何らかの小説(仮題)
※ヒロインの氏名や外見・内面描写が詳細に書かれています。
紅差しの作品を自己投影型で楽しんでいただけていた方には、厳しい内容かと思いますので閲覧お控えいただいた方が吉です。
「既存のヒロイン情報は把握しており、男女カプ厨目線で見てる&地雷も大して無いので多分大丈夫」という方のみご覧いただければと…
7月24日、水曜日の朝。
スマートフォンからアラーム音が流れ始め、百合の意識が緩やかに覚醒した。
ゆっくり上体を起こし、髪を撫でつけ、辺りを見渡す。
寝室に並ぶ二台のベッド。確か深夜に玄関が開く音を聞いた気がするが、そこに夫の姿はない。
スリップ一枚の姿のまま、新築の匂いが微かに残る階段を降りていく。
案の定、リビングのソファーにスーツ姿で熟睡している夫を見つけ、そっとその体を揺らした。
「圭くん。おはよう」
「んっ……、あーーーーー……もう朝……」
顔を擦って呻き声をあげる夫。
鼻筋の通ったハッキリとした顔立ちに、ジェルでセットされていた前髪がぱらりと落ちる。
家に帰り着いて即寝落ちしていたのであろう。徹夜明けの口臭が少し鼻につく。
「昨日も国会対応だったんだっけ」
「あ〜〜そう、あのババァマジで……。
くっさ、香水の匂い移った。ほら」
ソファーの背に乱雑に掛けてあったジャケットを押し付けられる。
百貨店のコスメ売り場で充満しているような、漠然とした香水の匂いがした。
それが本当にテレビで見る国会議員の女性の香水のものなのか、はたまた実は別の女のものなのかは、わからない。
そういえばこの前は『室長に麻布のラウンジに連れていかれたけど、ブスばっかりだった』とくさしていたな、と思い出す。
『ババァ』だとか『ブス』だとか、人に対してそんな言葉、付き合っていた頃は聞いたことがなかった。
いつ頃からだっけ。結婚して、一緒に住むようになって……と百合がぼーっと考えている横で、圭が立ち上がる。
冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注ぎ、億劫そうに声をかけてくる。
「このスーツ、クリーニング出しといて。
後あれ、土曜に大学の時の友達の結婚式あるっつったじゃん。
ご祝儀用意しておいてほしいんだけど。コンビニで売ってる袋でいいから中のピン札と一緒に。
名前も書いといて。今日やる事ないだろ?」
「わかった。後でやっておく」
不動産会社勤めの百合は、毎週水曜日と日曜日が定休だった。
今日は一日ゆっくりしようと思っていた予定に『クリーニング屋に行く』と『郵便局に行く』がセットされる。
カーテン越しに窓の外を見やる。まだ8時前なのに、すでに灼熱の太陽光が照りつけている。
浴室の扉が閉まる音がして振り返ると、キッチンのカウンターの上には、一口だけ飲み残した麦茶のグラスが置かれていた。
『キツい言葉を使わないでほしい』とか『飲み残しを放置しないでほしい』とか、前にそっとお願いをした事がある。「母親みたいでキモい」と言われたっけ。
とりあえず百合が圭の言うことに素直に従っていれば、至って平和なのだ。この家は。
そういう男であることを見抜けないまま結婚したのは自分の責任だし、圭だって、粗雑で傲慢な男だが、自分を好いてくれてはいるというのは、理解していた。
だから、何も問題はなかった。
普通の暮らしをしている。
***
日傘を差し、日陰を選びながら歩いても、真夏の気温は容赦なく人間の体力を削ってくる。
クリーニング屋へ夫のスーツを預け、郵便局で祝儀袋を買い新札をおろし、スーパーで少しの食材を買って帰路についていたその時……百合の自宅がある区画の角に、フラッとうずくまる人影が見えた。
一目でわかった。近所のマンションに住んでいる男だった。
声をかけるべきか迷いが生じたが、百合はおそるおそるその男に近づいていく。
「あの……大丈夫ですか」
声をかけられて、顔を上げる男。
やはり合っていた。
すらりと手足の長い体躯。ゆるくウェーブがかかり、鎖骨の下までウルフヘアーっぽく伸ばされた艷やかな黒髪。
誰もが一目見たら忘れないであろう、異様に美しい顔立ち。
申し訳無さそうに口元に手を当て、男は口を開く。
「すみません、少し目眩がして……」
低く、柔らかな声色。百合は戸惑いつつ、男に日傘を傾ける。
「熱中症とか……?」
「そうかも……。すみません、そんなに悪くはないと思います」
自分でも困ったような表情をして、ふーっと息をついて、立ち上がる男。
男のマンションは、ここから5分ほど歩いた場所にある。
百合と圭が、駅まで歩く道のりにある古いマンション。
男は毎朝そこのベランダで、本を読んでいた。
本当に『そんなに悪くない』のなら、歩いて帰れない距離ではないだろう。
だけどこのまま放置して倒れられでもしたら、と不安な思いに駆られる。
百合は葛藤しながら、それでも、どこかこの男に感じていた柔和な雰囲気から漂う善性を信じて、
「うち、そこなので玄関先で少し休んでいかれますか」
と告げた。
*
「……あまり気分が良いものではないですよね。すぐ出ていきますので」
「いえ、無理なさらずで大丈夫ですよ。あのこれ、良かったら麦茶……」
「あ……すみません、ありがとうございます」
玄関に膝をついて、氷の入った麦茶のグラスを差し出す百合。
男は軽く会釈をしてそれを受け取る。
こういう時の正しい対応の仕方が、わからない。
客人として考えるなら、リビングにも上げず玄関先に座らせているのは失礼だろう。
ただこの男は百合と何ら接点のない人間で、かつ、成人男性である。
それが例えば……他の男性だったなら。声かけすら、用心して、していなかったかもしれない。まだ若い百合にとっては当たり前の自衛であろう。
じゃあ、何故、この男には声をかけたのか。
あまり考えたくないような思考が巡ってくる。
男は男で黙っていて、沈黙に耐えかねて、百合は男の姿をそっと観察した。
涼しげな麻の開襟シャツにゆるやかなワイドパンツ。
グラスを持つ左手の中指に、指輪……のようなものが見えた。
「……刺青、お綺麗ですね。花の蔦……?」
ぽつりと漏らされた百合の言葉を受けて、顔を向けて苦笑する男。
「あぁこれ?恥ずかしい、若気の至りですよ。
手元なんて隠しようのない場所に入れちゃったから、まともな場所で働けなくなっちゃって」
男はやはり百合が想像していた通りに、一見異質な容姿でありながら、柔和で人が良さそうな微笑みを浮かべて、すっと左手を見せてくる。
長い指をぐるりと囲む花の蔦模様の刺青。
「……普段、何されてるんですか?」
「僕ですか?クリーニング屋です。北池袋の方で」
「クリーニング屋さん」
「屋さん(笑)」
百合の言葉尻を取ってくすくす笑う男。
「えっ……おかしいですか?」
「いや、子供みたいな言い方だなって思って」
百合をからかうように目線を寄越してくる。
おっとりとした雰囲気ながら、愛嬌のある返しに百合の緊張が溶け、会話が続いていく。
「……北池袋って、前に少し歩いたことがあるんですけど。
朝だったんですけど、あの……かなり特殊な町ですよね」
「あぁ、治安悪いですよね」
「冬なのに、半袖と裸足でふらふら歩いてる男の人とか居て」
「あーそれはクスリやってる人ですねぇ。異様に汗かく体質になるんですよ。
その状態で外に出歩くくらいおかしくなってるなら、流石にすぐ捕まってると思いますけど」
眉をひそめて苦笑する男。
「あとはホストとか、風俗の寮とか、外国系のヤクザとか、そんなのばっかりなので……危ない目に合わなくて良かったですね。
お姉さんみたいに綺麗な人は、近寄らない方がいい所ですよ」
「ゃ……あの、こちらこそ、お気をつけて……」
「はい(笑)ありがとうございます」
一体どんな世間話をしているんだ、と困惑しつつも、納得感が出てくる。
割と、想像していた通りだった。
築年数の古いマンションに住んで、毎朝ベランダでゆっくりと過ごしている男。
長い髪に、ゆるい服装に、まずまず会社勤めではなかろうという雰囲気が濃厚に漂っていたから、少し刺青が入っていたり、会話の内容が若干浮世離れした方向に進んでいくのも、『っぽさ』がすごく……すごいな、と百合が考えていると、男がグラスをお盆の上に戻した。
飲み干されたグラスの中で、残った氷がカラン、と音を立てる。
「僕、大丈夫そうなのでそろそろ行きますね。
親切にしてくれてありがとうございます」
「あぁいえ、大丈夫そうなら良かっ……」
軽く会釈をして立ち上がろうとした男に合わせて、百合も立ち上がり……かけたところで、ずっと正座をしていた足にうまく力が入らず、グラッと体が揺れた。
反射的に男の腕が、百合の背中を支える。
「おっと」
「っ!す、みませ」
咄嗟に大きな声が出る。半ば抱き抱えられるような形になった体勢に動揺し、体が萎縮して固まる。
そのまま1秒、2秒、……と、沈黙が流れた。
回された男の腕の体温が背中から伝わってくる。
百合は、顔を上げる事ができない。
「あの」
辛うじて呻き声を漏らすのと同時に、男の頭がふわりと近づく気配がした。
「いや、あの……待っ……」
唇が塞がれ、百合の情けない声が遮られる。
何をしている?これは、
「っ……!」
男の唇が柔らかく百合の唇を食む。
百合が後ずさるよりも男の体が迫り、壁と男の体にぎゅっと押し込められる体勢になっていく。
突然の出来事に百合の思考が停止したその時、
パシャ、と電子音が玄関に鳴り響いた。
「っ……!?え」
「ン……。あー、ちゃんと撮れてますね」
男が手元のスマートフォンに視線を落とす。
液晶画面には、確かに唇を重ねている百合と男の姿が収められていた。
百合の体からザァッと血の気が引く。
「何で撮ったんですか……!?それ、消してっ……!」
「ごめんなさい、ちょっと魔が差して」
反射的に男の腕を掴むが、男はスマートフォンをさらっと自分のポケットの中に隠してしまう。
愕然とその顔を見上げると、色素の薄い琥珀色の瞳が、満足そうにこちらを見下ろしていた。
「梶原さん。僕のこと知ってますよね。
毎朝僕のマンションの前通る時に、一瞬視線来ますもんね」
百合の苗字をはっきりと告げ、柔らかく、楽しそうな声色で続ける男。
「先週くらいでしたっけ。駅前のスーパーでも出くわしましたよね。
あの時なんだか旦那さんが機嫌悪そうでしたけど、大丈夫でした?」
可愛いこぶるように、首を傾げる。艷やかな黒髪がふわりと揺れる。
「別にそんな調べたりしてるわけじゃないですよ。
ただ、ご近所に綺麗なお姉さんがいるなーって。
少しこちらのこと意識してそうだったから、喋ってみたいなって思っただけです」
『喋ってみたいなと思った』から?
百合の家の傍で、百合が近づいてくるのと同時に、ふらりと蹲った男の姿を思い返す。
「こ……困ります!私あの、そんなつもりじゃっ……」
「そうですね。これは完全に僕の強○猥褻ですからねー。
良かったら画像お渡ししますよ。
『家に男入れたらいきなりキスされた』って旦那さんに相談していただいて、警察に持っていくなり何なりしてもらっても」
つらつらと繰り出される男の言葉が理解できない。
出来るわけがない。
『男を家に入れている』時点で罪を犯している。
その罪を告白して夫に激怒される気概が百合にあるのか。
男はそれを理解しているような表情で、ふわりと告げてくる。
「友達になりません?
たまにお昼に会ってお茶するくらいの、お友達」
「ダメです、それは……」
「……そっか。じゃあごめんなさい、僕『いきなりこんな失礼なことをしてしまいました』って旦那さんにお詫びしないとですね」
「ち、がくて……!それもダメじゃないですか……!!」
悲鳴に近い、百合の声が漏れる。
男の腕を強く掴むが、男は微動だにしない。してくれない。
「梶原さん。ですよね?表札に書いてあった。
下のお名前は?」
10秒、20秒、沈黙が流れる。
玄関の外から、道向こうの国道を走る救急車の音が僅かに響き、遠ざかって消えていく。
男の腕を掴んでいた百合の手がふらりと降ろされ、か細い声が漏れた。
「…………。
百合……です……」
「へぇ。百合さん……」
満足したように、ふふ、と笑いを漏らす男。
「高山です。これからよろしくお願いしますね」