【再掲 / 玲と悠馬⑦】7月13日
俺が一体、何をしたって言うんだ。
「ひ、ぐっ…ぐぅ…っ」
どうして、こんなにつらい目に合わなければならないんだ。
「やめて、おねが、おねがい、やめて…っ!
どうして俺なんだ。
それは、高校一年生の夏だった。
今でも日付を覚えている。7月13日。
身体を滑り落ちていく汗と涙、精液の不快さ。埃っぽい、社会科教室の床。
ずきずきと痛む背中。
もう顔も思い出せないけれど、俺を組み敷いたあのクラスメイトの、欲でぎらついた目。
それから始まった真っ黒で救いがたい日々、恋焦がれた一人の女の子、安堵で崩れ落ちた瞬間。
全部全部、一生忘れる事はないだろう。
高校一年生。
その日、日直だった俺は、先生に授業で使った地図の運搬を頼まれて資料庫と化した旧校舎にいた。
社会科資料室の奥に地図を立てかけ、ふうと一息ついた時、後ろで扉がガチャリと音を立てた。
振り返ると、同じクラスの男子が立っていた。
どうしたんだ、と声をかける暇も無かった。
そこから、初めてを暴力的にかっさらわれるまであっという間だったからである。
「あ、いた、いたい…っ」
「うるさい…っ!」
クラスメイトは、自分が締めていたネクタイを外して、俺の口の中に無理やり突っ込んできた。
苦い布を必死に噛み締め、痛みと屈辱に耐える事しかできない。
気持ちよくなんかなかった。
前戯もほぼなく、十分にほぐされもせず突っ込まれたせいで、すさまじい圧迫感と痛みが襲って、息ができなかった。
クラスメイトが動く度に、貫かれた場所から痛みが広がる。
「むぐ、ぐ、ぐう…っ!う、うぅ…っ」
俺の中心は完全に萎えきっていた。
体を冷や汗が伝う。
もう、やめてくれ。許してくれ。
俺の何が悪かったのだろう。彼とは同じクラスになってから、二言三言会話をしただけなのに。
血が出ているのだろうか、埃っぽい部屋は少しずついやらしい水音でいっぱいになっていく。耳元で荒い息が聞こえる。
怖くて怖くて必死に目をつぶった。
突然、彼は陰茎を抜き、俺の手首を離した。
横目でちらと見ると、赤く痕が残っている。
社会科資料室の床でぐたりと動けなくなった俺を見下ろしながら、彼は俺の体に向かって精を吐き出した。その瞬間、彼は小声でぼそりとつぶやいた。
俺ではない男の名前を。
口からネクタイがずるりと抜かれる。唾液でテラテラに光るネクタイはもはや何か気味の悪い生き物のようだ。
「悪かった」
彼は一言それだけ残して部屋を出ていった。教室の外でガタガタと音がして、足音が遠ざかっていく。
謝るなら俺のこの痛みを消し去ってくれ。
こんな理不尽に体を暴かれて、挙句の果てそれが自分ではなく別の相手への欲情を発散するためだなんて。
こんな事、誰にも相談できない。
どうしたら、いいんだろう。怖いのに、痛いのに、一人で抱え込むしか方法がない。
「誰か助けて…」
セミの鳴き声がどこか遠くの方で鳴り響いている。
誰かのすすり泣きがひどく近くで聞こえるが、それは俺のものだったんだろうか。
その事件以来、俺はクラスの誰にも心を開く事などなかった。
それまでに友人は数人いたけれど、付き合いが浅かった事もあっていつしか、距離があいていった。
いつも、教室の隅で一人ぼおっとしていた。
誰かと関わる事が怖かった。
また、何か危害を加えられてしまうんじゃないか。
手が自分の方に向かって伸びてくるだけで、身構えてしまう。
手が少し触れただけで、恐怖で声が出なくなる。
俺を襲ってきたクラスメイトは、夏休み後に転校していた。
文句の一つも言ってやる事ができなかった。
情けなくて、苦しくて、だけど怖いから誰とも関わりたくなくて、学校も休みがちになったし、部活動もやめてしまった。
小さいころから大好きだった剣道を、本当は続けたかったけど、それどころじゃなかった。
そして、2学期のとある日。
ついに出席日数が危うくなって、放課後に担任に呼び出されてしまった。
「渡、このままのペースで休み続けると、出席日数が足りなくなるかもしれない。お前は、成績はいい。だけど日数が足りない生徒は留年になるんだ。できるだけ学校に来てくれ」
「…はい」
職員室の端。
面談スペースと称されたその小部屋で、担任と向かい合って座って二人。
机の下の手が震えている。個室で誰かと二人きりになる事も怖かった。
担任がそんな事してくるはずないのに、恐怖で頭がいっぱいになる。
「何か、悩みごとでもあるのか。例えば…友人関係でうまくいってない事があるとか」
「いえ」
いえるわけがない、あんな事。だいたい、もうあのクラスメイトはいないのに。
「親御さんと何かトラブルがあったわけではないよな」
「…いえ」
早く、外に出してほしい。声が震える。
そのとき、俺の様子がおかしいのに気づいたのか、担任が俺の肩に手を置いた。
身体から一気に血の気が引いていく。
「だ、大丈夫か、お前」
「いや、あの、あ、ちが、大丈夫です」
「体調悪いんじゃないのか、顔真っ青だぞ。今すぐ一緒に保健室に行こう」
「ひ、ちが、やめて、なんでもない!なんでもないんです!失礼します!」
俺は椅子から勢いよく立ち上がり、ダッシュで職員室から出た。
泣きながらめちゃくちゃに走った。どこに向かっているかもわからない。
何から逃げているのかもわからない。
前も見ずに、無我夢中で走っていると
「うわっ!」
突然誰かと思いっきりぶつかってしまった。
正面衝突して、二人とも尻もちをつく。
「いたた、びっくりした…」
目の前で、一人の女の子が困ったように笑っていた。
セーラー服の右胸にある校章の色は、赤色。同じ学年だ。
だけど、彼女の顔を見た事は一度も無かった。別のクラスの子だろうか。
「ご、ごめん。前見てなくて」
「いいよ、あたしも前見てなかったから。…あれ」
彼女は、俺の顔を覗き込んできた。急に距離を詰められたので、一瞬後ずさる。
「あ、ごめん、距離近かったね。いや君、泣いてるのかなって、思ったんだけど」
「…」
「なんか、あったの?」
「…なんでもない」
「あ、彼女に振られたとか?」
ニヤニヤと笑いながら聞いてくる彼女に、何だか無性に腹が立った。
こっちは必死で悩んでいるというのに。一人で耐えているっていうのに。
「あんたには、関係ない!」
そう叫んで、俺はその場を走り去った。
二度と関わり合いになりたくない、あんな奴。
いつの間にか、悲しい気持ちは完全に怒りへとシフトされていた。
この時、ぶつかった女の子は一体誰なのか?
そう、お察しの通り、三河 玲である。
当時は彼女が俺を救ってくれる事になるなんて、つゆほども想像していなかったのだが。
なんとか出席日数をぎりぎりでクリアし、2年生に進級するころには、少し気持ちも落ち着いてきていた。
どうせ人と関わるのが怖いなら最初から関わる事もなく、のらりくらりと一人で過ごそうと決めて、始業式の日、教室に入った。
苗字が「渡(わたり)」で万年名簿番号は一番最後なので、教室の一番隅の席に座る。
教室は人がまばらだったが、しばらくするとがやがやと女子数人のグループが教室に入ってきた。
部活の知り合いなのか、去年クラスが同じだったのか、ぺちゃくちゃとおしゃべりをして楽しそうだ。
まあ、関わり合いになる事もないだろうと、机に突っ伏して眠ろうとしたその時だった。
振り返ったグループの女子一人と目が合った。
なんだか見覚えがあるような、ないような。
次の瞬間、彼女が
「あーっ!」
と大きな声を出した。
「なになに、どしたの、玲」
周囲の女子はびっくりして彼女を見たが、彼女はお構いなく俺の席に近づいてきた。
「ねえねえ、去年さ、廊下でぶつかった人だよね。あの、泣いてた!」
「げっ」
最低な気分だ。
泣いてた事もばらされるし、一番関わり合いになりたくないタイプだと思っていた奴が同じクラスだし。
「やばいよ、あんた嫌がられてるじゃん」
「えー?ひどい、仲良くなりたいと思ったのに」
「やめときなって。一人でいるのが好きなんだって、きっと」
「そうなの?君、一人でいるのが好きなの?」
「…ほっといてくれよ」
「ほら、玲、行くよ」
そうだそうだ、もうほっといてほしい。
中途半端に関わって傷つけてくるなら、最初から関わり合わないでくれ。
その時、彼女がぼそりとつぶやいた声が聞こえた。
「どうもそんな風には、見えないんだけどなぁ」
「…え」
振り返った時には、彼女はもう友人たちと一緒に教室の中央に向かっていた。
一人取り残された俺は、しばらく彼女から目を離す事ができなかった。
あのヘラヘラ笑っている女が、本当にさっきの言葉を言ったんだろうか。
最後に、彼女がぼそっと言った言葉の意味を考えあぐねていた。
彼女は、俺の何を見て「本当は一人でいるのが好きじゃない」と思ったんだろうか。
頭の中に、少しずつ少しずつ疑問符が生まれ始めていた。
それからというもの、彼女はしょっちゅう俺に構ってくるようになった。
今は、彼女がずっと話しかけてきてくれたおかげで、他人と再び関わり合う事に少し前向きになれたから、本当に感謝している。
だけど、当時は全くそんな風に思ってなかった。
「わたりー、渡悠馬くーん」
「…うるさい」
「眉間に皺寄せちゃって、老けちゃいますよー」
「…しつこい」
「にこって笑ったら絶対可愛いのに!」
「いい加減にしろ!しつこいって言ってるだろ!」
最初の席替えで、隣の席になった事が運のつきだった。
彼女はいつもいつも暇さえあれば俺をからかった。
授業中に問題を解いているときも、移動教室の準備をしているときも、朝学校に来て、夕方帰るまでずっと。
友人が多い彼女は、おしゃべりが上手で、口下手な俺からすればかなりうるさい存在だった。
「三河さん、渡くん。仲良しなのは良い事だけど、静かにしなさい。授業中よ」
「いや、仲良しじゃな…」
「おしゃべりする暇があるなら、次の問題を解いてもらいましょうか。はい、じゃんけんで負けたほうが前に出て」
数学担当の市川先生は口元に笑みを浮かべているが、全く目が笑っていない。
相当に怒っているようだ。
有無も言わさぬ迫力で、こちらをじろりと見つめてくる。
ついでに、クラスメイトたちもにやにやとこちらを見つめてくる。
隣の席にいた三河が、机をシャーペンでこんこんと叩いてきた。
「…ねえ、渡が解いてよ。あたし、あんな三角形とか円がぐるぐるしてる問題わかんないよ」
「俺だってわかるか。あれ、特進クラスが解くような問題だぞ」
「じゃあなおさら、あたしじゃ無理だよ。君、頭いいでしょ。解いてよ」
「無理だ。じゃんけんしてどっちかが怒られるしかない」
二人して声を潜めて、問題の解答権を押し付け合う。
その間に市川先生はしびれを切らしたのか、俺たちの机に向かってつかつかと歩いてきた。
そして、勢いよく机の上に大量のプリントを叩きつけた。
「あの、せんせ?これは…」
ぞっとする量だ。
しかも、先生の手のひらの隙間から見える問題文も、かなり凶悪なレベルな気がする。
「以前から、私語が多い生徒に関してはペナルティを与えますと通告していました。次回の授業までに、全て終わらせて提出しなさい」
「いや、次回の授業って確か明日の一限じゃ…」
「いいですね」
三河の悲痛な訴えをかき消すかのように、チャイムが鳴った。
弁解のチャンスも完全になくなってしまった。
「では、本日はここまで!」
「お前のせいだからな…」
放課後の教室。目の前に積みあがる片付かないプリントの山。
カチカチと苛立たし気にシャーペンをノックする音。
ひっきりなしにこぼれるため息。
俺の恨み言に、三河がねちっこく反論する。
「渡がうだうだ言い訳して問題解かないから、先生が怒ったんだよ…」
「じゃあお前が解けばいいじゃないか」
「できないから頼んだんだよ。だいたい、そっちが叫んだせいで注意されたんだから!」
「ちょっかいかけてきたのはお前だ!」
お互い、椅子から半立ち状態でにらみ合う。
一触即発。
どちらかが何かを言えばつかみ合いの喧嘩にでもなりそうな緊張感だ。
しかし、しばらくして三河がふうとため息をついて椅子にもたれかかった。
「…やめよう、不毛だよ」
プリントをまるで雑巾のようにつまみ、ふらふらと目の前で振りながら、三河は半ば死んだ目でこちらを見た。
友人と話している時からは想像できないほど虚ろな表情に、一瞬どきりとするが、すぐに彼女は俺から目を逸らした。
「ここで言い争っても何にもならないよ。数学の課題は提出しなきゃいけないんだもん」
「…まあ。そうだけど」
「ちょっかいかけた事、気悪くしたなら、謝るよ。ただ、嫌がらせのつもりじゃなかった事だけはわかってほしい」
彼女は当時、長い黒髪だった。
初夏にしては蒸し暑いが、教室のクーラーはまだつけられない。
彼女は右手首につけていたヘアゴムで、髪をまとめ始めた。
その間、静かに彼女は話し続ける。
「新学期になってからずっと、渡と話してみたいと思ってたの。本当に一人が好きそうに思えなかったから。なんだか、本当は誰かと関わり合いたいのに、ずっと我慢してるように見えたんだよ」
「今は…?」
「ん?」
嫌に喉が渇いている。言葉が喉にひっかかってうまく出てこない。どうしてだろう。
「今はどう見える…?」
「ううーん、そうだね…」
三河は少し考え込んだ。
せっかく右手でまとめていた髪を手離して、腕組みをしている。
変な気分だ。自分自身がどう見えているかを相手に問うだなんて。
「今も、一緒かな。一人が好きなようには、やっぱり見えないよ。理由は、うまく言えないんだけど、しゃべってるといつもそう感じる。ほんとは、自分自身の事、誰かに知ってほしいのかなぁって思うよ。正直、あたしの事うっとうしいでしょ?」
「うっとうしい。苦手」
即答すると、三河は嫌そうな顔一つせず、けらけらと心底おかしそうに笑った。
「やっぱり。正直に言ってくれると思った。なんかね、良くも悪くも、人付き合いに誠実そうだなって思う。中途半端に付き合い持たれるの好きじゃないんでしょ。ずかずか無遠慮に入ってこられるのも好きじゃないよね、違う?」
「…違わない」
「渡のそういうところがすごいと思うよ。あたしは、適当に広く浅くお友達を増やしたからさ。楽しいけれど、渡みたいにきちんとお前の事が苦手だって言ってくれる人いないよ。変に気を遣って、うわべだけのふわふわした関係で」
彼女は、頬杖をついて窓の外をぼんやりと眺めた。
またしても、彼女の目は虚ろになっている。
その目を見ると、心臓が急に締め付けられるような気分になってしまうのは、どうしてなんだろう。
「だけど、あたしも傷つくのが怖いから、へらへらしてるだけなんだよねぇ」
彼女は、そのまままっすぐこちらを見た。
さっきよりも長い時間、彼女の視線に絡めとられてしまう。
どうして、息ができないんだろう。
怖い以外の感情で、息ができなくなったのは久しぶりで、どうしていいのかわからない。
「渡とは、うわべの関係になりたくないなぁ」
「ならない!」
自分でも思ってるより、大きい声が出た。
三河は驚いたのか、目を丸くしてこちらを見ている。
かくいう自分も驚いて、固まってしまった。
「な、なんで言った君が驚いてるのよ」
「わかんない…。だけど、ならない。ちゃんとお前のこういうところが嫌だって、正直に言うから。だから、だから」
どうしてこんなに必死になっているんだろう。
「そんな悲しい目しないで」
訪れる沈黙。
何か言ってくれ、頼むから。
顔を上げる事ができない。頬の中心から、耳へ首へ、じわじわと熱が広がっていく。
耐えきれなくなって、机のプリントを急いでかき集めた。
彼女の方をろくすっぽ見ないままカバンに適当に詰め込む。
「用事あるから、帰る」
席を立ち、逃げるように教室から出ようとした瞬間だった。
思いっきり手首を掴まれる。心臓が口から飛び出そうになった。
一気に社会科教室の出来事がフラッシュバックする。
「帰らないで」
「う、あ」
だめだ、恐怖でうまくしゃべれない。
だけど、どうして、恐怖以外の感情が湧き上がりそうになってるんだろう。
身体が崩れ落ちてしまいそうで、震えが止まらないのに、嫌悪感以外の何かが生まれている事に頭が混乱した。
「ねえ、こっち見て」
「やだ…っ」
「どうして」
「わかんない、も、わかんない、何も」
声が震えだす。まずい、泣きそうになっている。
どうしたら、どうしたら、ああ。
「渡、お願いこっち見て」
ゆっくりと振り返る。
「君、初めて会った時もそんな顔して泣いてたね。真っ青で、何かを怖がってるみたいだった」
三河がまっすぐにこちらを見た。
その目に何もかも見透かされてしまいそう。
「何が怖いの」
「言えない、そんな事…」
もう限界が近かった。頭がクラクラし始めている。考えがうまくまとまってくれない。
三河は、次の言葉を言うかどうか迷っているように、視線を彷徨わせた。
そして、こう言った。
「怖い事は、社会科教室と関係あったりする?」
その瞬間、俺は膝から崩れ落ちた。
「なんで…うそ、どうして…」
「去年の夏に、社会科教室で人が倒れてるのを見た。パニックになって、あたしその時逃げたの。顔はちょっとしか見えなかったけど」
三河は座席から立って俺の元へ来た。そして側にしゃがみ込む。
「やっぱり渡だったんだ…そっか…」
手首を握る三河の手に力が入ったのがわかった。
「ねえ、何があったの。あの日、社会科教室で、あなたは何をされたの」
言ってしまえば楽になるのはわかっていた。
だけど、受け入れてもらえなかったら?気持ち悪いと言われたら?
また、傷つくなんて、嫌だ。
それならいっそ一人でいた方がいい。だけど。
「…あんたには…」
言いたくない。
「あんたには、関係ない…」
言いたくない、本当はこんな事。
手首から熱がゆっくりと遠ざかっていった。
「渡…」
「帰る」
そのまま振り返らずに教室の外に出た。三河はもう、引き留めてこなかった。
次の日から、俺は彼女を避けた。
否、避けるしかできなかった。
どんな顔をして話していいのかわからなかった。
避けたその日、彼女の笑顔が凍りついたのがわかったけれど、どうしようもなかった。
そのうち、彼女の屈託のない笑顔も、誰にも見せなかったあの虚ろな目も、こちらに向けられる事は無くなっていった。
教室で彼女が友人と話している声を聞く度に、たまらなく寂しくなる。
苦手だったはずなのに、どうしてこんなに胸が痛くなるんだろう。
うわべだけの関係で、適当に意見を合わせてへらへら笑う事に、疲れ切っていないだろうか。
彼女は、あの虚ろな感情を、もしかしたら誰にもぶつけられていないのではないだろうか。
だけど、拒絶したのは自分の方なのだ。
いつまでも怖がって、彼女の手を振り払い続けている。
とことん嫌気がさす。
「えー、今回が前期最後の授業ですね!それでは今から課題を配ります」
ブーイングが溢れる教室、セミの鳴き声、首筋を伝う汗、クーラーの唸り声、カレンダーに浮かび上がる忌まわしい7月13日、隣の席にいるはずなのに誰よりも遠い彼女。
夏休みまで、あと3日。
未だ、三河と俺の関係は、元に戻らないままだった。