弐キ参スケと大陸浪人とアジア主義者
弐キ参スケと大陸浪人とアジア主義者
PCのトラブルで執筆が余計に停滞している状況に頭を抱えているが、そうはいっても、予備PCが起動するから一応は資料を集めたり検討すること自体は出来る。
満州の現状というところで作話が止まってしまったのだが、満州といえば弐キ参スケ、彼らをどう配置して動かすか、これによって満州は大きく異なる。
史実37年を基準に考えてみると弐キ参スケの立ち位置は以下の通りである。
東條英機(とうじょう ひでキ、在満期間:1935年 - 1938年、離満前役職:関東軍参謀長)
星野直樹(ほしの なおキ、在満期間:1932年 - 1940年、離満前役職:国務院総務長官)
鮎川義介(あいかわ よしスケ、在満期間:1937年 - 1942年、満業(満洲重工業開発株式会社)社長)
岸信介(きし のぶスケ、在満期間:1936年 - 1939年、離満前役職:総務庁次長)
松岡洋右(まつおか ようスケ、在満期間:1921年 - 1930年、1935年 - 1939年、離満前役職:満鉄総裁)
いずれもこの時点で満州経営のトップ層なのである。
よって、「このはと」世界においても同様な立ち位置を想定すべきものだと思う。
東條閣下は関東軍総参謀長(史実よりも早く総軍となっているため)
星野は満州総督府:総務長官(大蔵省からの出向)
鮎川は日産コンツェルン総帥
岸は満州総督府:通商産業長官(商工省からの出向)
松岡は満鉄総裁ないし満州総督府:外務長官
このあたりで想定しているけれども、どうだろうか?
まぁ、岸の場合、内地で商工官僚として統制経済の総指揮を執っていても不思議ではないのだけれども。変数として考える限りは岸の立ち位置の変化が大きいのかなと思う。
松岡はその主張から満州経営という点で史実通りに満鉄や満業あたりにいるのが自然だろう。
ここからは追記する内容。
史実のこの時期、大陸浪人とそれらと密接に関係あるアジア主義者は政権中枢への政治工作や一種のロビー活動を行い、大陸政策や外交政策に影響を及ぼしつつあった。
犬養毅、頭山満などがその最たる人物であるといえる。尤も犬養は5・15事件で死亡しているけれども、その周辺は明らかにアジア主義と関係がある。また、頭山などは亡命インド人との関係も深い。
亡命インド人の一例をとると、大英帝国との関係から基本的には受け入れ拒否、強○送還、逮捕という姿勢をしていたが、対英関係の悪化によってアジア主義の影響により利用する方向に舵を切っていった。
これら外交政策を左右するほどの影響力が当時のアジア主義者にはあった。これは軍部にとっても都合がよかった点が大きい。進行中の支那事変や満州事変以後の対外関係の悪化という世情、これを正当化、大義名分化して国家総動員体制を構築するためにも都合がよかったのだ。
だが、「このはと」世界では福沢諭吉の「学問のすゝめ」をベースとした積極的な入欧/欧州協調政策を採っている。そのため、アジア主義は国策に反映されない状況となっているのだ。
しかし、赤化勢力と違い、アジア主義者は弾圧されていないため、一種の野放し状態ではある。影響力は少ないだけで、温存されているのである。
そして、問題はアジア主義者というよりは国外にいる大陸浪人だ。国内でくすぶっている連中に比べてこいつらはより過激派といえる。
史実では積極的に満州経営や支那進出を誘引する方向に動くなど、ある意味では軍部を振り回し、同時に手を組むという存在でもあった。また、政治的にも国内のアジア主義者と同調して世論を周旋している。
彼らの行動そのものは国益を求めてのものであるともいえるが、同時に手段と目的がすり替わっていることも見受けられる。存在意義を見いだすために、大日本帝国という国家を巻き込んだともいえる。
彼らの思想はある意味で「このはと」世界の大日本帝国政府および東條-有坂枢軸の国策と相反するものであり、それゆえに現地支那人や朝鮮人との提携や場合によっては赤化勢力と手を結ぶということもあり得る。
要はテロの温床であるといえる。しかも資金源は支那におけるダークマネーだ。その場合、中原における火種となっても不思議はない。
特に山東を根城にした伊達順之助なんかはドイツ相手に喧嘩売っても不思議はない。そして、その武器の出所は米ソとなればどうだろうか?
指導者が日本人なんてバレたら日独関係に亀裂が入るし、国内では大陸浪人を支持するアジア主義者のデモや政治的圧力すらあり得る。
とても厄介な火種を放置してしまった気がする。