山葵は今こんなことを考えている~受動的選択~

 Twitterとは面白いもので、変な話や愚にもつかない話、どうでもいい話、楽し気な話、エロ、ちんちん、おっぱい、犬、猫、トカゲ、あんにゃもんにゃが流れてくる。

 たまたま目にしたもので面白いものがあった。少年ジャンプ+の編集の人が受け取ったDMで、新しい漫画アプリの提案だった。
 
 その中でなるほどなあと思ったのは短い時間で心に刺さるものが必要で、若年層は選択コストをかけたくない、という点で、tiktokというサイトでは、自分の好みの傾向にあったものがおすすめ動画として再生されるらしい。

 そこでこのツイートの中では新しい漫画サービスとして、数ある漫画の中から好みの漫画を選別し読者に刺さりそうなコマを次々と提示し、それによって内容で読者の興味を惹きつけ、タイトルや表紙でUターンしてしまうタイプの読者を離さないシステムを構築してはどうか、という話である。

 他にもマシュマロという匿名のやさしいメッセージを受け付けるアプリのところが始めようとしている新しい小説のサービスでは、読者の好みにあった小説を提示し、ランキングシステムを排除し、他人の小説データなどをみられないようにするという。これによって”絶賛される他者を見て、自分が無価値なんじゃないかと悩んでしまう人が大量に生まれている現状を爆破したい”という語気の強さはウケたが、なるほど多くの人が好んでいる、ランキングに乗らないような、しかし自分の好みに合うかもしれない作品を拾い上げる役割というのは惹きつけられる要素ではある。
 
 しかし、マッチングシステムの選択によって選択コストを削減する、という点に私は少し引っかかる。それは、第一に自己の意思による選択を放棄していることであるし、第二に好きでもないものを摂取する機会がなくなる、ということだからである。

 自己の意思による選択、つまり本屋なんかに立ち寄って面白そうな本を物色する、あるいはpixivなんかで読みたい作品を検索する、という行為に当たる。他にも飯を選んだり服を選んだり生活の上では様々な選択というのが行われている。スティーブ・ジョブズがパタリロみたいに同じ服ばかり着る理由は朝何を着るかという選択に頭を使いたくないからだそうで、なるほどそれを削減するというのは理にかなっているようにおもわれる。摂取する作品の選択にストレスがかかるのであるならば、それを回避するのは妥当な考えかもしれない。

 とはいうものの、漫画や小説、映画、ゲーム、音楽なんかの好みを自分の意思ではないもの、に選ばれるというのはいささか気味が悪い。私は自分で選んだものを読み、遊び、楽しんできたからで、当然面白くないものも時間の無駄もあったが、それに対し少しも後悔、というかそうしなければよかった、というようには思えないからである。時には自分が好きでないもの、異なる世界観を有する人によって書かれたものを読みたいと思うときもある。面白くないものは面白くないなりに、何故面白くないと感じるか、ということを考えるきっかけにもなる。

 それに、例えばアンソロジー作品や雑誌なんかを購入する時のことを考えて欲しいのだが、好きな作家の作品が載っている、読みたい記事があるものを購入したとしても、それ以外の部分には目もくれない、という人は多くはないだろう。私もそうで、小説の短編集を読むことによって知った作家は多い。それに、古書店などで積み上げられた本の中からなんとなく心を惹かれるものを手に取って読む、ということは、先述したような方式では起こりえないであろうことだ。

 私はそういう慮外の出会いを好む。父は蔵書の多い人で、廊下の本棚に大量の本が並んでいて、その本の中からあれこれと読んでいた。友人や先生から貸してもらった本や、授業中に回し読みしていた漫画なんかは、自己の好みというデータの中からは決して出てこないものだったがそれが自己の思想や作品の一部に影響を与えているということは疑いようがない。そして、他人と共通する作品に触れる、ということは交流の上でも役に立つということは論を待たないだろう。

 ……しかし、翻って考えてみるに、作品を選ぶ、という行為に関して私、あるいは我々は果たして自己のみの意志によって選択を行っているのであろうか?

 ここまで読んでたしかにね、なんて思われた方には申し訳ないが、自己の意思のみで作品を選択しているということはまずありえないだろう。

 動画サイトでは急上昇した動画に人が集まり、小説サイトではランキング上位にさらに人が集まる。ブックマーク数が多いものを優先的にクリックし、圧倒的好評や賛否両論という文字を検討の材料とし、RTやいいねの数でツイートを読むかどうかを決めてはいないだろうか。

 もちろん、そんなことはないという人もいるかもしれない。だが、あえて付け加えさせてもらうなら、例えばランキング上位を避けるという行為は、立派に影響を受けている。情報はあらゆる形で影響を与えるのである。

 インターネットでの話だけではない。それ以前からずっと、選択というのは何かの影響を受けてきた。

 テレビではCMが流れ、チラシ購買意欲を誘う文句が踊り、今年の流行色、今ひそかなブームになっているバンド、行列のできるラーメン屋、書店員のイチオシ、ベストセラー、直木賞、芥川賞、ノーベル平和賞、あらゆるものが、人々の選択に影響を与えている。欲望は巧みに作り出され、必要かどうかという検討の前に欲しいと感じる。イヌイットに冷蔵庫を売りつけろ。おばあちゃんに水着を買わせろ。

 以前からそう変わらないのではないだろうか。
 システムによって選別される前から、自分以外の好みによって選択しているじゃないか。完全に自由な選択、なんてものがあるのだろうか。あなたは誰かに操られている! 陰謀だ! 洗脳だ!

 ……などということはないが、まあ、自分の意思で選んでいる、と思えるものというのは、完全にそうでない場合も多い。知り合いに勧められてとか、信頼する誰かがいいと言っていたから、という風な選択によってもよいものに出会うことはできる。アンソロジーだって、雑誌だって編集者がいる。

 自分の好みの傾向から選ばれる、というのだって少なくとも今のところは特定のサイトだけだし、気に入らなければ他のサイトを選択すればいい。自動選択サービスが生き残っていくかもまだわからない。もしかしたら、大した反響もないままにいつのまにかなくなっているかもしれない。

 もしかしたら、選出がべらぼうに良くて、なんでもっと早くこの方式にしないんだ、というように思うようになるかもしれない。30年後には、昔の人って大量の作品の中からわざわざ選んでたんだってー馬鹿だよねーなんて言ってるかもしれない。
 
 そもそもタグ検索やらタイトルで選出やらしている時点で、自分の好みそうにないものは排除しているのだ。ネットをやっていると、好きなものを見がちだ。

 ただやはり、少し寂しいなと思うのは、興味のない作品を読む機会がない、というところだろうか。好きなものばっかり食べてると、引き出しも少なくなるから。

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