遠蛮亭 2023/03/18 20:58

23-03-18.「黒き翼の大天使」再掲-プロローグ

えー……、
一度上げたものをもう一度上げなおすというのはどうかと思うのですが……、フォロワー様も増えたことですし「くろてん」という作品世界がわからないというかたにはまずこれ、小説版を読んでいただくのが一番早いと思うのです。なので自分の中にある禁を破り、今回からまた「くろてん」を再掲させていただこうかなと思います。以前読まれた方は蟲で構いませんので、御新規の方で興味がある方だけ読んでくださいませ。それでは、アルティミシア9国史赤の章-黒き翼の大天使。はじまりです!

プロローグ.1.銀の髪の少女
春の宵。
アルティミシア大陸九大国の一、暁天(アカツキ)皇国京師(けいし=王都)太宰(だざい)の夜は賑やかだった。商店は夜更なお蒸気灯をともし、繁華街には太宰市民、異邦人問わぬおびただしい人の波。娼館街からは男女の嬌声がひきもきらず。奇術師が鳩を出せば歓声、手品師が失敗しては罵声。家族連れがちいさな子供を街頭の似顔絵描きの青年の前に座らせれば子供は緊張に顔を赤くし、また別の場所ではカップルが最新科学の精髄、カメラに写された写真白黒におれってこんな顔だっけ?わたしもっとかわいくない? と首をかしげる。スリが老婆から財布をひったくり、そのスリを追いかける城兵は鎧の重さに負け、荒い息を吐いて膝をつく。

物流は右から左。武器が土地が物産が不動産が金が銀が米が酒が宝石が、そして冒険者たちが持ち帰った用途不明の【遺産】の数々が、そこかしこ大小の店で売買される。競り合う越えもまた、やむことはなかった。

世界でもっとも繁栄した都市……そう呼ばれるのもあながち、アカツキ国民の自負と誇張のみのことではない。実際に900万の人口を有し、それらの民を餓えさせることなく養っていくだけの国力を有すると言うだけで、この国の巨きさは知れる。九列国のうちほかの諸国の国力は人口500万が精々で、しかも公共の福祉に国財を投資するだけの余裕がある国は精々南西の【神国】ウェルス、北西の【商国】ヴェスローディアぐらいのものだ。唯一国力においてアカツキをしのぐ、大陸最央の国【央国】ラース・イラでさえも、南の【法国】クールマ・ガルパからの難民すべてを受け入れるだけのキャパシティはない。すなわちアカツキは富める国、豊かな国なのだ。

当然、もともと豊かだったわけではない。これは先代である33代皇帝、梨桜帝(りおうてい)こと暁重國(あかつき・しげくに)の手腕に拠るところが大きい。梨桜帝はそれまでの旧態依然たる重農主義国家であったアカツキを、工業主義、商業国家へと一転させた。国政の転換に関して貴族たち……ことに古い家であり王家の傍流筆頭である覇城(はじょう)家からは強い諫めと反発の声が上がったが、梨桜帝はそれらを無視して断行、自ら工房に足を運び、また諸国の商人らを招き歓待して通商ルートを開拓した。

幸いなことにアカツキには貿易に強い物産(ものなり)があった。鋼と武器である。直北の桃華帝国(とうかていこく)と直西のラース・イラ、この好戦的な二カ国と常に緊張状態にあったアカツキでは武器作り……鍛冶(かじ)と鍛鉄(たんてつ)がさかんであり、ことに刀剣の冶金(やきん)技術と象嵌(ぞうがん)の細工はまさしく工「芸」品、と呼ぶに相応しいものだった。実際の武器としてもさることながら、好事家のコレクションとして高く売れた。

そうして手にした巨額の金を、梨桜帝は私にせず惜しみなく国政に投資した。祖帝シーザリオン帝紀1798年、梨桜帝は諸外国に先駆けて近代総合病院とそれに併設される医学校を創設、それまで心得のある個人個人の専門技術、一子相伝の秘術であった医学を、体系付けされた学問として広く開いた。その功績は高く評価されてよい。また治水工事や商工業への投資は勿論、商業重視に舵を取りながら農村を切り捨てることもせず、かれらにも手厚い福祉の手をさしのべた。ラース・イラの北、最北端の国【英国】エッダにある生活保護の制度を導入したのも梨桜帝である。

そうして国の発展につくした梨桜帝が崩じた。1799年4月7日、68歳だった。あとを継いだのは継嗣暁政國(あかつき・まさくに)、今日はその即位式当日であり、本日付で政國は「永安帝」という冠を被る。即ち今夜の騒ぎは祭りの無礼講であり、賑わい盛んな太宰の町並みがより活発なのもその為だった。

が、町の賑わいとは裏腹に、廷臣たちの顔は暗い。世間には明かされていなかったが、永安帝という男ははっきりいって痴呆だった。見た目にはよい。恰幅よく、美髯で、目元は凜々しい。父帝の治世が長きにわたったためすでに中年であることを除いてはそこそこの美男と言っていいが、問題は中身である。頭が鈍く、そのくせ利にはさとくひがみっぽく、小人であり、荒淫と言っていいレベルの好色ケチで癇癪(かんしゃく)持ちであり、執念深く、すぐ臣下に暴言を吐き、暴力を振るう。まったくもっていいところがなかった。

せめて国主として国を率いる才能があればと言うところだが、皇太子時代に泊付けで出征した戦で……相手は桃華帝国でもラース・イラでもない、国境周辺に住まう草原国家テンゲリの、その一領邦だった……圧倒的国力差で戦術など無く一揉みに押しつぶせるはずであり、というよりそれが強者の戦術というものである……その戦で、格好よく勝とうとして下手に策を弄し、かつて西方の高名な将軍がなした困難な作戦を模倣、敵を包囲殲滅しようとするも高度な運用の駆け引きが出来るはずもなく失敗、翼が伸びきって本営が丸裸になったところを窮鼠(きゅうそ)となった敵の猛突撃に粉砕され、若き指揮官ハジルの水際だった用兵もあり目付の元老・元帥殿前都点検こと本多馨(ほんだ・かおる)は陣没、梨桜帝が息子のために用意した20万の軍はほぼ全滅し、政國自身も捕虜となった。梨桜帝がハジルに多額の財物と自らの土下座をもって釈放を嘆願しなければ、今、政國は永安帝として即位することなどできなかったはずである。

にもかかわらず政國……永安帝はまったく懲りていなかった。彼に言わせれば「あのときの俺は完璧だった。命令通りに動かなかった兵が悪く、俺の意を正確に伝えなかった将が悪く、なにより俺の許可無く反撃してきた敵が悪い!」ということになる。永安帝とはそういう人間であり、それが王城の人々には身に染みているため、彼らはアカツキという国家の行く末に薄暗いものを禁じ得ない。

「王に、国主さまに面会を! 世界の危急なのです!」

夜二更、凜々しくも可憐な声が、夜気を裂いて城下に響き渡る。それは一種の神韻(しんいん)を帯びた声。どうしようもなく聞くものの耳を惹きつける、暴力的なまでの吸心力を持った声だった。

「彼女」に最初に相対したのは城門を護る名もなき兵士であり、それゆえに長船奉也(おさふね・ともなり)という名は、世界の趨勢になんら寄与したわけでもないが長く青史に残ることとなる。

京城、柱天(ちゅうてん)の正門・白楼門(はくろうもん)前。長船の前に進み出た人影は、頭をすっぽり覆い隠していた青黒いフードをばさっと掻き上げ、素顔を晒した。

美貌である。

年の頃なら15、6。つややかな長い銀髪を三つ編みにして肩にかけ垂らした、青い瞳の少女だった。肌は透けるように白く、身ごなししなやかで優美、どう盛ってみても胸が薄いのは見るものによってプラスだったりマイナスだったりするだろうが、まずもって100人が見て100人とも美少女と断ずるであろう容姿の持ち主であった。

背は低く、華奢で、可憐の一言に尽きる。まるでエッダの伝承にある妖精(アールヴ=エルフ)のようだが、妖精のように耳はとがっていない。目つきはややつり目で勝ち気なふう、ローブの下に来ているものはおそらく紺色基調の修道衣。門衛歴20年の51歳、各国貴賓の案内を何度もこなしてきた長船にはわかるが、ウェルスの上級神官がまとうものだ。

その少女に息がかからんばかりの距離まで詰め寄られて、長船は動揺した。

「な、なん、……だい……お嬢ちゃん?」

思わずどもる。目の前に立つ、自分の肩ほどの背丈もないいとけない少女。その威圧感に、完全に呑まれていた。

「わたくしはルーチェ・ユスティニア。神国ウェルスの【聖女】アーシェ・ユスティニアの妹です。先ほども言いましたとおり、緊急の用件があり罷(まか)り越しました。どうか陛下にお目通りを!」

ルーチェと名乗った少女は、掴みかからんばかりの勢いで長船にくってかかる。大きくくりっとしてはいるがやや勘気の強そうな瞳を炯々と輝かせ、ほとんど睨むように長船を見上げた。

とはいえだ。

城に、ましてや皇帝陛下に会いたいと言われて、はいそうですかと通せるはずもない。一兵卒の権限でどうなるものでは当然無いのだ。それにこの手の手合いが言う一大事が、客観的に見て本当に火急の用事であるという可能性も、この上なく低い。

よって。

これはまあ。どう追い払うか、だな……。

長船はそう結論づけ、この銀髪少女をどうあしらうかに思いを巡らす。

しかし機先を制したのはルーチェ。

「わたくしを、追い払う算段ですか。……浅薄(せんぱく)! あなたのその判断、きっと世界を危機に導きます!」
心を読んだように先んじる。びしりと指を突きつけ、自信満々に言い放つルーチェ。その声に詰められた力の強さ……声量とか、そういうことではなく、断固とした意思力……に、衛兵歴20年のベテラン、最近は帰るたびカミさんの愚痴を聞かされ、稼ぎの少なさをなじられ、せっかく入れた軍学校を勝手にやめて「神官になる」と宗教街区のパンフレットを読みあさる息子に手を焼く、それでも夜更けに一杯やるのを楽しみに生きている、善良かどうかはさておきまずもって平凡な兵士である長船奉也51歳は、新兵時代に教策(きょうさく)で打ち据えられたときのように震え上がった。

こ、こえぇ~……、なんだこのガキ、ホントに堅気か?い、いや、だがこで退くわけにはいかねぇ、誇り高いアカツキの軍人として、異人の小娘ごときに……!

ルーチェの強すぎる目力と言葉に乗せられる強制力に、長船は小柄な少女と目を合わせることも出来ず、屈しかける。なんとか軍人としての矜恃がかれを踏みとどまらせるものの、すでに内心、泣き顔であった。ルーチェとしては是非に中へ通してもらいたく、長船はいいからさっさと帰ってもらいたい。両者の意見は見事に平行線であり、そこを互いに譲れない以上、膠着であった。

そこにざりっと砂を踏む音。同時、長い影法師が夜の闇をさらに深くする。

「なにごとでしょう?」

硬質な声とともに現れたのは、クリームブラウンの三つ揃えを見苦しくない程度に着崩した、長身蓬髪の青年。年の頃はルーチェより10歳ほど上。25,6歳。身の丈は190センチを越え、ぶわっと広がる乳白色の長髪は肩まで垂れる。瞳は切れ長、やや病的な白さの肌に怜悧な姿貌、その怜悧な風貌とあいまってまとう雰囲気はまるでカミソリのごとしだ。少々悪役めいた苦みのある風貌ながら、またそこがいいと喜ぶ異性は多いだろう。その青年に向き直ると、ルーチェは一切の躊躇も物怖じもなしに口を開いた。

「この王城においてそれなりの地位ある方とお見受けします、わたくしはウェルスの聖女アーシェ・ユスティニアが妹、ルーチェ・ユスティニア。このたびは緊急かつ極秘の用件があり、どうかなにとぞ皇帝陛下にお取り次ぎのほどをお願いしたく!」

慇懃(いんぎん)かつ丁寧な、洗練された所作と語り口だが、その言葉通りに遜(へりくだ)っているかといえばかなりの傲岸ぶりである。これはルーチェの性格が悪いというわけではなく、そういう態度しか教わっていないためによる。

基本的にルーチェの役割=「聖女アーシェのスペア」であり、そのため大事な道具として丁寧に扱われはするものの、あまり世間と交わる機会もなく、そのため絶対的経験不足から世間知がない。ルーチェ自身それを疑問にも不自由にも思わなかったため、彼女の「聖女の妹」であり、特別に育てられたという背景を知らない人間からすればやたら偉そうに振る舞う小娘に見えてしまう。ゆえに。本質的に善良な少女なのだが、ルーチェ・ユスティニアはそういうところで損をしていた。

「ふむ……長船殿、でしたか?」
「は、はっ!?」

水を向けられ、長船がビクゥ、と敬礼する。それも無理はない話で、この青年は名を十六夜蓮純(いざよい・はすみ)、位階は「宰補(さいほ)。宰相補佐官の意であり、簡単に言えば宰相の事務官、秘書官に当たる。それも蓮純の場合は筆頭宰相、本多馨綋(ほんだ・きよつな)つきだ。蓮純自身の地位はまだそこまで偉いわけではないが、筆頭宰相は蓮純を信任してそれ以外の宰補を置いていない。官僚登用試験をくぐり抜けて宰補に任官されただけで有能なのは知れるが、有望でもあった。20年間軍務にあってひたすら門衛でくすぶっている長船とは、そもそものモノが違う。

「今、衛士の詰め所はあいているでしょうか?」
「は、はっ!現在ほかの人員は警邏巡回中でありますれば!……ということは、宰補さま、このガキの言うことをお聞きになるんで?」
「ええ、危急と称する話を無視したがために痛い思いをした、というためしは史上いくらでもあります。陛下のお耳に入れるかどうかはさておき、ひとまずすべて聞いておくべきでしょう……なにか問題が?」
「いえ、そういうことならなにも……」
「では、行きましょうか。ついてきてください、聖女様」
「訂正を。聖女はこの地上にたった一人、我が姉アーシェ・ユスティニアのみ、わたくしは【聖印】を授かったわけでもない一布衣(ほい)に過ぎません」

ルーチェはきまじめに訂正する。これとても余計な口だ。態度の硬さから、相手にけんかを売る風になってしまっている。だが蓮純は怒るでも眉をひそめるでもなく、軽く頭を下げて「それは失礼いたしました」と言うと、詰め所まで先導して余裕ある態度で椅子を勧めた。自分も自然な挙措であいた木椅子に腰かける。

「さて……ではお聞かせいただきましょう」
テーブルに手を置き、軽く指を組む蓮純。まるで女の手だな、とルーチェは思った。それくらいに蓮純の指は細く、しなやかで、およそ力仕事などしたことがないように見受けられる。冷徹で感情のうかがえない表情にも、ルーチェは好感を抱きづらい。とはいえ好悪の情で話をつぶすわけにはいかない、相手が宰補という地位ある人間なら隠す必要もない、一度固唾を呑み、のどを湿らせてからルーチェは語り出す。

「姉が、攫われたのです。……魔王オディナに」
それは簡潔で、そして凄まじく重い宣告。聖女が魔王に攫われる、そのことがどれほど世界のバランスをゆがめる意味を持つか、この世界における【聖女】の重きを知るものなら、瞬時に理解できる話である。

この世界は創世の女神グロリア・ファル・イーリスが創りたもうた。諸説あるが、龍神にして創世神・グロリアをあがめるウェルス法王庁、その総本山に伝えられる『創世記』にはそう記されている。創世の後、イーリスは霊峰の奥に身を横たえ、9大国を統べる9人の女神……主神を創造すると彼女らに地上の統治を任せ、眠りについた。以後数万年……あるいはそれ以上の……歴史の中で、イーリスに拝謁(はいえつ)叶った人間と言えば1800年前の【祖帝】シーザリオン、シーザリオン・リスティ・マルケッスス=ザントライユのみだ。女神イーリスの力の残滓(ざんし)、神力。それを使うことが出来るのは9人の主神と、さらに主神の被造物である陪神(神と言うより天使に近い)のみ。その例外が【聖女】たちである。たち、といっても役職としての聖女はウェルス神聖王国の法王庁が認可した聖女ただ一人だが、実際には神力の使い手はこの世界に皆無ではない。そもそもがルーチェとて神力が使えるし、それゆえの「聖女のスペア」だ。彼女らはなんらかの理由で神々の力を受け継いだとされ、各国において聖女として神聖視、崇拝される。ヴェスローディアの「11の戦乙女(ヴァルキューレ)」や、アカツキにおいては「齋姫(いつきひめ)と五位の姫巫女」らがそれにあたる。また、彼女ら以外にも微弱な神力を帯びて生まれてくる人間もすくなからずいる……が。

聖女の資質が顕現するのは基本的に女性のみ。

これは「完全存在」である女神の似姿として欠損遺伝子体である男が相応しくないとされるためと考えられているが、ともかくも普通男性で神力を使える人間は存在しない。千年以上前にまでさかのぼれば女神を犯してその力を強奪、現在の【驕国】クーベルシュルトの基をつくった「蛮王」ゴリアテなど何人かの例外はいるが、そうした特殊な例外を除いて男の神力使いは存在しない。ウェルスの法王もアカツキの大神官も、神祇官(じんぎかん)であり審神者(さにわ)ではあるが神力の持ちあわせはない。彼らが持つのはあくまで「霊力」であり、最高位の術士であってもその力の密度は神力に数等劣る。というよりここに明記しておくべきであろうが、この世界アルティミシア大陸において男というものは霊的資質において女に大きく劣り、また基本的に女神崇拝が強く根付いていることもあって、両性の立場には大きな格差がある。端的に言って、女尊男卑の風があるのだ。

さておきそうしたわけで、聖女と言われる女性たちは人々の信仰のよすがとして、そして魔とその眷属に対抗しうる人間兵器として絶大な信望を、人々から受ける。神力を高めるのが信仰心というものであるとすれば、注がれる信仰の力により彼女らは各国の主神たちにも劣らない力を持つ現人神として存在する。それを害しうる存在など、神自身か魔王そのひとを連れてこなければならないだろう。

魔王格といわれる存在は数体存在するが、それほどに隔絶した力の持ち主である聖女を攫うことが出来るとしたら。それをなしえる存在はごくごく限られる。その中で、ルーチェが口にのぼせたオディナという名前。それはおよそ想定の中の最悪最凶だった。

ここ数年で暗黒大陸アムドゥシアスを統一した万魔の支配者。アルティミシアに侵攻戦を仕掛け、たちまちにエッダとヴェスローディアのほとんどを焦土に変えた「銀の腕の暴君」。君野心的なこの魔王はただ人間を根絶やすことそんな下らぬ思想の持ち主ではなく、もっと上等に悪辣だった。

人間の鏖殺など彼は考えない。生かさず殺さず、恐怖と絶望で支配し、その黒い力を吸い上げることでどんどん力を増す。そういう意味で彼にとって自分を恐れ人間なる存在は絶対不可欠の、愛すべき虫けらだった。

当然、彼に力を献ずべく、人間は殺されるよりむごい目に遭わされる。なじられ、打たれ、犯され、人間同士殺し合わされ、生皮をはがれ。必要に応じて間引かれる人間は可能な限り苦しむ時間を長引かされ、その様は遠見の魔具によって占領地の全人民に見せつけられた。もちろんオディナの圧政に蜂起したものも少なからずいるが、彼らは生きたまま時間をかけて脳改造を施され、魔王を憎む意志をもったまま魔王の名に忠実に人々を狩る猟犬という、もっとも憐れまれもっとも恐怖される存在に造り替えられた。

とにかく、魔力が強いと言うだけでなく、人格的に最悪……とされる。いや、実のところ魔王を直接にみた人間というのがほとんど存在しないこの世界で真実がどうなのかは分からないが、すくなくとも善良で話の分かる人格者ではあるまい。

もしかの魔王が聖女の神力を喰ったとしたら。

普通なら神力と魔力は対極にあり、反発し合う関係にあって相殺し合う。問題はないはずであり、危惧する最悪の事態とはならないはずだ。

しかし、とルーチェは軽く頭を振る。

目の前で最愛の姉を攫っていった魔王は、すでにそこへの対策を済ませてあると言っていた。二つの力をあわせて最強の力、創世神を殺せる『盈力(えいりょく=ゲアラッハ)』を造出して世界を変革する、それを止めたければ追ってこいとそう告げた。盈力とはよくいったもので、本来創世神から闕けた力、神力と魔力という「半月」を掛け合わせ、融合させ「満月」盈力にする、そういうことか。確かにその力であれば、創世神も殺せるかも知れない。

そうなれば魔王オディナは創世神イーリスをしのぐ力を手にすることになり、そのタチの悪さは人間へ無関心な創世の眠れる女神よりはるかに凶悪であるといえる。

「なるほど、確かに一大事ですね……悪鬼の王が聖女様を喰らうこと、断じて阻止しなくては……」

喰らう、ということについて少々、蓮純にせよルーチェにせよ童貞と処女であったから少々の誤解がある。別に魔王は聖女アーシェを頭からバリバリいくつもりなどない。それよりもっと悪逆で、背徳なやりかた……つまりはまぐわいにより子をなすつもりであったのだが、二人はそこのところ完全な誤解をしていた。

「当然です!」

眉間のしこりをほぐすように額を捏(こ)ねる蓮純がふと呟くと、ルーチェは気勢を上げた。当然と言えば当然のこと、なによりも誰よりも敬愛する姉を、魔王だろうがなんだろうが喰われてたまるものか。

「それで、わたくしがこの国に来たのは・・」

1拍、溜めて。

「魔王殺しの勇者はこの国この太宰の町にいる。そう、星詠みに出たからです」

 凜と居住まいを整え直すと、聖女の妹ルーチェ・ユスティニアはそう告げた。

プロローグ.2.乱闘会議
 事態は危急。蓮純はもてる権限の全てを使って人を集めた。皇帝永安帝、筆頭宰相本多馨綋(きよつな)、次席宰相大久保宗城(むねなり)、本多、井伊、酒井、榊原の四元帥、ほか高官から貧官まで、そろえられるだけの人員を蓮純は動員した。さすがに出征中の人員を引き戻すことは不可能だったが、寝ている元老院の老貴族をたたき起こして登城させるぐらいのことはお構いなしでやった。

これに一番不快だったのは永安帝そのひとであった。皇帝に即位した、得意絶頂のその当日に、つまらん用件でたたき起こされたのだ、実際の用の大小は関係ない、永安帝がつまらん話と断ずれば、それはいかな聖賢の説話であろうとつまらん話になる。皇帝の権威とはそういうものだ。

それでも永安帝が激昂しなかったのは、ルーチェの存在による。蓮純の隣に控える銀髪の処女にちらちらと好色な視線を投げかける永安帝に、ルーチェはもちろん気づいて辟易していた。それでも我慢するしかない、独力で広大な太宰の町とその近郊をくまなく探すことは不可能である。とはいえやはり気持ち悪いものは気持ち悪く、ハンサムぶった中年がニタニタやに下がった顔でぶしつけに見つめてくるのに、ルーチェはさすがにげんなりしてしまう。相手の機嫌を損ねるわけにはいかないために少しサービスしてほほえみを返してみせるが、それがまた永安帝を増長させる。

うう、ホントいやです、こんなの……。あの脂ぎった視線、それだけで身が穢れる気がしますよお……。

泣きたい気持ちになるが、今は媚びを売らねばならない。必死に口角を上げ、表情に笑みを貼り付ける。

一座の衆がそろうや、座を見渡して蓮純が口火を切る。

「一同お揃いになられましたね。では、私から。今回、こちらのルーチェ・ユスティニアさまの言葉により聖女・アーシェ・ユスティニアさまが強奪されたことそしてもう一つ、この太宰に【魔王殺しの勇者】が存在していることが知れました……。この二つの要件について、速やかに処理したく存じますが、どなたかご腹案はございませんか?」

魔王殺しの勇者というのは一世代においてただひとり存在するといわれるまさに「魔王を殺せる力」を持った人間のことだ。魔王という存在は生命として創世神に匹敵するほど圧倒的なので、まず通常の武器や魔法で殺すことは不可。ただ「魔王殺し」という特殊な血を持つ人間だけが、彼を殺しうる。女神の意思が生み出した、魔王排撃のプログラムであるとされるが、それですらも魔王に真なる滅びを与えることはできず、転生を許すことは避けられない。

もし、二つの報せのうち後者がもたらされていなかったなら、場は絶望に支配されただろう。しかし今回、魔王殺しの勇者がこの国、この町にいると聞き、アカツキの百官たちの気はやや安逸に流れた。ならば勇者がどうにかしてくれるだろう、と。

よどみなく言い上げる蓮純に、すぐに応答する声はない。熟考して口を出すつもりの人間はいるのかも知れないが、蓮純は「ありませんね。では私の案ですが・・」と自分の企図した案を披見(ひけん)する。それがまた、人員の配置から資金の割り振りまで完璧であって群臣たちの舌を巻かせるが、面白くない顔を見せるのは永安帝である。

ふん、つまらん。蓮純め、才を誇りおって。

自分を世界一の大才と信じて疑わない……どこからその自信がくるのか、根拠を聞きたいところだが……永安帝は、才気渙発、鋭気風発たる蓮純に信頼よりむしろ憎しみを覚える。元老であり宰相、さらに皇太子時代の大敗戦・沙陀畷(さたなわて)の戦いにおける命の恩人本多馨元帥の弟、現宰相本多馨綋(ほんだ・きよつな)の庇護があるため皇帝といえどそうそう手を出せないが、理由さえあれば官を剥奪して庶人に落とすところだ。なにより、自分より女にモテるのが気に入らない。

「くあぁ……ふん」

わざとらしく、これ見よがしに空あくびをかみ殺す永安帝。それとみた廷臣たちの雰囲気が、一斉に永安帝への追従ムードに流れるのは、帝政国家である以上仕方のないこと。なにせ暴戻の君に逆らえば官人としてこの国に生きる場所を失う。うっかり刃向かうことなど出来るはずもなかった。

「あー、十六夜宰補の言ももっともではありますが、主上のお顔色がよろしくない様子。ここはいったん解散としては……」

帝におもねる幇間(ほうかん=たいこもち)がそう言いかけると、蓮純はぴしゃりとはねのける。

「なにを仰るか!今は寸秒をも惜しむべき時!」
さとい蓮純に永安帝の不愉快ぶりや自分への嫌悪がわかっていないはずもない。だが十六夜蓮純という人間は、打算では動けない。怜悧冷徹な顔立ちと刃物めいた雰囲気から彼を冷たい人間と談ずる人間は多いが、十六夜蓮純ほどの情動家はほかにそうそうお目にかかれるものではないのだった。

そのことに、ルーチェもようやく気づき始める。

なんだ、いい人じゃないですか……。見た目で人を判断するのはよくない事でしたね、反省しなくては。

得心して、自戒するルーチェ。気づいてみれば蓮純の全てが好もしく思えてくるから不思議だ。最初とのギャップから、余計に蓮純への好意が高まってしまう。いわゆる「不良が雨の日に子犬拾った」を見た心境である。

蓮純に無垢な信頼と好意の視線を向けるルーチェ、それを見てまた、面白くないのが永安帝だった。自分が目を付けた女が、ほかの男に高好感度状態、これは不愉快だろうが、べつにルーチェは蓮純に惚れているわけではないし、そもそも惚れたとしてルーチェは永安帝のものである訳でもない。関係ないのだが、永安帝が蓮純に逆恨みを覚える理由としては十分すぎる。

「おい、おまえ! ルーチェ、とか言うたか、ちょっとこっちへ来い!」

床几にもたれてぐったりと横座りしていた永安帝は身を起こしルーチェを呼びつけた。ルーチェは一瞬、ものすごーく複雑で不愉快で不本意そうな表情を浮かべるも、ここで永安帝の機嫌を損ねるのは得策ではない。すぐに微笑を顔に貼り付け、永安帝の前に進み出る。

「ふ……もらったあぁぁぁぁぁぁぁ!」

がば、と永安帝のグローブのような両手がルーチェに掴みかかる。この衆前で、問答無用で押し倒しにかかってきた。

「く……、やめて、ください!」
押し倒される寸前、ルーチェは軽く身をずらして半身に。永安帝の袖下をつかむ。

「!?」
愕然、目を見開く永安帝、と廷臣たち。そのままルーチェは袖を斜め下に引き、重心をずらすイメージで体を崩す。

がくっ、と永安帝の雄偉な体躯が崩れた。体幹と体重移動を駆使した、見事な崩しだった。

そこでルーチェの動きは止まらない。半身のところから、今度は入り身になって崩れた永安帝の懐のうちに飛び込む。

がらあきのあごを下から掌打で打ち上げ、さらに歩を進め。

完全な無寸、ゼロ距離の間合いに。

どん、と床を踏みしめる。華奢な体躯にもかかわらず、震脚の威力は京城全体を撼わせるほど。上がってくる衝撃の反動を足首、膝、股間、腰、背骨、背中と螺旋状に纏糸させ、肩から靠法(体あたり)をぶち当てた。

どふぐぅっ、と鉄くずがプレスされるような異音。

「お……ぶ!?」
永安帝は小さくうめくと、痙攣してその場に頽れた。ほぼ100%の衝撃が体内に「透った」ダメージを受け、吹っ飛ぶことすら出来なかった。

桃華帝国の拳法72派の一、八字拳の絶招、釣魚雲身把山靠(ちょうぎょうんしんはざんこう)。つかみかかってきた相手の腕を引いて崩し、相手の懐に入って無寸からの靠法を叩きつける技だ。聖女(のスペア)として身に修めるべき護身の技だが、ルーチェは神聖魔術以上に拳法の素養が高い。まさか150センチにも満たない華奢で可憐な少女がこんな破壊力を発揮するとは思ってもみなかった人々は、一瞬、唖然とし、ついで一転、騒然となった。

「こここ、小娘えぇぇぇぇ! 貴様、なにをするかあぁ!?」
次席宰相、大久保宗城の甲高い奇声。典医が泡を食って永安帝の身体を引きずり、奥に引き下がると主上を傷つけられて血の気の多い武士たちはあわや腰の指物を抜きかかる。

ちゃっ! ぞりっ! すしゃっ!

というか、抜いた。

「小娘貴様、自分が何をしたのかわかっておるのか!?」
「打ち首じゃ、打ち首じゃ! この娘、このまま生かして帰すわけにいかん!」
「殺せ、殺せ!」
口々にわめく武毅の国のサムライたち。さして広くもない会議場を、憎悪と狂騒が満たす。さきに狼藉を働いたのはあきらかに永安帝のほうなのだが、アカツキの武人たちにとってアカツキという国家の象徴、皇帝を面前で打擲されて黙っていられるかという気分があまりにも大きい。誰一人として冷静でなかった。

「なんです? 悪いのはそちらでしょう? 喧嘩を売るというなら買って差し上げます、ただし、それなりに痛い目をみること、覚悟なさい!」
ストレスで気が短くなっているルーチェのほうも、やや血走った瞳で男たちを睥睨する。その昂然とした態度が、また武人たちの勘に障った。女尊男卑の気風とはいえやはり政治・軍事の場は男が主、そのために「小娘ごときが」という気分が、最初からルーチェに対してあった。

「くひぃ! 小娘がぁあぁぁぁっ!」
「殺すだけでは飽き足らん! 裸に剥いて城門に吊してやるわ!」
悪びれないルーチェが自分はあくまで悪くないと薄い胸を張ると、武士たちの怒りは頂点に達した。制服組でない着物組の連中は、すこぶるに気が短い。誰かがちゃっ、と抜いた刀を構えると、ほかの連中もつぎつぎに鞘を払った。

ふん……、愚かな方たちです。神力の使い手であるわたくしに、短兵など何本束ねても同じ事……まあ、少しわからせてあげるとしますか……。

ルーチェも柳眉をわずかにつり上げ、右手でさっと空を凪ぐ。

「栄耀なる光の祝祭(グロリアス・ルーチェ・トリビュスティ)」

短く一言。

猛烈な光の奔流が、会議場全体を満たして爆発四散。居並ぶ男たちのことごとくが、なすすべもなくなぎ倒される。

「ぐっはあぁぁ!」
「おぶぅあぁっ!?」
「げひぃお!」
なぎ倒された数だけ反響する悲鳴。しかしながら、だ。「栄耀なる光の祝祭」はまとめて100人以上を叩き伏せる大威力だが、所詮殺すつもりのない手加減した一撃。そんなものにアカツキ武士がへこたれることは全くない。気絶した何人かはほったらかしに、勢いよく立ち上がった連中は、威勢良く抜刀してルーチェに吶喊する。

一人が肉薄、ルーチェの薄打(はくだ=格闘術)の腕前はさっき見た。ここよりは近づかない剣の間合いから……、

「しっ!」
いきなり袈裟で首筋狙いの斬撃。

「っ!?」
確実に殺すつもりの一撃に、ルーチェの胸中にわずなおびえが生じる。強烈な神力と卓越した武術のセンスをもっていても、ルーチェには「人を殺した経験」も「命のやりとりの経験」もなく、そしてアカツキのつわものたちにはその手の経験がいくらでもあった。それが実力の差を埋め、逆に覆す。

「まだまだ、せあぁ!」
二の太刀。横に胴凪ぎ「次ぃ!」そこから三の太刀につなぐ。刃を跳ね上げ、正中線を真っ二つにする勢いの猛烈な唐竹割り。それとて躱されると追撃で蛇のようにのど元を狙う追い突き。あまりにも迷いのない、実践に特化しすぎた殺人剣に、ルーチェは防戦一方とされてしまう。さらに悪いことには、ほかの連中も続々とこの凶刃行に加わらんと待ち構えているということだ。このままではどうあっても、ルーチェ・ユスティニアは殺されてしまう。

死ぬ……わたし、が……?

恐怖が生じ、恐怖が迷いを生む。さっきまで洗練された動きで凶刃をさばいていた身ごなしが次第に精彩を欠くようになり、そして猛然たる攻撃に圧されたルーチェは、とうとう尻餅をつく。

「終わりだ小娘えぁ! 死ぬえぇぇぇぇぇぇぇぇえ~ッ!!」

大上段に構え、大ぶりに振り下ろされる凶刃。

それを、

「そこまでです」
静謐(せいひつ)な声とともに止めたのは、十六夜蓮純。白刃は彼の人差し指と中指、二本の指で、溶接されたように完璧に固定されていた。屈強の武士が渾身の力を込めて押そうが引こうが、びくともしない。この細身な男の身体の何処にこの万力のような力が秘められているのか、不思議なくらいであった。

「卿らにひとつ問いたい。少女一人に多勢でかかり、あまつさえ神聖な殿中において無用に佩刀を抜き、斬りかかる。……それが卿らの信じて行う正義でありましょうか?」
切れ長の瞳に剣呑な光をにじませて、蓮純は武士たちにもの申す。あまりにもっともな言い分に、武士たちはぐうの音も出ない。

「……だ、だがこの娘は主上に、我が君に暴力を振るったのだぞ。我が国に対する最大の侮辱である!」
「そんなつまらん誇りは犬にでも喰わせるがよろしい!」
往生際悪く言いつのる一人を、蓮純は言葉の刃で一刀両断。

「これ以上はこの私が許しません。よろしいか」
一座を睨めつけ、絶対零度の声。なお戦意をひっこめない一部の連中に、やれやれと頭を振った蓮純は「失礼」胸ポケットからたばこを一本、取り出した。封を切る。

法術で着火。

神と聖女の「神術」、魔族とその眷属の「魔術」そして神力も魔力も持たない精霊や精霊と交感した人間が使う術が「法術」である。法国クールマ・ガルパの聖仙プラデュムナが創始し体系づけたもので、別名を人理魔術、簡易魔術ともいわれる。絶対的な力に劣るため
大火力は出せないが、神力魔力を持たない普通の人間にも使えるという利点は大きいし、また汎用性に優れる。

ゆら、と紫煙が舞った。

「しばし眠られよ……。紫煙揺籃(しえんのゆりかご)」
蓮純が「力ある言葉」を告げると、煙を吸った男たちがばたり、ばたりと倒れていく。死んではいない。眠っているだけである。

「眠りの法術……すさまじいですね」
ただひとり、眠っていないルーチェが言った。偶然に免れたのではない。神力の加護である。力に劣る相手の術は、勝るものには通用しない。ともかく脳と意識をごまかし、睡眠状態に陥らせる、眠りの法術はきわめて高等な術の一つだ。それをここまで簡単に、一瞬でやってのけるあたり、十六夜蓮純という男の力も底知れない。本来簡易魔術などルーチェという神力使いのエキスパートにいっさいの干渉を及ぼせないはずだが、それでも大きなあくびが出て止まらなくなる。術士として蓮純の霊力が圧倒的に巨大で神力にとどくほどなのか、はたまたそれ以外の理由か。

「あなたにも非はあります。反省なさいませ」
「なんでですか!?わたしは悪くありません!」

蓮純の諫めに、ルーチェはかっとして反駁する。

「悪くなくとも、立ち回りをまなびなさい。あれでは無用に敵を作ります」
血の上るルーチェを、あくまで冷静な顔で窘める蓮純。

「さておき……これでは国の力は、頼れませんか……」
死屍累々の状態でぐったり折り重なって眠る数百の男衆を眺め、蓮純は呟く。状況は収束したものの、事態は一歩も進展しないままだった。

プロローグ.3.赤い瞳 
 「んぁ~、んゅう……」
ぼんやりと間延びした、だらしないあくびを一つ。ルーチェ・ユスティニアはおそろしくだるそうに、旅籠の部屋で目を覚ました。のろのろとした挙動で布団から身を起こす。

「ふわはぁ、ふ……ぁ~、きつい。なんで世の中には朝があるんでしょう、消えてなくなればいいのに……」
竜と自然を愛すべき聖女……の妹でありながら自然のサイクルに呪詛の言葉を吐くルーチェ。藤椅子に腰掛けると、億劫げながらも危なげなく、慣れた手つきで長い銀髪を三つ編みに編んでいく。髪の手入れをしながら、同時に着替え。はしたなく足をばたばたさせてパジャマのズボンを脱ぎ捨て、あらわになった白い脚に修道衣のスカートを穿く。その挙措にどこにも昨日の凜とした少女の面影はなく、年相応にだらしない隙だらけの少女だった。一房の大きな三つ編みを決めて肩に垂らし、パジャマの上をぽいと放る。自分の、谷間が出来るどころかどこまでもあくまでもフラットな胸を眺めてうーん、とわずかに悄然、豊満きわまりない姉との格差に暗澹たる気持ちになりつつ、まあいいです、身体目当ての男なんて願い下げです。と気を取り直して修道衣に着替え。最後に白いケープを肩にかけると、心身が引き締められて顔つきも凜としたものになる。

さて、昨日は追い返されてしまったわけですが……。

あの後、ルーチェと蓮純は「狼藉者」だったり「国家反逆罪」だったりの罪状を突きつけられ、下手すれば処刑、というところまで追い詰められた。なんとか釈放されたのは蓮純の上司・本多馨綋の尽力と根回しによるが、永安帝には完全に嫌われる……というか憎まれてしまった。人一倍プライドの高い永安帝を、囚人の前でKOしたのだから無理もないのだが。

まあ、悪いのはあちらなんですけどね!

そこに関しては一切譲るつもりないし、当然謝るつもりもないルーチェ。とはいえ国の力を借りなければどうしようもないし、多少の譲歩は必要かなぁ、と思わなくもない。具体的には、女神に捧げる奉納舞を披露するぐらいはしなければならないだろうか。

あの踊り、あんまり好きじゃないんですが……腰とか振らないといけないのがどうも……。

女神に捧げる舞はどうにも男の情欲劣情をそそってしまうもので、もとより豊穣多産を乞う、というのは性交と直結するものゆえに仕方なくはあるが、ピュアな15歳の少女がそんなものを人に見せるのはやはり、拒否感がある。仕方ないからそれでもやるかー、と踏ん切りをつけるべく、瞑目(めいもく)して精神集中、心の中の葛藤に折り合いを付けるより先に、旅籠の仲居さんが来客を告げた。

「お客さんですよ、長身で髪の長い、えらい美男子さんです。……目つきが、少しだけ、その、悪いというか、険しい感じですが」
あぁ、と思う。その外見的特徴でわからないほどルーチェは注意力も認識力も欠如していないし、そもそも彼女を訪ねてくる人間などほかにない。

「イザヨイさん」
「どうも、ユスティニア様」

ルーチェがロビーに出ると、蓮純は隅っこに所在なげに佇立していた。本人の意識はともかく、周囲にむやみな威圧感のある美形だ、とルーチェは改めて思った。

いいひとなんだけど、とにかく顔と声とが強面なんですよねー。

「国の支援はともかく、宰相府の資料から1級以上の冒険者のリストを持ち出してきました」
挨拶もそこそこ、懐から分厚い資料の紙束をとりだし、ルーチェに差し出す蓮純。ルーチェはそれを受け取り、ざっと目を通したが、すぐに渋面になり、ついで首をかしげ、そしてお手上げと頭を振った。

「あの、非常に助かるんですけど、わたくし、会話は出来ても読み書きは全然で……」
「あ……あぁ、そうでしたか。流暢(りゅうちょう)にアカツキ公用語を話されるのですっかり。ということは……私がご同行したほうがよいでしょうね」
蓮純は一瞬だけ考えるそぶりを見せたが、すぐにそう結論づける。これにはルーチェのほうが慌てた。宰補の仕事はどうするのか、そんなに暇な立場ではないはずだ。

「それは問題ありません。2ヶ月の謹慎……職務停止を言い渡されましたので、しばらくは暇です。日銭稼ぎに職探しでもと思っていましたが、あなたに私が必要ならばちょうどいい」
本当に、親切なんですよねぇ。この顔で全然優しそうに見えないんですけど。

ルーチェは好意的にそう思いながら、蓮純の申し出を受け入れた。

……
…………
……………

食事を手早く済ませて、ルーチェの勇者捜しが始まった。蓮純とともに、紙束に記載された1級、あるいは特級冒険者のもとに足を運び、一人一人の「魂(アニムス)の色」をルーチェが見定める。アカツキ全土で互助会……西方的にギルドといった方がわかりやすいか、ともかくそういう組織……に所属している1級以上の冒険者は300人余、うち太宰在住のものは144人。それを片っ端から当たっていくが、なかなか「当たり」に巡り会わない。今日だけで30人以上に突撃したが、ルーチェの「聖女の資質(クアリテス・アテム・サンクトゥス)」が反応した相手は一人もいなかった。

「どうです?」
「いえ、駄目です。全然駄目、さっぱりです」
「おいコラクソガキ。誰がさっぱりだァ? ブッ殺すぞ?」
蓮純の問いに頭を振るルーチェに、ランクは高くとも血気盛んなアカツキ気質は変わらない冒険者が怒ってすごむ。さっきからこういう事態が何度もあった。もともとの気質的に人をおもんぱかるところすくないうえ、姉を救うため焦っているルーチェは、いよいよ人に対して態度が悪くなっている。その都度に蓮純が威徳をもってなだめるが、ルーチェがアカツキ公用語を読めたとして、一人でこの作業に出ていたら絶対に衝突を起こして衛兵の世話になっているはずだ。

それにしても蓮純の顔の広さと皆からの慕われぶりに、ルーチェは驚かされる。町人のほとんどが蓮純のことを知っている上に、さらにほとんどが蓮純のことを頼り、慕っている。ルーチェの知る限りここまで求心力のある人間は、姉・アーシェ・ユスティニアを置いてほかには存在しない。

……………

「ふぅ……」
「疲れましたか?なんでしたら疲労回復の術式を施しますが」
「いえ、必要ありません。ありがとう……ハスミ」
「? いえ、どういたしまして、ユスティニアさま」

……………

たちまち夕方になった。

60人以上に面通ししたが、やはり一人として反応する相手はいなかった。

この書類の中には、いなそうな気がしますね……。

漠然とそう思う。実際当たってみなければなんともいえないが、おそらくこの中にはいないだろうと半ば確信があった。

今日は切り上げて解散、の話で落ち着くところ。

場所は2等街区「葛城」と宗教特区「日之宮(ひのみや)」の境の隘路、艾川(よもぎがわ)に架けられた橋のそばの祠の前で、ルーチェは強烈に心をひきつける波動を感じる。

これは……!

「ハスミ、解呪を!おそくこの周囲の空間は魔術的に隠蔽(いんぺい)されています!」
「……わかりました『見はるかすもの、耳さときもの、鼻きくもの、汝らよく真実を見るもの。その見力をもて、我が前に真実を映せ。……開かれよ」』
呪をくみ上げながら手印を切り、複雑な歩法を踏んで、最後に手刀を切って「力ある言葉」を解放。それまで奥まった隘路でしかなかった周囲の空間が砕け、かわりに奥行きのあるひらけた空間が広がる。

「やはり、ですね……行きます」
「お供しましょう」

二人は隠された道を、慎重かつ細心に歩いていく。

……………
一歩進むごとに、プレッシャーが増す。10分も歩くと、それはもはや物理的な痛みを感じるレベルになってルーチェに襲いかかった。困難な状況に脂汗を浮かべながら、ルーチェはほとんど身体をひきずる体で進む。

……
…………
………………

さらにもう10分。既にルーチェは限界に近い。喉はからからに渇き、瞳が眼窩(がんか)から飛び出しそうなほど。腹の中に灼けた鉄棒を突っ込まれて掻き回されるような不快感を覚え、耳鳴りは殴られるのと同じ威力。修道衣の下、下着は肌にぐっしょり張り付いていた。

そして。

大きめの建物……玄道建築の修行場を思わせる、おそらくは道場……が見えた。その門前に、やや長めの短刀を持った1人の若者が待ち構えるように佇立(ちょりつ)する。

まだ少年、といって良かった。ルーチェと歳はおなじくらいで15,6。青みがかったボサボサ髪、日焼けしてやや褐色を帯びた肌、体躯は192㎝の十六夜ほどではないが長身で、痩身の十六夜よりもがっしりしている。着衣は胸元に金糸で刺繍を施した浅黄色の狄服(桃華帝国国境地帯の少数民族がまとう運動に適した服。現実世界におけるチャイナ服、拳法着。華服=漢服とはまた別)と、腰帯。全体に逞しく、聡明そうで、ルーチェや蓮純のような際立った容姿端麗ではないが、覇気と烈気と鋭気に満ちた、凜然(りんぜん)たる顔立ちの少年だった。

なにより異彩を放つのは、瞳。

紅い。

血の赤(クリムゾン)。

この大陸において、赤き瞳は魔の眷属、その徒のみがもつとされる身体的特徴。

それが意味するところは……、

「魔族……?」
「混血(まざりもの)ですが。あなたは神徒のようで。……それで、どうします? この隠れ里に押しかけてまで、魔族を狩るという神徒のつとめを果たしますか?」

半魔。この数千年年で暗黒大陸アムドゥシアスから移住した魔族の雄が、アルティミシア人の娘を犯して産ませた子ども。先天的に魔力という、聖女たちの神力の対極に当たる力を備え、両親からそれぞれの霊的素養を引き継いでその力はただの人間、ただの魔族とは比較にならない。ルーチェも蓮純も、半魔を相手にするのは初めてだったが、もう相対した瞬間にわかる。こいつは強い。

ルーチェの返事を待たず、少年はやおらゆるゆると腕を差し上げる。短刀を手にした右手を大儀そうに重たげに、引き絞るようにして天頂まで上げたかと思うや、そこから峻烈な勢いで振り下ろす。

短刀がびゅっと伸びた。変幻自在の刃が、蛇のようにうねってルーチェを襲う!

蛇腹……ッ!?

ワイヤーで繋がれ縦横に踊る刀身をルーチェはステップと体捌きでかわしていく。1,2,3,4……全部で都合64刃、すべて回避!

だがいやな気配は消えない、どころかいよいよに圧を高める。

「かわしましたか、そうでなくては!」

少年が伸びた蛇腹を引き戻しつつ、高らかに謳う!

「暗涯(あんがい)の冥主!兜率(とそつ)の主を喰らうもの、餓(かつ)えの毒竜ヴリトラ! 汝の毒の牙もちて、不死なる天主に死を与えん!」
 巨大な「力」が爆発的に高まる。中点にかざした短刀の切っ先に浮かぶのは、巨大な円形。円形周囲や内側の空間が揺らいで見えるのは、重力が極端に押しつぶされ、圧縮されているせいか。それ自体が巨大な重力塊。あんなものをまともに喰らえば、ルーチェが神力の名手とはいえひとたまりもない。

「これはかわせますか!? ……焉葬(えんそう)、天楼絶禍(てんろうぜっか)ァ!!」
 そして。

重力場が解き放たれた。

プロローグ.4.勇者3人
「暗涯(あんがい)の冥主!兜率(とそつ)の主を喰らうもの、餓(かつ)えの毒竜ヴリトラ! 汝の毒の牙もちて、不死なる天主に死を与えん! さぁ、これはかわせますか!? ……焉葬(えんそう)天楼絶禍(てんろうぜっか)ァ!!」」
少年が吼える。霊讃。本質的に人間が持つ霊力も神力魔力も「自分のもの」ではない。精霊であったり悪魔であったり神であったり、そういった上位存在との契約に基づいて、契約神霊とのバイパスをつないで術を使う。そのために、神霊に意を届けるために必要な行為としてこの霊讃という呪文が必要とされるのである。この場合は魔神ヴリトラに誓願を立てているのだから「魔讃」というべきか。ならばルーチェのそれは「神讃」となる。

ずぉ……ッ!!

凄絶無比。途方もない魔力が収束され、打ち放たれる刃の軌道に沿って極大の魔力波が飛んだ。かわせない、と思った瞬間、飛び込んだ蓮純がルーチェを押し倒し、倒れながら庇う。刹那、空間がひしゃげ、漆黒の暴風が舞う。黒の重力場はさっきまでルーチェがいた場所を食い破り、地面を数メートルの深さまで消滅させた。

かろうじてのタイミングでルーチェを救った蓮純に、少年は剣呑な視線を向ける。

「あなたも、神徒のお仲間ですか?」
蓮純は小声でルーチェに告げた。静かな声だが、やや苛立っているようにも聞こえる。

「立てますか、ユスティニアさま? あれは危険すぎる、ここは退きます」
「いえ……問題、ありません!」

跳ね起きるルーチェ。

わかった。理解した。

まさか魔族が、とは思ったが、間違いない「聖女の資質」が明確に告げている。目の前のこの少年こそが、勇者だと。

「わたくしは貴方と戦うつもりはありません! 力をお借りしたいのです、勇者さま!」
「世迷い言を。それとも、それも神徒の策の一つですか?」
少年は聞く耳を持たない。神族への恨みがよほどに強いのか、完全にルーチェを敵と見なしている。再び短刀を振り上げ……、

言葉が通じないなら、力を証す!

少年のモーションの隙目がけて、矢のようにルーチェが走る。八字拳で制圧するつもりであり、間合いに入りさえすればどうにかなると踏んだ。しかし少年は焦りもしない。ルーチェのその挙動は予想済みだと、くん、と手首の返しで蛇腹を引き戻す。

「くぁ、う!?」

背中に刃が突き立つ。力が抜けて膝をつく。その鳩尾に遠慮も容赦もないつま先蹴りが入り、ルーチェは軽く浮かされ、吹っ飛んだ。

「ユスティニアさま!」
「おっと……邪魔はさせません」
「退きなさい。さもなくば命をもって購ってもらうことになる」
「どうやって? 人の力で、魔人の僕をどうすると?」

弄(いら)う訳ではなく、あくまで事実を確認するように、少年は問う。

「こうやってです」
蓮純はたばこを抜いた。指先で着火して紫煙を揺らす。

今回発動させたのは、眠りの法術、紫煙揺籃ではない。煙は少年の鼻腔に吸い込まれるのではなく、身体を拘束するようにまとわりつく。

「小技を……ん……? 力、が……?」

急速に吸い上げられる魔力に、少年は愕然とする。こんなはずはなかった。神力も魔力も使えない、ただの法力使いに、存在の位からして人間や精霊に、こんな真似が出来るはずがないのだ。

「奪魂香雲(だっこんこううん)。任意の対象から力を奪い、奪った力を返還して任意の相手に渡す……普通の人間相手ではたいした力を抜けない、術として成立しない程度のものですが、あなたがた上位存在の力は、こちらが驚くほどに吸えますね……、予想以上だ。こちらの器が壊れそうなほどに。……さ、ユスティニアさま、この力をお渡しします、存分にお使いください!」

蓮純が声を朗と張り上げると、ルーチェの中に巨大な力の熾火(おきび)がくべられたように満ち足りる。

力の吸収と譲渡、それがハスミの力……。そしてこの身にあふれる力、これが勇者さまの力っ! 今度こそ力を証す。わかってもらうためにまずは倒す! よっし、やれる、やります!

「はいっ!」
「多少の力を吸われたところでっ!」
少年が再び短刀を振り上げる。ルーチェも腕を勢いよく振り抜く。イメージ。少年の打つ力に、全力で自分の神力をぶち当てる!

「書、宝輪、角笛、杖、盾、天秤、炎の剣! 顕現して神敵を討つべし、神の使徒たる七位の天使! 神奏・七天熾天使(セプティムス・セーラフィーム)!」
「……焉葬、天楼絶禍ァ!」
謳われる神讃と魔讃、そして直撃する神力と魔力、二つの波動が真っ向から激突する。

天啓がひらめく。

お前の旅の仲間は、この二人。三位一体。誰一人、欠けてはならない。

……欠けるまえに、まずは満たす。

この少年を、力で服させる。

それが出来ずして【白き腕(かいな)の暴君】など倒せるものか。姉を取り戻せるものか。力を振り絞れ、ルーチェ・ユスティニア、お前の全力を見せてみろ!

「あぁぁぁぁぁぁーっ!!!」
「くあぁぁぁぁぁぁっ!!」
ルーチェの覚悟に共鳴して、少年も身のうちに内包する魔力を高める。緊張の糸が高まり、互いの裂帛が交錯する。天を埋め尽くすばかりの光と大地を飲み込むほどの大闇がぶつかり合い、互いを食(は)みあう。威力は拮抗し、互いに譲らない。

驚異的なのは少年の方だ。ここ、女神グロリア・ファル・イーリスを頂点とした女神たちの世界アルティミシア大陸において、男子の霊的内在力は女子に大きく劣る。肉体的な力の優勢などまったく問題にならないほどに。

にもかかわらず、少年はおそらくアルティミシアで有数の神力使いであるはずのルーチェの全力を受け止めて、逆に押し返しつつあった。

「くぁぅ……っ!?」
ここまでか。勇者を仲間にするどころか、誤解を解くことも出来ぬままその勇者に殺されるのか。魔王の前に立てぬまま、姉に再び見えることもできぬまま。

そんなことは許されない!!なにがあろうと、絶対に!!

「わたしは……アーシェお姉様を・・!!救うと誓ったんだッ!!」
力を振るう。だが足りない。どうしても及ばない。

駄目なのか。やはり自分は姉の影でしかない出来損ないなのか。

諦念(ていねん)が過(よ)ぎる。

勝敗決した、かに見えたその一刹那。

「膝をつくな、前を向け! まだ腕もある、脚もある! なればやれることはいくらでもある! 手も足ももがれても、まだ牙がある! ここで膝を折るような惰弱が、この先の道を進むことは出来ないと知れ!」

蓮純の、初めて聞く険しく、厳しい叱咤。


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