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2022年 07月の記事 (4)

mikourian 2022/07/31 19:01

【小説】火織さんを吸う

Skeb納品用に書いたものです。リクエストありがとうございました。

1.
 誰もいない放課後の教室で、目の前の机に、火織さんの体操着の上下があるという事実。
 ぼくは試されているんじゃないか、という思いに駆られた。

 火織(ひおり)さんのことを意識し始めたのは、確かお弁当を忘れた(嘘。ふだんからお弁当なんて持ってきたことはない。みんながお弁当持ってるの羨ましいなと思って、ぼくは忘れているだけのことにした)ときのお昼休みだったと思う。
 お小遣いもたまたま持ち合わせがなかったから、購買でパンすら買うことができなくて。
 周囲がお昼を貪る中、教室を抜け出して屋上に行って。フェンスにもたれかかってカバンの中に入れていた文庫本の小説を読むことでひたすら耐えていたら、火織さんが近づいてきたんだった。
 よかったらお弁当、ちょっと食べる~? なんて。
 そんなことを言いながらお弁当を広げて、お箸でウィンナーをつまんでぼくの口に入れさせようとしてきたものだから。
 今まで女の子にとんと縁のなかったぼくはいっぺんに好きになってしまったし、火織さんのほうでもぼくのことが好きなんじゃないかと思い込んでしまうぐらいだった。
 それが勘違いだというのは、一週間後ぐらいに別の全然関係ない男子に似たようなことをやっているのを目撃したからだった。拙い字で書いたラブレターは、自室の引き出しの奥底に封印されることになった。
 ようするに火織さんは言ってしまえば誰にでもそういう事ができる、距離の近すぎる人なのだ。
 思い上がりをわからせられてはしまったが、別に彼氏がいたとかそういう話は聞かないし、相変わらずぼくは火織さんのことが好きだった。その気さくさから火織さんには友達が男女問わず多い人気者だったから、ぼくのような根暗は、遠巻きにそれを眺めるぐらいしかできなかったけれども。

 閑話休題。

 別に火織さんの体操着が目当てで、放課後の教室にやってきたわけじゃない、というのは言い訳しておきたい。
 机の中に入れっぱなしになっていたノートを取りに来ただけだ。
 放課後、夕日が差し込む無人の教室。窓際の自分の机から、目当てのものを回収して。帰ろうか。
 振り返ると、目に入るのは机の上に無造作に脱ぎ散らかされた体操着の上下だ。
 適当に置かれすぎてて、今にも机の端から落ちそうになっている。

 持ち主が帰ってきた時、床に落ちていて、ホコリにまみれていたら嫌だろうな。
 そんな親切心が働いて、それに近づいてつまんで机の中央に戻してあげようとする。
 そうしたら──見つけてしまった。白い体操着の胸の部分に“火織”の刺繍があることに。
 その瞬間から、体操着は特別な意味を帯びてしまった。

 今日の最後の授業は体育だった。
 脱ぎっぱなしにして、足早にバスケ部に行ったんだろう。
 この体操着を着て運動着に励んでいた火織さんの姿を思い出す。
 きっとしっかり汗を吸っているんだろうな。

 周囲を見渡す。
 中途半端な時間だから、誰もいない。廊下にも人気はない。
 バスケ部の活動が終わるまでにはしばらくかかるだろう。
 そんな計算を数秒のうちにしてしまう。

「……ちょっとだけ」

 別に、裸を覗くとかじゃない。持ち物を舐めたりとかするわけじゃない。
 単に、匂いを嗅ぐだけだ。
 内心でしょうもない言い訳を繰り返しながら、そっと、小さな生き物をそうするみたいに、両手で慎重にすくい上げるみたいにして体操着を持ち上げる。

「…………」

 どきどきと、胸が高鳴ってうるさい。
 最初に気まぐれで、火織さんに声をかけられた時、いやそれ以上に。
 最初に、裾の部分に鼻を近づける。
 それだけで終えるのだと言い聞かせて。

「!」

 つん、と甘酸っぱい匂いが鼻腔を抜ける。
 それだけで頭が痺れるような気がした。
 ぼくの火織さんへの好意を差っ引いても、悪いとは思わない。
 でも、人には決して積極的に嗅がせようなどとはしないだろう。
 そういった恥ずかしい匂いを嗅ぐことで、親密な距離に近づけた、そんな気がする。
 もちろん、そんなわけはないのだけれど。

(もう、がまんできない)

 持っている体操着をずらして、鼻先に胸元部分あたりがくるようにする。
 汗染みは腋か、首筋、胸元あたりが一番濃いものだ。
 “火織”の刺繍が視界を横切る。
 火織さんは背丈が女子の中でも低くて、中学生にも間違えられそうなぐらいで。
 それでいて胸の発育が豊かだから、余計その大きさが強調される形になる。
 それを包み込んでいたのが、この柔らかく、湿った布。
 
「っ、はあっ」

 思わず声が出る。
 くしゃくしゃの体操着の胸元はまだ汗が乾いていなくて、くっつけた鼻先が濡れてしまう。
 体熱を失いつつある汗の匂いは、饐えたものでありながら、いくらでも嗅げてしまう魔の魅力がある。確かに生きている、火織さんのにおい。

「ん、すーっ、すーっ」

 体操着を広げる。白いポリエステルの布地全体で顔を包み込むように。
 腋や首筋の部分も貪っていく。
 視界にはもう何も見えていない。
 まるで自分が小さくなって、体操着の中に閉じ込められているような、そんな錯覚すらある。
 だから、教室に誰かが入ってきていることにすら気づけなかった。

「その匂い、すき~?」
「ん、ウォッんっ」

 犬が吠えるみたいな声を上げて飛び退ってしまった。
その姿はさぞや無様だっただろう。
 顔を覆っていた体操着を剥がして、どこか楽しそうな声の出処に視線を向けると、こちらをどこか楽しそうに覗き込んでいる、バスケ部の黒いユニフォーム姿の小柄な女子と目が合った。
 弾むようにやんちゃな、ビーグル犬を思わせる、みんなの人気者。
……火織さん本人。

2.
「あ、いや、これは、違くてっ」
「違うの? じゃあなんで、これ嗅いでたの?」

 なんの言い逃れも出来ないのだが、反射的に否定してしまう。
 悲鳴を上げられてもおかしくなさそうな状況だが、火織さんはそうせずに、くりくりとした、好奇心を隠さない栗色の目でこちらを見つめてくる。痴○の現行犯というよりは、物珍しい生き物を見つけたときの目。

「わかるわかるっ、わかるよ。女の子の汗って、いい匂いするものね。わたしも更衣室でみんなの汗と制汗剤の匂いに包まれてるとき、なんとも言えない気持ちになるもん。さすがにこんな話、誰にもしたこと無いし……」

 まさか直で人の服を嗅ぐ人がいるなんて思わなかったけど、と火織さんは笑った。
 その性癖の暴露を、どれぐらい素直に受け止めていいものかわからなかった。ほんとうにそうなのか。ぼくを許す理由を探しているのか、ぼくという変態に恐怖して、同調しようとしているだけなのか。どう反応するのが正解なのか迷って、そうなんだぁ、と間の抜けた曖昧な笑みを返すにとどまった。

「ね、わたしの体操着、いいにおいだった?」

 しかし、そんな直球な問いには、少しの沈黙のあと、「うん」と、頷くほかなかった。
 なんの言い逃れもできないのだから。

「じゃあ、さ。もっといい思いしてみない?」

 肩を抱き寄せる。普段なら考えられないような馴れ馴れしい距離で、取り出してみせたのは小瓶だった。平べったいビスケットのような不思議な形をしていて、噴霧口がついている。
 それをぼくの顔にかざすと、シュッ、と吹きかけた。思わず目をつむり、噴射されたそれを思いっきり吸い込んでしまう。

「けほっ、え、これ、何」
 すぐにわかるよ。そう微笑む火織さんの顔が、ぼくの目線の高さにある。あれ? 瞬きした次の瞬間には、見上げることになっている。

「え? 何? なんか変なこと起こってない?」

 徐々に火織さんの身体が、せり上がっていく。いや火織さんだけではない。等間隔に並ぶ机も背が高くなって、すぐに教室を見渡すことができなくなる。壁も天井も蛍光灯も、遠くなっていく。

「魔法のおくすりだよ。小さくなっちゃうの」

 小さくなる? ぼくが?
 しかしそう言われると、すとんと納得してしまう。でも理由がわからない。どうして。
 普段から嘘ばかりついているから、嘘みたいな光景を見させられているのかな。
 腰をかがめて、火織さんがぼくを見下ろす。もっと幼い小学生ぐらいだった頃、見上げた大人を思い出す。つまりはそれぐらいの背丈の差になってしまっているのだろう。服も身体と同じように小さくなっているのは、魔法だからだろうか。

「ちょ、やめてよ……っ」
「え? やめていいの? 本当に?」

 きょとんとした様子で、かがみこんだまま、ぼくに両手を伸ばして、腋の下をよいしょと抱えて持ち上げてしまう。かんたんに、床から脚が離れていく。わっわっ。落ち着かない。足がぶらぶらと揺れる。

「こういうことも、してあげられるのに」

 温かい腕に抱えられて、ゆるく抱きしめられる。こんな風に抱っこされるなんていつ以来だろう? 胸、やっぱ大きいな。ユニフォームなんかじゃ全然それが隠せない。ふくらみの下半分に、額が押し付けられて、いやでも柔らかさと暖かさを堪能させられてしまう。いや、それが主目的なんじゃない。髪や服に染み込んだ汗の匂い。それを嗅がされている。ぼくが小さくなって向こうが大きくなったぶん、より濃密になっていた。

「自分より大きい男の子にこうされるとさすがに怖いけど、今ぐらいちっちゃいなら、こうされても全然大丈夫。ふふ。よかったね、小さくなれて」

 わたしのおかげだよね? とでも言いたげな声色。
 まずいことをしている。我に返って顔を上げて胸元から離れようとして、おおきな手がぼくの後頭部を覆って、同じ場所に押し付ける。汗じみに鼻頭が濡れる。運動部と帰宅部という違いなんて生易しいものじゃない力の差。女の子の小さな手のひらにさえ逆らうことが出来ないのが、今のぼくということらしい。
 小さくされて年少のこどもみたいに抱え上げられて無理やり汗の匂いを吸わされているこの状況。ええと。つまり火織さんはどうしようもない変態ってことだ! 

「変態!」
「それ、きみが言うの~?」

 あっけらかんとした返事。胸に押し付けられながら言ったせいで、もごもごと響いて火織さんはくすぐったそうにした。力ずくで変態行為に巻き込まれているということ。女の子の柔らかさ。体臭のかぐわしさ。好きな女の子に触れているということ。いくつもの要素がぼくを混乱させる。

「あのねえ、この魔法のおくすり、興奮して血が上ると全身に回って、どんどん小さくなっちゃうんだって。……ふふ、今もやらしい気持ちになってるんだよ、きみ」

 はっとなる。密着しているので分からなかったが、手足が火織さんの身体に吸い込まれるように縮んでいくのが、彼女の腕と自分の手足の太さを比較して解る。両腕で抱えあげられる幼児大だったぼくは、今や片腕で持てるぬいぐるみサイズだ。

「ねえねえ。わたしのおっぱいで興奮してるの? それとも、汗のにおい?」
「ぼ、ぼくが悪かったから。許して。どっちだっていいでしょっ」
「許すとか許さないとかじゃないのにな。
だって本気で抜け出そうなんて、してないでしょ?」

 違う。ぼくはもがいている。ぼくが小さすぎて、相手が大きすぎて、抵抗だと認識されていないだけだ。……でもどうなんだろう。ぼくは本当に、抜け出したいと思っているんだろうか。自信がなくなってくる。

「ほーらっ。どんどん吸って……どんどん、小さくなっちゃえっ」

 胸だけでは終わらない。やわらかいお腹、ユニフォームでは隠れない、きつい匂いのする腋の下。むっちりとしたふとももの間。いろんなところに火織さんはぼくを案内して、そのたびぼくが小さく情けなくなっていくのを、にこにこと観察する。興奮し喜んでくれるのがうれしいのか、縮んでいくのがおもしろいのか。

 気がついたら、ぼくはもう、どうやら子猫みたいな大きさになっているみたいだった。

3.
「ふふっ。結構かわいくなったね」

 机の上に乗せられて、つん、と丸太のような指でつつかれる。
 なんだかとても恐ろしいことになっている気がするけれど、あまりにも荒唐無稽な出来事に、ぼくはこれが現実であることを半ば認識できていなかった。それは相手にしたって同じことかもしれない。
 親しげにじゃれついてきているつもりなのだろう火織さんに、ぼくはへとへとになってまともに返事をすることもできず、小さく呻くばかりだった。あれだけ火織さんの身体に押し付けられ蒸されていては当然だ。小さなおもちゃで遊ぶのと、遊ばれる小さなおもちゃの疲労はぜんぜん違う。

「もう小さくなるの終わり?」

 机に突っ伏してぺたんと頬をくっつけて、ぼくを間近で眺める。大きなふたつの目が、無邪気そうに輝いている。まだまだ遊び足りない。人懐っこい犬、ただし超巨大。そんな感じ。机と彼女の身体の間に挟まれた二つの膨らみが重さと圧力で歪んでいる。そのうちの片方にぼく一人分はゆうゆうと入れてしまいそうだ。

「も、もう、勘弁して。戻して」
「ええ~」

 不満そうな声。

「嘘はよくないよっ。もっと吸いたいんでしょ? わたしともっと遊びたいって、思ってるんでしょ?」

 この目に見覚えがあった。あの日の屋上で半ば強引にお弁当を押し付けてきたときの、喜ばれないはずはないという、どこか思い上がった気持ちを映した瞳。弱く、隅っこに追いやられた個体を慈しみ、その反応を喜ぼうという驕り。

「……」

 ぼくは沈黙を貫くことにした。またしてもぼくは、どう答えていいのかわからなくなっていた。

「あ、そ」

 無言を否定と解釈したらしい火織さんは、ほっぺを愛らしく膨らませて唇を尖らせる。おもちゃが思い通りにならないことが気に食わないのか。畳のように大きな手のひらがぼくに迫り、胴体を拘束する。そうして椅子に座ったまま、ぼくをゆっくりと床に下ろした。

「……?」

 何をするつもりなのか、と思って神妙に見上げていると、火織さんは立ち上がる。十倍近い大きさになってしまった火織さんは、通学路で見上げる街路樹のケヤキを思わせる。こんなに大きい生き物に、ぼくは遭ったことがない。
 そのケヤキの樹が、ぼくの直ぐ側で足踏みをし始めた。
 上履きの底が隕石のようにぼくに降り注ぐ。

「あ、わ、ひっ」

 ズダン! ズダン! 潰されてしまえばぺしゃんこになってしまうだろう。振動に足を取られ、上履きの上に逆に乗り上げたりしながら、彼女の作り出す脚の影から逃げる。小柄な女子に踏み潰されないように逃げるなんて、こんなにみじめなことはないだろう。文字通りほうほうの体で、椅子の下という安全地帯に逃げ込む。椅子の裏側が、天井のように広がっている。避難訓練のときは机の下に逃げろと言われるけど、いまのぼくには椅子の下で充分だ。彼女の存在はネズミ大の生き物には災害も同じというわけだ。

「な、な、な、何をっ、ひお、ひおりっさんっ」
「何って、着替えてるんだけど。帰るから」

 踏み潰されないように逃げ惑っていたからわかなかったが、いつのまにか火織さんはユニフォーム姿をやめて、ブラウスとチェックのスカートの制服姿に戻っていた。足踏みをしていたのは、ユニフォームの下のほうを脱ぐためだったようだ。
「これ以上無理にきみを付き合わせてもよくないもんね。わたし、帰るよ。またね」
「ちょ、ちょっと待って」

 かばんを背負って、教室の出口へと火織さんは向かい始める。本当に帰宅するつもりなのか? だとしたらぼくはどうなる。こんな大きさのまま取り残されるのか?

「ま、待ってっ、待ってよっ」

 机の下を出る。今度は逆に、あの恐ろしい火織さんの脚にまとわりつかなければいけなかった。

「もとに戻してよっ。こんな大きさ、やだっ」
「ちょっと、やめてよ」

 火織さんはうっとおしそうに、片脚を振った。ぼくはあっけなくふっとばされて、机の脚に激突する。ぎゃん、と声が出た。

「さっきから、わがままばっかり」

 周囲が影に覆われる。火織さんがかがんだことでその巨体の作る影が濃くなったのだ。はあ、はあと弱々しく息をしながら、手招きする火織さんの眼の前まで、のろのろと歩いていく。どれだけみじめでも、火織さんに従うしか無い。

「どうしてこんなことになってると思う? きみが悪いんだよ。きみが体操着の匂いなんか、ワンちゃんみたいに嗅ぐから……先生とかに告げ口してもよかったところを、わたしと遊ぶだけで許してあげる、って言ってるんだよ。わからないの?」 

 火織さんの口調は、悪いことをしたこどもにたしなめ言い聞かせるものと、全く同じだった。たしかに、ぼくが悪いのかもしれない。でも、いくらなんでも、やりすぎなんじゃないだろうか。そんな反発心も、見下ろしてくる火織さんと目が合えば、しなびてしまう。しゃがみ込んだ姿勢の彼女は、立っているときとはまた違う迫力があった。

「わかった? わかったら、ちゃんと返事して」
「……はい」
「今のきみは、わたしがお世話してあげないと、なにもできない」
「……はい」
「だから、きみはわたしと遊ぶの。いい?」
「……はい」

 ぺこ。ぺこ。ぺこ。お辞儀するだけの機械になる。穏やかな口調からは、圧迫感を覚えずにはいられない。逆らおうという気持ちが、溶けるように消えていくのがわかった。もう少しだけ彼女に付き合えば、元に戻して、解放してくれる。そんな希望にすがる他無かった。

「うん。いい子。わたしと遊びたいんだよね、本当は。素直になってくれてよかったな」

 火織さんはようやく機嫌を取り戻したのか、にっこりと微笑む。それじゃあそこにいてね、と告げて、火織さんは再び立ち上がると、ぼくをまたぐように立った。紺のソックスと上履きに包まれた巨大な肌色の柱が曲線を描いて、ぼくの頭上で合流している。つまりスカートの中が丸見えである。

「火織さん、なにを」
「いいから」

 頭上で衣擦れの音が大きく響く。まさか、と思った次の瞬間、黒い天井が、ぼくを覆うようにして垂直に落下してくる。逃げられるはずもなく、ぼくはそれに押しつぶされた。
 視界が真っ暗闇に閉ざされる。死んだかと思ったがそうではないらしい。なにかに全身が押しつぶされている。柔らかく肌触りがいい材質ながら、まとわりつくように重く、立ち上がることができない。黒い布だ。それも湿った。這い回って、出口を探す。呼吸しようとすると、口や鼻に、甘酸っぱいような、塩辛いようななんとも言い難い匂いが入り込んで占領してくる。まるで、黒い海のなかに投げ込まれたようだった。

「ふふふ。どう? 居心地いい?」

 外から、火織さんのくぐもった声が響く。

「……あ、ひょっとしてわからないかな?
 それね、わたしの……」

 何かを考える余裕ができれば、ぼくにも理解できる。さっき、スカートの下に立っていた時、一瞬だけその中身が見えた。そう、これは彼女が穿いていた、
 ──黒いスパッツ。

「あ、あっ、あ、出して、出してっ」

 半狂乱になってもがく。下着に包まれていることが、嫌だからではない。むしろその逆だった。こんな場所にいたら、嬉しすぎて狂ってしまう。
必死に這い出ようとしていると、浮遊感に包まれる。火織さんがスパッツごとぼくを持ち上げたのだろう。その拍子に、ぼくはスパッツの底まで転がってしまう。何度即席の斜面を登ろうとしても、似たようなことの繰り返し。蟻地獄に囚われた蟻のようだった。火織さんの直穿きのスパッツ。授業中はもちろん部活中もずっと穿いて、生きた匂いを染み込ませた布の檻。服の上から押し付けられて嗅がされたのとはわけが違う。一日かけて熟成させられた、何百倍も濃密な匂い。さっきまでこれに触れていた火織さんの肌の熱気が、サウナのようにぼくを包んで蒸す。

「あーあーあー。こんなにちっちゃくなると、もう女の子のスパッツにも閉じ込められちゃうんだね。それとも、出たくないだけなのかな?」

 心の底から楽しそうな声が響く。
 やがて黒い天井が切り裂かれ、暗闇に光が差し込む。スパッツを開いて、火織さんがぼくの様子を覗き込んだのだ。

「……? いつのまにか裸になっちゃったねえ。脱いじゃったんだ。それに、何してるの? わたしのスパッツに、身体を押し付けて」

 スパッツの奈落の底にいるぼくを、女神のように見下ろす火織さん。彼女の姿が、もっと大きくなって、スパッツという世界ももっと広大になってぼくを閉じ込めていた。
 なるほどねえ。火織さんは笑って、スマートフォンを取り出すと、ぼくに向けてかざす。(あとでわかったことだが)ルーペの代わりにしてズームしながら動画を撮っていたのだ。

「きみは、虫みたいに小さくなって、同級生の女の子に見られながら、脱ぎたてのスパッツと、セックスしたかったんだね。ごめんねえ。それはさすがにわたしもわかんなかったや。ほかほかのスパッツとセックスできるなんて、きみみたいな小人さんにしかできない特権だもんね」

 ぼくを辱める火織さんの言葉も、半ば耳に届いていなかった。ぼくは夢中だった。もうベッドマットのように広いスパッツの底のクロッチは汗だけではない、性と生の、濃い匂いがして、ぼくの脳を熔かしていた。

「体操着を嗅いでたのが、きみでよかったな」

 スマートフォンをしまって、火織さんは目を細める。

「だって、きみがいなくなったって、誰も悲しまないものね」

 再び、世界が闇に閉ざされる。火織さんが、スパッツを再び折りたたんで閉じただけだ。逃げ場を失った火織さんの体臭と恥臭が、ぼくの穴という穴から入り込むようだった。

「それじゃ──わたしに握りつぶされて、虫になっちゃえ」

 その言葉とともに、周囲の黒い壁がぼくに迫ってくる。動けるだけの空間のゆとりが消え去り、全身が押しつぶされる。口の中に汗に湿った繊維が押し込まれ、服に守られない肌という肌がこすりつけられる。火織さんが片手で、スパッツごとぼくを握りしめているのだ。

「あ、あっ、あ、ああああああああ────っ」

 押しつぶされながらぼくは何度も何度も痙攣して果て、火織さんのスパッツを汚した。
 そのたび、その体を縮めながら。

4.
 どれだけの時間が経っただろうか。
 世界が傾いて、気を失っていたらしいぼくは、スパッツの牢獄から転がり落ちる。
 落ちた先は、隆起した肌色の地面。這いつくばって触れるそれは、人肌の暖かさをしていた。

「ほんとに虫みたいにちいちゃくなっちゃったねぇ」

 ひそめられた声が、大音量となって叩きつけられる、奇妙な現象。
 肌色の大地──手のひらの上のぼくを見下ろす火織さんは、もう首から上だけで、スパッツに閉じ込められる前の火織さんの背丈と同じぐらいになっていた。人間を丸呑みできそうな大蛇のような指が、ぼくの傍へと迫って並べられる。わかる? 指と比べてこんなに小さいんだよ、と。折り曲げられる指はゆうゆうとぼくの背丈を追い越して、爪の先に見下されることとなった。

「こんなに小さくても、ちゃんと人間の言葉わかるんだね。怖がってるの? かわいいね、おちびくん。ほら。立ちなよ」

 指の腹がずどん、と追突してくる。向こうとしてはかるく突いているだけのつもりだろう。そうじゃなかったら、とっくに潰れているはずだ。もう抵抗する気すら起こらない。突かれるまま教室のように広い手の上を転がり、端に追い詰められ、あわや落ちそうになったところで、もう片方の手指に挟み込まれ、宙に連れ去られる。
指の腹だけで、ぼくの下半身がむっちりと包まれ、覆い隠されてしまう。裸になってるせいで、こうしてつままれるだけでも、気持ちよくて、ひん、と甘えるような声が出てしまう。指に乗せたところで重量なんて感じないだろう。本当の蟻のような大きさになってしまった。こんなに弱いのに、ぼくの自認がまだ人間のままなのが、不思議なぐらいだった。子犬のような火織さんを見下ろしていた記憶が、もはや別人のもののように思えてきた。

「あのね。元に戻す方法は、ないよ。魔法のおくすりを買った人からそう教えてもらったの。きみは一生その大きさで、踏み潰されないか怯えながら、生きていくの」

 風景が急速に動く。指で摘まれたまま、ぼくの身体が眼前まで運ばれる。女の子の顔の高さが、高層ビルの屋上ぐらいに思えた。落とされたらきっと命はないだろう。

「……うれしい? 小さくなれて」

 理屈で言えば、うれしいはずがない。自由と尊厳を奪われて、いいように弄ばれて。この先ずっと戻れず、弱い姿で生きていくなんて。小さな虫や獣が持っているような生存術は、小さくされた人間には存在しないというのに。
 けれど、ぼくは、自由になっている首で、うん、と頷いてしまった。

「うん。うれしいよね。こんなに、表情もわからないぐらい、消しゴムよりも小さくなって。わたしじゃなかったら、いまのきみのこと、人間だなんてわからないよ。野原に放したら、雀さんにだって食べられちゃうかも」

 ふふ、と火織さんは小さく笑った。だから、わたしに守ってもらわないとね。
唇の蠢き一つですらも、ぼくにとっては恐ろしい。かすかな息遣いでさえ、湿った風となって叩きつけられる。いちご色の舌が、夕陽に照らされて、官能的に光った。

「どこに入れて運んであげようか迷ったけど」

 ここばっかり見てたもんね。おちびは。
 そう告げて、ぼくをつまんでいないほうの手でブラウスの前を開く。ふたつの大きなマシュマロを包み込んだ黒いスポーツブラが、鯨の肌のような光沢を見せていた。
 
「いっぱい味わってね」

 なんの躊躇もなく、ぼくをつまんだ指がブラウスの奥に突っ込まれる。ブラの端が指で引っ張られ、そこに出来た隙間から、ぼくの身体は指ごと押し入れられ……指が去っていくと、ぼくという闖入物だけがブラの中に、取り残され閉じ込められる。
 衣擦れの音。ブラウスが閉ざされて、ぼくのいる空間は完全に外界から隔絶された。
 全身ではつらつと育った肉の巨球の下半分と、強○的に抱き合わされる。いや、底にへばりつくと言ったほうが適切だろうか。薄暗く湿り、体熱で蒸し暑いこの空間。まさに鯨の腹の中に落とされれば、こんな感じになるのだろうか。肌の下、血管を血で流れる音、心臓の鼓動が、直に伝わってくる。
 汗が染み出して、重力に従い、胸の底にいるぼくのほうへと流れ落ちる。大きな汗の珠がぼくの顔にまとわりついて、溺れそうになる。必死に顔を揺さぶって、それを振り払う。少し飲んでしまった。

「セックスしていいよ。わたしの胸と」

 世界が動き出す。縦に規則的に揺れる。ぼくを閉じ込めた胸も、ゆさゆさと。そのたびハリのある肌にぼくという小虫は押し付けられて、全身の骨をきしませながら、また快楽に脳が支配される。死んじゃう。潰されて死んじゃう。ぜんぶが火織さんに奪われる。喜びによって。こんなものはセックスでもなんでもない。だって火織さんは、ただ歩いているだけ。人間がただ歩くだけで小虫は、絶頂と絶望の間を振れ動く。

「ふふ。おちびが嬉しくなってるの、伝わってくるよ。おちびは、同級生の女の子のおっぱいで潰されるのが、大好きだもんね」
 
 世界が暗闇に包まれる。火織さんが胸を、手で覆ったのだろう。背中をさするような手つき。狭くて蒸れて暑くてどうしようもなく不快な空間から、もうぼくは逃げ出そうなんて思えなくなっていた。


「いい? わたしのちび虫さん。
おっぱいでぷちって潰されちゃ、だめだよ。おうちに帰ったら、いっぱい遊ぶんだから」

 慈愛に満ちたその声を聴きながら、ぼくは目を閉じた。

(了)

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mikourian 2022/07/29 00:35

意識調査、と進捗

アンケ~ト

テキスト生産業者としての巫女瓜/牧浦にみなさんが期待してるものって何?
と疑問に思ったので意識調査を実施します。

↑の選択肢にないものを送りたい人用フォーム

全部にチェック入れてくれてもかまわないです。
あくまで参考にするだけなので、最多票取ったものとは全く別のものを書く可能性があります。
今は巨大少女ばっか書いてるのでそろそろ巨大少年も書きたいなぐらいのことを思っていますが、明日のことはわかりません。

次出すやつの進捗報告

ももいろハニーポット

有料プラン用。ももいろランドスケープのニーニェ(桃髪ツインテロリ)と有川(黒髪地味セーラー)が退廃的な遊びをするやつです。二人以外の小人も出ます。
現在5900字ほど。8月はじめぐらいに出したい。

Skebのリクエスト品

バスケ部の女の子の体操着を吸ったせいで大変なことになる感じのやつです。
現在1400字ほど。リクエストありがとうございます。

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mikourian 2022/07/25 20:30

【小説】ももいろランドスケープ

カクヨムなどにアップされているものと同じです。


「知ってる? 山田先生ってやべーやつらと繋がってて俺たちを洗脳しようとしてるんだ。最近暑いだろ? あれも山田先生が気象を操ってるせいで、それからこの間起こった地震も」
「あーあーあーまた始まったよ」

 今年はセミが鳴かないんだな。教室の窓から、いつもと変わらない雲ひとつない空を拝む。
 秘密結社。気象兵器。人工地震。
 悪友の語るいつものネタもどれか一つにしてほしい。
 そんなゴシップを、メガネを光らせながら嬉々として語ってるのももうこの悪友ぐらいになった。
 他のクラスメイトはこいつの振ってくる話に露骨な嫌悪を示すようになったので
 あしらいつつも耳を傾けてくれる僕に執着するようになったらしい。かわいそう。

「でもさー。テレビでも先生が来てから、犯罪が減ったって言ってるよ~ 住みやすい街になったって」
「メディアに洗脳されるなよ。あいつらは先生の太鼓持ちだ。自分の頭で考えろ」

 その自分で考えてるっていうのも、誰かに吹き込まれたことなんだろどうせ。
 信じたいことを、人は信じる。

 悪友は変わってしまったな。こんなことを言うやつじゃなかった。
 だからといって、こいつをすぐに見捨てるほど情が浅いつもりもない。
 腐れ縁というか、長い付き合いだしなあ。

「有川しかまともに聞いてくれるやつがいないんだよぉ~」
「泣き真似するな。それより昨夜の『はいスケ』見た?」
「ああ……最終回の。あれやっぱ死んでるよな。死ぬことないよな」
「おまえの感想情緒なさすぎないか? うつに理解がない男め」

『はいスケ』というのは深夜アニメ『はいいろランドスケープ』のことだ。
 メイン登場人物は女の子二人。かなり暗いアニメということもあり視聴者が少ない。
 このクラスだと僕と悪友ぐらいなんじゃないか?

「はいスケがあってよかったな。なかったらとっくに僕たちの友情は終わってた」
「友情が終わり、愛が始まるってわけか?」
「キモい。ほら。予鈴鳴ったぞ」

 目を合わせないまま紙パックの100%野菜ジュースをちゅーっと吸っていたら、ようやく諦めて自分の席に戻っていく。
 それと同じぐらいの熱意で学業にも取り組んでほしいよ、
 と思うのは教師でもないのに教師目線すぎるかもしれない。
 始業の時間になり、ぱたぱたぱたと軽い足音を立てて山田先生が入ってくる。

「おっはよ~、アリンコのみんな! 元気にしてた?」

 140cmもないだろう、小柄な身体。くりっとした大きい桃色の瞳。
 頭で揺れているのは、リボンで結んだ、冗談みたいな桃色のツインテール。
 女性教師らしくレディーススーツとタイトスカートを着こなして……いや、丈があっていないのか袖が余ってるし、逆にへそが出てたりする。
 教職をバカにしてそうな格好、いや、むしろ一周回って逆に聖職者にふさわしい装いと言える。
 袖からはみ出した指は、ぷにぷにと愛らしい。

 そんな深夜アニメに出てきそうなデザインの彼女が、山田先生である。

「おはようございま~す、山田先生!」
「もう、わたしのことはニーニェちゃんって呼べって言ったでしょ~ その名字嫌いなの!」

 きさくに挨拶しあって、山田……ニーニェ先生は教壇に登り、授業を始める。
 背がちっちゃすぎて、専用の踏み台がないと顔が隠れてしまうのである。

「はい、これわかる人!」
「はい!」「はい!」「はい!」
「はーい、じゃ福原くん、やってみて~……
 って、ぜんぜん違うじゃない~ も~っ
 ちゃんと授業聞いてるの?」
「えへへ……」

 みんな山田……ニーニェ先生のことが大好きなので、幸せそうに授業を受けている。
 問題を出せば誰もが競うように挙手をする。
 合っていたら褒めてもらえるし、違ったら叱ってもらえる。
 どっちでもうれしいのだ。

 とは言え、このクラスの授業の理解度はかなり高い。
 ニーニェ先生は本当に教えるのが上手なのだ。
 ニーニェ先生は明らかに僕たちより年下だけど、誰もバカになんてしない。
 ニーニェ先生の国では、幼稚園児のころにはもう高校レベルの課程は済ませてしまっているらしい。
「つまり、君たちがわたしの国に来たら、幼稚園に入ってもらうってことになるね!」なんて屈託なく笑っていたっけ。
 幼稚園児にわからないところを訊くことになるのだろうか?

「も~、せんせーのこと好きなのはうれしいけど。
 ちゃんと勉強しない子は、踏み潰しちゃうよ?」

 ぷりぷりと怒って見せた次の瞬間には、ニーニェ先生の姿は幻のようにかき消えている。
 《《ホーカス・ポーカス》》!
 そう唱える声が響いた気がした。
 そして、縦の振動が僕たちを襲った。
 蛍光灯が瞬き、パラパラとホコリが落ちる。黒板消しが落ちて転がる。
 クラスで飼っているハムスターの籠は、飼育委員の生徒が必死に守っていたので無事だ。
 校舎全体を、いやこの街全体を揺らすような揺れだった。
 でも別に今更こんなことで驚いたりもしないし、机の下に隠れたりもしない。

「立場の違い、わきまえてよね~!
 きみたちアリンコとはこんなに、大きさが違うんだからっ」

 何重にも拡声器を通したような、高い声が重く大きく響いて、空気を震えさせた。
 窓から外を見ると、校舎の外、校庭に、狭そうにニーニェ先生がしゃがみ込んでいる。
 そう。狭そうに。僕たちの数十倍の大きさになったニーニェ先生にとって、校庭は狭いなんてものじゃない。
 前に巨大化してお尻で周辺家屋を押しつぶしてしまって以来、この学校の敷地はちょっと広くなった。
 今のニーニェ先生は、しゃがみ込んでようやく屋上にいる生徒と目線の高さが合う程度といったところだから、二階の教室にいる僕たちを見ようとすると、ちょっと無理な姿勢になって覗き込まないといけないのだ。
 人の背丈よりも大きくなってしまった桃色の瞳が、巨大な鏡のように、窓の外に広がっている。

「みんなこうしてみるとほんとちっちゃいよねえ! ほんとにアリがぎっちり詰まったアリ塚みたい!」

 薄く淡い色の唇を窓の近くに合わせて、アリクイのように舌を伸ばす……なんてことはせずに、ふぅ、と息を吹きかける。
 ふぅ、というのはニーニェ先生の主観での表現で、僕らにとっては甘い暴風が吹き荒れるのと同じだ。
 教室の机がめちゃくちゃになり、吹き飛んで怪我をした生徒もいただろう。
 見下されてアリ呼ばわりされて、悪戯で済まされないようなことをされても、別に僕たちは怒ったりはしない。
 もう、ニーニェちゃんはしょうがないなあ、なんて苦笑しながら、散らかってしまった教室を片付けている。
 ニーニェ先生の唇に触れようとニーニェ先生から吐き出された吐息を胸いっぱいに取り入れようと深呼吸しているもの、ひどいのになるとそのへんにうずくまってごそごそやりはじめてるバカもいる。
 みんなどうしようもなくニーニェ先生に恋している。いいよな。いい……。プロは多くを語らない。

 白けた様子で、机に片肘をついて座っているのは、悪友だけだった。

 休み時間に入ってもニーニェ先生は巨大化しっぱなしだ。屋上に行って昼ごはんを食べようとしたら、桃色の川が屋上の上を横切っていた。
 川ではなくて、どうやらニーニェ先生の長い髪が屋上にかかっているらしい。

「有川ちゃ~ん」

 ニーニェ先生の街全体を震わせるような声。
 笑いかけられながらそんな大きな音量で自分の名前を呼ばれるのは恥ずかしいなんてものじゃない。
 ニーニェ先生への数少ない不満だ。
 というかクラスメイトの僕への視線が痛すぎるんだよ……。

 ニーニェ先生、髪の毛触っていいですか? しょうがないなあ、いいよ。やったあ。
 屋上を横断する髪の大河に、靴を脱いで乗って、這いつくばって頬ずりをする。
 こんなに大きいのに、極上の紗に触れているみたい。
 それでいて、人間ひとり程度の重さでたわんだりもしない。
 そして何より不思議ないい匂いがする。ずっと嗅いでいたくなるような。
 どんなシャンプー使ってるんだろう? 僕も使ってみたいな。同じ匂いになりたい。
 周りを見たら、男女問わず生徒が、同じように髪の毛に抱きついている。
 おまえだけのニーニェ先生の髪ではない、と言われている気がした。
 それはわかっているつもりだけど。
 なんか先生に気に入られている気配は、感じている。錯覚だと思う。思い上がらないようにしたい。

 ふとニーニェ先生のほうを伺うと、もう興味を失ったのか、そっぽを向いていた。
 視線は校庭の方に向けられている。髪の毛から降りて、フェンスに近づいてそちらを見てみる。
 すると、やはり生徒が男女問わず、白タイツに包まれた脚を広げて座るニーニェ先生の、その脚の間に屯していた。
 なんなら教師もいる。
 まあつまり、覗いているのだ。あいつらは。パンツを。
 何度見ても、うわ、と思う。
 こうして屋上──ニーニェ先生と近い目線から見下ろすと、
 小学生ぐらいの○女の股間に、何十人もの虫けらみたいな小人が集っているのがありありとわかる。
 醜悪。

「も~ アリンコたちはほんとにせんせーの下着見るの好きだねぇ」

 ニーニェ先生のからかうような声が降り注ぐが、特に咎めたりはしない。
 むしろ、見せることを楽しんでいるフシすらある。
 ふしだらですよ。先生。僕はそう注意する。

「なに? 有川ちゃんも見たいの?」

 そうじゃなくて。

「それとも、この子たちみたいに、あんよに登ったりしたい?」

 脚を指差す。
 それによじ登っている生徒たちは、黒の詰め襟や紺のセーラーだから、タイツの白さでくっきりとその姿がわかる。
 それもしたいけど。そうじゃなくて。

「それともこっち?」

 お腹を指差す。
 ニーニェ先生の剥き出しのぽよんぽよんのおなかの上で遊んでいる生徒たちがいる。
 くそ。みんなやりたい放題かよ。

「ふーん?
 つまりダニみたいに髪の毛の上に乗っかって頬ずりしたりするのが
 こどものパンツを見たり脚にすがりついたりすることよりも高尚だと思ってるの?」

 僕がなにか言い返す前に、ニーニェ先生は、髪の上やふとももの上、服の上に乗って遊んでいる生徒たちに、降りるように促す。
 それから、よっこいしょと立ち上がった。
 高層ビルのような巨大構造物が移動することで、空気の流れが生まれ、風が巻き起こる。
 飛ばされないように、フェンスにしがみつく。
 退去しなかった、あるいはできなかった生徒たちが、髪に掴まったまま上空に連れ去られるのが見えた。

「ほーらっ。有川ちゃんたちにも見せてあげる!」

 地鳴りがする。空気が揺らぐ。
 また、巨大化している気がする。
 もう100倍近くなっているんじゃないだろうか。ニーニェ先生にとっては僕たちは本当のアリのようなものだ。
 校庭の土をその重さで掘り返しながら、ニーニェ先生は校舎をまたいで立つ。
 誇らしげに腰に手をついた、仁王立ちの姿勢。
 大人のロールプレイをしているタイトスカートの下に隠れているのは、
 パステル調のいちごとかソフトクリームとかのマークがプリントされている、あざといぐらいの女児用のショーツだった。
 プリントのひとつひとつよりも、僕たちはちっぽけな存在だろう。
 その上を歩いたなら、出来たしわの一つ一つにも、足を取られてしまいそうだ。
 目をそらすこともできない。
 全身が桃色の空を遮っている。ニーニェ先生という新しい空が生まれたようだった。

 例え、そっぽを向いたとしても。
 巨体に温められた、ニーニェ先生の甘酸っぱいにおいのこもった空気が、むわりと漂っていて。
 頭上にあるものを、意識せざるを得なかっただろう。
 大きすぎるニーニェ先生は、存在だけで、僕たちを支配している。

「嬉しいでしょ?
 十年ぐらいしか生きてないこどもに丸ごと見下されて。
 狭っ苦しいお庭で生きてるアリと同じだ、ってわからされるの!」

 すべてを見透かしたような声。
 こどもらしい甲高い声が、甲高いままに、かたかたと校舎の窓を震わせる。
 こどもの下着を見せられて、どうしようもなく嬉しくなってしまっている。
 僕たち全員が。

「もっともっと、大きくなっちゃおう、かな!」

 叫ぶ。ホーカス・ポーカス
 すると、ショーツの天がせり上がっていく。
 再びニーニェ先生の身体が膨らんでいるのだ。
 肩幅の広さだった脚も外側に膨らんでいって、建物がかわいらしいストラップシューズの下に消えていく。
 もう、この街どころかこの国に、彼女より背の高い建造物は存在しないだろう。
 あるいは山ですら。
 ストラップシューズの留め金にすら、屋上にいる僕たちは見下されるようになる。
 すでにこの校舎は、ニーニェ先生の靴よりも小さい。
 なにかの間違いで靴底にでも落ちてしまったら、一生をそこで終えることになるだろう。
 靴のような大きさの校舎に塵のような小人が大真面目に通う光景は、滑稽でたまらないものはずだ。

「うっふふっ。
 もう、校舎ごとみ~んな踏み潰せちゃうねっ」

 髪の毛にひっつこうが、下着を見られていようが、気になるはずもない。
 同じ人間ではないのだから。
 わざとらしく片脚を振り上げると、今度は黒いシューズの底が、代わりに空を覆う。
 彼女にとっては埃同然の、巨大な土の塊が、ぼろぼろと落ちてくる。
 これも彼女の日々の戯れの一つにしか過ぎない。
 それをわかっているから、生徒たちも過剰に怯えたりはしない。
 あるいは、本当に踏み潰されてしまってもいい。
 そう思っているのか。

「でも、そんなことはしないよっ。
 せんせー、みんなのことが、大好きだから!」

 靴を再び、元の場所に戻して。
 大きな地響きとともに、校舎を見下ろして座り込む。
 女児の曲がった膝という山脈に、僕たちは取り囲まれるのだった。
 もちろんスカートはめくれあがって、中身が巨大なビルボードのような存在感を放っている。
 あれだけ大きいともはやいやらしさを感じない。

「大好き、かあ……」

 つぶやく。
 僕たちの小ささを、卑しさを、まるごと受け入れてくれる、小さくて大きな女の子。

「……僕も、」

「それは恐怖を恋慕と勘違いしてるだけだ」

 冷水のような声がした。

「恐怖で心を縛って、愛する素振りで開かせる。そうして救われたと勘違いさせる。
 よくある手口だぜ」

 隣を見れば悪友が立っていて、呆然としていた僕を、手を引いて、屋上から連れ出していった。
 邪魔をしないで欲しいよ。
 もっとニーニェ先生のことを見ていたいのに。

「有川ちゃんと羽田くんは仲がいいんだね。せんせー嫉妬しちゃう」

 巨大化を解除した、あるいは縮小化したニーニェ先生が、階段の踊り場で僕たちを待ち受けていた。
 羽田というのは悪友の名前だ。仲がいい?
 まあ仲がいいことになるのかな。羽田は僕の手を握ったまま、ニーニェ先生を睨みつけている。
 なんか手汗が滲んでてキモいよ、羽田。
 それに、顔が青い。歯を食いしばりすぎている。
 睨みつけてるのも、虚勢だってわかる。
 かわいそうだな。
 ニーニェ先生のことを、怖いとしか思えないんだって。

「ね、有川ちゃん。髪の毛にゴミがついちゃってるみたいなの。とって?」

 返事を聞く前に、ニーニェ先生はくるっと背中を向ける。言われた通りに、彼女の後頭部を見下ろす。
 すると、つむじのあたりに、なにか動く黒く小さなものが見えた。まさにアリのような。
 それはよく見ると小さい人間だった。
 もっとよく見れば、うちの制服を着ている男子生徒だった。
 甲高い声で誰かが叫んでいた。僕の声だった。

「先生、これ」

 潰さないように、慎重に指にとって、ニーニェ先生に見せる。ああ、と先生は悲しそうな顔をした。

「せんせーが小さくなるときに、くっついてきちゃったんだね。
 だからどいて、って言ったのに……」

 両手で彼を包み込むようにして、語りかける。
 ニーニェ先生が巨大化する時、誰かがくっついていても、別に一緒に巨大化はしない。
 しかし、逆に縮小する時は、そうではないらしかった。

「ただでさえ小さいのに、もっともっと小さくなっちゃって……。何度も何度も言ってるのに。
 一度小さくなっちゃったら、戻れないんだよ、って。
 もうこうなったら、君は誰かに飼われて生きていくしかないんだよ。かわいそうに……」

 心の底から哀れむような声だった。
 ピルケースのような箱を取り出すと、その中に彼を入れてしまう。

「もうこれで何十匹目になるかなあ……みんなどうしたらやめてくれるんだろ。
 ごめんね~有川ちゃん。嫌なことさせちゃって」

 去っていくニーニェ先生。その背をぼんやりと見送ってしまう。
 僕は、適切な反応を返せないでいた。
 ああなってしまった生徒は、多くはニーニェ先生が面倒を見ることになるようだ。
 どんな日々を、送ることになるのだろう?
 誰もニーニェ先生が、どんなところに住んでいるのかを知らない。
 ニーニェ先生の部屋は、どんな感じなんだろう。
 ピンクが好きみたいだから、壁紙も天井もピンクだったりするのかな?
 ああして小さくなって連れ去られないと、わからないのかな。

「よかった。おまえが小さくなったりしてなくて……」

 横に立っていた羽田が呟く。なんだよそれ。どういう意味。

「羨ましい、だなんて思ってないだろうな」

 うるさいよ。



 翌日。
 いつもの通学路を歩いて、学校へ。
 雲ひとつ無い桃色の空が今日もきれいだ。
 昨日の巨大化で学校の敷地の外の建物が無数に踏み潰されていたが、それももうすっかりもとに戻っていた。
 まるで夢のように。
 毎日のようにああいう遊びをされているのにこの街が更地にならないのは、ニーニェ先生が都度直してくれているからである。
 僕の家がうっかり踏まれたときもあった。
 そのときはてへへと舌を出して笑って、すぐに元通りにしてくれたこともある。
 あのときはまるで魔法のようだった。実際魔法使いなのかもしれない。

 踏まれた現場を通ると、道路にうっすらと靴痕らしきものが残っている。
 ニーニェ先生は完全に復元できるわけではないらしい。
 この靴跡を愛好する街の住民もいるようだ。

 ホームルームの時間、ニーニェ先生は彼を飼ってくれる生徒を募集した。
 残念ながら誰も名乗り出なかったので、先生が飼うことにしたようだ。
 人気のクラスメイトが小さくなってしまった場合は、取り合いになったりもするのだが、幸か不幸か、今回はそうはならなかった。

「ハムスターぐらいなら、クラスのみんなで飼うのもありだったんだけどねえ」

 さすがにアリみたいな大きさの生徒をクラスで飼ってもしょうがない。
 アリ観察キットに一匹だけ居てもむなしいだけだろう。
 100倍ぐらい大きい集団に囲まれて暮らしていたら、きっと気が狂ってしまうだろうし。

 それにもうハムスターはいる。
 二匹に増やしてもいいのかもしれないけど。

 その日の放課後、帰り道に、羽田が声をかけてきた。

「逃げよう」

 人気のない路地に僕を連れ込んで開口一番切り出してきたのは、それだ。

「なんだよ。乱暴するのかと思ったよ。それで今日はどういう冗談?」
「どっちだよ冗談言ってるのは。
 見ただろ。人間がまたアリみたいに小さくなって、拉致されただろ。
 それだけじゃない。またたくさん建物と人が踏み潰された」

 拉致とか殺人とか。いちいち表現が穏やかじゃないなあ。

「あのなあ。ニーニェ先生を大きいからって怪獣扱いするなよ。
 人が小さくなったのは事故だし、先生は人を踏み潰したりなんかしないよ。
 ちゃんと建物だって元に戻してくれてるだろ?」
「人が死んでないのは、死体を出してないってだけだよ。
 行方不明者が何人出てると思ってんだよ、山田先……山田が来てから」
「いい加減怒るぞ。何がそんなにニーニェ先生のことが気に入らないんだよ」
「何が、って」

 信じられないというような目で、羽田が僕を見る。ためらいのあとに言葉が吐き出された。

「おまえのお母さんとお父さんもまだ見つかってないんだろ!
 どうかしてるのはお前だよ有川!」


 僕もなんというべきか、少しのあいだ言葉が見つけられないでいた。

「……だ、だって、あれは、事故で」
「事故でも、事故じゃなくても! 一緒だろ! いいか。逃げるぞ!
 明日そうなってるのが、おまえじゃないとは限らないんだよ!」

 強引に僕の手を引いて、羽田は桃色の夕焼けの下を走り始める。
 それに逆らう気になれなかったのは、羽田に力ではかなわないからか、
 変に拒むよりは一度好きにさせてやったほうがいいだろうという打算からか、
 はたまた羽田が、メガネの奥で涙をにじませていたからか。

 ねえ羽田、それにニーニェ先生。
 生きている価値も意味もないような僕に、どうしてこんなにこだわるの?

 そう背中に問いかけることはしなかった。
 答えが返ってこないと知っているから。
 踏切を越えて、どこまでもどこまでも僕たちは走っていく。
 今にして考えれば、どうして電車のような交通機関を使おうとしなかったのか。
 というか、鉄道が動いていないことに疑問を持てないでいる時点で
 ニーニェ先生を出し抜こうなんて話は、まさに机上の空論だった。

 ちっぽけな僕たちは、信じたいものしか信じることができない。
 箱の中のアリは、盲目のようなものだから、信じたいものを選ぶことすらできない。

「なんだ、ここ」

 走り続けて、街の端。僕と羽田は、呆然としていた。ピンク色の平原が広がっている。
 僕たちの頭上に広がっている空と同じ桃色だ。
 触ってみると、のっぺりとしているのがわかる。まるで3Dソフトの、作っていない部分のようだった。
 セミどころか、僕たち以外のどんな生き物の気配もしない。
 ここには生命がない。

「なあ」
「ん」
「空って、本当は青くなかったっけ?」

 言われてみれば、そんな気がする。
 いつからか、この街を覆う空は、朝も昼も夜も、ずっとピンク色だった。

「行こう」

 羽田はふたたび走り始める。僕もそれに続く。羽田に促されるでもなく、僕もそうしたいという気持ちになっていた。
 羽田のような確固たる目的意識が宿ったわけではない。果てがあるともわからない旅。

「これ、『はいスケ』だよな」
「はあ?」

 まあ、はいいろランドスケープとはぜんぜん違うんだけど。
 はいスケの舞台は灰色の街だし、旅をしているのは二人の女の子だし。

 でも、最後に破滅が待っているのは同じだ。

 どれだけ走っただろうか。ももいろのランドスケープは、終わりを迎える。文字通りに。
 唐突に直線で区切られている。足元に垂直にのっぺりとした断崖が広がっている。
 視界は霞がかっていて、どれぐらいの高さがあるのかすらもわからない。
 
 どこかからか、生暖かい風とともに、甘酸っぱい香りが漂ってくる。
 いつまでも嗅いでいたいような、蠱惑的な香り。
 どこかで覚えのある香り。

「出られない、ってこと?」
「……」
「……」

 戻ろうか。そう切り出そうとして。

「ほんと、有川ちゃんと羽田くんって、なかよしだよね」

 ニーニェ先生の声が、なにもないはずの空から降ってきた。

「わたし、ピンクが好きでね。髪の色がそうだからかな。
 壁紙とか机とか、全部ピンクで統一してるんだ。素敵でしょ?」

 ふふ。やっぱりな。解釈一致、ってやつだ。
 でも、どうして壁紙や机の話をしはじめるんだろう。

「ねえ有川ちゃん」

 今度は声は後ろから響いた。振り向けば、ニーニェ先生が僕たちと同じ尺度で佇んでいる。

「せんせーね、有川ちゃんのことが好き」

 まるで羽田なんて見えていないかのように、つかつかと僕に歩み寄ってくる先生。
 今は僕なんかよりも小さいというのに、不思議な威圧感がある。
 伸びた指がとんと僕の胸を突く。
 ひぅ、と声が上がった。
 背伸びした彼女の、顔が近い。

「ねえ、有川ちゃん。せんせーに、踏み潰されたい?
 お父さんと、お母さんみたいに」

 尖った八重歯を見せて笑う。紅い口内も見えた。
 教室の窓に近づいた唇を思い出す。
 ずっと見ていると、まるで自分がその紅い洞窟の中に落ちていくような錯覚にとらわれる。
 残酷なことを言われているはずなのに、どうしてか胸が高鳴る。

「僕は、踏み潰されたく……ないです」
「どうして?」
「だって、踏み潰されちゃったら、あなたの特別には、なれないから」

 きょとん、としていたが、数秒後、にへらぁ~~と笑う。
 ほしいものを買ってもらったときの、こどもみたいに。

「せんせーはね、有川ちゃんのこと、欲しかったんだ。
 だから、まず、街ごと有川ちゃんを捕まえることにしたの」

 言葉が意味を置き去りにして、耳を通り過ぎていく。

「それから、有川ちゃんの持ってる全部を奪おう、って思ったの」

 陶然とした声。ピンクジルコンの瞳が、まばゆく輝いている。

「そうしたら心も身体も、せんせーのものに、なるんだよ」

 視界の端で羽田が叫んでいる。逃げろ、とか、離れろ、とか。

「べ……別に、そんなこと、しなくたって」

 僕の家の上にストラップシューズを乗せて、
 楽しそうに笑っているあなたと、目が合ったときから、僕は。

 どん、とニーニェ先生の小さな身体が突き飛ばされる。羽田だ。
 そうして僕の手を引いて、また走ろうとしている。
 断崖とは反対の方向。

「ごめん、羽田」
「なんだよ! 謝るな!」

「もう、君とは破滅できそうにない」

 え、と叫んだ顔の形のまま羽田の表情が固まる。
 それから、僕よりも背の高いはずの羽田が、いつのまにか僕を見上げていた。
 次に幼児ぐらいの身長に。次に瞬きしたときには、ネズミのような大きさに。
 縮んでいた。

 ホーカス・ポーカス

 呪文を唱える声がしていた。
 アリの大きさになって、僕の足元から、絶望の表情で見上げている、羽田がいた。
 いや、絶望の表情かどうかなんて、僕には小さすぎてわからないけど。
 後でニーニェ先生がそう言っていたのだ。

「はーいっ。またこれで有川ちゃんのもの、奪っちゃったねっ」

 ウキウキした様子のニーニェ先生が、僕の腰越しに、羽田を覗き込んで見下ろす。

「……別に、僕のものじゃないですけど……」

 もっと気の利いたセリフは言えないのだろうか。情緒がないなんて人のことは言えないなあ。
 羽田。お前、ニーニェ先生に直々に小さくしてもらえるなんて、ちょっとうらやましいよ。

「有川ちゃんも小さくされたかった? 小さくされてみじめにペットになりたかった?」
「僕の心を読まないでください、カジュアルに」
「それとも小人をペットにしたい? 飼っていいよ。そいつ」
「…………嫌です」

 受け答えが僕の声で、僕の預かり知らぬ仕組みで、交わされる。
 足の下のピンク色の大地はあまりにも確かなのに、ババロアのように不確かで。
 正解のないところに、来てしまった。
 どう答えれば、先生は褒めてくれる?
 それとも、叱ってくれる?

「有川!」

 まさに蚊のささやく、小さい声で羽田が叫んでいた。

「お前って黒いパンツ穿いてたんだな!」

 じゃあせんせが踏んじゃお、と。
 ニーニェ先生が僕の前に回り込んで、ストラップシューズを振り下ろすと、
 あっけなく羽田の姿は消えた。

 その小さな小さなストラップシューズを、ずっと凝視していた。
 数分、あるいは数時間もの間。
 もっと幼い頃からずっといっしょにいた、羽田の姿と声を……きっとそれ以上のものを消してしまった、靴のことを。
 喉の奥がからからに乾いているのを、感じていた。

「先生……」
「ん? なに」

 やっと言葉をつむぐ。

「羽田、最後なんて言ってたんですか? 聴こえなくて」
「ん~と」

 ニーニェ先生はちょっと考える素振りをしてから、僕のプリーツスカートを手でべろんとめくった。

「ほんとだ、黒だ~」

 ……やめてください。
 手をぺし、っと払う。

「いつもせんせのパンツ見てるんだからいいでしょ」
「あれ見てるっていうか露出につき合わせられてるだけじゃないですか!!」
「人をヘンタイみたいに。この生意気アリンコめっ」
「対象がアリでも人でも露出ヘンタイなのは変わりませんっ」
「正論を言うなんて、かわいくないぞっ」

 どんどん、と拳で軽く僕のお腹を突いて、じゃれついてくる。
 まるで普通のこどものように。
 地面に目を落とす。
 何もなかった。
 誰もいなかった。
 誰かが生きていた、その痕跡すらも。
 桃色の地表に薄らいで溶けてしまったのだと、妄想してしまうぐらい。
 あるいは、僕が認識することを拒絶していただけかもしれない。

「僕のこと好きだって言うなら、……他のやつに、下着なんか見せないで、くださいよ」
「わかった。パンツの奥は有川ちゃんだけに見せるねっ」

 街に戻ろっか~、と軽い調子で僕の手を引っ張って歩き出す。
 ニーニェ先生のちいさな歩幅に合わせて、続く。
 ただ、彼女の愛を、受け入れるしかなかった。
 それがしあわせなんだと、思うことにした。
 他に選べるものは、きっとないのだと。

「あ、これ『はいスケ』だな」
「なにそれ?」
「後で教えてさしあげます」

 先生は、いっしょに深夜アニメを観てくれるといいな。



(了)

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mikourian 2022/07/25 20:29

Ci-en始めました

はじめました。別所では牧浦名義で
サイズフェチ小説(大きい女の子とか男の子とかが出てくるやつ)書いてたものです。
月1~2本ぐらい出せるかなぐらいの志低い感じでやっていきたいです。
なんか締切とかないと平気で数年レベルでサボる人間なので……

めちゃくちゃ開発が遅々としているのですが
小人が三人ぐらいの男の子に囲まれてひどい目に合うノベルゲーム
『ネフィルの子どもたち(仮)』も作ってたりするので
そちらの進捗も出すかもしれません。

とりあえず用意しておきましたが
実際に有料プランを用意するのは来月以降になると思います。
今用意しても虚無になる可能性が高いので。

ヘッダーのニーニェ(ももいろランドスケープの登場人物)のデザインは
Picrew『よっこら(改)』で作ったものをもとにさせていただいております。

よろしくお願いします。

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