ちょっとイケないこと… 第十三話「共感と共犯」
(第十二話はこちらから↓)
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「僕、知ってるよ?」
純君は告発する。その状況はまるで、サスペンスドラマのラストシーンのように。
――やめて…!!
シーンと静まり返った空気の中、私は咄嗟にそう思った。
――言わないで…!!その先を。私の過去の過ちを。
あるいは真剣に、半ば強引に話の続きを遮ろうと考えた。
――お姉ちゃんが悪かったから。もうこれ以上、あなたの罪を咎めたりしないから。
己の言動を懺悔するように、懇願するように彼に祈った。
「お姉ちゃんが『おもらし』しちゃったこと」
だけど彼の口蓋は無情にも開かれ、同時に私の視界は絶望に閉ざされたのだった。
室内が静寂に包まれる。会話の順番からすると次は私のターンであるはずなのに、何も言えずに黙り込んでしまう。
「な、何を、馬鹿なこと言ってるの…?」
長大な間を置いてかろうじて絞り出した言葉はけれど、それさえも間違いだった。この場で返すべきなのは質問ではなく、より無意味な疑問であるべきだった。
「え?」とか「は?」など、そうした一文字と疑問符のみであるべきだった。
そうすることで、会話自体をそもそも成り立たせず。愚問だと一蹴することこそが私にとって唯一の正答であり、私自身を正当化するための正道であったはずなのに。
彼からの手厳しい指摘が的中していたために、適切な選択肢を見失ってしまった。そうして再び、彼の番になる。
純君は何も言わなかった。ただじっと黙ったままだった。だけど彼の沈黙の意味は私のそれとは大きく異なる。何かしら言葉を返すことを私が要求されたのに対して、彼はそのまま無言で居続けたとしても一向に構わないという余裕のある沈黙だった。
思わず私は後退してしまう。今すぐここから退散したいという衝動に襲われる。
それでも私は絶対に撤退するわけにはいかないのだった。ここは弟の部屋である。だけど私の家の一部でもある。あくまで限定的な所有権が与えられているとはいえ、それは両親が決めた暫定的な領有権により効力を発揮するものに過ぎないのである。
つまり、ここは彼の部屋であってそうではない。春から大学生になったといっても未だ親の脛を齧り続けている実家暮らしの私についても、それは同様であるように。
私の部屋もまた、この家の一部に過ぎず。リビングや洗面所、トイレに至るまで。私は生活圏の多くを彼と共有していて、どうしたって顔を合わせる距離に共存する。
ゆえに、私は逃亡することが叶わなかった。
ここで一時的に背を向けたとして、直ちに彼との関係性が失われるわけではない。だからこそこの場で解消しておかなければ、彼の疑問は不協和音として残り続ける。いくら平常を取り繕おうとも、非日常からの残響は日常に影響を及ぼし続けるのだ。
私は後退する代わりに一歩前進した。およそ数メートルの空間を縮めるみたいに。姉弟の数年間の空白を埋めるみたいに。
私の行動が彼にとっては予想外だったらしく、彼はびくっと震えて目を逸らした。両手で必死に頭部を庇っている。姉から暴力を振るわれるとでも思ったのだろうか。その反応は私にとっても想定外のもので、弟に恐縮されたことに私は深く傷ついた。
ベッドに座る純君を見下ろす。彼は相変わらず痛みを堪えるように瞑目している。あくまで立ち位置からか、立場的なものからか、彼のことを見下しながら私は言う。
「ヘンなこと、言わないでくれる?」
またしても責める口調になってしまう。最善手ではなく、むしろ悪手ともいえる。あるいは彼の暴いた秘密が事実ではなく、単なる妄想や苦し紛れの嘘であったのならそれで良かったかもしれない。
だがあの夜のことは紛れもない事実であり、他ならぬ私自身がそれを知っていた。
だとすれば私に出来るのは、姉という立場を利用し弟を黙らせることだけだった。姉弟の強権を振りかざし強○的に彼の口を塞ぐことでしか逃れる術を持たなかった。あまりにも分の悪い賭け。はったりを見せつけ、ポーカーフェイスを装うことでしか私の敗北を覆す手段はなかった。
――そもそも彼はなぜ、私の秘密を知り得たのだろう?
私があの日『おもらし』をしてしまったことは間違いない。不浄に濡れた心と体、『尿』に塗れたアソコの感触がそれを覚えている。
だけど私が粗相をしたのは○○さんの家で、だ。彼の家の廊下で、トイレの前で、私は『おしっこ』をまき散らしてしまったのだ。
自宅に帰った私が真っ先にしたことは、『おもらしショーツ』を洗うことだった。純君が私の醜聞を知ったのだとすれば、おそらくその時だ。
深夜まで遊び歩き帰宅した姉。その姉があろうことか洗面所で下着を洗っている。あまりに無謀で無防備な後ろ姿。彼はその光景を無断で覗き見てしまったのだろう。そして間もなく、彼は一つの結論に行き着いたのだろう。
――お姉ちゃん『おもらし』しちゃったんだ…。
と。つまり彼が言ったのはあくまで憶測から導き出されただけの推論に過ぎない。犯行の現場を目撃したわけではなく、というより彼がそれを見るのは不可能なのだ。それは私と○○さんだけの秘密であり、家族だろうと他人が知ることはないのだ。
だとすれば、私にもまだ戦える余地は残されている。わずかなりとも勝算はある。だけどそのためには、今や周知の事実となった羞恥の秘密を認めなければならない。私があの夜、洗面所で何をしていたのかということを…。
「『これ』の事、言ってるんだよね?」
手に持った一枚の布を純君の眼前に突き出す。それは洗濯済みのショーツだった。すでに汚辱の痕は拭い去られているとはいえ、未だ恥辱の過去は拭い切れなかった。
彼は私を見た。私の顔色を窺い、次に私の手に握られている黒ショーツを眺めた。やはり彼はその布に執拗なまでの興味があるらしかった。
マタドールのマントみたく、荒ぶる闘牛の如く彼の視界からそれを見失わさせる。血走った眼があからさまに白黒とし、かつて黒があったはずの余白を彷徨っていた。
「私が『パンツ』を洗ってるのを、見ちゃったんだよね?」
優しい口調で彼に問う。穏やかな声音は再び、姉としての響きを取り戻していた。やや遅ればせながらも彼は頷いた。あの夜の「答え合わせ」を期待するように…。
「純君」
彼の名を呼ぶ。ゆっくりと確かめるように。じっくりと言い聞かせるように。
「女の子の体は、男の子とは違うの」
唐突に違う議題を投げ掛けることで話題をすり替える。私のよくやる手法だった。
「純君は寝てるとき、パンツの中が濡れちゃってたことない?」
ふいに自分自身に向けられた問いに、彼は驚きを隠せないでいるらしかった。
「な、ないよ…!!」
彼は慌てて否定する。そこに少しばかりの誤解が含まれているように感じられた。どうやら私の訊き方が悪かったらしい。
「『おしっこ』とかじゃなくて。もっと別のもので…」
彼の勘違いを訂正する。すなわち「夢精」である。私が言外に匂わしていたのは、まさしくそれだった。
彼は考え込む素振りを見せた。質問に真面目に答えようとしてくれているらしい。姉である私に決して言いたくない、本来ならば言わなくてもいいことを言うべきかと真剣に悩んでいるらしかった。
「実は…」
ようやく彼は口を開いた。己が秘密を打ち明けようと、心の扉をわずかに開けた。
「一回だけ。朝起きたら、なんか濡れてて…」
自己の罪を白状するように彼は言った。(それは事故のようなものなのだけど)
「違うんだよ!漏らしたんじゃなくて…」
あくまで『おねしょ』ではないのだと言いたいらしい。
「その…。なんか、ベトベトしてて…」
その正体を私は知っていた。だけど純君は知らないらしかった。保健体育の授業で習わなかったのだろうか。今まさに思春期を迎えた同性や異性の体の成長について、あるいはその兆候について。
性に興味津々なクセして、その知識はあまりにも稚拙であるらしい。私は姉として弟の勉強不足が気掛かりになりつつも、だがこの場においてはむしろ好都合だった。
私はあえて沈黙する。疑問に解答を与えることなく暫く泳がせてみることにする。今度は私の方が余裕たっぷりに構える番だった。
案の定、彼の表情に不安の色相が浮かぶ。眉間に皺を寄せて心配そうにしている。少しばかり可哀想になってきた。
「ねぇ。僕、ヘンなのかな…?」
裁定を求めながらも肯定を望まず、疑問形を用いる彼に対して。
「そんなことないよ!」
私は強く否定し、優しく断定した。
「それはね。男の子だったら誰でも経験することなんだよ?」
とはいえ男子ではない私には分からない。聞き知っただけの知識に過ぎなかった。
「女の子にだって、そういうことはあるんだよ?」
ようやく自分に有利が傾いてきたところで、会話を本題に戻す。
「そうなの?」
私が撒いた餌に、すぐさま彼は食い付いてきた。
「だからお姉ちゃんがあの夜、『パンツ』を洗ってたのは…」
ついに訪れた、彼が待ちわびた解答の瞬間。
――そういうこと、なの。
だけど、その先を曖昧にぼかして煙に巻く。
私はそれ以上何も言わなかった。女子の秘めたる事情については言わずに留めた。それは純君がそう遠くない未来に否が応でも知ることになるだろう。
あるいはその時に彼は気づいてしまうかもしれない。「高校生探偵」じゃなくても分かってしまうことなのかもしれない。それでも、今はまだ…。
「だから私のそれは、別に恥ずかしいことじゃないの」
はっきりと断言したのち。
――純君がそうなように、ね。
思い出したように言い添える。彼に共感するように。共犯関係を確認するように。
彼は「あっ!」という顔をした。何かを悟り、全てを理解したような表情だった。今まさに彼の誤解は、私が示した別解により解かれたらしかった。
「そうなんだ…」
彼は納得したように小さく呟いた。あくまでも真実にたどり着いたわけではない。私自らが偽装し、あえて真相を捻じ曲げたのだから。
だけど、これで少しは彼も分かったはずだろう。人に秘密を知られるということがどれだけ恥ずかしいことなのか、と。
「姉川の戦い」が終結を迎える。論争とさえ呼べない、一方的な論述が終えられる。
純君は無言になる。心地よい沈黙は、私にとっての勝利の余韻であった。
それでも彼はまだ不安を抱えているみたいだった。未だ解き明かされていない謎が残っているようだった。
「じゃあ、これも…。ヘンなことじゃないのかな?」
次週のヒントを待つこともなく、意を決したように彼は言う。それは私ではなく、自分自身についての疑問であるらしかった。
「えっ…?」
無意味な疑問を私は問い返す。彼の手はいつの間にか太腿の付け根辺りにあった。いつからそうしていたのだろう。いつからそこを押さえていたのだろう。
やがて純君はアソコから手をどける。そこにあったのは…。
パジャマのズボンの中で窮屈そうに屹立した、彼の「おちんちん」だった。
――続く――