攻撃して占拠、呂布はこれに抵抗すること能わず、ついに数百騎を率い董卓の首を鞍上にひっさげて武関を出、南陽に入り、袁術を頼った。しかしながら袁術は呂布の人となり薄情で義に薄く、反復常ないことを嫌い、ゆえに彼の亡命を容れず拒んだ。呂布は南陽を出て今度は河内の張楊に投じた。このとき、李寉は呂布の首に多額の懸賞金をかけたので、張楊の部下は謀って呂布を殺そうとした。呂布はここにもとどまること能わず、終に逃れて袁紹を頼る。

 呂布と袁紹は常山で黒山義軍の首魁・張燕と大いに戦い、この戦いで呂布は城を馳せ墻を飛ぶといわれる名馬《赤兎》と健将・成廉と魏越の働きで堅陣を落とし、敵将を殺し、陣を破って帰る。このようにして戦うこと10余日、張燕を壊滅させたが、呂布は破敵の功を自らの功績と誇り、袁紹からの援軍要請にも応じなかった。また、呂布の麾下の将領たちはみな横暴で恐れ知らずであり、軍法規律を毫たりと守らず、ここに袁紹と呂布の間にも空隙が生じる。呂布は自らこの地も安心できないと悟って、袁紹に請うて洛陽回復に向かった。袁紹はこれに応じ、呂布を司隷校尉に任じて送り出したが、ひそかに配下の将に命じて道中呂布を殺させようとする。呂布はこの陰謀を知ると、巧みに難を避けるべく、人を遣わして自らの陣中に演奏を成し、帳中に怠け者を装い、袁紹が油断したところを悄悄と逃げ出した。夜、袁紹の士卒は武器を取って呂布を殺そうと突入したが、すでに失踪してものけの殻であった。

 陳留太守・張邈は董卓の乱に際して曹操とともに起義した間柄であり、流寓の呂布を迎え、同時に兗州牧を譲った。呂布は濮陽を占拠し、郡県を自らの影響下に置く。ただ鄄城、東阿、范県のみが堅守して呂布を拒む。曹操はこれを聞いて驚き恐れ、急ぎ軍を返して呂布を撃つ。両軍は対峙すること100日を超えたが、結局曹操の大勝に終わり、呂布は東に逃げ走って劉備に身を投じた。

 このころ、劉備と袁術は淮河上に軍を並べて対陣し、一挙あれば大戦不可避。袁術は呂布の本性を知って呂布に書信を送り、ともに劉備を殺すべしと誓わせた。劉備は袁術と互いに生きるか死ぬかの恨みを抱いていた。袁術側からまず食料20万石が送り込まれ、つづく軍事活動の間の兵糧も断たせることがない見通しが立った。この状況に呂布は至宝を得るにしくと信じ、ついに水陸の兵を率いて進み、下邳を直撃、劉備の武将許耽を寝返らせ、呂布は手引きを受けて下邳に侵入、張飛が迎撃したが呂布の前に大敗した。時を同じくして呂布は劉備の老母と息子を捕らえ、これにより劉備は呂布に投降、呂布は袁術からの食料を引き続き受け取りながら劉備と講和し、勝手に劉備を豫州刺史に任命し、自らは徐州牧を自称した。

軒門射戟、去就常なし
 袁術は呂布を敵に回すことを畏れ、自らの息子と呂布の娘をめあわせようとした。呂布はこの申し出を受け、袁術は大将・紀霊に兵30000を率いさせて劉備攻撃のために派遣した。呂布麾下の武将たちは呂布に袁術の手を借りて劉備を殺すべしと勧めたが、呂布はそれを棄却した。「袁術が劉備を打ち破れば、北方の将領たちがこの地を包囲するであろう。われらとしては劉備を救わないという選択肢はない!」紀霊は呂布を説き伏せにやってきたが、呂布は敢えて彼らを進ませなかった。

 呂布は小沛の西南一里の距離に砦を築き、人を遣わして紀霊、劉備を宴会に招いた。宴も酣、呂布は紀霊に対し「劉備はわが弟のようなものだ、彼が攻められ苦しんでいるのを救うために私はきた。わたしはこのよろしくない戦いの確執からあなたたちを解き放ち、この紛争に和平を調停しようと思う」いいおわるや、一把の戟を持ち出し、営門に立たせると今度は湾弓に矢をつがえる。ぐるり周囲を見渡して、曰く「私の射る矢が戟の頭の小枝を、一発必中で射当てたなら、諸君らは囲みを解き、兵を已めて帰るべし。もしあたらずんば、思う存分殺し合うがよい!」諸将は息を飲み目を凝らし、呂布の一矢を見守る。まさに矢は戟の小枝に当たり、諸衆みな大いに呂布の弓術を讃えた。翌日、袁術、劉備軍双方は兵を已めて去る。

 しかしながらこのとき、劉備はすでに兵万余を擁しており、呂布はこれを放置することに不安に駆られた。よって自ら出兵して劉備を攻撃し、劉備は敵せずして曹操のもとに奔る。

 197年、袁術が寿春で皇帝を僭称。政敵たちへの圧力を軽減させ、同時に有益な力を持った領袖を抱き込む。5月、袁術は韓胤を派遣して呂布に皇帝僭称について説明し、子供たちの婚姻を進めようとした。

 沛の相(知事)陳珪は袁術、呂布の聯合して徐州と揚州がつながることを憂慮し、これは国家の害として呂布に勧め、婚姻を阻止しようとした。呂布はこの時かつて自分が難に堕ちた時、袁術が自分を容れなかったことの恨みを思い、心変わりして娘を婚姻話から降ろさせ、袁家との関係を断絶した。韓胤をとらえて許都の曹操のもとに送り、曹操は韓胤を殺した。

 この当時、献帝は流亡して呂布に駕を迎えられたが、呂布の部隊は食料が欠乏しており朝廷の駕を迎えるにあたっても無法であった。献帝は呂布を平東将軍に任じ、平詢侯に封じたが、しかし使者は呂布に詔を渡すことがなく、のち、曹操が派遣した奉車都尉・王則が、呂布のもとを辞した使者から詔書と印綬を迎えることになる。使者は早々に一通の書信を渡し、その中には呂布をして公孫讃、袁術らを討つべしと。当時陳珪とその息子陳登は曹操の前を辞して呂布のもとに赴き、呂布は終始かれらに応答しなかったが、今、詔書を見て大いに機嫌をよくした。陳登を派遣して献帝に恩を謝し、感激の意を表すと同時、曹操にも綬帯を送って友好を示す。

 陳登は曹操のもとに帰ると呂布が勇あれど智慧なく、去就が軽々であると告げ、曹操に建議してこれを倒し従えるべしと説く。曹操は「呂布の野心はさながら狼、飼いならすことは決して不可能。それはあなたでも、私であってもだ!」言って陳珪を2000石(太守)に任じ、陳登を広陵太守に任じた。別れに当たって曹操は父子の手を握り、「東方の事情は当分、あなたに任せる!」そういって陳登の部衆に密偵をつけ、呂布陣営の切り崩しを委任した。

 袁術は呂布が韓胤を曹操に差し出し、曹操が韓胤を殺したと知るや激怒した。大将・張勲、橋蕤、韓遷、楊奉らを聯合させ、七路に道を分かって同時に呂布を攻めさせる。衆寡敵せず、この当時士卒3000人、軍馬400しか手元になかった呂布に対して敵は数万、当たるべからざるを畏れた呂布は陳珪に「あなたがこの状況を招いたのだ、あなたがこの状況を解決すべきであろう。違うだろうか?」陳珪はあわてず騒がす「韓遷、楊奉らと袁術のごときは烏合の衆、かれらには謀略なく、こちらが籌をもって当たれば戦わずして自ら敗れるでしょう」すなわち、呂布は陳珪から策を授かり、韓遷、楊奉に手紙を送る。「二将軍は自ら親しく車駕を護って東から来るもの、われは董卓を殺したるもの。われらみな漢室のために大功あり、功名を竹帛に垂るものなり。いま袁術は逆臣にして誅殺を受けるべし。なんぞ彼と結んで我を攻めるか? われら同心協力して袁術を討つべし、それでこそ天下に功を立てるというもの!」呂布はまず一撃したあと、軍資輜重を韓遷、楊奉に帰した。二人は大いに喜び、下邳で軍を合して大いに張勲を破り、橋蕤を生け捕る。そのままの勢いで呂布と楊奉、韓遷は寿春に軍をすすめ、水陸併進して向かうところ捕虜を取り、鐘離を直撃、おおいに勝ちを得て帰る。

呂布の性格は武断なれど軽率、変化常なく、熱しやすく冷めやすい。これに対し、武将の高順は常々いさめ続けていたが、呂布の性根が変わることはなかった。まもなく呂布は曹操に反逆し、また袁術につく。

孤城を困守し、白門に命を喪う
 198年、呂布は高順と張遼を派遣して劉備を攻め、劉備は曹操に救援を求める。曹操は夏侯惇を派遣したが、夏侯惇は高順の前に敗北を喫してしまい、また劉備の家族が捕虜に取られてしまう。曹操は自ら呂布を討つと決し、下邳城下に進む。呂布はしばしば軍を率いて出戦するも毎戦利なく、退いて城邑を守りあえて戦わず。曹操は呂布に手紙を書いて利害得失を説き、投降を勧めた。呂布は本来謀略を持たない一介の莽夫であり、ゆえに曹操の言葉に心動かされた。ただ、彼の謀士・陳宮はかつて曹操のもとで罪を得たため、害されることを畏れ、呂布に「曹操は遠来、糧は限られ軍を長く保つこと能わず。将軍あなたは歩騎を率いて場外に出、私が城内を護り、内外呼応すれば、曹操が将軍を攻撃したなら私がその後背を衝き、曹操が城を攻めるなら将軍、城を救うべし。堅守すること数か月足らずで曹操の糧は尽き、我ら一挙曹操を破るべし!」呂布は確然として悟り、投降を忘れた。

 呂布は陳宮、高順を派遣して城を護らせ、自らは城を出て曹操の糧道を襲う計画を立てる。しかし呂布の妻子はこれに硬く反対し、彼女らは陳宮と不和をなした。呂布はいったん、城を出たが陳宮、高順の守城が一心ならざることを見て徐州の城地が惜しくなった。山河が惜しく、美女が惜しくなり、城に戻って袁術に救援を求める。

 袁術は呂布に婚姻話を破談にされたことで恨みを含んでいたため、求められた救援を拒絶した。のち、王偕、許汜暁が利害をもって袁術を説き、ようやく兵馬を整えて呂布の救援をなしたが、呂布は袁術からの大軍がやってこないことにかつての婚姻を後悔した。女装して鎧の上に巾幗をまとい、馬に跨り、夜陰に乗じて袁術のもとに向かうべく城から脱出したが、曹操軍の兵は包囲厳重、ひとひとり城を出ればたちまち万の矢が発せられた。このため呂布はなすすべなく城内に下がる。

 曹操は塹壕を掘って下邳を囲んだ。下邳はなかなか落ちなかったが、将士の心はたちまち倦み疲れた。曹操はしきりに挑戦してはすぐに撃退されたが、荀攸、郭嘉の進言で攻囲堅持をつづけた。ひと月ほどが経過して、呂布はこの困難な状況に弱気を興し、投降を考えたが、陳登が止めた。呂布と曹操の戦いは心理戦の様相を呈し、どちらが強い意志で守り抜くか、あるいは攻め続けるか、勝者はそこに収斂された。時間が伸びるにつれて、すべての人の心はさらに退廃に流れた。呂布の軍中には侯成、宋憲、魏続らがいたが、彼らは陳宮を捕らえて投降してしまう。呂布は変を聞いて部下とともに白門楼に登上、曹操軍は一挙攻撃の勢いを増したが、呂布を横死させるに忍びず、また呂布の左右も主君の首を取って降るに忍びず、あえて触れることをせず。しかれど時勢はすでに覆すこと能わず、ついに呂布は楼を下りて投降する。

 呂布は曹操にまみえると「いまこそまさに天下定まれり」と言った。曹操が訝ると「天下にもっとも聡明な明公(曹操)がもっとも手を焼いたこの呂布が、いま明公に膝を屈す。今後は私が騎兵を率い、名公が歩兵を率いれば、天下を定めるに憂いなし!」首を巡らし、今度は劉備に「弟玄徳、貴公は今貴賓の席にあるが、かつて私が袁術との仲介をなしたことを忘れはすまい? 縄目がきつい、貴公が弟なら、苦境の兄を助けてはくれまいか?」曹操はこれを聞き、嘲り笑った。「虎を縛るのだ、きつすぎるということはない」とはいえ人材を愛する曹操が逡巡し、許しそうになったとき、劉備が口を開いて言った。「明公、あなたは呂布が丁建陽(丁原)に為したことを忘れましたか? 董太師にしたことも?」曹操はこれをきいて欣然とうなずいた。呂布は目を怒らせて劉備をにらみ「この大耳野郎が! いちばん信用ならないのは貴様だ!」と叫んだ。その後まもなく、呂布は首を絞められ殺される。

………………
以上でした、それでは!

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遠蛮亭 2022/09/27 08:38

22-09-27.中国史-前漢の李広

おはようございます!

昨日は帰ってきてからずっとエロ小説を書いておりまして、それ以外なんにもせず一気に2万文字とか書きました。一日の平均執筆量が4000文字なので半日でその5倍ですが、そのせいでゲーム制作とかお絵描きとかくろてん第5幕とかは進みませんでした。完全に趣味のものなのでここにお見せできるようなもんでもないんですが。なので今朝はなにも上げるものがないかなぁと思ったのですが、こういうときのための歴史書翻訳。ひとまず当座しのぎとしてこちらを。前漢の飛将軍、李広。「岩に立つ矢」の故事の将軍です。霍去病との対比で割を食っちゃってるひとですが、人の苦労がわからないタイプの天才である霍去病より個人的には苦労人の李広が好き。本当ならもっと出世できるはずの人物なんですが、漢朝では当然の賄賂を贈ったりとか考えもしないので出世できなかったのですよね。

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李広(り・こう)
 李広は隴西成紀の人である。祖先の李信は秦の時代の将軍で、燕の太子・丹を擒えたものである。李の家は代々射術に習熟した将門であり、孝文帝の十四年、匈奴が大挙?関を侵すと、李広は良家の子弟たちによる軍を率いて匈奴に抗撃、よく射て虜を殺すこと多数。戦後、郎、騎常侍とされた。しばしば文帝の射猟に随い、あるとき猛獣と格闘してこれを殺す。文帝は「惜しむべし、李広は生まれるべき時を誤った。高祖の御世なら万戸侯にもなれたであろうに!」と痛惜した。

 景帝が即位すると騎郎将。呉楚七王の乱において驍騎都尉を任され、大将・周亜父に随い昌邑の戦いで名を揚げる。梁王は李広に将軍の印璽を授けたが還っても褒章が出ることはなかった。のち上谷太守となり、匈奴としばしば交戦。典属国の公孫昆邪は哭いて言うに「李広の才気は天下に二つとなし。その能を自負ししばしば敵と勝敗するが、恐るべきはこれ犠牲の数なり」のち昇遷して上郡太守となる。

 匈奴が上郡を侵すと、皇上は中貴人(それなりの貴人?)数人を派遣し李広に随わせて匈奴との戦闘を学ばせる。中貴人は数十騎ではせ参じ、匈奴三人と出会ってこれと戦う。匈奴は矢を射て中貴人を射、その騎するところを悉く殺す。生き残った中貴人は李広のもとに奔って、李広曰く「これまさに射鵰(特に射撃を得意とするもの)の者に違いない」百騎を従え三人を追う。三人は馬を失い徒歩で歩いていたから、李広は三箭をもってこれに射かけ、二人を殺し一人を擒える。果たして匈奴射鵰の物であったから、縛り上げて山に登り、匈奴数千騎を睥睨して、はたしてもって騎虜を誘う。匈奴は山の上の要地を取った李広に驚いた。李広曰く「我が大軍数十里のところにあってかくのごとく敗走し、匈奴の追射を受け命ともし火。今我が留まらば匈奴は必ず我が後ろに大軍ありと察し、我を撃つことなし」そこで李広曰く「前へ!」匈奴の陣からおよそ二百里離れたところで止まり、令して曰く「みな下馬して鞍を解け」と言えば騎兵応えて「虜は多くかくのごとし。今鞍を解いては緊急に即応できませぬ。どういうことでありますか?」李広曰く「かの虜衆を謀にかけるため、鞍を解いたと見せるのだ。今鞍を解いて走れずと見れば、虜賊はその堅陣を解くであろう」まさに匈奴は迂闊に攻撃せず。しかして匈奴に白馬の将領あって出撃したので、李広は裸馬にまたがり、十余騎を従えてこれを射て、白馬の将を討ち取り、さらに軍を回頭させ百騎をもって本陣に当たり、鞍を解き、全軍馬を開放せよと令す。時まさに日暮れ、匈奴はついに最後までこれを怪しみ、敢えて進まず。夜半、匈奴は漢の伏兵部隊あるを知り、全軍を還す。翌日晨、李広はその大部隊に帰属した。戦後、隴西・北地・雁門・雲中太守となる。

 武帝即位すると左右の近臣たちが李広の名将であることを告げたので、未央衛尉とされる。程不識もまた長楽衛尉。程不識は李広とともに辺境を守る太守であり、屯田して辺境を守る。匈奴が侵犯してきたとき、李広の軍には厳格な規律などと言うものはなく、隊列も陣勢も良い水草が茂るところに屯し、往々に停留し、人おのずから便じ、夜になれば誰かが自主的に巡回した。府省の文章などというものもなく、軍はおのずから動く。程不職曰く「李将軍は至極簡便、しかるに虜卒に対するに禁ずるところなく、またその士卒また逸楽であって、これ死を恐れず。わが軍は煩擾(厳しく軍律を定めている)といえども、虜卒相手にここまで放縦にはやれぬ」このとき漢の辺郡の守りと言えば李広、程不職が名将と知られ、匈奴は特に李広を畏れた。士卒の多くは李広の放縦を喜び程不職に従うを苦としたからである。程不職は孝景帝のときしばしば直言諫言して、太中大夫となり、人となり清廉で法令に厳しかった。

 のち漢朝は馬邑城に単于を誘う。大軍を馬邑の路傍に伏せ、李広を驍騎将軍、属護軍将軍となした。単于はこれを気取り逃げたので、漢軍はみな功がなかった。のち四年、李広は衛尉から将軍に遷され、雁門から出て匈奴を討つ。匈奴は大軍であったため李広は敗北し、生捕られる。単于はもとより李広の賢者であることを聞いていたので、令して曰く「李広よ必生の道を取れ」と。虜衆は騎兵をもって李広を擒えたので、李広はその当時傷を負い、彼らは二頭の馬で李広を挟んで護送した。兜にもって繋ぐ縄で李広をふんじばった。李広は走ること十里、死んだふりをし、傍らにやってきた一少年の馬を奪って奔ること数十里、ようやくその余軍と合流する。匈奴は百騎でこれを追い、李広は少年から奪い取った弓でこれを射殺し、難を脱す。これにより漢朝は李広を下吏に落し、法廷の裁判で人馬をいたずらに失い、自らは捕まったという不名誉により、斬首となるところ罪一等を免じて庶人とされる。

 数年後、李広と藍田県のさきの潁陰侯・灌強は、しばしば山中に猟りに出た。またまた一騎で出かけて夜をすごしたとき、他の人と田間で酒を飲んだ。覇陵亭に戻り、覇陵の尉が酒を飲んでいるのを見て、怒鳴って止めさせる。「俺は昔名をとどろかせた李将軍だ」と名乗れば尉、応答して「今なお将軍が夜で先に進めないなどということがあるだろうか、いかに!」ということで李広は覇陵亭の下に拘留された。しばらく経って、匈奴が西の遼西に攻め入り、太守を殺し、韓将軍を敗った。韓将軍はのち右北平に遷り、死ぬ。ここにおいて皇上は李広を召し、李広は右北平太守を拝す。李広は請うて覇陵尉とともに往くことを願い、軍中に至ってこれを斬り殺した。上奏して謝罪の文を述べたが、武帝は応えるに「将軍とは国家の爪牙なり。『司馬法』に言うではないか、『車に乗って式せず、喪に遭って服さず、旅を振るわせて師を撫し、征をもって服さず。三軍を率いるの心、戦士将門の力、ゆえに怒りを形にして千里を竦ませ、威を振るってすなわち万物を伏す。これ名声を夷貉によって穢され、威稜隣国に轟くなり』と。ますらおが忿に報いて害を除くは、残酷と屠殺をもってすべし。朕の図るところそれ将軍においてや。もし蹉跌して冠を免じ、頽廃の罪を請うならば、あに朕の指さすところかな! 将軍は師を率いて東を征し、辺境を安定さす。のぞむは以て右北平盛秋の戦門」として不問に付した。李広は辺境の郡に在って匈奴の号して曰く「漢の飛将軍」と。匈奴これを避け、数年境内に入ることなし。

 李広は猟りに出て、叢の中に石を見る。これを虎と見違えて弓弦を挽けば矢は石に刺さり、改めて見るに虎ではなく石であった。他日同じ石を射ても矢が刺さることはなかったという。石を虎と見違えることで人間の集中力と膂力の限界に達していたのであろう。李広は郡内に虎ありと聞けば、常に自らこれを射て殺した。右北平で大虎を射たときは、虎に傷を受けながらもやはりまたこれを射殺す。

 石建が没すると武帝は李広を召して後任の郎中令に据えた。元朔六年、李広はまた将軍となり、大将軍(衛青)に随い定襄郡から匈奴を伐つ。諸将の多くが虜を斬り擒えて功により侯に封ぜられる中、李広は一人戦功がなかった。これは匈奴が飛将軍を畏れて避けたためで本来李広の不名誉ではないのだが。三年後、李広は郎中令として四千騎を率い、博望侯・張騫とともに右北平から塞外に出て道を分かつ。往くこと数百里、匈奴の左賢王は四万騎をもって李広を囲んだ。李広の軍卒みな恐れ、李広は息子の李敢に向けて救援要請の手紙を出す。李敢は精鋭数十騎を率いてただちに虜衆に突撃、左右に斬って道を開く。李広に向けて「胡虜の相手など簡単なものです」と言ったから、軍士たちはみな安らいだ。李広は円形陣を形成したところに虜賊の急襲が湧き起こり、矢の降る事雨の如しで漢兵の過半が死に、漢軍の矢は悉く尽く。李広は将士に令して把弓を開かせ、不要の物を射掛けさせた。李広も自ら大黄の弩を敵の副将に発し、殺すこと数人。匈奴ようやく囲みを解き、あたかも天は闇黒、吏士みな顔色を失うが、李広は神気横溢として平素と変わらず、軍はきわめて治まり勇気百倍。翌日、戦闘継続。博望侯の軍至り、匈奴遂に軍を解いて去る。漢軍は疲労困憊の極にあり、追撃は不可能であった。このとき李広の軍の全員が覆滅、薨されて帰る。漢朝の法律では戦闘終局直前まで間に合わなかった博望侯は死罪だが金をはたいて罪を減じ、平民とされた。李広も自軍を全滅させたとして功罪相半ばし、よって賞与はなし。

 はじめ、李広と従弟の李蔡はともに郎となり、文帝に仕えたが、景帝のとき、李蔡は二千石。さらに武帝の元朔中、軽車将軍として大将軍とともに右賢王を討った。功績により中率、楽安侯。元狩二年、公孫弘が丞相になったころには、李蔡は名声では李広に遠く及ばないものの、官爵九卿では李広を大きくしのいだ。李広の軍の軍吏と士卒は(この分なら自分が李広をしのいで)あるいは封侯を取れるかもしれんと思った。李広は仲の良い王朔に曰く、「漢から匈奴への遠征、李広はいまだかつてその中に居ないことがなかったが、妄りに動く諸校尉や、自分に才能の及ばぬものが軍功を取って侯となるのを何十人と見てきた。吾は彼らの後塵を拝し、しかるについに寸尺の功も封邑も得ることなく終わるのだろうか、何ぞや? 吾には侯になるだけの実力がないのだろうか」王朔応えて「将軍自ら念じてあにかつて恨むものありや?」李広曰く「吾は隴西を守った際、羌族の反逆八百人を降し、詐って同日これを殺した。今怨み事があるとすればこの一事のみ」王朔曰く「すでに降りしものを大いに殺して禍いなし、これ将軍が侯になれぬ所以なり」と。

 李広は七郡の太守として前後四十四年、得た賞与はすべて部下に分配し、食事は士卒とともに摂った。家に余財はなく、一生ついに産業や不動産を語らなかった。李広は身長高く、腕長く、これよき射手の天稟であり、子孫や他人が彼に射術を学んでも決してその高みに到達することはなかった。李広は口数少なく、あまり余人と語りたがらず、軍略の計も地図さえあればそこを射るのみで、もっぱら射術に没頭した。将兵に水が足りず、士卒の水が尽くと、自ら水を近づけず、糧が尽きればやはり自分も食べなかった。寛厚な性格で部下を虐めることがなく、士卒から非常に愛される。彼の射術は敵人を見るや数十歩の距離でも的を外さず、発すれば必ず敵を斃した。しかし兵を帯びての作戦では困辱を受けること多く、しばしば猛獣を射倒しては無聊を慰めたという。

 元狩四年、大将軍と驃騎将軍(霍去病)による大挙兵に李広は自らも随行をしばしば請うたが、武帝は李広も年なのだから、といって許さなかった。しばらくしてようやく許され、前将軍とされる。

 大将軍は出寨に際して、捕虜から単于の居場所を探知し、自ら精兵をもってこれに向かう。李広は右将軍の軍とともに山東道を進む。東道をやや迂回しつつ、大軍で水草少ない道をゆき、その勢は衆を集めての行進に向かぬ。李広は辞して曰く「臣は前将軍となり、今大将軍とは違う路を進んでおりますが、いわんや結髪(元服)の時の匈奴戦のごとく、今一度単于と相対したいもの。願わくば臣を前将軍の任から解き、先鋒として単于の前に死したいものであります。」大将軍は密かに皇上の内意を受けており、李広と雖ももはや老年であり単于の軍に当たるべからず、恐れるは彼の意を汲まぬようにと。このとき公孫敖が新失侯、中将軍となっており、大将軍は彼を単于の主力に充てるつもりであった。なので李広の進言は徒労に終わる。李広はこれを知り、硬い決心をもって大将軍に単于との対決を求めるが、大将軍はあくまで聴かず、長史に令して封書し李広を彼の幕府に引き下がらせる。封書には「急ぎ部をもって詣られよ、書の如く」とあり、李広は感謝するどころか大いに怒りを発して右将軍部の趙食其と合し東道をゆき、そして道に迷った。あとから進発した大将軍は単于と接戦してこれを退走させ、良く戦果を挙げて還る。大軍を南して向かった李広の前将軍部と右将軍部はようやく砂漠に出た。李広は大将軍がすでに勝利を得て還るのを見て兵を合す。大将軍の長史は酒と食事をもって李広に給わり、趙食其が道を間違えた件について「衛青は天子に報告し、貴方を戦場から遠ざけるためにこうしたのです」と言われれば李広に還す言葉もはやなし。さらに大将軍部の長史は李広の幕府に人員帳簿がないことを責める。李広は悄然と「校尉たちは無罪である。これすなわち我が自ら道を失ったのみのこと。今自ら帳簿を為さん」と語った。

 幕府に還り麾下に謂いて曰く「李広は結髪以来匈奴と立戦うこと大小七十余、今幸いにして大将軍が単于の兵に接し、大将軍はいたずらに李広の部隊を遠ざけ道に迷わしめた。これなんぞ天命に非ずや! 李広は齢六十余といえど、最後は刀筆の吏に裁かれまい!」と言ってついに刀を抜き自ら首刎ねた。百姓(民衆)これを聞き武帝の認識の不是を嘆き、老壮みな涙を流したという。ちなみに右将軍・趙食其の下吏は死罪が確定したが、金を払って庶人に落された。

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