【再掲 / 玲と悠馬⑨】Embrasse-moi
これぞ、最高の昼下がりと言うべきではないか…?
部屋の中には、ページがめくれるかすれた音と、扇風機のファンが立てる間抜けなふぉおおおーん…という音だけしかない。
おそらく外では猛威を振るう日差しも、窓とカーテンをすり抜けてしまえば、部屋の中では牙が抜けて柔らかなものに変わる。
悠馬はフローリングの上に寝っ転がって、あたしは悠馬のお腹の上に頭をのっけて、二人で傍らに積んだマンガを延々と読み続けている。
時間を贅沢に消費しているこの感覚がたまらない。
映画鑑賞会もそうだが、あたしは悠馬とこういう風に、同じ作品を共有して楽しむ事が大好きなのかもしれない。
あたしは読み終えた7巻目をパタンと閉じて8巻目に手を伸ばそうとした。
しかし、傍らに積んだ山の一番上は9巻目だった。
寝っ転がったまま、右側をちらりと見ると、8巻目は悠馬の手元にあった。
「ゆうまぁ」
悠馬は漫画から顔を上げずに「ん」と生返事をする。
「7巻終わった」
「ん」
その後、何か言うのかと思って待っていたが悠馬は何も言わない。
「8巻まだ読み終わらない?」
悠馬の目は漫画を必死に見つめている。
紙面を隅から隅まで見渡しているのか、ビー玉のように2つの黒目がころりころりと動く。
返事はない。
「悠馬」
少し大きめの声でもう一度悠馬を呼ぶ。
「ん?」
語尾が上がっているから、これは疑問形なのだろう。
「何?」程度のつもりだろうか。相変わらず彼は顔を上げてくれない。
「8巻まだ読み終わらない?」
「ん」
起き上がって悠馬の方をじっと見る。
あたしのこのじとりとした視線に、微塵も気づいてくれそうにないようだ。
8巻も読めなければ、悠馬もこっちを見てくれない。なんだかちょっぴり面白くない。
あたしは良い事を思い付いた。
ちょっかいをかけたら、少なくともこっちを見てくれるはずだ。我ながら名案。
悠馬の脇腹を、1回つんっとつついてみる。
しかし、反応はない。相変わらず悠馬は、ページをめくり漫画を読み続けている。
もう一度、つついてみる。やっぱり反応はない。
さらに、続けて2回つんつん、とつついてみる。
いつもなら、くすぐったがったり、笑い声を漏らしたりするのに、今日は一切何も反応を示してくれない。
今度は、漫画の表紙をつかんでいる節くれだった指にそっと右手を這わせてみる。
相変わらず彼は綺麗な手をしている。しかし、綺麗な手の主はやっぱり反応してくれない。
もう、ここまでくるとわざと無視しているんじゃないか?
キスの一つでもすれば、こちらを見るくらいはしてくれるだろうか。
あたしは右手を這わせた手と反対側の手に、触れるか触れないかくらいのキスを落とす。
すると悠馬がようやくこちらを見た。じろり、と鋭い目つきで。
「今、いいとこなんだからあとにしろ」
それだけ言ってまた目を漫画に戻してしまった。
あたしは、悠馬の不機嫌そうに寄せた眉間を凝視した。
「あとにしろ」だって? つれない反応だ。
しかし、あたしだってこの程度でめげる女ではないのだ。
生粋の恥ずかしがり屋かつ素直じゃないこの男と付き合っていくには、時に少々強引に事を進めなくてはいけない。
あたしは、悠馬が読んでいる8巻を引っ掴んで、取り上げた。
「あっ。おい、返せ」
不機嫌そうに眉間に皺を寄せて、悠馬がこちらを睨んでくる。
それ、たぶん世間一般だと恋人に向ける表情じゃないとあたしは思う。
理不尽なクレーマーに当たった後の休憩室とか、無礼な振る舞いをしてくる他人に対する表情で、仮にも好き合っている彼女に向ける表情では絶対ない。
しかし、このあたしは、これしきでめげる女ではないのだ。
「あたしに好きって言ってくれたら返す」
さあー、どうだ!
これなら恥ずかしがって、可愛い真っ赤な顔を見せてくれるだろう。
期待を込めた目で彼を見たが
「愛してる」
その期待は、一瞬にして崩れ去った。
悠馬は真正面からあたしの目を見据え、ぴくりと表情も変えずに、言い切った。
まさか愛してるとまで言われるとは思っていなかったので、あたしは手から漫画を取り落とした。
悠馬は何も言わず、そそくさと漫画を取り返し、再び作品の世界に没入し始めてしまった。
あたしは、がっくりと崩れ落ちた。
しっかりしろ、あたしは、これしきでめげる女ではない。ないはずだ。
ないと言いたいが、ちょっとどうにも頬が熱くて考えがまとまらない。
あたしから悠馬に対して、「好き」とか「可愛い」とか言う事はたくさんあっても、悠馬からあたしへ愛情表現をしてくれる事はそう多くない。
さっきも言ったけど、この男は恥ずかしがり屋かつ素直じゃないから。
そのくせ(それゆえ?)、時々とんでもないほど重い一撃を放ってくる事がある。
しかも、全くもって予想していないタイミングで。
そりゃ、恋人どうし「愛してる」ぐらい言われた事はある。
でも、前言われた時は頬にキスされた後で顔がよく見えなかった。
今回は真正面からだ。だめだ、言い訳が多い。
はっきり言おう。完全に今の一撃に、あたしはやられてしまったようだ。
だってさっきから、心臓の音がこんなにもうるさい。
猛暑から逃れて部屋の中に避難しているのに、どうしてこんなに体の内側が熱いんだろうか。
ていうか、この男は言いっぱなしで何もしてくれないうえに、フォローも無いのか?
と愛してると言ってもらったくせに、贅沢にもあたしは悠馬を睨んだ。
しかし、すぐさまあたしは表情を緩める事になった。
「君、顔、真っ赤じゃん…」
悠馬は耳まで真っ赤にしながら漫画を握りしめていた。
絶対、もう内容は頭に入っていない。
「うるさい、黙れ、玲の方がよっぽど真っ赤だ」
そういいながら、彼は赤くなった顔を隠すように、漫画を顔に近づけた。
あたしはまたしても彼の手から漫画を取り上げた。
「もう、返せったら!」
悠馬は手を振り回して漫画を取り返そうとしてくるので、あたしは8巻を部屋の隅に放り投げた。
「俺のだぞ、おま、え…」
吹っ飛んでいく8巻の方を見ながら怒る悠馬の赤くなった頬を両手で挟むと、彼はたちまち大人しくなった。
二人して、タコみたいに顔を真っ赤にして見つめ合っているこの光景がどんなに滑稽か。
眼鏡の奥、悠馬の黒い目がぐらぐら揺れている。
あたしの頭の奥でも思考がぐらぐら揺れている。
ここからどうするか、何にも考えてなかった。キスしようにも、ちょっと恥ずかしすぎてできそうにない。
そもそもなんで、あたしは8巻を放り投げて悠馬と見つめ合おうとしたのか。自殺行為に等しいじゃないか。
いけない、変な汗出て来た気がする。どうしよう…。そう思った次の瞬間だった。
悠馬は、あたしがしているのと同じように、あたしの頬を両手で挟んで顔を近づけて来た。
必然的に、唇が重なる。
キスと呼ぶにはあまりに可愛らしすぎた。
一瞬だけ、そっと触れ合った程度。
触れ合ったところから全身に電流が走ったように、二人は体を引き離す。
あたしは、心臓の上を手で押さえながら必死で深呼吸をした。
落ち着かなくては。
とりあえず、この火照りをどうにかして覚まさなくては。
顔を上げると、悠馬も同じように深呼吸を繰り返していた。
ばちりと目が合うと、二人してまた慌てて逸らす。
どうしてだ。
いつももっとすごい事してるのに、なんで軽くキスした程度でこんなに恥ずかしいんだ。どうしたらいいんだ。
頭を抱えているうちに、あたしは急になんだかおかしくなってきてしまった。
ふへ、と口角がゆるむ。
それを境に、じわじわと口角が上がっていく。だめだ、どうにも抑えられそうにない。
人間あまりにも恥ずかしくなると、もはや面白くなってくるのだな、といらない見地を手に入れた。
あたしはついにこらえきれなくなって、吹き出してしまった。
急に笑い出したあたしを見て悠馬がぎょっとした顔でこちらを見て来る。
「な、なんで笑って…どうした…」
頭がおかしくなったと思ったのか、悠馬が眉を下げて困ったような顔をした。
あたしは構わずひとしきり笑い続けた。
やっと落ち着いて、指先で涙を拭いながらあたしは言った。
「ちゅ、中学生じゃあるまいし…。キスどころか、目が合っただけで照れて逸らすなんて、付き合う前にもなかった事だよ。はあ、おかしい」
悠馬は、頭をかきながら「…付き合う前はしょっちゅう喧嘩してたからな」とつぶやいた。
「だいたい悠馬が先に怒り出すんだよね」
「ちょっかいをかけてくるのはいつもお前からだった」
「懐かしいね。こうやって、しょっちゅう言い合って、うるさいって先生にも怒られてさ」
「ほんとに迷惑だったんだからな。俺はいまだに数学の先生に怒られた時の事、忘れてないぞ」
そう言いつつも悠馬は笑っていた。
あたしは、彼のその表情を見て、胸の内側がじんわりと熱くなるのを感じた。
だけど、その熱の正体がさっきと違う事になんとなく気づいていた。
「愛してるよ、悠馬」
その言葉が自然と口をついて出た。
「……ありがとう、俺も愛してる」
悠馬は今度も目を逸らさなかった。
自分の心の内を見せる事が得意じゃなくて、それでもあたしへの思いはストレートにぶつけてくれるこの男の事が、あたしはどうにも好きでたまらない。
あたしは悠馬の服の裾を引っ張った。
言葉はいらなかった。悠馬は目を閉じた。
二人の距離がまた0になる。
唇を離そうとすると、今度は悠馬があたしの服の裾を引っ張った。
あたしは彼を抱きしめて、また唇を重ねた。
何度も、何度も。
自らの胸の奥にある熱を、口移しで彼に流し込む。
たくさん辛い思いをした彼の胸の内が、この先いつまでも穏やかでありますように。
そう祈りながら。