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シナリオの記事 (2)

【廃棄神譚】リリエ&クドウの短編シナリオ『泡沫の歌と旨かった豚』を公開!!【進捗報告】

今回の更新は『廃棄神譚』におけるライバルキャラ、
(個人的には『魔界村』で言うところの『レッドアリーマー』的な存在にしたい)
リリエ・ラビット&クドウ・マサムネがメインの短編ストーリー


『泡沫の歌と旨かった豚』を公開です!!

執筆いただいたのは星野彼方さん
@BeyondTheStar

本当にありがとうございます!!

皆様、どうぞご一読くださいませ!!

短編ストーリー 『泡沫の歌と旨かった豚』


 死んだ森の奥深く、枯れた木の上に腰掛けて、少女は目を閉じる。
 すぅっと息を吸い込むと、腐臭が肺を膨らませる。自分の身体の中に、濁った空気を甘んじて受け入れるしかない現状に、たまらなく苛立つ。

(こんな腐ったところで、腐った気持ちで、いったい何を歌うって……)

 けれど何とか平常心を保とうと努め、心の中に、静かで美しい水面を思い浮かべる。水紋一つない、凪いだ水面(みなも)。水の上に立って、両腕を広げている自分。
 すぐにでも泡粒となって弾けて消えていってしまいそうな、細く薄く脆いイメージを、そっと抱き締めるように手繰り寄せ、現実の腐臭など忘れようとする。そして――束の間、本当に忘れることができる。脳裏に浮かぶのは、手に入れるべき栄光と、帰るべき場所。「こんなところで終われない」という、強い思い。

「……La」

(ボクは――)

 だから、リリエ・ラビットは歌う。

「LaLa……La……」

 太陽の光さえ、頭上を覆う世界樹に阻まれて届かない、滅びの森に響き渡る歌。想像の中で、世界樹の上、「本物の空」へと駆け巡り、遥かな故郷に羽ばたく歌。
 歌っている間は、強く気高く凛々しい、リリエ・ラビットで在ることができる。
 LaLaLaと喉を震わせるたび、周囲の息絶えた森が、蘇っていくような錯覚に陥る。そんなものは全部、嘘っぱちだと知っている。死んだものは蘇らない。汚染されたこの森が綺麗な姿になることはないし、昨日リリエが狩って食し、向こうの木陰に骨だけ埋めた豚が息を吹き返すなどということはない。

 分かっている。知っている。それが世界の理だ。死んだものは蘇らない。だから、リリエは折れるわけにはいかない。一度でも心が死んでしまったら、二度と立ち直れないと分かっているから。膝を折り、挫けてしまったら、もう立ち上がれなくなってしまうから。
 歌い終えて、瞼を開いても――そこに、拍手喝采をするギャラリーは居ない。気配を感じて見下ろすと、木の幹にもたれて腕を組む、クドウ・マサムネの姿があった。豚の戦士は微動だにせず、余韻に浸るかのように目を閉じている。歌を聴いていたのだろうか。

「よっと」

 木の枝から飛び降り、着地する。

「ああ、いたのですか。クドウ」

 今しがた気づいたばかりといった調子で声をかける。

「ぶふぅ」

 腕組みを解き、クドウが唸った。

「ボクはまだトレーニングしなきゃなのです。邪魔はしないでくださいよ」

「ぶもっ」

 分かったと言うように頷き、クドウは森の中へと去って行った。

「まったく……」

 両手を腰に当て、彼の背中を目で追う。唯一のギャラリーにして理解者。その存在に、少なからず救われているだなんて。

「さて、と」

 木の枝にぶら下がり、懸垂を始める。筋力の向上は、何も生きていくためだけに、こなしているわけではない。生きていくだけの生になど興味は無い。いつか還るため、返り咲くため――そのための日課だった。いつかという言葉に駆り立てられるように、日々、鍛錬を欠かさない。体力作り、筋力トレーニング、踊り、歌……。

「ぐぐっ……ぐっ……」

 限界が来て、木の枝から手を放した。背中から泥の上に落ち、「ぐぇっ」と声を上げる。ぬかるんだ泥に浸かったまま、荒く息を吐く。目を閉じて深呼吸を繰り返し、ふと目を開けると、上空が目に入る。上空と言っても、そこに空は無い。あるのは、空を覆い尽くす、世界樹の裏側。見下ろされている、と感じる。そのたびに、苛立ちが募る。

「今に見てるですよ……」

 呼吸の合間に吐き捨てる。すかさず起き上がり、次の鍛錬メニューに移る。

(いつか、絶対に、ボクは――)

 いつか、いつか、いつか。
 その、途方もなく夢物語のような言い草を現実にするために。どんな努力だってする。誰にも、この志を笑わせたりはしない。

(いつか必ず、本国へと還る。そして)
 短い間隔で駆け込みを繰り返しながら、世界樹を見上げる。そして、もう一度。

「今に見ていやがれですよ」

 宣戦布告の如く呟いた。

       *

「……お腹が空いたのですよ……」

 少々、気合を入れて頑張りすぎた。地面の上で大の字になって、ぶっ倒れる。こんな姿、あの堀部芥やノラ・バルヒェットには絶対に見られたくないが、幸い、今は自分しかいない。人前では、常に気を張り、凛としているべきだ。それがリリエの持論だった。ただし、例外というものも存在する。
 近くの茂みが揺れ、クドウが姿を現した。リリエの体勢を見ても、特に反応は示さない。彼の前でだけは、無暗やたらに気を張ることを、とうにやめていた。
 クドウが、肩に担いでいた布の包みを地面に下ろして広げる。中からは、森に自生しているキノコなどの山菜が出てきた。死んだ森に自生しているだけあって、見た目も禍々しい。

クドウは手早く周辺から木の枝を集めてきて、手慣れた様子で火起こしを始めた。そろそろリリエが腹を空かせる頃だと分かっていたらしい。さすがは長年の付き合いといったところだった。その距離感は心地良くもあったが、リリエはもちろん、こんな暮らしで安定して腰を下ろすつもりなどない。
 火が出来上がり、リリエはクドウが採ってきたキノコを適当に木串で刺して、火で炙った。こんがりと焼き上がったところで、齧っていく。
 非常にひもじい思いだが、料理など出来ないので仕方がない。料理の技術を獲得することは、時間の無駄であるとリリエは考えていた。何故なら、ここでの生活など、いつか捨てるつもりでいるからだ。捨てるつもりの場所に適応するなど、おかしな話だ。何より、適応してしまうこと自体が、何かに負けるみたいに思えて、気に入らない。

 対する堀部芥陣営(リリエが勝手にそう呼称しているだけだが)の芥とノラは、すっかりここでの生活に根を下ろしてしまっているように見える。それが、とにかく癪に障る。

「……こんなに苛々するのは、どう考えても、あいつらの所為なのですよ」

 苦みのするキノコを飲み込み、さらに嚙み千切りながら毒づく。

「クドウもそう思うでしょう」

「ぶもっ」

 クドウも同意している。同意しているに違いない。
 つと、串刺しのキノコを手にしたまま、立ち上がる。がぶりとキノコを噛み千切ると、残った串を森の先に向けて掲げ、宣言した。

「行くですよ、クドウ。今日こそ、連中に一泡吹かせてやるのです」

「ぶもも」

 クドウが五本の串を一気に食し、のそっと立ち上がる。

「いざ! 出陣ですよ! 食料があれば奪ってやりましょう!」

       *

「……誰なのですか、あれは」

 木陰から顔を覗かせ、リリエは呟いた。
 視線の先には、堀部芥とノラ・バルヒェットの二人が暮らす家がある。他に人間がいるはずもないのだが――。

「堀部芥の拠点に、知らない女がいるのですよ」

 窓から垣間見える人影。まったく知らない人物だった。これまで、この森で見かけたことも無い。何より、その服装が目を引いた。

(あれは、本国の……)

 とすると、本国から来たのだろうか? そんな人物が何故、芥たちの拠点にいるのか?
 疑問点は山のようにあったが、何より気になることがあった。それは――。

「何なのですか、この美味しそうな匂いは!」

「ぶも、ぶも」

 隣でクドウも、しきりに頷く。
 とにかく良い匂いがするのだ。匂いの発生源は、明らかに芥たちの家の中から。
 向かって来る最中、この拠点に近づくにつれて、どんどん匂いが強くなっていたから、もしやとは思っていたのだが。途中からは、ほとんど匂いにつられるまま歩いていた。

「……どうやら、あの女が食料を調理しているようですよ」

「ぶもっ」

 この距離からの匂いでも分かる。匂いだけで分かってしまう。
(ぜ、絶対に美味しいヤツなのですよ……!)
 自然と涎が垂れてくる。

「…………じゅる……」

 実際に口の中に入れたなら、どれほどの美味が味わえるのか――。

「……はっ!」

 正気に戻り、ぶんぶんと首を振る。

「こ、こら、クドウ! 涎が出ているですよ!」

「ぶ……ぶも!」

「情けないですよ! この程度の匂いに敗北しては駄目なのです!」

「ぶも……」

「そんな目で見るなです! ――そうです! 良いことを思いついたですよ」

「ぶるる?」

「奪ってしまうのですよ、クドウ。食料も、あの女もです!」

「ぶふぅ……」

「どうしたのですか? 気が進まないようですね。相手が女だからですか?」

「ぶも」

「こんなところに紳士など必要ないのですよ! そんなものは泥と一緒に捨てるのです! あの女がいれば、きっとボクたちの食生活が豊かになるのですよ!」

「ぶ……ぶも」

 それは魅力的だというように、クドウの目に少しずつ光が宿る。

「ボクたちは料理の技術を習得する必要がないのですから、時間の無駄にもならないです。いざ本国へ出発する時が来たなら、そのときは、あの女も用済みです。捨ててしまえば良いのです! ボクたちの目的と矛盾しないですよ」

「ぶも……」

 女を捨てる、と言った途端、再び気乗りしない感じにクドウが声を上げる。

「美味しい食事にありつきたくはないのですか、クドウ!」

「……ぶも!」

 それは食べたいとばかりに鼻息を荒げてくる。

「それに、もし本国から来たのなら……聞きたいこともたくさんあるのですよ」

 かくして謎の女(と旨そうな食事)奪取作戦に決定を下し、拳を握り締める。

「では、行きましょう。欲しいものは何としてでも手に入れる、それがリリエ流です!」

 木陰から飛び出して家の正面に回り、とりあえずノックした。

(この程度の扉、クドウに蹴破らせても良いのですが、まずは相手の油断と隙を狙うのです。策士リリエ、実に華麗で頭脳派な作戦なのです!)

「はぁい?」

 声がしたかと思うと、拍子抜けするほど簡単に扉が開き、警戒心などまったくない様子の少女が顔を出した。攫おうとしているこちらが不安になってしまうほどの無警戒ぶりだ。

「お客さん……? あの、どなたですか?」

 おずおずとした様子で、リリエとクドウを交互に見る。

「初めまして。……そちらのかたは……豚、さん……?」

 ずっしりと立つクドウに対し、少女は躊躇いつつも怯えた様子は見せない。

(……へぇ)

 リリエは、少女に対する認識を、少しだけ改めることにした。クドウの外見を見て、まったくの恐怖心や警戒心が無いわけではないだろうが、それを表に出すことが相手を傷つけるかもしれないことを、恐らく目の前の少女は知っているのだ。だからこそ、平然とした態度で敬意をもって相対し、接しようとしている。その心意気は立派なものだ。

「あたしは、明狸。穐里明狸といいます。芥さんのところで、お世話になってます」

「あーっと……ボクはリリエ・ラビットですよ。こっちはクドウ・マサムネ」

(……あ!)

 あまりに純粋な目で真っ直ぐと話しかけてくるものだから、つい、本名を名乗ってしまった。これはまずい。もしこの女に、芥たちの口から、リリエたちについて気をつけるようになどといった内容が伝えられていたりしたら……!

「リリエさんと、クドウさん……ですか」

 明狸と名乗った少女は、初耳といった様子で首を傾げる。どうやら、名前に聞き覚えは無いらしい。
 ほっとした半面、少しムカついた。仮にも好敵手のはずなのに、あまりに無関心すぎやしないか。もっと興味を持て、興味を。頻繁に話題に出せ。「おのれ、リリエめ……」とか、「リリエとはいつか決着をつけねばな」とか、そういうのを三歩ごとに口にしろ。

(こちらばかりが意識しているみたいで、気に食わないのですよ……。まったく)

「ボクたちについて、芥から何か訊いてないですか?」

 だからつい、そんなことを口にしてしまった。もし明狸が、リリエたちが敵だと気づき悲鳴を上げたなら、一気に襲い掛かって捕らえてしまおう。そんなことを考えていると――。

「あ、もしかして……」

 明狸が指を頬に当てる。やっぱり知っていたのかと期待したのだが……。

「芥さんたちの、お知り合いですか?」

 そう問われてしまった。

「知り合い……と言えば、知り合い……ですよ。実は今日、約束をしていて……」

「ぶもも……」

 クドウと一緒に、もごもごと口ごもる。実際、芥たちとの関係性について説明しろと言われたら、どう言えば良いのか分からない。

「はっ! ひょっとして、オトナな関係だったり……?」

 両手を口元に当て、最大級の衝撃が走ったという顔をする明狸に、慌てて首を振る。

「無い、無い! ありえないのですよ!」

「ぶも! ぶも!」

 あまりの剣幕にたじろいだのか、明狸が慌てて頭を下げる。

「あ……そう、ですよね。すみません」

「そうです、そうです!」

 つい前のめりになって力んだ瞬間――。

 ぐるるるるぅ……。

 腹から情けない音が鳴った。顔が赤くなる。

「あ、ちがっ……今のは……く、クドウ! クドウのお腹から鳴ったのですよ!」

「ぶも……」

「あの、ひょっとして、お腹が空いて――そうだ! 今ちょうど、食事の準備ができたところなんです。立ち話もなんですし、食べて行かれませんか? 芥さんたちも、そのうち帰ってくると思いますので、一緒に食事でもしながら待ちましょう」

 両手を合わせて、笑顔で明狸がそう言った。

「でも、芥さんたちには内緒ですよ? あたしからの、おすそ分けです」

「はぇ?」

「ぶも!?」

「さ、どうぞどうぞ。上がってください。と言っても、あたしの家じゃないですけど……」

 招かれるまま、足を踏み入れてしまった。長い長い付き合いではあるが、芥の家に上がり込むなど、初めての経験だ。

「座って、お待ちくださいね」

 椅子に腰かけ、卓の前でクドウと二人、座して待つ。どうして、こんなことになったのか。非常に居心地が悪い。時折、首を動かしてクドウと目を合わせるが、互いに何も言わず、また正面へと向き直る。そんなことをしばらく繰り返していると、鍋を手にした明狸が戻って来た。

「今日のお料理は、お肉と山菜の果実煮込みに、香草と木の実の炒め和えを添えて、です」

 言いながら、明狸が正面に座る。

「ごくり」

「ぶもふ」

 唾を飲み込む。その見た目。匂い。ぐつぐつという音。視覚と嗅覚と聴覚に、全身全霊で「美味しいぞ」と訴えかけてくる、恐るべき料理が今、目の前にあった。見たところ、山菜と豚の肉が、贅沢に使用されている。

「はい、手を合わせてください」

「え?」

「ぶも?」

「食事を頂く前には、こうするんですよ。食材への感謝です」


 明狸の真似をして、両手を合わせる。クドウもそれに倣った。

「いただきます」

「……いただきます」

「……ぶふぅ」

 竹箸を手に、鍋から器へと盛った具を覗き込む。一枚の豚肉を持ち上げると、信じられないくらいに柔らかい。つまんだ部分から肉汁がたっぷりと溢れて、滴り落ちる。
 口に運んで、ぱくっと放り込んだ瞬間――。

(……何ですかコレ!?)

 驚きのあまり、身体が硬直する。あまりに革命的な体験だった。

(豚の肉が、口の中でとろけて……溶ける……! キノコの感触と合うです……)

「ぶも! ぶも!」

 隣ではクドウが、旨そうに次から次へとバクバク平らげていく。

「この豚肉、独特の臭みが無い……果実みたいな味もするですよ?」

 顔を上げて言うと、「そうでしょう!」と明狸が身を乗り出してきた。

「あらかじめ草の実をすり込んで、豚肉の臭みを消しているんです。果実を煮込んだお鍋で、山菜と一緒に調理していますから、味の統一感もあると思います。お肉本来の旨味も引き出していますよ」

「な、なるほど……」

「ぶ、ぶもも……」

 ニコニコと解説する明狸に気圧される。

「実はこれ、あたしがこの森にやって来て、最初に芥さんたちに作ったものなんです」

 感慨深そうに呟いた明狸に、リリエは、ここへやって来た目的を何とか思い出した。

(……話を聞くチャンス!)

「この森にやって来たって……どうしてなのです?」

「それは……分かりません」

「分からない……?」

「落ちてきたんです、あたし。世界樹の上から」

「…………」

「そのときのショックなのか、記憶も無くて。だから、あたし……自分が誰なのかも、よく分からないんです。名前が穐里明狸であることだけは、覚えてるんですけど」

「そう、なのですか」

 思っていたより、重めの境遇だった。

「記憶……いつかきっと、戻るのですよ」

 口にするつもりの言葉ではなかったが、決して口先だけのものではなかった。
 明狸は、一瞬、驚いたような表情を浮かべ、嬉しそうに笑った。

「ありがとうございます」

 照れ臭くなってリリエは視線を落とし、目の前の料理を味わうことに集中する。その様子を、楽しそうに見守っていた明狸が唐突に言った。

「……リリエさんって、可愛いですね」

 これまで。誰からも言われなかった言葉だ。芥からも、ノラからも。クドウは、言ってくれていたとしても、全部「ぶも」か「ぶふ」だ。

(この子――超・超・超絶、良い人なのです!)

 感激のあまり、たった今、認定した。

「そ……そうなのですよ! ボクは可愛いのです! そのあたりが、芥はまったく分かっていないのです!」

 自然と声が大きくなる。

「ぶも!」

 隣では、何故かクドウまでもが自慢げに腕を組み、頷いている。

「ボクは本当に非常に可愛いですので、持て囃されて然るべき存在なのです! ですから、いつか――」

 言いかけて、口をつぐむ。今日会ったばかりの少女に気を許し過ぎだ、と心の内の理性が囁いた。自分の大事な部分まで、さらけ出してしまう必要はない。

「笑っているリリエさん、とても可愛いです」

「笑ってる……です?」

 明狸に言われて、自分が笑顔で食事していたことを知る。

「やっぱりあたし、お料理が好きです。自分がどこから来たのかも分からないですけど……たぶん、あたしは、記憶が無くたって、どこにいたって、料理が好きなんだと思います」

明狸が食卓を見回す。

「リリエさんは、何か好きなことありますか?」

「ボク、です? ボクは……」

 言い淀む。会話で困ったときの秘技、質問に質問で返すことにする。

「明狸は、どうして、料理が好きなのです?」

「料理は、人々の笑顔を繋ぎます」

 心なしか背筋を伸ばし、姿勢を正して、彼女は言った。

「……あたしは、そう思います」

 その凛とした表情が、わずかに眩しく見え、目を逸らす。歌っているとき理想とするイメージに、どことなく彼女の在りかたは近かった。
 それで、ふと、当たり前のことを思い出す。

(ボクは、歌うことを愛している)

 けれど……だからと言って、どこでだろうと歌うことが出来るならそれで満足だということは無い。それとこれとは話が別だ。好きだからこそ、相応しい場所に立って、相応しい自分で、歌わなければならない。

 ……相容れない。ひどく、そう思う。

 ここの連中とは、やはり分かり合うことはできない。
 明狸からは、どことなく芥やノラに近しいものを感じる。この少女は彼らとは違うと一瞬思ったが、根本的なところは似ている気がした。

「ボクは……」

 言葉にならない言葉を、ここで口にすべきではない何かを、リリエが紡ぎ出そうとした、ちょうどそのとき――。
 クドウの耳がピクリと動いた。それと同時に、

「あれ? 外から物音――」

 立ち上がった明狸が、窓に近寄った。

「あ、芥さんたち、帰って来たみたいです。リリエさんとクドウさんがいらしていること、伝えてきますね」

 明狸が玄関口から出て行く。

「や、ヤバいです! クドウ! そこの裏口から、ずらかるですよ!」

「ぶも!」

 慌てて、クドウとともに裏口から飛び出す。そのまま茂みに飛び込んだ直後、背後から会話が聞こえてきた。

「あれー? さっきまでいたんですけど……」

「……何もされなかったか?」

「はい、もちろん。とても良い子でしたよ。お友だちですか?」

「友だち……」

「とーさま。そんなことより、お腹すいた」

「ああ。そうだな、食事にしよう」

(いや、切り替えが早すぎるですよ!)

 そう心の中で叫びつつも、芥たちの拠点を後にする。

「ぶも、ぶも!」

「何です、クドウ? ――あの女を攫わなくて良かったのか、ですか? ……記憶を失っていたのでは、本国のことも何も知らないに決まってるですよ。利用価値がないと判断したのです。決して、絆されたとか、そういうわけじゃないのですよ!」

「ぶふぅ……」

「それにしても……美味しかったのですよ……」

「ぶも……っ!」

 隣を見ると、何とクドウが、むせび泣いている。まともな料理にありつけたことが、よほど嬉しかったのだろう。

「クドウ、ほら」

 そう言ってリリエは、走りながら両手を持ち上げて見せた。そこには、黙って持ってきた器が二つ。中には、まだ豚の肉が何切れか残っている。

「ぶるるるぅっ!」

 クドウが歓喜の雄叫びを上げる。

(堀部芥、ノラ・バルヒェット。それから、穐里明狸……)

 相容れないことの再確認。今後も、芥陣営とは敵同士だ。けれど――。

「……次に会ったとき、少しは手加減してやらないこともないのですよ。ね、クドウ」

「ぶも」

そんな風に言いながら。二人は涙を流して残りの肉を平らげ、腐海の奥へと走り続けた。

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短編ストーリー『泡沫の歌と旨かった豚』はここまでとなります。
リリエ、ウザ可愛い。
クドウとの関係も個人的にはとても気に入っておりますヾ(´∀`)ノ
この穢れてどんよりした世界観の中では清涼剤のように感じられて良き。

みんなで是非星野彼方さん(@BeyondTheStar
感想を送りましょう(/・ω・)/

応援・支援・ご意見、ご感想等、
いつでもお待ちしておりますっ!!

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【廃棄神譚】祝・フォロー600到達!前日譚にあたる短編シナリオ『芥とノラ』を公開!!【進捗報告】


遂にフォロー600に到達しました!!
応援いただいている皆様、感謝御礼申し上げます!!

この調子で1000突破を目指して頑張っていきたい(/・ω・)/

というわけで今日はいつもと一味違いますよっ!
何と今回は、『廃棄神譚』の
前日譚となる短編ストーリーを公開です!!

執筆いただいたのは星野彼方さん
@BeyondTheStar


もう、感謝しかないよっ!!(/・ω・)/


形式としては『原作小説』といった感じの趣。
穢れた大地で生きる芥とノラ。
その日常の一端を感じていただけると幸いです。

それでは、前置きはこの辺りにして、
皆様、どうぞご一読くださいませ!!

前日譚「芥とノラの世界」

 世界の崩れる音がした。

 男は手を止め、握り締めたスコップを土へと突き刺すと、目を細めて天を仰いだ。皮袋に詰めた水を頭から浴び、作業により火照った身体を冷ます。肌に張り付いた泥を洗い、熱を吸った水滴が垂れ落ちた。周囲の気温は決して高くなかったが、男は意に介さない。
 遠く、空から再び崩落の音がガラガラと雷鳴のように響いて、男は剣の如く地面に突き立てた大きなスコップの柄に片手を置き、ただ黙して〈それ〉を眺めた。
 大地より天に向かって巨きく高く聳え立つ大樹が、今日も下界を見下ろしている。

「…………」

 下界の薄汚れた大気に紛れて、上方に至っては目視することさえ叶わない。大樹は高く雲を貫き、遥か上空で枝を広げ、男の頭上を、この世界を覆い尽くさんとしている。あの霞んだ青い空すら、大樹の頂部よりも下に位置するのだ。かつて、朝や昼というものは、空より高い天の世界から光を受け取っていた。それが今では、朝の光でさえ、この大樹──『世界樹』──のもたらす、おこぼれの恩恵に過ぎない。

「とーさま」

 呼ばれて、男──堀部芥は、巨大な柱の如く振る舞う世界樹の幹から目をそらし、声を辿って振り向いた。山菜を両手いっぱいに抱えた少女が、そこに立っている。

「ノラ」

 ノラ・バルヒェットが、無表情に微笑んでいた。彼女が笑っていると理解るのは、例え表情筋に変化がなくとも、芥にとっては当然のことだ。

「たくさん採れた」

 芥を見上げ、誇らしげに言う少女の頭に手を置く。

「また、ほーらく?」

「ああ」

 ノラの問いに応えて、芥は再度、世界樹の方角を仰ぎ見た。

「ここのところ多いな」

 本日は無風で幸いだった。
 世界樹の一部分の崩落が起こった際、もし風下にいれば、必ず死臭がするのだ。元より、この森には腐臭など充満しているが、それとはまた異質な匂い──世界の腐り果てる滅びの香りが、崩落には伴う。その匂いには、芥でさえ、慣れることがない。

「雨」

 ノラが呟いた。確かに、周囲の湿度がどことなく高まっている。
 やがて、土を打つ雨音。雲から来る雨ではない。崩落による揺れに伴い、世界樹の枝葉の裏側に溜まった露が、降り注いでいる。ノラの差し出した指先を、水の粒が跳ねた。

「帰るぞ」

土から抜いたスコップを肩に担ぐ。

「泥濘むと厄介だ」

「ん」

 コクッとノラが頷く。
 いずれにせよ、そろそろ引き上げたほうが良いと思っていた。この森で長時間活動するのは得策ではない。

「雨、雨、降れ、降れ」

詠唱のように謡うノラの声。次第に雨脚が強くなってきた。

「行くか」

「んっ」

 芥が先を歩き、ノラは鼻歌交じりに後をついてくる。二人とも、口数は少ないほうだ。それでも、後ろを歩くノラとの距離感は、芥にとって丁度良いものだった。互いの間には独自のリズムとでもいうべき呼吸があって、ぴたりと噛み合っている。
 鳥の声も聞こえず、雨音と、土を踏みしめる足音が森に響く。

 見渡す限りの緑と土。世界樹が上空を覆い、あたかも世界樹が領有しているかのような──否、棄てられた土地だ。此処は、世界の中心なのか。或いは、最果てなのか。

「…………」

下らない思考の末、芥は首を振った。

       *

 あまり遠くまで出ていたわけではなかったため、しばらく歩くと、自分たちの生活拠点が見えてきた。緑に埋もれた小さな廃社と、そこに併設された古民家。
 この穢れた大地──『腐海』──において生き抜くための、これが拠点であった。

「ただいまー」

 たくさんの収穫物を抱えて、てとてと家に駆け寄り、ノラが律義にそう言った。だが駆け寄りはしたものの、両手が塞がっているため戸を開けることができず、はわはわと哀れな背中になっている。すぐに追いついた芥が開けてやった。

「ありがとう」

「ああ」

 屋内に入ると、芥は真っ直ぐ竈の熾火から火を取り、ランタンに近づくと、動物油を用いた燈油に火を灯した。ランタンを手にして簡素な地下室へと降り、今日の収穫の一部である外で拾った書物類を、芥なりの丁寧さで、ひとつずつ棚に並べた。
そのほとんどが古びてはいるが頑丈な装丁からして、本国の代物に違いない。

「とーさま、脱いで。乾かす」

 階上からノラが言った。雨に濡れた服を室内干しにするということだろう。
 地下室から戻ると、既にノラは服を脱いで裸になっていた。

「ほら、とーさまも早く。脱いで脱いで」

 上着を脱いでノラの頭上に放ると、「わぷっ」と小さな身体が芥の服に埋もれる。この遊びがノラのお気に入りであることを、芥は知っていた。芥の服の襟元から顔を出したノラは、壁から壁に張ったロープに、ジャンプしながら濡れた衣類を掛けていく。水分を含んだ衣服の重量で、結び目が軋んで音を立てた。

「とーさまの匂いがする」

すんすんと小さな鼻を服に近づけ、ノラが言う。

「そいつは雨の匂いだろう」

「空の匂い。とーさまの匂い」

 あの雨は、世界樹から滴ってきたものだ。だから、それは雨が空から連れてきた、世界樹の匂いだ。

……まだ、この大地に馴染めていないのだろうか、自分は。

 そんな思いが、ある。
 芥の考え事を察したか、ノラが近づいてきて、芥にしがみついた。滑らかな肌の感触が、ピタリと張りつく。すんすんと、ノラが鼻を擦りつけてくる。

「とーさまの匂い。こっちが、ほんもの」

 ノラの吐息が、露出した肌にかかり、つまらない考えを温かく滲ませた。
 そこで、あることに思い至る。
 ノラと初めて出逢ったとき、彼女が目にした芥の背後には、大きく空が広がっていたのだ。だから彼女は、芥のことを空みたいだと形容したのかもしれなかった。
 地面の中から芥を見上げる、その瞳を、思い出す。捨てられた者の目。見つめ返す自分の瞳には、そのとき、どんな色が浮かんでいたことだろう。
 もったいないと感じたのか、あるいは共感、それとも──歓び、だったろうか。

「ノラは土の匂いがする」

 彼女の頭髪に顔を近づけ、そう返してみる。
 すると、ノラは顔をパッと上げ、やはり嬉しそうに、無表情に笑うのだった。

       *

 そうこうしているうちに、窓の外が、少しずつ暗くなり始めている。
 二人とも一枚だけシャツを羽織ったような恰好で、加熱処理の済んだ水を飲み一息つくと、緩やかに夕食の準備を始めた。

「切るー」

「煮る」

 そんな簡素なやり取りにより、本日の分担が決定する。特に何を作るとも取り決めず、互いの動きを見て、合わせる。
 芥は土鍋で湯を沸かし、潰した香草を底に浸した。それから、ノラが濯いで切り分けた野草と、殻を剥いて軽く火で炙った虫を、次々と雑多に放り込む。
 敷地内の庭で栽培した芋も使おうかと思ったが、もったいないと考え直した。あれは、汚染されていない土で育てた、贅沢品だ。特別な御馳走として、あるいは非常食として、取っておくべきだろう。

「てってれー」

 ノラがリズミカルに声を発した。どうやら、上手く具材を切ることに成功したらしい。
 やがて簡単で質素な夕食が出来上がり、芥とノラは向かい合って座った。

「いただきます」

「戴きます」

 二人して手を合わせ、一礼する。そして黙々と食べ始める。

「おいしい」

「旨い」

 どちらともなく、一言ずつ、感想を口にした。
 よく咀嚼し、呑み込む。
 
──生きている。
 
 そう、強く実感する。
 生きるために、この腐り果てた森の一部を、体内に取り込む。
 向かいのノラも、一心に竹箸を口へと運んでいる。目が合うと、嬉しそうに目元を緩めた。芥は、返すように、ただ頷く。
 二人にとって、美味であるということは、味を示すものではなかった。味という概念には、意味がない。どれだけの栄養が含まれているか、どれだけ腹を満たすことができたか、そういった部分が、美味な食事であることの基準となっている。

「ごちそうさまでした」

「御馳走様」

 よく出汁の出た(栄養の溶けた)煮汁まで飲み干し食事を終えると、再び手を合わせる。この大地と、呪われてもなお命を繋ぐ、実りや恵みへと感謝する。此処で生きる、生きとし生けるものすべてに──例外はあれど、それでも──幸いあれ。
 芥が木桶で簡単に洗いものを済ませているあいだに、ノラは残った食器を持って、庭へと出ていった。

「はい、お食べー」

 そんな声が聞こえてくる。庭に繋いだ家畜へ餌を与えているのだろう。

「ノラ、風呂にするぞ」

 鳴いている「豚さん」の頭をポンポンしている彼女の背に声をかける。ノラは、「大きくなぁれ」と唱えている。いずれ、非常食とするつもりなのだ。

「じゃあね、とんとろ」

 その豚には、ノラによって「とんとろ」という名前が付けられていた。だが、そのことによって情が移っているというわけではない。もし、あの「とんとろ」が非常食として芥たちの胃袋に収まったとすれば、今度また別の豚を捕まえてきて、「とんとろ」と命名し、すくすくと太らせることになるのだ。
 ピンク色の生きものは、ノラとの時間を邪魔されたことが不服だったのか、芥を見上げて鳴いた。
 ……無様、とは思わない。
 それでも芥は、自分が険しい目でその生きものを見下ろしていることを自覚していた。

       *

「ほぁぁぁ」

 ノラが溜息を吐いた。
 狭い大樽風呂の中に、二人して浸かる。小柄なノラは芥の膝に尻を乗せて座る形だ。
 熱が骨身に沁みる。ちょうどいい湯加減だった。
 昼には吹いていなかった風が出てきて、木々を揺らし、葉音を立てる。水面から湯気が昇ったかと思えば、たちまちのうちに、周囲の闇へと掻き消えていった。
 見上げた暗黒の空には、時折、微かな光源がチカチカと瞬く。あれは、空を覆い尽くす世界樹の裏側だ。下界から見上げたところで、見えるのは裏側のみ。
 芥は、とうに見上げることをやめていた。それよりも、足もとの土と生きることを選んだ。この穢れた大地で生きていくと決めた。汚染された食材を採取し、不定期に世界樹から落下してくる廃棄物を資材として活用しながら。

「とーさま」

 膝に座る少女が呼んだ。

「ああ」

 応えると、目の前の頭が揺れる。喜んでいるのだろう。火照ってほんのり赤く染まった滑らかな肌──彼女はあまりに華奢だが、それでいて、たくましい。未発達の幼い身体に見えるが、彼女は充分に芥を助けてくれていた。
 出逢った時のことを、芥は意外にもよく憶えている。彼女を救った、などというつもりは毛頭ない。自分はただ、掬い上げただけだ。スコップ片手にできることなど、たかが知れている。自分のことと、彼女のこと、この暮らしを維持すること──。

「とーさま」

「ああ」

 そんな応酬を、幾度となく繰り返す。
 庭の隅で、「豚さん」が、こちらを見つめて鳴いている。

「明日は、久しぶりに肉を取ろう」

 ふと、芥は提案した。
 今日は資材拾いを優先したが、明日は本格的な食糧の確保をしようと考えていた。野草や虫もいいが、それだけでは、動き回るエネルギーと健康な肉体を保つことができない。この辺り一帯の植物は採り尽くしてしまったし、栄養価の高い食材の備蓄も少しずつ減ってきているため、ここいらで探索に出るべきだろう。

「ほんとう?」

 ノラが肩越しに振り返る。彼女の濡れた髪が少し跳ねて、芥の胸に張りついた。
 肉を狙うということは、ノラにも危険な役目を担ってもらうということでもある。だがノラは、まるでそのことが嬉しいというような顔をするのだ。

「本当だ」

 彼女の頭に手を置く。

 「少し奥まで行って、連中の痕跡を探してみよう」
 
 ちょっとした遠出と聞いて、彼女は気持ちが高まったようだった。明日は早起きして、簡単に道中で口にできるものを作ろうと言う。

「お出かけ」
 
 この生活を心から享受する術を、彼女は知っている。それに従うことは、芥にとっても、現在を愉しむことと等しい。
 静かな夜に、薪の爆ぜる音がする。
 二人は、ノラがのぼせてしまう前に、湯から上がった。

       *

 階段が軋んで音を立てる。
 地下室に降りると、芥は改めて、これまでの収集物を見渡した。
 棚に収められた、数々の品。
 これは、棄てられた歴史の山だ。これほどの情報が、知識が、智慧が、誰の目に触れることなく、土に埋もれようとしている。なんとも、もったいないことだ。
 ランタンを隅の木箱の上に置き、棚から一冊を抜き出して手に取る。本日見つけたもののひとつだ。開くと仄かに、乾いたインクと血の匂い。
 選んだ本とランタンを手に階上に戻ると、いつもの椅子に腰かけた。
 装丁にこびりついた土の手触りを感じつつ、本を開く。中には、びっしりと文章が書き込まれていた。本国標準の言語だ。
 筆者の精神状態によるものか、記された文字の乱れが著しく、ところどころ意味を成さない表現が多分に含まれている。奇怪な図も挿入され、理解は困難を極めた。
 ページを繰りつつ咀嚼したところ、どうやらこれは、他者に見せることを前提とした文献ではなく、取り留めのない日々の暮らしについて思うところを綴った、ごく個人的なもののようだ。
 だが時折、「土地」や「信仰」といった単語について考察している文章が散見されるあたり、筆者はそれなりの地位に就く者かもしれない。そして恐らくは、非常に思慮深い人物だったに違いない。
 椅子に深く腰かけ、芥は手でなぞるように文字を拾い、読み上げる。

「──私は独り、茫洋とした世界の岸辺にて波打つ風を眺めながら、静かに忘却が訪れ、足跡を掻き消すまで、ただ立ち尽くす──」

 破り取られたページの直前は、そんな一文で締め括られている。
 ランタンの火が揺らいだ。

「とーさま」

 夢から醒めたように、芥は顔を上げた。ノラが目をこすりながら立っている。

「眠れないのか」

 声をかけると、ゆらゆら首を振る。だが、眠れなかったのだろう。
 芥は、本を閉じて立ち上がった。
 ノラと一緒に寝室に入り、並んで横になる。同じ布の中でノラは身じろぎし、こちらを向いて丸くなった。
 やがてノラの瞳が微睡み、瞼が落ちていくのを確認すると、芥も目を閉じた。ごく自然な眠気の中で、意識を手放す。
 夢は見なかった。

       *

 窓から差し込む朝の光を浴びながら、芥は干してあった服を取り、身に着けた。

「行くぞ」

「お出かけー」

 芥とノラは簡単に準備を済ませ、食料となる獣探しに出発した。
 先日とは逆方向、世界樹の幹から遠ざかるエリアへと踏み入る。こちらには最近あまり訪れていないため、生息する獣が油断している可能性が高い。それに、繁殖して数も増えているかもしれない。

「とーさま!」

 ノラが声を上げて地面を指さした。
 昨日の雨で和らいだ土に、動物の足跡を発見する。草の曲がりや小枝の折れなどの痕跡からも確実に分かるのは、数匹の群れが通ったということ。
「よく見つけた」
 
 実際、並みの人間なら見落とすだろう。

「ん」
 
 無表情のノラが、両手を腰に当てて得意げなポーズを取って見せる。そんな彼女の頭をポンポンと叩き、芥は屈んで土の匂いを嗅いだ。まだ微かに、獣の匂いが残っている。
 二人は、足跡を辿って、森の奥へと分け入った。

「……ついてないな」

 しばらく歩いたが、なかなか動物の群れに遭遇することができない。足跡の主たちは、休憩を挟むことなく移動を続けているらしい。奴らは芥たちと違って汚染による身体への影響がないため、考えなしに後を追っても捕まえることはできない。腐海では、芥たちには活動限界があるし、息を切らして空気を吸い過ぎるのはまずい。
 やがて芥は休憩を宣言し、スコップを土に突き刺すと、倒木の上に腰を下ろした。少し湿っていたが、いちいち気にするほどのことではなかった。ノラも、隣にちょこんと座ってくる。
 用意していた包みを取り出し、火を通した茸に、木の実をすり潰して作った甘酸っぱいソースを塗っただけの、簡単な食料を齧る。

「あきらめる?」

 ノラが言った。確かに、食料の在庫が切羽詰まっているというわけではない。今日のところは獲物を諦めたとしても、すぐに生活難へと直結することはないだろう。しかし、

「いや……」

 捜索に費やした時間や労力を考える。

「ここで逃すのは、もったいない」

 ノラが頷いた。

「じゃあ、おとりやる」
 
 彼女の提案について、少し考える。リスクは当然ある。だが、彼女も暮らしに貢献したいという思いを無碍にはできない。

「決まりだ」

 芥は残っていた昼食を口に放り込み、スコップを握って立ち上がった。

「足跡を追うぞ」

       *

 ノラが草木を分けて進んでいく。その背中を、獣から察知されない程度の距離を置いて、芥は後ろから追っていく。
 あの「豚さん」たちには、生物学的雌──すなわち女性を好む習性があった。その理由については諸説あるが……ともかく、連中がこの付近にいるとすれば、ノラを囮とすることで、匂いに釣られて群がってくることだろう。
 だが、この日は運が良かった。
 連中が釣り針に引っかかるよりも早く、芥のほうが先に、その気配を察知したのだ。ノラもまた、気づいて後ろの芥を見た。ハンドサインで合図すると、ノラが頷く。
 豚の群れは、一ヶ所に集まって食事中だった。木の根元に生えている茸を、寄り添い合って食べている。全部で五匹──肩慣らしには丁度良い。
 後であの茸も採取しよう、と考える。獣が好む食材は、その獣自身の肉とよく合うというのが、芥の持論だ。簡単なソテーにするのがいいだろうか。それぞれの栄養素が、上手い具合に互いを高め合い、引き立つはずだ。
 
 豚の一匹が顔を上げた。ノラの匂いを嗅ぎつけたに違いない。続けて、残りの四匹も顔を上げる。もそもそと茸を食しながら、周囲を見渡している。
 やがて、ノラの存在を確かに察知した豚たちが動きだすよりも早く、芥はスコップを握って茂みから飛び出した。位置的に孤立していた豚をスコップの先で突き刺し、素早く仕留める。対象の豚は、悲鳴すら漏らさなかった。
 他の豚たちが、芥や倒れた同胞には見向きもせず、ノラに向かって殺到しようとする。

「こっちだ!」

 声を上げて気を放ち、挑発する。豚たちの視線が、一斉に芥に向けられた。
 ……よし、乗った。
 芥は腰を落とし、スコップで防御の構えをとった。
 一匹が突進してくる。
 少し身体の重心をずらし、真正面からではなく、斜めに豚の体当たりと向き合う。
 防ぎ、受け流す。
 それが、連中の強力な突進力を弾く基本だ。これまでの経験から、芥は豚たちの行動傾向パターンや捌きかたを熟知していた。
 体当たりの勢いのまま受け流されて地面に転げた豚の腹を、突き刺す。
 これで二匹。残るは三匹。
 ノラが芥の背中へと駆け寄ってきた。その位置取りによって、豚の狙いは、芥とノラの立っている地点へと絞られる。

「とーさま、平気?」

「ああ。問題ない」

 側面に回り込んで突っこんできた豚に向かって、芥は下からスコップを振り上げた。地面からすくい上げるように、豚の顎をスコップで強打し、そのまま上空へと放り投げる。頭部付近に打撃を受けた豚は、明らかに気を失ったまま宙を舞い、地面へと落下して、そのまま動かなくなった。
 芥は、残った二匹の豚の目を交互に見た。連中の敵意を常に自分に向けさせる。そうでなければ、豚たちは本能に従い、ノラへと向かうだろう。
 そのとき、豚たちが二匹揃って背後を見ると、小さく鳴いた。
 ……何だ?
 芥が解せないでいると、周囲が騒がしくなってきた。これは、草木の揺れる音、何か大きなものが、こちらへと向かってくる音だ。

「ノラ、気を抜くな」

 言うまでもないことだったが、注意を促す。
 やがて。
 豚たちの背後の茂みが激しく揺れ、一際大きな豚が、その姿を現した。

       *

 新たに場に現れた豚は、高さが、芥の背丈ほどもあった。図体は芥の三倍近い。そんな巨大な豚が、芥を見つめて、鳴いた。他の豚と同じく甲高い鳴き声ではあったが、その大きな身体から発する音は、唸り声に近かった。びりびりと服が震える。

「……ふっ」

 芥には珍しく、笑いが漏れた。
 ついている。実に、ついている。大きな豚は──その肉も脂分も、格別に、旨い。栄養素が非常に多く含まれ、エネルギー源として申し分ない。

「今日は御馳走だ、ノラ」

「ほぇ?」

 ノラは両耳を塞いでいた。そのため、芥の声が届かなかったらしい。だが、言わんとすることは伝わったらしく、ぶんぶんと首を縦に振って歓びを表現していた。
 とは言え、相手の巨大さはそれだけで脅威だ。舐めてかかることはできない。
 攻め方を考えているうちに、ふと、相手が後ろ脚を引きずっていることに気がついた。
 手負いか?
 注意して観察してみると、鋭利な切り傷が見えた。あの傷であれば、あまり俊敏に動くことはできないだろう。

「何にやられた?」

 ここから見たところ、爪や牙によるものではなさそうだ。あれは──
 芥の思考を断つようにして、巨大な豚は、他の豚二匹に向かって吠えた。どうやら、「お前たちが行ってこい」と命令を下しているらしい。いい御身分なことだ。
 二匹が、一斉に芥へと向かって、あたかも巨大な豚によって放たれた槍のように、真っ直ぐ突貫してきた。
 が、そのうちの一匹が「プギャ」と奇妙な声を上げてスピードを緩める。ノラが、大きめの石を投げつけて命中させたのだ。豚自身の突進力も合わさって、かなりの打撃だったに違いない。
 ノラの放った攻撃によって、二匹の足並みが乱れ、芥に到達するタイミングがズレた。おかげで、芥は一匹ずつ処理することができる。
 スコップを薙いで、先に接近してきた豚の横っ面を張り倒した。鋭く削ったスコップの先端が、豚の皮と肉を裂く。そのままスコップを振り、もう一匹の顔面に、今しがたスコップへと付着した豚の血を散らし浴びせた。視界と方向感覚を失った豚が、もつれて地面に倒れ込む。芥は近づいていって、その腹にスコップを突き刺した。

「さて」

 五匹の小さな豚は全滅。残るは、巨大な豚だけとなった。

「どうする」
 
 芥は、大豚を挑発するように立つ。
 こいつは逃げるかもしれない、と芥は考えていた。自分より身体の小さいものたちに、我が身を守らせたような奴だ。
 だが、その豚にもプライドのようなものはあったらしい。芥を正面から見つめ、突進の構えを見せた。

「いいだろう」

 芥も受けて立つ姿勢を見せる。
 この腐り果てた大地で、生きるために、両者とも譲らぬ構えだ。
 突然、芥は先手を打って走りだした。豚は、芥が待ちに構えて戦うと思っていたに違いない。あの巨体に対して、真正面から突っ込む者など、そうはいない。
 芥の目に、豚が嗤ったように見えた。それは、芥の無謀を嘲ったのか、あるいは、「面白い」と強敵への喜びに打ち震えて見せたのか。
 豚が後ろ脚を蹴って、突進を開始した。
 芥は避ける素振りも見せず、そのまま突っ込んでいく。

「とーさま!」

 ノラの叫び声がする。
 案ずるな。
 豚と正面切って衝突する直前、芥は腰を落とし、豚の前脚二本の間、腹の下へと滑り込んだ。唐突に標的が目の前から消えて困惑しているであろう豚の腹を、勢いを活かしてスコップで切り裂き、そのまま、地面のぬめった泥の表面上を滑って、負傷している豚の後ろ脚──その傷を狙い打った。
 豚が強烈な悲鳴を上げ、傷口のある脚からバランスを崩して、地面に突っ伏した。何度か立ち上がろうとするが、腹を裂かれたことで血が溢れ、倒れる。
 芥は泥を払いながら起き上がり、豚の顔の前に立った。

「もっと視野を広く持て」

 豚が、その目だけを動かし、芥を見上げる。躊躇せず、芥はスコップを振り下ろした。
 静かに、狩りが終わる。

「おつかれさま」

 ノラが横に寄り添い、豚を見下ろして言った。今のは、芥に対して言ったのだろうか。それとも豚に対してだろうか。……恐らくは、その両方だろう。

「問題は、どうやって持ち帰るかだな」

 思ってもいない大猟であった。
が、今日はこの獲物たちを拠点に持ち帰るだけで、残りの一日が潰れるであろう。

「順番に、一つ一つ丁寧に、やっていくしかないな」

 肉が腐らないよう迅速に、適度な大きさに分けて運ぶしかない。面倒だが。

       *

「あーっ!」

 狩った豚の群れをどう効率良く持ち帰るか検討していた芥たちの耳に、聞き覚えのある声が轟いた。

「それは、ボクたちの獲物ですよ!」

「…………はぁ」

 屈んで豚の脚を切り落とそうとしていた芥は、溜息をついて眉間に手を当てた。……厄介な相手が現れてしまったらしい。
 顔を上げると予想通り、丘の上に仁王立ちする真っ白な肌の少女、リリエ・ラビットと、その後ろに付き従う黒い皮膚をした豚の戦士、クドウ・マサムネの姿があった。

「あ、リリエだ」

 ノラが呑気に言う。ほとんど無関心に近い。その態度が、リリエをさらにムキにさせていることに、多分ノラ本人は気づいていないのだろう。

「横取りなんて卑怯ですよ!」

 腰に手を当てて、膨れっ面でリリエが宣う。
 なるほど、あの豚の後ろ脚に傷を付けたのは、どうやら彼女たちだったようだ。恐らく豚がクドウと戦った際に与えた傷だろう。しかし、その傷を受けたショックで豚が逃げ出し、ここまで追いかけてきた──といったところだろうか。
 リリエは相変わらず、腐海を歩くのに適しているとは到底思えない、小綺麗な白い衣装を身に着けている。あれだけフリフリとしたパーツが多いのに、小枝に引っかけて破ってしまうことなくここまで来るには、相当な熟練の技が必要だろう。ほとんど泥を撥ねていないことも驚嘆に値する。
 後ろに控えるクドウは、背の低いリリエと並ぶと一層、その筋肉質な巨躯が際立つ。全身の所々に古い傷口が目立ち、まさに歴戦の勇士だ。豚ではあるが、その心は強固で芯が通っている。

「それで?」

 芥が問うと、リリエは目をパチクリさせて、一瞬、黙り込んだ。

「それでって……いや、それで、じゃありません! 返してください」

「最終的に倒したのは俺たちだ。俺たちにも権利がある」

 せっかくの御馳走だ。ノラに食べさせてやりたいという思いが強かった。

「全部は渡せない。だから──」

 言いかけた芥の言葉を、リリエが遮る。

「このボクが、こんなにも欲しがっているのに! もっと、今のボクの気持ちを考えてくださいよ!!」

「どういう気持ちなんだ?」

「それは、つまり……クドウ、言ってやってください!」

 リリエに振られて、普段は寡黙なクドウが、低く幾度か音を発した。彼は話すことこそできないが、リリエの思いを必死で芥たちに伝えようとしているようだった。

「そうです! そうです! もっと言ってやってください!!」

 リリエもクドウの言葉は分からないはずだが……芥がノラの無表情から気持ちを読み取ることができるように、あの二人にもまた、特別な絆があるのだろう。

「いいです! とってもいいです! さすがクドウです! 今日のボクは一段と輝いてます!!」

相変わらず、芥たちにはクドウが何を言っているのか分からなかったが、リリエが大層喜んでいるようなので、まあ良いのだろう。

「ありがとう、クドウ」

 ひとしきり音を発し終えたクドウが下がる。きちんと真面目に礼を言うあたり、傍若無人な振る舞いを見せるリリエの、根の部分が透けて見えていた。

「と、いうことです。久しぶりに見つけた獲物ですし」

 リリエが腕を組む。

「そもそも、その豚は、ボクの可愛さに釣られて森の奥から現れたんですよ。ボクが食べてあげたほうが、豚も悦びます」

「あまり食材の心情を推し量ったことはない」

「きーっ!」

 リリエが丘から飛び降りて、着地する。クドウもそれに従った。

「いつもいつも、どうしてアクタは、ボクを蔑ろにするんですか。もっと、こう……持て囃すべき存在ですよ、ボクは。そうされて、然るべきなんです」

「何故だ」

「何故って」

そんなことも分からないんですか? といった表情で、リリエが嘆く。

「可愛いからですよ。そんな当然のことを訊ねないでください」

「リリエには、クドウがいるだろう」

「そういう問題じゃないんです!」

 芥には、リリエのこだわりがあまり理解できなかった。芥たちのことが気に入らないと、彼女が感じていることは言葉の端々から伝わってくるが、それにしても……。

「とーさまは、ノラのです」

 これまでほとんど発言していなかったノラが、ぼそりと言った。

「ああ、もう!」

 リリエが地団太を踏む。

「とにかく! その豚は、ボクたちが頂きます! 力尽くでも」

 その誘いに乗ることに、メリットは無かった。

「彼女を退かせろ、クドウ」

 芥はスコップに両手を置き、背後の戦士に告げる。

「…………」

 巨躯の戦士は、返答の代わりに、拳を構えて一歩前へと歩み出た。大地に根を張るかの如く両足で立ち、芥を見つめ返す。

「無用な怪我はしたくないし、させたくもない」

 芥はスコップを土から抜くと、溜息を吐いて、構えの姿勢をとった。

       *

 長く、沈黙が続いていた。

 クドウと睨み合う。
 両者とも一歩も動かず、静止したまま、しかし、いっさいの隙を見せない。

 クドウは、その優れた体躯に相応しい膂力から繰り出される強力な打撃と組み技を用いた、近接戦闘を得意とする戦士だ。
 正直、芥にとっては、あまり相性のいい相手ではなかった。
 いざ動けば、決着は、一瞬でつきかねない。この読み合いが、既に戦いなのだ。
 クドウが、一歩、踏み出した。
 芥は、目だけを動かし、その行動を見た。
 クドウがさらにもう一歩、逆の足を先ほどよりもわずかばかり上の速度で踏み出した。
 芥はまだ動かず、クドウの目を見る。挑発には乗らない。
 
 クドウが、笑う。芥も笑う。
 
 リリエとクドウに付き合うことにメリットは無い──だが、何も無いわけではない。
 クドウとの一戦は──嗚呼、愉しいのだ。
 
 感覚が研ぎ澄まされる。木々から落ちた露が、肩で跳ねる感触。クドウの一歩踏み込んだ足。持ち上がった靴の裏から垂れ落ちる粘った泥。彼の軸足の周囲の泥が盛り上がる。
 踏み込んでくる。
 察知した瞬間、クドウがその体格からは想像もできない速度で、突っ込んできた。周囲の空気が歪み、捻じれ、湿気が吹き飛んでいくほどの勢い。

「……っ!」

 芥は身を引き、一歩下がりつつ、開いた距離の差で自身のリズムへとクドウを引きこもうとする。クドウは、芥が身を引くことを見越していたように速度を上げ、
 ふと、その動きが止まる。走りながら、地を蹴って空中で次に取ろうとしていたあらゆる行動が静止している。芥自身の動きも止まった。
 何か。第三者の、物音。
 次の瞬間、横の茂みから飛び出してきた巨大な豚が、クドウの身体を突き飛ばしていた。

「クドウ!」

 リリエが叫ぶ。
 クドウは、さすがのタフさと反射神経によって空中で身を回転させ、受け身を取りながら泥の上に着地した。
 招かれざる闖入者が、威嚇するように鳴く。いや、この場合、闖入者は自分たちのほうかもしれない。この敵意と攻撃性──豚の現在のテリトリーに、どうやら足を踏み入れてしまったようだ。
 起き上がったクドウと瞬時に視線を交わし、攻撃の段取りをつける。
 少し前に討伐した豚よりもさらに少しだけ大きい豚は、クドウの巨躯を突き飛ばしてもなお止まることをせず、そのまま大回りに向きを変え、豚の死骸が積んである場所へと走った。そこでは、ノラが座って、先ほどまでの芥たちの戦いを眺めていた。

「ノラ!」

 豚が、ノラに正面から激突した。彼女の姿が一瞬で見えなくなる。……が、吹っ飛ばされたわけではなかった。

「とーさま!」

 ノラは、豚の上にしがみついていた。衝突する寸前に頭を下げた豚の上へと身をかわしたらしい。だが、あの速度では自力で降りられないだろう。
 豚は怒りのあまり我を失っているように見えた。

「つがいか」

 ということは、小さな豚たちは、このつがいの子どもだったのか。あの大きかった豚は親で、前に出させたのは自身を守らせようとしたのではなく、狩りの練習をさせていたのか? なかなかのスパルタぶりだ。だが、芥の戦闘能力を正しく理解できなかったのだろう。
 巨大豚は、続いてリリエに向かって突進した。リリエは、豚の上のノラに何かを指示しようとして、自身のいるほうへと方向転換した豚への対処が、一瞬、遅れた。

「あっ──」

 リリエが轢かれる直前、クドウが彼女の身体を抱き上げ、横に避けた。
 全力でリリエにぶつかろうとしていた豚は、対象物を見失い、その混乱のまま、森の奥へと突っ込んでいった。

「ちっ──」

 芥は走り、豚の後を追う。

「ノラ!」

 豚は、枯れた木をいくつも薙ぎ倒しながら、奥へと走っていく。倒れてくる木をことごとく避けながら、芥は、それを追った。枝が頬をかすめ、皮膚を切り裂く。
 泥を跳ね、樹木の間を走り抜けつつ、芥は一帯の地図を頭の中で思い描いた。非常にまずい。この先は、ちょっとした崖となっているはずだ。落ちたら助からない、そのくらいの高さはある。それすら分からぬほど、暴走しているのか? あるいは、ノラを振り落として襲おうと躍起になっているのか。

「ノラ!」

 木々を抜けた。
 その先で、豚が今まさに、止まりきれず、崖の先へと乗り出そうとしていた。

「とーさま!」

 豚の上で、ノラが声を上げた。目と目が合う。
 そして──

 豚は、ノラを乗せたまま、崖から転落した。

       *

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