癒し処、ゆるりらっくす番外編SS 吉瀬湊のデート前の一幕
執筆:あさりよな
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とっぷりと日が沈んだ夜の街。
癒し処、ゆるりらっくすから落ち着かない様子の一人の女の子が出てきた。
短い髪がよく似合う、端正な顔立ちをした中性的なその子は、ゆるりらっくすのうさぎさんの一人だった。
吉瀬湊。いつも余裕があり、包み込むように紳士淑女を迎えてくれる彼女に、今は不安そうな顔色が窺える。
帰宅を急ぐ人々がごった返す駅前を足早に抜けた彼女は、そこからすこし離れた場所にある喫茶店の扉をくぐって、カウンターの席へと腰を下ろした。
「はぁ……」
スマホを取り出して時間を確認した彼女は、分かりやすいため息を一つ吐き出し、肩を落とす。
(あぁ……もう、せっかく外で会えるっていうのに……今日に限って大忙し……帰る前に髪のセットもお化粧もしっかり直せなかった……)
ゆるりらっくすのうさぎさんの中でもとりわけ人気の彼女ではあるが、今日はいつにもまして多くの人たちを相手に、癒しのマッサージを施す一日となった。
何にもない日であれば、誰かを癒すことを喜びとしている彼女は満足して一日を終えられただろう。だが、今日に限っては心の余裕がなくない。
普段はスマートで、誰をも先導するような立ち居振る舞いを取る彼女の、内に秘める乙女な一面を知る唯一の存在である『彼』とのデートの日である、今日に限っては。
「はぁ……」
再び、今度は先ほどよりももう少し深いため息が漏れる。
(変な感じになってないかな……)
「お客様?」
ふと、そんな彼女に声が掛かった。
うつむいていた湊はハッと顔を上げると、柔らかな笑顔を浮かべる店主と目が合った。
「お客様、お飲み物は何になさいますか」
「っ! すみません……すこし考え事をしていて。えっと……」
目の前に立てかけられていたメニューに手を伸ばした湊は、表に書かれていたドリンクメニューに目を走らせた。
ブラックコーヒーに、モカ、紅茶、ミルクティーなど……オーソドックスのメニューから始まり、フルーツ系のジュースも幅広く取りそろえられている。
「それじゃあ、この……」
オレンジジュース、と言いかけて、指が止まる。
その文字に、赤い線が引かれていたのだ。
さわやかな酸味で少しでも気持ちをすっきりさせようとしていた湊は言葉が詰まった。
ほんのすこしの逡巡だが、店主は湊の頼もうとしていたものが、オレンジジュースであることに気がついたようだった。
「申し訳ない。今なかなか買えなくてね。もし決めかねているなら、私のオススメなんてどうかな。あなたさえ良ければ、ですが」
「オススメ、か……うん、お願いしようかな」
他に何か、で悩むようなメニューもなく、考えてもいなかった湊は店主の優しさに甘えることにした。
「ありがとうございます。では……」
承諾の声を聞いた店主は一つ頷くと、手際よく準備を始めた。
カウンターのすぐ側面にある調理場に、板チョコレートと牛乳、シナモンパウダーが並ぶ。
お任せとはいえ、オレンジジュースを飲みたいと話にまで出した湊はすこし意外そうな顔になったが、背中を向けている店主にはそれを見て取ることができない。
よどみない動きで、店主は取り出したチョコを、ザクザクと刻んでいく。
細かすぎず、大きすぎもしない大きさになったチョコを、包丁でさっとかき集めると、小さなボールへと移して、さらにそれを湯煎にかけた。
チョコの香りがさらに強く店内に広がっていく。その香りを嗅いだ湊は、それだけでもなんだか幸せな気持ちを抱き、先ほどまで感じていた切迫感が消えていくのを自覚した。
しっかりとチョコが溶けたことを確認した店主は、次に小鍋に牛乳を入れ、温めていく。
適切な火加減で沸騰しないギリギリの温度まで温めたところで、濾し器を使い丁寧にチョコを溶かし入れていった。
真っ白だった牛乳が、徐々に茶色く染まる。溶かしたチョコが全て混ざり合う。
それを、大きめのマグカップに注ぎいれ、さらに表面を覆うようにシナモンパウダーが振りかけられたら……
「ホットチョコレートです」
湊の目の前に、ほわりとした湯気があがるホットチョコレートが提供された。
「ありがとうございます。いただきます……」
暖かなマグカップを手に持って、火傷をしないよう注意を払いながら一口、口に含む。
「あっ……美味しい……」
その一杯のホットチョコレートの温かさは、緊張していた彼女の気持ちを、じんわりと溶かしていった。
もう一口、今度はしっかりと口内で香りと味を楽しんでいく。
カカオの独特な香りと牛乳の柔らかな味わい、そして甘味が同時に広がり、シナモンの独特な味わいが後から届く。甘さと刺激が口の中で交わり、幸福のハーモニーを奏でていた。
「は、ふぅ……」
力が抜けてしまうような温かさと優しさに、湊は思わず吐息を漏らした。
先ほどまで悩んでいた事が、溶けて消えていくような感覚を味わって、表情がほころんだ。
「ああ、よかった。なんだか不安そうなお顔でしたので。少しでもリラックス出来る物をご提供させていただいたんです」
「そ、そんなに顔に出てました? は、恥ずかしいな……」
湊が顔を赤らめ、取り繕うように手ぐしで髪の毛を梳かす。
――チリリン
と、そこに涼やかな鈴の音色が響き、店の中に新しい来客の訪れを知らせた。
「あっ……!」
とっさに視線を流した湊は、そこに待ち合わせの人物がいることを認めると……普段は誰にも見せない、少女のような微笑みを浮かべるのだった。
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