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神原だいず / 豆腐屋 2024/07/03 19:00

【再掲 / 玲と悠馬⑦】7月13日

 俺が一体、何をしたって言うんだ。

「ひ、ぐっ…ぐぅ…っ」
 どうして、こんなにつらい目に合わなければならないんだ。

「やめて、おねが、おねがい、やめて…っ!
 どうして俺なんだ。


 それは、高校一年生の夏だった。
 今でも日付を覚えている。7月13日。
 身体を滑り落ちていく汗と涙、精液の不快さ。埃っぽい、社会科教室の床。
 ずきずきと痛む背中。
 もう顔も思い出せないけれど、俺を組み敷いたあのクラスメイトの、欲でぎらついた目。

 それから始まった真っ黒で救いがたい日々、恋焦がれた一人の女の子、安堵で崩れ落ちた瞬間。

 全部全部、一生忘れる事はないだろう。

 高校一年生。
 その日、日直だった俺は、先生に授業で使った地図の運搬を頼まれて資料庫と化した旧校舎にいた。
 社会科資料室の奥に地図を立てかけ、ふうと一息ついた時、後ろで扉がガチャリと音を立てた。
 振り返ると、同じクラスの男子が立っていた。
 どうしたんだ、と声をかける暇も無かった。

 そこから、初めてを暴力的にかっさらわれるまであっという間だったからである。

「あ、いた、いたい…っ」
「うるさい…っ!」
 クラスメイトは、自分が締めていたネクタイを外して、俺の口の中に無理やり突っ込んできた。
 苦い布を必死に噛み締め、痛みと屈辱に耐える事しかできない。

 気持ちよくなんかなかった。
 前戯もほぼなく、十分にほぐされもせず突っ込まれたせいで、すさまじい圧迫感と痛みが襲って、息ができなかった。
 クラスメイトが動く度に、貫かれた場所から痛みが広がる。

「むぐ、ぐ、ぐう…っ!う、うぅ…っ」
 俺の中心は完全に萎えきっていた。
 体を冷や汗が伝う。
 もう、やめてくれ。許してくれ。
 俺の何が悪かったのだろう。彼とは同じクラスになってから、二言三言会話をしただけなのに。

 血が出ているのだろうか、埃っぽい部屋は少しずついやらしい水音でいっぱいになっていく。耳元で荒い息が聞こえる。
 怖くて怖くて必死に目をつぶった。

 突然、彼は陰茎を抜き、俺の手首を離した。
 横目でちらと見ると、赤く痕が残っている。
 社会科資料室の床でぐたりと動けなくなった俺を見下ろしながら、彼は俺の体に向かって精を吐き出した。その瞬間、彼は小声でぼそりとつぶやいた。


 俺ではない男の名前を。


 口からネクタイがずるりと抜かれる。唾液でテラテラに光るネクタイはもはや何か気味の悪い生き物のようだ。


「悪かった」
 彼は一言それだけ残して部屋を出ていった。教室の外でガタガタと音がして、足音が遠ざかっていく。

 謝るなら俺のこの痛みを消し去ってくれ。
 こんな理不尽に体を暴かれて、挙句の果てそれが自分ではなく別の相手への欲情を発散するためだなんて。
 こんな事、誰にも相談できない。
 どうしたら、いいんだろう。怖いのに、痛いのに、一人で抱え込むしか方法がない。

「誰か助けて…」
 セミの鳴き声がどこか遠くの方で鳴り響いている。
 誰かのすすり泣きがひどく近くで聞こえるが、それは俺のものだったんだろうか。


 その事件以来、俺はクラスの誰にも心を開く事などなかった。
 それまでに友人は数人いたけれど、付き合いが浅かった事もあっていつしか、距離があいていった。
 いつも、教室の隅で一人ぼおっとしていた。
 誰かと関わる事が怖かった。
 また、何か危害を加えられてしまうんじゃないか。
 手が自分の方に向かって伸びてくるだけで、身構えてしまう。
 手が少し触れただけで、恐怖で声が出なくなる。

 俺を襲ってきたクラスメイトは、夏休み後に転校していた。
 文句の一つも言ってやる事ができなかった。

 情けなくて、苦しくて、だけど怖いから誰とも関わりたくなくて、学校も休みがちになったし、部活動もやめてしまった。
 小さいころから大好きだった剣道を、本当は続けたかったけど、それどころじゃなかった。

 そして、2学期のとある日。
 ついに出席日数が危うくなって、放課後に担任に呼び出されてしまった。

「渡、このままのペースで休み続けると、出席日数が足りなくなるかもしれない。お前は、成績はいい。だけど日数が足りない生徒は留年になるんだ。できるだけ学校に来てくれ」
「…はい」

 職員室の端。
 面談スペースと称されたその小部屋で、担任と向かい合って座って二人。
 机の下の手が震えている。個室で誰かと二人きりになる事も怖かった。
 担任がそんな事してくるはずないのに、恐怖で頭がいっぱいになる。

「何か、悩みごとでもあるのか。例えば…友人関係でうまくいってない事があるとか」
「いえ」
 いえるわけがない、あんな事。だいたい、もうあのクラスメイトはいないのに。

「親御さんと何かトラブルがあったわけではないよな」
「…いえ」
 早く、外に出してほしい。声が震える。
 そのとき、俺の様子がおかしいのに気づいたのか、担任が俺の肩に手を置いた。
 身体から一気に血の気が引いていく。

「だ、大丈夫か、お前」
「いや、あの、あ、ちが、大丈夫です」
「体調悪いんじゃないのか、顔真っ青だぞ。今すぐ一緒に保健室に行こう」
「ひ、ちが、やめて、なんでもない!なんでもないんです!失礼します!」

 俺は椅子から勢いよく立ち上がり、ダッシュで職員室から出た。
 泣きながらめちゃくちゃに走った。どこに向かっているかもわからない。
 何から逃げているのかもわからない。
 前も見ずに、無我夢中で走っていると

「うわっ!」

 突然誰かと思いっきりぶつかってしまった。
 正面衝突して、二人とも尻もちをつく。
「いたた、びっくりした…」
 目の前で、一人の女の子が困ったように笑っていた。
 セーラー服の右胸にある校章の色は、赤色。同じ学年だ。
 だけど、彼女の顔を見た事は一度も無かった。別のクラスの子だろうか。

「ご、ごめん。前見てなくて」
「いいよ、あたしも前見てなかったから。…あれ」
 彼女は、俺の顔を覗き込んできた。急に距離を詰められたので、一瞬後ずさる。

「あ、ごめん、距離近かったね。いや君、泣いてるのかなって、思ったんだけど」
「…」
「なんか、あったの?」
「…なんでもない」
「あ、彼女に振られたとか?」

 ニヤニヤと笑いながら聞いてくる彼女に、何だか無性に腹が立った。
 こっちは必死で悩んでいるというのに。一人で耐えているっていうのに。
「あんたには、関係ない!」

 そう叫んで、俺はその場を走り去った。
 二度と関わり合いになりたくない、あんな奴。
 いつの間にか、悲しい気持ちは完全に怒りへとシフトされていた。

 この時、ぶつかった女の子は一体誰なのか?
 そう、お察しの通り、三河 玲である。

 当時は彼女が俺を救ってくれる事になるなんて、つゆほども想像していなかったのだが。


 なんとか出席日数をぎりぎりでクリアし、2年生に進級するころには、少し気持ちも落ち着いてきていた。
 どうせ人と関わるのが怖いなら最初から関わる事もなく、のらりくらりと一人で過ごそうと決めて、始業式の日、教室に入った。
 苗字が「渡(わたり)」で万年名簿番号は一番最後なので、教室の一番隅の席に座る。

 教室は人がまばらだったが、しばらくするとがやがやと女子数人のグループが教室に入ってきた。
 部活の知り合いなのか、去年クラスが同じだったのか、ぺちゃくちゃとおしゃべりをして楽しそうだ。

 まあ、関わり合いになる事もないだろうと、机に突っ伏して眠ろうとしたその時だった。

 振り返ったグループの女子一人と目が合った。
 なんだか見覚えがあるような、ないような。
 次の瞬間、彼女が
「あーっ!」
 と大きな声を出した。

「なになに、どしたの、玲」
 周囲の女子はびっくりして彼女を見たが、彼女はお構いなく俺の席に近づいてきた。

「ねえねえ、去年さ、廊下でぶつかった人だよね。あの、泣いてた!」
「げっ」

 最低な気分だ。
 泣いてた事もばらされるし、一番関わり合いになりたくないタイプだと思っていた奴が同じクラスだし。

「やばいよ、あんた嫌がられてるじゃん」
「えー?ひどい、仲良くなりたいと思ったのに」
「やめときなって。一人でいるのが好きなんだって、きっと」
「そうなの?君、一人でいるのが好きなの?」
「…ほっといてくれよ」
「ほら、玲、行くよ」

 そうだそうだ、もうほっといてほしい。
 中途半端に関わって傷つけてくるなら、最初から関わり合わないでくれ。
 その時、彼女がぼそりとつぶやいた声が聞こえた。

「どうもそんな風には、見えないんだけどなぁ」
「…え」

 振り返った時には、彼女はもう友人たちと一緒に教室の中央に向かっていた。
 一人取り残された俺は、しばらく彼女から目を離す事ができなかった。
 あのヘラヘラ笑っている女が、本当にさっきの言葉を言ったんだろうか。

 最後に、彼女がぼそっと言った言葉の意味を考えあぐねていた。
 彼女は、俺の何を見て「本当は一人でいるのが好きじゃない」と思ったんだろうか。
 頭の中に、少しずつ少しずつ疑問符が生まれ始めていた。


 それからというもの、彼女はしょっちゅう俺に構ってくるようになった。
 今は、彼女がずっと話しかけてきてくれたおかげで、他人と再び関わり合う事に少し前向きになれたから、本当に感謝している。

 だけど、当時は全くそんな風に思ってなかった。

「わたりー、渡悠馬くーん」
「…うるさい」
「眉間に皺寄せちゃって、老けちゃいますよー」
「…しつこい」
「にこって笑ったら絶対可愛いのに!」
「いい加減にしろ!しつこいって言ってるだろ!」
 
 最初の席替えで、隣の席になった事が運のつきだった。
 彼女はいつもいつも暇さえあれば俺をからかった。
 授業中に問題を解いているときも、移動教室の準備をしているときも、朝学校に来て、夕方帰るまでずっと。
 友人が多い彼女は、おしゃべりが上手で、口下手な俺からすればかなりうるさい存在だった。

「三河さん、渡くん。仲良しなのは良い事だけど、静かにしなさい。授業中よ」
「いや、仲良しじゃな…」
「おしゃべりする暇があるなら、次の問題を解いてもらいましょうか。はい、じゃんけんで負けたほうが前に出て」

 数学担当の市川先生は口元に笑みを浮かべているが、全く目が笑っていない。
 相当に怒っているようだ。
 有無も言わさぬ迫力で、こちらをじろりと見つめてくる。
 ついでに、クラスメイトたちもにやにやとこちらを見つめてくる。

 隣の席にいた三河が、机をシャーペンでこんこんと叩いてきた。

「…ねえ、渡が解いてよ。あたし、あんな三角形とか円がぐるぐるしてる問題わかんないよ」
「俺だってわかるか。あれ、特進クラスが解くような問題だぞ」
「じゃあなおさら、あたしじゃ無理だよ。君、頭いいでしょ。解いてよ」
「無理だ。じゃんけんしてどっちかが怒られるしかない」

 二人して声を潜めて、問題の解答権を押し付け合う。
 その間に市川先生はしびれを切らしたのか、俺たちの机に向かってつかつかと歩いてきた。
 そして、勢いよく机の上に大量のプリントを叩きつけた。

「あの、せんせ?これは…」
 ぞっとする量だ。
 しかも、先生の手のひらの隙間から見える問題文も、かなり凶悪なレベルな気がする。

「以前から、私語が多い生徒に関してはペナルティを与えますと通告していました。次回の授業までに、全て終わらせて提出しなさい」
「いや、次回の授業って確か明日の一限じゃ…」
「いいですね」

 三河の悲痛な訴えをかき消すかのように、チャイムが鳴った。
 弁解のチャンスも完全になくなってしまった。
「では、本日はここまで!」


「お前のせいだからな…」
 放課後の教室。目の前に積みあがる片付かないプリントの山。
 カチカチと苛立たし気にシャーペンをノックする音。
 ひっきりなしにこぼれるため息。

 俺の恨み言に、三河がねちっこく反論する。
「渡がうだうだ言い訳して問題解かないから、先生が怒ったんだよ…」
「じゃあお前が解けばいいじゃないか」
「できないから頼んだんだよ。だいたい、そっちが叫んだせいで注意されたんだから!」
「ちょっかいかけてきたのはお前だ!」

 お互い、椅子から半立ち状態でにらみ合う。
 一触即発。
 どちらかが何かを言えばつかみ合いの喧嘩にでもなりそうな緊張感だ。
 しかし、しばらくして三河がふうとため息をついて椅子にもたれかかった。

「…やめよう、不毛だよ」
 プリントをまるで雑巾のようにつまみ、ふらふらと目の前で振りながら、三河は半ば死んだ目でこちらを見た。
 友人と話している時からは想像できないほど虚ろな表情に、一瞬どきりとするが、すぐに彼女は俺から目を逸らした。

「ここで言い争っても何にもならないよ。数学の課題は提出しなきゃいけないんだもん」
「…まあ。そうだけど」
「ちょっかいかけた事、気悪くしたなら、謝るよ。ただ、嫌がらせのつもりじゃなかった事だけはわかってほしい」

 彼女は当時、長い黒髪だった。
 初夏にしては蒸し暑いが、教室のクーラーはまだつけられない。
 彼女は右手首につけていたヘアゴムで、髪をまとめ始めた。
 その間、静かに彼女は話し続ける。

「新学期になってからずっと、渡と話してみたいと思ってたの。本当に一人が好きそうに思えなかったから。なんだか、本当は誰かと関わり合いたいのに、ずっと我慢してるように見えたんだよ」
「今は…?」
「ん?」

 嫌に喉が渇いている。言葉が喉にひっかかってうまく出てこない。どうしてだろう。
「今はどう見える…?」

「ううーん、そうだね…」 
 三河は少し考え込んだ。
 せっかく右手でまとめていた髪を手離して、腕組みをしている。
 変な気分だ。自分自身がどう見えているかを相手に問うだなんて。

「今も、一緒かな。一人が好きなようには、やっぱり見えないよ。理由は、うまく言えないんだけど、しゃべってるといつもそう感じる。ほんとは、自分自身の事、誰かに知ってほしいのかなぁって思うよ。正直、あたしの事うっとうしいでしょ?」
「うっとうしい。苦手」

 即答すると、三河は嫌そうな顔一つせず、けらけらと心底おかしそうに笑った。
「やっぱり。正直に言ってくれると思った。なんかね、良くも悪くも、人付き合いに誠実そうだなって思う。中途半端に付き合い持たれるの好きじゃないんでしょ。ずかずか無遠慮に入ってこられるのも好きじゃないよね、違う?」

「…違わない」
「渡のそういうところがすごいと思うよ。あたしは、適当に広く浅くお友達を増やしたからさ。楽しいけれど、渡みたいにきちんとお前の事が苦手だって言ってくれる人いないよ。変に気を遣って、うわべだけのふわふわした関係で」

 彼女は、頬杖をついて窓の外をぼんやりと眺めた。
 またしても、彼女の目は虚ろになっている。
 その目を見ると、心臓が急に締め付けられるような気分になってしまうのは、どうしてなんだろう。

「だけど、あたしも傷つくのが怖いから、へらへらしてるだけなんだよねぇ」
 彼女は、そのまままっすぐこちらを見た。
 さっきよりも長い時間、彼女の視線に絡めとられてしまう。
 どうして、息ができないんだろう。
 怖い以外の感情で、息ができなくなったのは久しぶりで、どうしていいのかわからない。

「渡とは、うわべの関係になりたくないなぁ」
「ならない!」
 自分でも思ってるより、大きい声が出た。
 三河は驚いたのか、目を丸くしてこちらを見ている。
 かくいう自分も驚いて、固まってしまった。

「な、なんで言った君が驚いてるのよ」
「わかんない…。だけど、ならない。ちゃんとお前のこういうところが嫌だって、正直に言うから。だから、だから」

 どうしてこんなに必死になっているんだろう。
「そんな悲しい目しないで」

 訪れる沈黙。
 何か言ってくれ、頼むから。
 顔を上げる事ができない。頬の中心から、耳へ首へ、じわじわと熱が広がっていく。
 耐えきれなくなって、机のプリントを急いでかき集めた。
 彼女の方をろくすっぽ見ないままカバンに適当に詰め込む。

「用事あるから、帰る」

 席を立ち、逃げるように教室から出ようとした瞬間だった。
 思いっきり手首を掴まれる。心臓が口から飛び出そうになった。
 一気に社会科教室の出来事がフラッシュバックする。

「帰らないで」
「う、あ」

 だめだ、恐怖でうまくしゃべれない。
 だけど、どうして、恐怖以外の感情が湧き上がりそうになってるんだろう。
 身体が崩れ落ちてしまいそうで、震えが止まらないのに、嫌悪感以外の何かが生まれている事に頭が混乱した。

「ねえ、こっち見て」
「やだ…っ」
「どうして」
「わかんない、も、わかんない、何も」

 声が震えだす。まずい、泣きそうになっている。
 どうしたら、どうしたら、ああ。
「渡、お願いこっち見て」
 ゆっくりと振り返る。
「君、初めて会った時もそんな顔して泣いてたね。真っ青で、何かを怖がってるみたいだった」
 三河がまっすぐにこちらを見た。
 その目に何もかも見透かされてしまいそう。

「何が怖いの」
「言えない、そんな事…」
 もう限界が近かった。頭がクラクラし始めている。考えがうまくまとまってくれない。
 三河は、次の言葉を言うかどうか迷っているように、視線を彷徨わせた。
 そして、こう言った。

「怖い事は、社会科教室と関係あったりする?」

 その瞬間、俺は膝から崩れ落ちた。
「なんで…うそ、どうして…」
「去年の夏に、社会科教室で人が倒れてるのを見た。パニックになって、あたしその時逃げたの。顔はちょっとしか見えなかったけど」

 三河は座席から立って俺の元へ来た。そして側にしゃがみ込む。
「やっぱり渡だったんだ…そっか…」
 手首を握る三河の手に力が入ったのがわかった。
「ねえ、何があったの。あの日、社会科教室で、あなたは何をされたの」

 言ってしまえば楽になるのはわかっていた。
 だけど、受け入れてもらえなかったら?気持ち悪いと言われたら?
 また、傷つくなんて、嫌だ。
 それならいっそ一人でいた方がいい。だけど。

「…あんたには…」
 言いたくない。
「あんたには、関係ない…」
 言いたくない、本当はこんな事。

 手首から熱がゆっくりと遠ざかっていった。
「渡…」
「帰る」
 そのまま振り返らずに教室の外に出た。三河はもう、引き留めてこなかった。


 次の日から、俺は彼女を避けた。
 否、避けるしかできなかった。
 どんな顔をして話していいのかわからなかった。
 避けたその日、彼女の笑顔が凍りついたのがわかったけれど、どうしようもなかった。
 
 そのうち、彼女の屈託のない笑顔も、誰にも見せなかったあの虚ろな目も、こちらに向けられる事は無くなっていった。

 教室で彼女が友人と話している声を聞く度に、たまらなく寂しくなる。
 苦手だったはずなのに、どうしてこんなに胸が痛くなるんだろう。

 うわべだけの関係で、適当に意見を合わせてへらへら笑う事に、疲れ切っていないだろうか。
 彼女は、あの虚ろな感情を、もしかしたら誰にもぶつけられていないのではないだろうか。

 だけど、拒絶したのは自分の方なのだ。
 いつまでも怖がって、彼女の手を振り払い続けている。
 とことん嫌気がさす。

「えー、今回が前期最後の授業ですね!それでは今から課題を配ります」
 ブーイングが溢れる教室、セミの鳴き声、首筋を伝う汗、クーラーの唸り声、カレンダーに浮かび上がる忌まわしい7月13日、隣の席にいるはずなのに誰よりも遠い彼女。

 夏休みまで、あと3日。
 未だ、三河と俺の関係は、元に戻らないままだった。

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神原だいず / 豆腐屋 2024/07/02 19:01

【再掲 / 単発】手フェチの女と舐め回されたい男

 視界の端に、神経質そうに浮き出た人差し指の第一関節が見えた瞬間、私は学生生活の終焉を覚悟した。
 目の前に突然、長年探し求めた完璧な手が現れた。
 心臓から指先、耳、足先にまで一気に熱い血液がぎゅわりと張りめぐらされていく。

「桐坂恵麻さん」
 絶対に顔を上げてはいけない。
 いいや、上げられそうにない。
 冷や汗と重力と降り注いでくる低い声が、私の首根っこを押さえつけている。
 私はシャーペンを強く握り直した。ぬるつく汗が手のひらの皺からじゅわと溢れる。

「何?」
 ついでに言うなら、貴方は誰なの? 
 目の前に広げたノートに、意味もなく蛍光ペンで線を引いていく。
 大して重要でもない項目が、さも重要であるかのように黄色く派手になっていく。

「今日、俺たち日直なんだけどさ」
 声が震えそうなので二度軽く頭を上下に動かして、貴方の話を聞いていると合図を送る。

「日誌は俺が書くから、黒板消しお願いしてもいい?」
 もう一度頷く。黒板消しくらい、いくらでもやりましょう。
 すると視界の中で掌が消えた。
 会話が終わった。
 肩からふわりと力が抜け、想像以上に体に力が入っていたことに気づく。

 次の瞬間、前方から微かに風が吹いて、手の持ち主の顔が目の前いっぱいに広がった。
 困ったように眉を八の字にして、口元に引きつった笑みを浮かべている。
 重たそうな黒色の前髪が眼鏡の淵で揺れた。
 すらりと瞼に入った二重の切れ込みが上下にぱちぱち。その度に、焦げ茶の目が見え隠れ。
 とんでもなく整っているわけではない。
 でも、好みなのだ。
 ドストライク好み。

「お、怒ってる?」
「ぁあぐ、あちがっ」
 人語とは思えない謎の言葉を口にし、慌てて顔の前で手を振る。
 すると眼鏡の奥の目が、にわかに細くなった。
 彼が目の前で肩を震わせて笑っている。

「あ、アグー?」
「いや、違う違う違う」
「沖縄のあの…豚のやつ?」
「違う違う違う! な、何を笑ってるの、ねえ!」
 私は頭を抱えてしまった。
 目の前の男はというと、こらえきれずにお腹を抱えて笑い始めた。

「絶対、言ってたよう、アグーって…言ってたもんっ、ふ、へ、あはは」
「言ってないよう! そっちが急に覗き込んでくるから、びっくりしちゃっただけだよ! それまで、骨の浮き出方、指の細さ、長さ、何から何まで完璧な手しか見えてなかっ」
「手?」
「ぐぅあ!」
 私は、焦って口を手のひらで覆った。

 いけないいけないいけない。
 目の前の男、完全に首をひねってきょとんとした顔をしている。
 そりゃ、そうだよね! 急に「完璧な手」とか言われたら、びっくりするもんね! 
 雄たけびみたいな声を上げてしまった恥ずかしさと、手フェチがバレそうになっているこの危機的状況。
 顔面が赤くなったり青ざめたりしているのが、血流の満ち引きでなんとなくわかる。

「え、手? ど、ういうこと……?」

 終わりだ、新学期。
 病的な手フェチが、バレてしまった。
 「アグー」の段階なら、まだ言動がちょっとおかしい面白いクラスメイトで済んだのに。
 あからさまに声色に困惑がにじみ出ている…。

 私は、ついにやけくそになった。
 親の仇と言わんばかりの強さで、彼の手首を掴んだ。
 手首の細さも程よく太すぎず、細すぎず。
 そのちょうど良さに、何故か悔しさすらこみあげて来る。

「こ、この事を言ったら……」
 固唾を飲む音がこちらまで聞こえてきそうな緊張感。
 朝を迎えた教室には、まだ私たちしかいない。
 冷たくどこまでもまっすぐな朝日が、窓の外から彼の完璧な手の上に平行四辺形を描く。

「言ったら……?」
「あなた様の、手、隅から隅まで、舐め回させてやがりますよ」
 終わりましたわ。
 読者の皆様、ここまで気色悪い手フェチの新生活終焉までの過程を読んでくださってありがとう。
 終わりました。
 私の学生生活もーう、全て終わりです。日本語すらおかしいし。

 諦めがつくと、身体に起きていた異常が全て収まり、体内と心が凪いでくる。
「や、あう……ぐ」
 完全に引かれた。
 呻くような声。
 手を振り払われ、今すぐに不審者がいますと職員室までダッシュされてしまう。

 ああ、お父さんお母さん、わたくし桐坂恵麻は中学3年間塾に通わせてもらって第一志望校に合格したにも関わらず、たった3日で不登校になりそうです。
 私はなんて親不孝なんでしょう。
 合格した日には、パソコンの前で一緒に抱き合って喜んでくれましたね。
 お父さんなんか、涙浮かべちゃったりして。
 一緒に食べたお寿司、人生で一番美味しかった。
 だけど、簡単に壊れます。幸せなんて、簡単にね、壊れるんですよ。

「お、お願いします……」
 ほら、気持ち悪いって言われてね、壊れるんです。不登校まっしぐら……

「はああああああ!?」

 あまりの衝撃で、隣の教室どころか、2階全ての教室に響くんじゃないかってくらいに大声を出してしまった。
 聞き間違いではないだろうか、脳内で先ほどの音声を繰り返し再生する。

「o, onegai simasu」「o, onegai simasu」「o, onegai simasu」

 どう考えても言っている。
 「お願いします」と言っている。
 私は目の前の男を凝視した。
 見た目はいかにも真面目そうだ。THE 常識人。誰もがそう答えるだろう。
 それが、手フェチのとんでもない願望に対して「お願いします」と二つ返事?

「あ、あの……脅してるみたいな口調になっちゃったけど、別に逃げてくれていいんだよ。気持ち悪いでしょ、私はそもそも君と話たことないし、君の名前も知らないし。舐めてみたくないって言ったら嘘になるけど、今すぐ私のヤバさを言いふらしたっていいのよ。立場は圧倒的に君の方が上だよ。無理しないで」

 しかし、目の前の男はモジモジと指先をこねくりまわし、こちらを見つめた。
 心なしか、頬は赤く、目は潤んでいるようにも見える。
「無理はしてないよ……。その、俺、桐坂さんに、その、すごく興味があって。新学期で、同じクラスになってから目が離せないというか……。桐坂さん、なんかすごくクールで、いつもどこ見てるんだろうって、何考えてるんだろうって、俺のほう見てくれないかなあって、思うから」

 おおむねクラスメイトの手ばっかり見てたし、誰が優勝してるかそれしか考えてなかったが、外野から見たらクールに見えたらしい。

 目の前の男は右の袖をまくり、肘までを私の目の前に晒した。
 私は生唾を飲み込んだ。
 浮いた血管、引き締まって白くすらりと伸びた綺麗な腕。
 体毛も同い年の男子からすればかなり薄いだろうか。
 これまたなんて完璧な……。

「見て、もっと。俺の身体、見て……」
 私は雲行きが怪しくなってきたことを悟り始めていた。
 明らかに男の息が荒くなってきたのだ。
 もしかして、こいつ私よりヤバイ奴なんじゃないの……? 
 そんな疑惑が頭の中を埋め尽くし始める。

 しかし、完璧な手、腕、さらにはドストライクの顔面には抗えそうにない。
 私は男の手を取った。男が、ひゅうっと息を飲み込んだのが聞こえる。
「名前は?」
「え」
「あなたの、名前」
 私は男の手に顔を近づけながら思った。
 私はこいつの名前を知らなかったけれど、こいつは私の名前をフルネームで知っていたな、と。

「火ノ川……」
 口を開けて、舌を伸ばした。あと3mmで、届く。その白い肌に。
「火ノ川、潤、ッ」
 薬指を根元から爪先に向かって、ずるりと舐め上げる。

 くすぐったさに火ノ川が手を引こうとする。
 私は、彼の手を思いっきり引っ張った。
「懐に飛び込んできといて、一発で逃げようとすんじゃないわよ」
 中指と薬指の間、人類が水から上がってきた生物であることを如実に語るその部位に舌を差し込む。
 中指と薬指をきゅっとまとめて拘束し、舌を前後に動かすと、たまらず火ノ川はうめき声をあげた。

「う、う、それ……やらしい」
「セックスみたいで?」
「んぅうう……」
 こいつも新手の変態だということはわかったので、もう遠慮することもオブラートに包むこともやめることにした。

「する? セックス」
 冗談交じりでそう言うと、火ノ川は顔をしかめた。
「あうぐうう、し、しな……うぅん」
「アグー?」
「い、言ってない! そっちが急にセッ……変なこと言うからっ、あっ」
 火ノ川の弁明も聞かずに、私は口の中に彼の薬指を丸ごと咥え込んだ。
 わざとじゅぐりと音を立てて、舌の上で薬指を舐め回す。
 彼の身体がびくりと震えているのを見上げながら、内心彼を見下ろしているような気分だった。

 手フェチがバレた時はどうしようかと思ったが、お互い変態どうしだとわかってしまえば、我々は共犯関係だし、晒し合いで相手の度量を見極め合うのだ。
 とはいえ、さすがに誰かが来てしまうかもしれない。
 二人揃ってクラスから村八分にされるのは私も望まない。口から指を離そうとした時だった。

「か、んで……」
「んむ?」
 見上げると、どろどろに色欲が溶けた視線が、こちらをじっと見つめている。

「くすりゆび、結婚指輪、みたいでしょ」

 一気に全身が熱くなる。
 私は勢いに任せて、噛み切るほどの勢いで彼の薬指に歯型を残した。
「いぎっ!」
「……変態。結婚するわけないでしょ」
 ありえない、結婚なんて。私は吐き捨てるように言った。

 火ノ川は、満足そうに自分の薬指をさすりながら笑いかけた。
「お互い様でしょ、変態。絶対結婚するよ、俺たち」
 悔しいことに、こいつの変態さ加減に全く不快感を覚えていない自分がいる。

「やかましい」
「あてっ」
 軽く彼の頭をはたいた。

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神原だいず / 豆腐屋 2024/07/02 19:00

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神原だいず / 豆腐屋 2024/07/01 19:01

【再掲 / 玲と悠馬⑥】今日は

 インターホンを押すとすぐに扉が開いた。
 少しこわばった顔をした悠馬が玄関先に立っていた。

「…入って」
「うん!」
 手土産はあなたが嫌いなショートケーキと私が嫌いなチーズケーキ。
 今日は甘い秘め事の日。


 食堂に入ってすぐ左に曲がったところにあるいつもの2人席スペース。
 そこに見慣れた背中を見つけた私は嬉しくなってついつい走り出してしまった。
 スマホを見ている彼に後ろから思いっきり体当たりする。
「ふっかーーつ!」
「うぐっ」
 悠馬がぎろっと睨みながらこちらを振り向いた。

「えーっ、せっかく彼女が体調不良から復活したってのに、その眼つきは無いんじゃないの?」
「お前が体当たりしなければ喜んで出迎えるつもりだった」
 また、眉間にしわを寄せて気難しそうな顔をしている。
 だが、隠しきれていないぞ。口元がちょっとゆるんでるよ。

「帰る前に寂しい寂しいってキスしてきたのはどこのだ、むぐ」
「うるさい!だから、ここでそういう事言うんじゃない!」
 悠馬が照れて必死にあたしの口を手のひらでふさいでいる。
 1日1回はこのやりとりをやらなくちゃ、寂しいと思ってしまう。

 木曜日に風邪を引いたあたしは、金曜日も続けて学校を休んだ。
 土・日は授業が無いから悠馬と会うのは3日ぶりだ。
 いやー、やっぱり悠馬は
「むぐぐ、むぐぐうむ!(今日も、かわいいね!)」
 親指をぐっと立てると、悠馬はふいと向こうをむいて拗ねてしまった。
「うるさい、俺は可愛くない!」
 なんで通じたんだろう?

「1日で復活できてほんとに良かったよ。明日、言語科目の小テストがあるから、連続で休むとまずかったんだよね」
 悠馬はA定食についてきた味噌汁をこくんと飲み込んでから
「言語、何取ってるんだっけな」と聞いてきた。
「中国語だよ、結構難しくてさ。というか教授が講義をすさまじいスピードで進めていくの。サークルの先輩に聞いたら、その教授ははずれの人だよって言われちゃった」
 私はそう言い終えてから、コンビニで買ってきたパンの袋を開けた。

「悠馬は?」
「スペイン語」
「えっ、スペイン語はやめとけって、友達が言ってたんだけど。難しくないの?」
 ぱくんとクリームパンをほおばる。
 うん、やっぱりイレブンマートのクリームパンは甘くておいしい。

「難しいな」
 そういうと悠馬は、はあと深くため息をついて、頬杖をついた。
「な、なに。どしたの」
「いや…俺も明日、テストだった事を思い出したから…」
「勉強は?」
 悠馬がカバンの中をごそごそ探って、テキストを取り出した。ページをめくる。試験範囲の部分だけ、見事に空白だった。つまり、そういう事である。
「どんまい。お互い頑張ろう」
「うん…」
 

 そういえば。
「前の約束はいつにする?」
「え?」
 悠馬がきょとんとした顔をしてこちらを見上げてきた。
 あーあー、ハンバーグのソース口の端についてるよ。

「やだなあ、悠馬が病院で頼んだんでしょ。あまや」
「わーっ!うわーっ!頭おかしいのか、お前は!」
 手をぶんぶん振り回して慌てている。
 これこれ。この反応が可愛いのだ。
 悠馬は、自分の方が騒いでいる事に気が付いたのか、すぐに声を落としてぶつぶつと文句を言ってくる。
「おまえ…そういうのは、せめて小声で言えよ…」
 仕方ない。ちゃんと小声で言ってあげよう。

 悠馬を手招きして、耳打ちする。
「ベッドで甘やかされるのは、いつが、いいの」
 悠馬の体がビクッと震えた。耳元でしゃべられるとくすぐったいのだろう。
「ねえ」
「ぅ…」
「答えて」

「あ、明日の夜…」
 明日は火曜日。そんでもって、確か水曜日は…。
「創立記念で全学休講日だろ。ちょうどいいかなって…」

 ちょうどいいじゃない。
 それは次の日が祝日だから、火曜日の夜に文字通り立てなくなるまで犯してもいいって言ってるようなものだけれども、悠馬さん。
 という言葉は飲み込んで。
「わかった。明日の夜ね」


 そんなわけで私は火曜日の夜、悠馬の家の玄関に立っているのだ。
「あの、さすがにお金払ってもらっちゃったから、これだけじゃよくないと思ってケーキ買ってきたんだ」
 かわいらしいピンクの小さな箱を悠馬に手渡すと、彼は「ありがと」とつぶやいて冷蔵庫へそれをしまいにいった。

「ベッド、座っといて」
 悠馬の固い声が台所の方から聞こえた。

 …悠馬が死ぬほど緊張しているから、あたしまでなんだか緊張してきてしまう。
 何度も来ているのに、なんだか知らない人の部屋に初めて来てしまったかのようだ。
 彼は今になって自分のしでかした事の大きさに気づいているのではないだろうか、それであんなに緊張しているのではないだろうかといらぬ妄想を膨らませる。

 悠馬が戻ってきて、あたしの横に音もたてず、そっと腰かけた。
「…」
 相変わらず悠馬の顔はこわばっている。
 部屋の空気は異様なまでに張り詰めていた。
 付き合い始めてから、初めて二人で一緒に帰った時のようで、懐かしいが少し息苦しい。

「悠馬」
 名前を呼ぶと、悠馬の身体がぴくりと動いた。
「こっち、向いて?」
 努めて優しく呼びかけると、悠馬はおずおずと顔をこちらに向けた。
 視線が交わる。目の奥で、ヌラリと湧き上がる欲の色。
 悠馬の瞳は、思ったよりも黒かった。

 悠馬の頬に手を添える。
 彼はあたしの手首をそっと握り、頬ずりをしてきた。猫みたいだ。
 自分が甘やかしてもらえることを知っている動きだった。
 親指を動かし、悠馬の唇をふに、と押してゆっくりとなぞる。
「いい?」
「…うん」
 悠馬が目を閉じた。ゆっくりと唇を近づける。

 まず、唇と唇どうしをそっと合わせる。また、合わせる。もう一度。
 慈しむように、再び。角度を変えて二、三度。
 下唇を食むようにすると、少しずつ悠馬の頬が火照る。マシュマロみたいな味がする。
 彼の唇はやらかくて、ふわふわで、溶けてしまいそうだ。
 少しずつ、少しずつ、悠馬のとろけた蜜が口の中に入ってくる。

 キスをしながら、首筋、背中、脇腹にそっと手を這わせていくと悠馬が少し身をよじる。
 くすぐったいのだろう。
 乾いた衣擦れの音が少しずつ、くちゅりと水気を含んだ音に支配されていく。
 
 悠馬があたしの背中に腕を回して、きゅうっと肩を掴んだ。
 あたしは、悠馬のさらに奥深くへと舌を進める。
 唇がマシュマロなら、彼の舌は熟れすぎたイチゴだ。
 吸う度、じゅぐ、ちゅぐ、と音がして崩れ落ちそうである。

「…んぅ、ふっ…」
 吐息が漏れ出す。
 体に這わせていた手を、悠馬の服のボタンへと持っていった。
 ご丁寧に第一ボタンまで留めているようだ。

 まず一つ目をぷつり。
「んぅ…ぅ」
 二つ目。
「んぁ、はぁ…」
 三つ目。
「ぁ、ふ、ぐ、ぅう」
 四つ目。徐々に体をベッドへと押し倒していく。
「んんぅ…ぁ、ん」
 五つ目。
「ゃ、う、ぅうん…っ」
 最後。前が完全にはだけた。いったん唇を離して、悠馬を組み敷く。

「期待してるね?」
 はだけたシャツの隙間に手を滑り込ませる。
「うぁっ…」
 直に肌を撫で上げると、悠馬はまたぴくんと体を震わせた。
 まだ、当たり障りのない場所にしか触れていない。

「んぅ、ぅ、は…」
 もう一度口づける。
 今度は、最初から激しく。
 口の中で舌を絡ませ、吸い上げる。
 息を継ぐ暇もないほどに、何度も何度も口の中を犯していく。

「ぁん、んぅ…っ、や、んんんぅ」
 手は止めない。
 たまにそっと、乳首のそばや、足の付け根あたりに触れるが、まだ核心には触れてあげない。

 口を離すと、悠馬はハクハクと口を動かし酸素を取り入れようとしている。
「悠馬、キス好き?」
 コクコクと悠馬がうなずく。
「あたしの事も好き?」
 またうなずく。
「よかった!じゃあ、効果があるね!」
 悠馬が首をかしげる。
「こうか…?なんの?」
「あのね、好きな人の唾液って媚薬効果があるんだってさ」
「びやく?」
「そう。だからキスしていっぱいあたしの唾液を飲んだら、悠馬はいっぱい気持ちよくなっちゃうってこと」
 悠馬の体にまた触れる。

「ねえねえ、悠馬。目を閉じて、少しだけ集中して、あたしに触られた感触を味わってみて」
 人差し指の先でつうっと悠馬の体をなぞる。
「んぅっ…」
「悠馬、両手上げて」
 言われた通り、悠馬は素直にバンザイをする。
 脇腹に手を差し込み、上から下へするするすると撫でおろす。

「ぅぅん、ぁっ、やっ…!」
「ねえねえ、いつもより気持ちよくないかな。当たり障りのないところを触ってるだけなのに、えっちな声、いっぱい出ちゃってないかな」
 悠馬の耳にふっ、と息を吹きかける。
「ひぁんっ!?」
 悠馬の腰が跳ねて、口からは高い声が漏れる。

「や、ぁう、なに、これ…」
 見開いた目からは涙が零れ落ちそうになっている。
「ふふ。やっぱり、効いてきてるんだね」

 悠馬の目を手のひらでそっと覆い、耳元でささやく。
「ねぇ、悠馬。もっと気持ちよくなりたくないかな。あたしとキスしていっぱいあたしの唾液飲んだら、体がとろけちゃうくらい気持ちよくなれるよ。いっぱいえっちな声出して、もうイきたくなくても体がビクンビクンして、何回も何回も悠馬はイっちゃうんだよ」

 我ながら酷い悪魔のささやきだな、と思う。
 だけど、彼がそれを望みさえすればいくらでも気持ちよくさせてあげよう。
 今日は普通に事を進めるつもりは全くない。道具だってたくさん持ってきたのだから。

 人差し指の爪でくるっと乳輪をなぞる。
「ぅうう、ぁ、ん」
「ねえ、ほら…いっぱい媚薬飲まされて、カリカリってここひっかかれたら、背筋がぞくぞくしてきっと気持ちいいよね?想像してみてよ、ここたくさん虐められちゃうの」
 手は意地悪く周辺をなぞり続けたままだ。
「やぁ、ん…ぁ」

「ふふ、可愛い。ねぇ、一番欲しいところを虐められたら悠馬の体はどうなっちゃうんだろうね?気持ちよくなりたくない?たっぷり時間をかけて虐められたくない?」
 はぁ、はぁ、と悠馬の息が上がっているのを、首筋に感じる。
 明らかに興奮している。否、混乱の方が正しいか。
 湧き上がる欲、背徳の予感、快楽へ溺れる事への恐怖と、期待。
 それらが彼の頭の中をぐるぐる高速で回っているのだ。
 今の彼に、まともな思考などできやしない。

「ぁ、う、ほし、い…」
「ん?」
「して、ほしい…っ、きす、いっぱい、してぇ…」
 どうやら、完全に堕ちたみたいだ。甘えた声でねだってくれる。
 今日は、もう徹底的に甘やかされたいらしい。
「じゃあ、悠馬。一つ約束できるかな」
 ぱっ、と目を覆っていた手を取る。
 悠馬のぐずぐずにとろけた瞳とバチリと視線が交わる。
 そのまま、彼の目の奥をじいっと見つめてこう告げる。

「今日は、私のすることとか、お願いは絶対拒否しないでね。抵抗しちゃだめだよ」
 彼の目の奥で意地悪な顔したあたしが笑ってる。
 嫌な顔だ。
 片頬だけ口角を釣り上げて笑う癖は君と一緒なのに、どうしてあたしの顔はこんなに卑しいんだろう。

「約束できる?」
「うん…」
 彼ははっきりとうなずいた。契約は成立だ。

「よし、じゃあいっぱいキスしてあげる」
 再び悠馬に口づける。
 あたしの唾液と悠馬の唾液がまじりあって、互いの口の端で泡立っている。
 できるだけ口の中に唾液を流し込むように。
 口移しで媚薬を彼に分け与える。

「んぅ…っぐ、く、ん…っ」
 悠馬の喉仏が時折上下している。
 たぶん、必死で唾液を飲もうとしているのだろう。
 いじらしくて、とても可愛い。

 息継ぎを挟みながら、ゆうに5分は互いの口を貪りあっただろうか。
 悠馬があたしの肩を押し返した。
「ぁ、も、も…のめない…」
「どうして?」

「からだ、あつい…。なんか、うちがわから、ずくずく、する…」
 確かに体全体がほんのりと火照っているようにも見える。
 皮膚が薄いところには、薄桃色がふわりと咲いている。
 何より、体をくねらせ、足をすり合わせ、シーツをきゅ、とつかみながら、疼きから逃れようとしている様は死ぬほど煽情的だ。

「まだ、だめだよ。もっと、飲んで」
「ぅ、あ、むり…むりぃ」
「さっき約束したじゃん。私のする事に抵抗しないでって」
「う…」
 押し黙ったところを強引に口づける。

「んんぅう…っ」
 まるでこれじゃあ捕食してるみたいだ。
 腰が少し浮いている。キスで感じているのだろう。とても可愛い。
 また、口を離した。

「ぁあん、…っ、はぁ、ぁ…」
 ビクビクと悠馬の体が震えている。
 もう、彼に抵抗する力は残っていない。
 彼のズボンを下ろす。下着には先走りがシミを作っていた。
 ツンツンとシミの部分をつつくと、「ゃん」と可愛い声が漏れた。

「あ、今の声すっごく可愛い。もう、イきそうになっちゃってるね。これからもっと気持ちいいことするのに」
「ら、らって…あんなに、きす、するから…」
 確かにそれはそうかもしれない。
 だけど、これは本当にまだ序の口だ。
 ベッドのそばに置いていたカバンをごそごそと探る。

「あ、あった、あった」
「なにするの?」
「んー?Mな悠馬に喜んでもらえるように準備したものがあるから、それを今からつけるの。悠馬、手上げて」
 カッチャン。

「え」
 ガチャガチャと手を動かすが、悠馬の両腕は頭上でひとまとめに拘束されたままだ。
 手錠はむなしく金属音を立ててぶつかりあっている。
「抵抗できないからね。したくても、できないから。悠馬は全部受け入れるだけ。怖くても気持ちよくても何もできなくて、全部受け入れるだけ。さて」
 かばんをごそごそと探り、もう一つの道具を取り出す。

「これで何すると思う?悠馬さん」
 取り出した道具を悠馬の顔で左右に振る。
「え…」
 じっとその道具を注視しているが、どうやら答えは出てこないようだ。
 あたしは、その道具の柄を持ち、くるっと回転させて、悠馬の頬をなぜた。
 絵の具を塗るときに使う筆を持ってきたのだ。しかも2本。

「んぅ…っ。くすぐった…い。ふふ…」
 チークをはたくときのように、くるくると頬骨あたりに円を描いたり、シェーディングを入れるように、こめかみから顎に向かって波のような曲線をするすると描いてみたりする。
 さすがにこの程度の刺激では快楽に繋がらないらしく、悠馬はくすぐったさにふにゃりと顔を崩して笑っている。

 だけど筆が首筋と耳を虐め始めたころから、彼の反応が変わりだした。
「んっ、ふふ、ん、ぁ…っ、んっ…んぅ」
 笑い声に混ざって、少しずつ色気づいていく声。
 耳の後ろをすうううっ、と撫ぜたり、耳の中を筆先をうまく使って刺激してみたり、首筋を上から下へ、下から上へと往復してみる。
「ぁっ、あ、ぁん、は、あ、ははっ、ゃんんぅ」
 筆が体の上をすべるごとに、ひくひくと体が震え始める。

 筆は、少しずつ体を滑り落ち始めた。
 鎖骨付近をざっと撫で上げると、「ひうっ」とまた高い声が漏れた。
「筆でくすぐられるの気持ちいい?」
「ぁ、ん、うん…」
 必死でコクコクとうなずいている。かわいい。
 そろそろ、彼が欲しがっている場所を責めてあげることにしよう。

 筆は乳首の周りをぐるっと一周した。
「んやぁ…ぁ」
 声が一段階高くなった。
 欲しいところに来た事への喜びか、それとも焦らされ続けた事による刺激の強さからか。

「乳首、筆でいじってほしい?」
「ぁ、ぁう…い、いじって…いっぱい、いじってぇえ…っ」
 悠馬はじっと私の目を覗き込んだ。
 まずい、こういう見つめ方をするときの彼は、きっと突拍子もなくものすごく可愛い事を言うに決まっている。
「も、じらしちゃ、やだ…」
 吐息に埋まりそうなほどの小声でぼそりと悠馬はつぶやいた。

 筆で右側のピンクのかわいらしい粒を、上から下へ同じ方向に何回も撫ぜる。
 回数を重ねるごとに粒はふっくりとより一層主張し、筆に引っかかるようになった。
 こうなると撫でるというよりは、弾いているようだ。
「ぁ、あ、ぁあ…ぁんん、や、ひだりは?ひだり、も、して、ひぁ」
「まだ、だめだよ。右をゆっくり虐めてから左だけでまたゆっくり虐めてあげるから」
 こんなもんでは終わらない。
 時間をかけて執拗にいじくりまわしてやるつもりなのだ。さんざん煽られたのだから。

 反応的には気持ちよさそうだ。
 下から上へ弾くのと、どちらが気持ちいいのだろう。
 筆を動かす向きを変えて、今度は下から上へ。ゆっ、くりと筆先に乳首をひっかけて、ぴんっ、と弾く。
 「んぅ、ぅ、ぁん、や」弾く度に悠馬の声は甘くなっていく。

 拘束具がカシャカシャと音を立てる。
 どうやら、腕を胸の前に持ってきて左の乳首を自分で弄ろうとしているようだが、そうはさせない。
 弾くスピードを元に戻すと、悠馬の体からくたりと力が抜けるので、そのタイミングで腕を頭上に戻す。

「やだぁ、ひだり、いじってぇ…いじめてよ…はぁ、ん、やっ、ひうっ」
「だからまだだめ」

 さっきの弾き方の方が、よく喘いでいた気がする。
 たぶん、上から下に弾かれるほうが好みなのだろう。
 今度は、筆先で乳首をちょん、ちょん、とつついていく。
「や、ぁ、それ、だめ、つつくの、や、いやぁ、えうっ」
 これはかなり反応がいい。つつかれるのが好きらしい。
 背を若干反らして、胸をこちらに突き出している。
 ほんとに、Mっ気が強くなってきた。

「いや、じゃないよね、悠馬」
「ゃ、ぁん、い、や…じゃないぃ」
「じゃあ、なんていうの」
「もっと、して、つついて、ちくび…」
「うん、きちんと言えたね。ご褒美だよ」
 スピードを上げていろんな角度からつついてあげると悠馬は嬉しそうに体をくねらせた。

「やん、はや、はやい…ぁ、そんな、いっぱい、ぁ、ああ、つついたら、ひうっ、きもち、い…まっ、ひぁあん」
「気持ちいいんでしょ。もっとしてほしいんじゃないの?えいっ」
 ベッドの傍らに置いていたもう1本の筆も手に取り、2本で悠馬の乳首をつつく。
 倍になった刺激に悠馬はたまらず腰を浮かせて、嬌声を上げる。

「ぁああん、や、まっ、ぁあ、それ、ぁ、きもちいい…っ、んっ、んはぁ、ぁあっ!」
「ふふ、悠馬気持ちよさそう」
 にしても感度が良すぎる気がする。
 本当に媚薬の効果を信じ切ってしまったのだろうか。
 プラシーボ効果とは恐ろしいものだ、と自分のした事は棚にあげた。

「ひぁ、や、あ、まっ、て、きもぢいい…だめ、っ、あ、まっ、やんん…」
「あ、まただめって言ったね。悪い子、もっと虐めてあげる」
 ぷっくりと浮き上がった乳首の横を2本の筆でしょりしょりとなぞる。
「やぁあ、それ、あ、も、おかしくなっちゃ、おねが、ぁあん」

 馬乗りになられたうえに両手を拘束されていては、抵抗したくてもほとんどできない。
 悠馬は今、受け入れるしかない。
 私が筆を動かすことによって、背筋に痛いほど走る快楽を受け入れるしかない。
 ぎゅっと目をつむり、首を左右に振って何とか快楽から逃れようとするが、もう逃げ場所などどこにもない。

「んぁああ、ゆるして、や、っ、はぁあん、あ…っ、ゆ、るしてぇ…ひぐっ、いぁああん…」
「ごめんなさいは?本当は気持ちよくてもっとやってほしいのに、だめって言ってごめんなさいって謝れる?」
 悠馬は怒られた子供のようにぷるぷると唇を震わせた。
 ぱちぱちとまばたきをするたびに、生理的にあふれてきた涙が大粒の雫になって頬を滑り落ちる。

「ぁ、あ、ごめんなさ、い…ひゃ、あ、ほ、ほんと、は、きもち、くて、ひんっ…、もっとしてほしい…の、に、やぁあ、らめって、いっ、て、ごめんなさい…」
 きちんと言えたね、という意を込めて悠馬の頭をなでると、悠馬の体から緊張がほどけていったのを感じた。

「じゃあ、お望み通りもっとしてあげるね、気持ちいい事」
 悠馬の目がかっと見開いた。
 そうだ、謝ったからって自分の体をはいずる快楽が緩まるわけじゃない。
 むしろ自分は今、もっとしてほしいと強請ってしまった事に気づいたのだろう。
 でも、彼の目には期待が見てとれる。だから、あたしは手を止めなかった。


 悠馬の右乳首にローションをたらすと、突然の冷たさに、彼は「ひっ」と声を漏らした。
 筆をくるくるとペン回しのように回転させながら、時折乳首の近くに筆を持っていくとそのたびに悠馬がぎゅうっ、と目をつぶる。

「ぁ、や、おねが、ま、って…おねがい…」
「なんでよ?もっとしてって言ったの、悠馬でしょ。ぽろぽろ泣いて喘ぎながら、もっとしてほしいって強請ったじゃん」
 よし、思いっきりねっとり嬲るように、筆を動かそう。
 ローションでテラテラとぬめる肌に筆をおいた。

「お、ねがい…や、ま、っ、て、ぁ、ぁあ、あ」
「待たない」
 ぬるううううっ、と筆を乳首の上から降ろす。
 ぴんっと立った粒に筆がさしかかった瞬間、私は筆を進めるスピードを緩めた。
 ローションを吸った筆は、悠馬の乳首を包み込み、ゆっくりと、長い時間をかけて彼を刺激する。

「ぁ、ああっ!や、あ、ぁああん♡」
 語尾にハートが付くほど、甘い声を上げている。
 相当気持ちいいと思う。
 ただでさえ、上から下へ弄られるのが好きなのに、その快楽がずっと長い事続くのだから。
「もう一回ね」
 はぁー、はぁー、と深く呼吸をして何とか平常を保とうとしている悠馬に追い打ちをかける。

「ひぁああ♡ぁぐ、ひんっ、はぁああん♡」
「がんばれ、がんばれ、これでイけたら左も虐めてあげるから」
「やぁあん♡♡もっ、あ、ゆ、ゆるしてぇ…」
「何言ってんの、許すも何もこれはきちんと謝れたご褒美なんだよ。悠馬がお願いしたことをしてあげてるんじゃん」

 いやらしく自分の口角が上がっていくのを感じる。
 自分でも意地悪な事を言うなあと思うし、たぶん後で正座させられて小一時間説教されるだろう。
 足がしびれて立てなくなることを覚悟するも、背中を伝う冷や汗が止まらない。

 でも、今は私が優位だから。
「ゆ、ゆるして…っ♡も、きもちよすぎて、これ、あ、ぁああ」
「きもちよすぎて、もっとしてほしいって?いいよ」
「ちがっ…ちがくないけど、や、ぁ、ら、らめぇえ♡♡」

 もう一度上から下に嬲ろうとして筆を乳首の寸前まで近づけて止める。
 刺激が来るものだと思って目をぎゅっとつぶっていた悠馬は、おそるおそる目を開けた。

 瞬間に筆を一気に下ろす。
「ひゃぁあん!?」
 予想していなかったタイミングで来たために、いつも以上に快感が来たのだろう。
 体をガクガクと震わせている。

「ぁあ、や、ん…も、だめ、だめ…こんなの、おかしくなっちゃうぅう…っ」
「悠馬、これくらいで弱音吐いてちゃだめだよ」
 両手に筆を持って悠馬の目の前で振る。
 そう、ほんとにこれくらいで弱音を吐かれては困るのだ。

 右手の筆を下ろす。
「ひぁああ、っ」
 続けて左手の筆も下ろす。
「ゃぁあああ!?」
 また右手の筆を下ろす、次に左手の筆、左右交互にさっきの2倍の刺激で。

「まっ、あ、まってぇええ、はや、い…っだめ、だめだめだめ、こんなのらめぇええええ♡」
「かあわいい、ほんとに気持ちいいんだね」
「や、や、れいい、やめて、ほんとにやめて、だめ、きちゃ、きちゃう…」
 彼が、「きちゃう」と言ったら絶頂が近いサインだ。
 あたしは、悠馬の汗で張り付いた髪をそっとかき上げて、額にキスをした。

「いいよ、イっても」
「や、ぁあ、だめ、ちくびで、イっちゃ、う、ぁああぅ♡だめ、こんなの、あ、あぁああ、あたま、ふわふわしちゃ、あ、あ、あ、あ、あああ―っ♡」
 浮かせた腰をカクカクと前後に揺らして悠馬は果てた。
 唯一身に着けていた下着にじわりじわりと愛液がにじむ。
 放心状態でぜえぜえと息をする悠馬の顔はとろけ切っていた。

「…気持ちよかった?」
 あまりの快感の波でしゃべることができないらしい。
 首をこくりと縦に動かしこちらを流し目で見る。
 その眼付の煽情的な事と言ったらない。まだ犯してほしいのだろうか、と勘違いしてしまいそうだ。
 私はぐずぐずに濡れた悠馬の下着に手をかけた。悠馬はもう抵抗しない。

 少しずつ下着を下ろしていく。
 彼の中心はかわいそうなほどにひくひくと震え、白濁をこぼし続けていた。
 くたりとベッドに沈む彼を見た。目の前で横たわる彼の全てが美しかった。
 足もふくらはぎも太ももも腕も指先も首も口も耳も鼻も目も。
 何もかもが美しくて、愛おしかった。

「だいすき」
 か細い声が悠馬の口から零れ落ちる。
 それとともに、はらはらと悠馬の目から涙があふれる。

 私は悠馬の手錠を外して、上半身を起こし、抱き寄せた。
 泣き止まない。しゃくりあげもせず、ただ涙を流し続けるだけ。吐息の震えで、ひそかに彼が泣いているのを感じる。
 ただただ彼は泣き止んでくれない。

「だいすきだよ」
 悠馬がもう一度、そう言った。
「あたしも」
 返事した時、あたしは自分が泣いている事に初めて気づいた。
 人は、誰かに受け入れられると安心して涙が出てきてしまうのかもしれないと、その時になんとなく思った。

 そっと彼に口づけた。
 頬に伝う涙を指で拭いながら何度も何度も口づけた。
 時折、首筋を強く吸うと「ぁあ…」と甘い声が降る。
 息が苦しくなっても、何度も深く口づけを交わして涙を流す。
 そのたびに悠馬がまた「だいすき」と喘ぎながら言う。

 キスをしながら私は少しずつ自然な姿に近づいていった。
 悠馬が脱がしたのかもしれないし、私が自分で脱いだのかもしれないけど、それはもうどうでもいい。
 ただ、2人生まれ落ちたままの姿で、目の前にいる人が愛おしくて愛おしくて、キスをしても体に触れても、互いの嬌声を聞いても、その思いが収まらない。

 どこからが自分の体でどこからがあなたの体なのかがもうわからない。
 夜が更けていく。
 あなたが、私が、崩れ落ちていく。ただ、1つに。溶けるように。

 結局甘やかされたのはどちらだったのかわからなくなるまで、あなたと触れ合う。


 ぼやける視界の中で目が覚めた。柔らかい光が部屋にあふれている。
 傍らですうすうと眠る玲の眼の縁は真っ赤だった。
 きっと互いに目が腫れているのだろう。
 彼女の頬を撫でた。
 すると、彼女の目からまた一筋涙が落ちた。
 優しくそれを指ですくうと、玲が目を覚ました。

「おはよう」
「…おはよ…」
 声がかすれている。可愛い。ただ、ずっとあなたの側にいたい。
 受け入れてくれたあなたの側にいさせてほしい。

「昨日くれたケーキを食べよう」
 あなたが好きなショートケーキと、俺が好きなチーズケーキ。
 今日は甘い約束の日。

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神原だいず / 豆腐屋 2024/07/01 19:00

【再掲 / 玲と悠馬⑤】発熱

 その日は、本当に特筆すべき事など何もない平和な一日のように思えた。

 朝は、遅刻するとも早起きともいえない時間に起き、朝ごはんもそこそこに、化粧をして髪型を整える。
 家を出れば、びっくりするほどいい天気でもなければ小雨がぱらつく鬱陶しい天気でもなく、道端の小石に躓くこともなく、バス停に着いた。

 バスは定刻どおりにやってきた。
 乗客はさほど多くなく、かといってガラガラでもなかった。
 学校にも時間通りに着いた。
 一足先に教室についていた友人が、こちらを振り返ってひらひらと手を振る。

 手を振り返しながら彼女のもとへと歩いていく。
「おはよー、みーちゃん」
 あたしの事をみーちゃん(あたしの苗字は三河)と呼ぶ彼女とは、大学からの付き合いだ。
 明日の課題の話や、気になっている化粧品の話など他愛もない話をして、講義が始まるまでの暇をつぶした。

 2限の授業が終わってから、悠馬に食堂の座席を取っておくと連絡する。
 1分後に、悠馬からいつも通り『わかった、ありがとう』と返事が来た。

 食堂は、授業を終えた生徒たちで混み始めていた。
 あちらこちらで笑い声や話し声が飛び交う。
 食堂を入ってすぐ左に曲がり、いつも座っている2人席のゾーンへと向かう。

 今日もいつもの場所が空いていたので、カバンを椅子の背にかけて、席に腰かけた。
 スマホを取り出し、『席取れたよ』と連絡すると
『ありがとう、昼は買ったか?』と返事が来た。
『今日はお弁当作って持ってきた』
『了解。もうすぐ着く。いつもの場所で合ってるよな』
『そう』
『OK』

 私はスマホのホームボタンを押した。
 画面が暗くなり、ただの箱になったスマホを机の上に置く。

 椅子の背にかけたカバンを開けて、お弁当を出した。
 最近、食費を浮かせたいから余裕がある時は、前日の夜にお弁当を作ることにしている。
 今日は食パンが余っていたからスクランブルエッグとハムを挟んでサンドイッチにした。

「玲」
 上から低くて少しかすれた声が降ってきた。悠馬だ。
「やっほ」

 悠馬はふうとため息をついてから、椅子に腰かけた。
 カバンを脇に置き、メガネを外して拭きながら
「悪いな、後期からずっと座席取ってもらって」と言った。
「いいよ、2限は教授が早く帰りたがって講義を10分くらい早めて終わらせるから」
「ありがとう」

 悠馬は、メガネをかちゃりとかけたあと、一瞬私の顔をじっと見た。
「何?」
「いや…なんでも。食べよう」
 二人で、いただきますと手を合わせてそれぞれの昼食に手をつけた。

 カバンの中からコンビニの袋を取り出した悠馬に
「今日、何買ったの」と聞く。
「ツナマヨのおにぎりと、調整豆乳と…」
「いつも思うんだけど豆乳とおにぎりって合うの?」
「合う。あとは…ん?」

 悠馬が袋の中を探っていた手をピタリと止めた。
「どうしたの?」
 悠馬は袋からパンを取り出した。パッケージにはでかでかと「ツナパン」と書かれている。

「…」
「…ツナ大好きだね」
「今、気づいた…」
「かわい、むぐぅ」
 悠馬が私の口にバッと手を当てた。

「むぐむぐ?(なになに?)」
 悠馬がジロリとこちらを睨んだ。
 いつも押し倒してる時は、もう少しとろけた目をしているので全然怖くないのだが、素面での悠馬の睨みは普通に怖い。

「今、ここで、俺に、可愛いって、言うな」
 一言一言絞り出すように悠馬が言った。
 ふむ、人目があるところで可愛いと言われるのは恥ずかしいという事らしい。
 耳が真っ赤だ。ここは一旦従おう。
 こくこくと素直に頷くと、悠馬は満足したように手を離した。

 すかさず、「耳、真っ赤だよ」と言う。
 すると悠馬の頬にぶわっと赤みが差した。
 リンゴみたいになった顔を腕で隠そうとして、彼は肘を思いっきりテーブルにぶつけた。
「いた…」
「何してるの、もう…」
 可愛いなあ。


 そう言おうとしたときだった。

 ボロボロッと目から何かが零れ落ちた。

 慌てて頬を拭う。
 涙か?なんの前触れもなく?突然どうしたのだろう?
 情緒が不安定すぎやしないか。
 まずい、止まらない。どうしよう、何も悲しい事なんかないのに、涙が後から後からあふれて止まらない。

 あたしから何も言葉が返ってこない事に気づいた悠馬が、顔を上げる。
 そして、こちらを見てぎょっとした顔になった。
「え、ど、え、え、どうした、玲」
 慌てている。
 そりゃそうだろう、なんの前触れもなく目の前で彼女が泣き始めたのだ。
 あたしもものすごく慌てている。

「…えうっ」
 違うの、大丈夫だよ、と言おうとしても涙がボロボロあふれてきて言葉がせき止められてしまう。溺れそうだ、と頭の片隅で思った。
「ひ、えぅ、ぅ、ゆうま、ゆうまぁ…」
 やっとの思いで言葉を紡いでも名前を呼ぶことしかできない。

 どうしよう、止まらない。
 あたしはパニックになりだしていた。
 心配そうにのぞき込む悠馬に弁解したいのに、しゃくりあげてしまって言葉が詰まる。
 あたしが泣き止まないので、悠馬は席を立って隣に膝立ちで座り、背中をさすってくれた。
「大丈夫、大丈夫」

 悠馬の空いている右手を必死に探した。
 何かにつかまっていないと、体の震えが止まらなくて、寒くて、どうしようもなく寂しくなってしまう。

 それを察したのか、悠馬の右手があたしの右手にするりと絡みついた。
 悠馬の熱が指、手の甲、手のひらをじわじわと伝う。
 少しずつ呼吸が落ち着いていくのを感じた。
「どうした、辛いことでもあったのか」
 首を振る。
「…俺、何かしたか」
 もっと首を振る。
「…お前、もしかして」
 悠馬が、顔を覗き込んできた。

 メガネの奥の目は、さっき睨んだ時の鋭さを失ってはいるものの、あたしを射抜くには十分だった。
 目が離せなくなる。

「体調悪いんじゃないのか。さっきも思ったんだけど、顔色悪いぞ」
 だから食堂に来た時、あたしの顔を一瞬じっと見たのか。
「ぅ、う…」
 体調が悪いのではないかと言われると、なんだかそんな気もする。
 事実、体からは一気に力が抜けていき、悠馬の肩にぐたりともたれかからなければ、体が支えられないほどになっていた。

 涙は止まりだしていたが、それと同時に体に悪寒が走り始めている。
 だけど体の内側は熱い。
 息を吸えば、マラソンを走り終えたあとのようにヒューヒューと不気味な音がする。
「うぅー、う、さむい…のに、あつ、あつい…」
「風邪だな」

 悠馬は、半分残っていたおにぎりを口にほおりこみ、机の上を片付け始めた。
「病院行くぞ、保険証持ってるよな」
「…え」
 今日は、木曜日で悠馬は3限も講義があるはずだ。

「こ、こうぎは…」
「3限の講義は出欠確認が無い。レジュメも教授がメーリングリストで生徒全員に一斉に送る。1回くらい飛んでも構わない。それで保険証は?」
「もってる…」
「わかった、行くぞ」
 悠馬は手をこちらに差し出した。
 いつのまにか、あたしのカバンも背負ってくれている。
 あたしは悠馬に連れられて学校に一番近い病院に向かった。


「うーん、検査の結果ではインフルエンザではなさそうです。お薬出しておきますので、安静になさってくださいね」
 病院で熱を測ると、37.9℃だった。
 季節外れでインフルエンザが流行っているらしいので、念のためとインフルエンザの検査もされたが、どうやらただの風邪だったようだ。

 お医者さんと看護師さんに頭を下げ部屋を出る。
 部屋の外にいたショートカットの看護師さんが、「三河さん、あとはお会計だけですので、待合室で座ってお待ちくださいね」と待合室まで案内してくれた。

 待合室では、悠馬が腕を組んでそわそわした様子でソファに座っていた。
 あたしが待合室に来るのを見た瞬間、ほっと息をつき、手招きした。

 悠馬の横に座る。
「…どうだった?」
「インフルじゃないみたい」
「そうか、よかった」
「あの…ありがとうね」
 講義を休んでまでついてきてくれた事に、ありがたさを感じるとともに、申し訳ない気分になった。
 食堂でも突然泣き出したあたしを優しくなだめてくれたし…。

「あの状態で玲一人を病院に行かせたところで、講義を落ち着いて聞いてられるとも思えない。したいようにしただけだから、別にお礼なんか言わなくていい」
 悠馬はカバンから財布を取り出しながらそう言った。
 いつもみたいに照れ隠しで言っているのかと思ったが、顔色一つ変えずに言い放ったあたり、たぶん本心を言っているのだろう。
 本当に優しい人。だけど、なんて不器用な人。

 そっと悠馬の肩にもたれかかった。
「…うん。でも、お礼言いたかったの。うれしかった…」
「変わったやつだな」
 そのセリフ、そっくりそのままお返しするよ。今のは照れ隠しで言ったんでしょう。

「三河さーん」
 受付の人が名前を呼んでいる。お会計を済ませないと。
 立ち上がろうとして悠馬に手で制された。
「いい、払う」
「え、でも悪いよ…」
「いいから」
 悠馬が耳元に口を近づけてきた。何か耳打ちしたいらしい。

「…今度、2人きりの時思いっきり甘やかしてくれたらいい。ベッドの上で。お願い」

 声帯に引っかかるようにして紡がれるかすれた言葉に、一瞬目の前が明滅する。
 その間に悠馬は受付のほうへスタスタと歩いて行ってしまった。

「…ふうー…」 
 ボスッとソファの背に体を預ける。
 あの人の色気は、体調不良の人間には刺激が強すぎるようだ。
 大体、あの人の照れるポイントがわからない。
 こんなに一緒にいるのに、予想もしてなかった事を平気でぽろっと言ったりするから、たまったもんじゃない。
 熱が上がりそうだ。
 受付で会計を済ませる悠馬の後ろ姿をぼんやりと見ながらそんな事を思った。


 あのあと、家まで送ってくれた悠馬はご親切におかゆを作ってくれた。
 食欲が無い時用にリンゴのすりおろしまで冷蔵庫に入っていたのを見た時はさすがに「お母さん…」とつぶやいてしまった。

 帰る寸前、悠馬は珍しくこれでもかとキスを落とした。
 額、まぶた、頬、耳、首筋、手首、最後に唇に。
「どうしたの、めずらしい…風邪うつっちゃうよ」
「明日は来ないだろ、学校」
「…うん、熱が下がっても念のため行かないかな」

 悠馬は足元をずっと見ている。
 たっぷり3秒は沈黙があった後にぼそりと悠馬が何かをつぶやいた。
「…ぃ、ら…」
「ん?」

 きゅっと眉を寄せて、悠馬はあたしの服のすそを掴んだ。
 そのまま抱き寄せられる。
「寂しいから…」
 この男、病院の時に耳打ちしてあんな事言ったのも、キスを落としまくったのも明日会えなくて寂しいからか…!

 熱のせいで思考力が落ちてる。
 今すぐ押し倒したい勢いで可愛いんですけどこの人、なんなの。
 玄関先だから耐えなきゃ…。
 何よりこれ以上近くにいると本当に悠馬に風邪がうつってしまいそうだ。

「なんで、そんなに、かわいいの…?」
 抱きしめ返しながらなんとか理性で欲を押し殺してそれだけ言う。
「かわいくない…寂しい。寂しい…」
 悠馬はうわごとのように寂しい、寂しいと繰り返している。
 これは早く治して大学に行ってあげないといけない。
 にしてもなんなんだ?ウサギか?お前は寂しがりやのウサギさんなのか?可愛いな?

 悠馬の頬にキスを返す。
「…早く治すよ。それで」
 えい、もうこれはあたしからのささやかな仕返しだ。
 耳元でぼそっとつぶやく。
「ベッドでいっぱい甘やかしてあげるから…」

 悠馬が膝から崩れ落ちる。
 耳に手を添え、ペタリと床に座り込んでしまった。
 蜂蜜をたらしたかのようにとろけてうるんでいる目がこちらを見上げている。
 わぁ、その目たまんないな。今すぐに食べてしまいたい。

「何?想像したの?」
 つとめて冷ややかな声を出そうとする。
 想像して興奮してるのはあたしだって一緒だけど、それを悟られるのはなんだか癪だ。 
 悠馬の顎に手を添え、くいっとこちらを向かせる。
「う…ぅ」
「お願いだよ、悠馬…これ以上、熱が上がりそうな事しないで。あたし、何するかわかんないから」

 その後に悠馬が言いそうなセリフが何となく頭に浮かんだから、バッと手のひらで悠馬の口を押えた。

「だめ、今日はもう、だめ。煽らないで、これ以上。ほんとに、だめ。」
 悠馬はこくりとうなずいた。
 あたしはそっと悠馬の口から手を離す。
 悠馬はゆっくりと立ち上がった。

「わかった。今日は帰る。…早く元気になって」
 ぽんぽんと頭を撫でられた。
「うん、ありがとう」
 悠馬が帰ったあと、私は布団に倒れ込んだ。

 早く元気になろう。
 そして、彼をどんな風にベッドの上でどろどろにとろかしてやろう…
 それをずっと考えているうちに、意識は深い深い底へ落ちていった。

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