有坂総一郎 2022/10/09 00:00

資料:薔薇戦争ダイジェスト

「このはと」とは別件で少し調べ物を始めたのだが、さして興味が無かったから薔薇戦争のことはよく知らない。

で、その時期が1400年代中盤であることに気付く。そう、日本では丁度応仁の乱の時期だとピンときた。

足利将軍家の権威が失墜し、戦国時代・下剋上の時代に突入した頃、地球の裏側ではイングランド王家が同じように親戚同士で国を二分してドンパチしていたのだ。

そして、そのイングランド王家のゴタゴタはイングランド優位で終結した百年戦争が発端となる。その当のイングランド王家はランカスター家による王朝が百年戦争の途中で成立しているが、そのランカスター家そのものは前王朝のプランタジネット家の分家筋である。

また薔薇戦争のもう一方の主役であるヨーク家もまた同じくプランタジネット家の分家であり、ランカスター家も含めて、日本の戦国時代における鎌倉(堀越)公方や古河公方みたいなものだと言えるだろう。

その後ランカスター家とヨーク家は一進一退で勢力を拡大衰退していくが、ヨーク家が勢力を拡大した結果滅亡する。

だが、欧州王侯は転んでもただでは起きない。

滅亡したかに見えるランカスター家だが、その血を引くテューダー家が王位継承戦に参戦し、ヨーク家との戦いに終止符を打ち、ヨークの家の王女を娶ることでイングイランドを平定する。

薔薇戦争というそれはランカスター家の紋章が赤薔薇、ヨーク家の紋章が白薔薇であったことから後世に呼称されたものであるが、両家の統合を果たしイングランドを制したことを示す為にテューダー家は赤薔薇に白薔薇を重ねた紋章を用いた。

薔薇戦争の始まりは1455年、その終わりは1487年といわれ、その期間実に30年に及ぶ。その間、第一期、第二期、第三期と別れるが、それぞれランカスター家優勢、ヨーク家優勢、テューダー家優勢という推移を示している。

無論この間、外国勢力が関与しなかったかと言えばそうではない。

ランカスター家がヨーク家の勢力をアイルランドへ追い落とすが、その後海峡を渡って反攻し国王を捕縛しロンドンへ凱旋する。この時、王位継承者としてランカスター家の追い落としを図るが議会との妥協を余儀なくされる。

ランカスター家もやられてばかりではなく、スコットランドから反撃を開始する。ヨーク公を戦死させる戦果を得てロンドンへ凱旋するが、略奪などによって恐慌状態あった市民が城門を開けず入城することは出来なかった。

そんな中、ヨーク家も反撃を開始する。ランカスター家と違い、ヨーク家の勢力がロンドンへ入城すると逆に歓迎され財政支援まで行われた。そして政治的アピールによってランカスター家の王位の正当性を否定することで明確に王位争奪戦を宣言するに至る。これは王位継承者である前ヨーク公を殺害したことで正当性がなくなったというプロパガンダによる。ヨーク家の政治工作は王都ロンドン全体に及び評議会や市民による推戴で制式に王位に就く。

新国王の登板により形勢はヨーク家に傾き、ランカスター派であった貴族達も新国王に忠誠を誓う。残党はスコットランドやウェールズへ逃亡し、そこに立てこもる。

1461年から概ね10年間はヨーク家の勢力がイングランド全体を概ね平定し安定した政権運営を行っている。いくつかの反乱や残党征伐が行われたがそれ以外は比較的平穏な治世であった。

最終的に1468年にウェールズでランカスター派の最後の策源地が陥落降伏したことで終止符が打たれた・・・・・・かに見えたが、それは第一幕の終焉に過ぎず、同時に第二幕の開幕を待つことになる。

ヨーク家はその基盤を固めるために結婚政策を推進し同時に与党形成のために功績のあった者へ叙爵や領地を与えた。ウォリック伯爵はヨーク家の外交方針に不満を抱き、ウォリック伯爵の一党であるネヴィル家の排斥がヨーク家によって行われ始めたのだ。

これが第二幕の開幕となった。

ウォリック伯爵は任地であるカレーにおいて叛意を示し、1469年4月遂に反乱を煽動、その対処に出たヨーク家国王エドワード4世を捕縛し、エドワード4世の側近などを粛清する。

この事態はイングランド全体を動揺させるには十分であった。貴族達は抗争を再開し、また、追いやられたランカスター派が再起する機会を得たのである。

エドワード4世はロンドンへ復帰し、表面的にはウォリック伯爵らと和解するが1470年3月に再び反乱が起こるとウォリック伯爵らは亡命を余儀なくされる。

その頃英仏海峡を挟んだフランス方面は二大勢力が存在していた。シャルル突進公のブルゴーニュ公国、そしてルイ11世のフランス王国だ。

この時ヨーク家が手を結んでいたのはブルゴーニュ公国のシャルル突進公であった。このエドワード4世とシャルル突進公の盟約に危機感を抱いていたのがフランス王国のルイ11世という構図である。

既にフランスにはランカスター家のマーガレット王妃とエドワード王子が亡命していたが、そこに失脚したウォリック伯爵も同様に亡命してきたのだ。

ルイ11世はこれを好機と考え、ランカスター家とウォーリック伯爵という不倶戴天の敵を和解させ同時に血縁同盟を結ばせたのである。ウォリック伯爵の娘アンとマーガレット王妃の子エドワード王子との婚姻が成立した。

1470年10月、ヨーク家のエドワード4世が反乱鎮圧のため出兵していた隙を突いてウォリック伯爵とそのネヴィル党はイングランドへ上陸を敢行、ロンドンを占領しロンドン塔に幽閉されていたランカスター家のヘンリー6世を解放し彼の復位を宣言した。だが、血縁同盟を結んだはずのマーガレット王妃はウォリック伯爵を信用せずイングランドへと戻ろうとしなかった。

また、オランダへ亡命したヨーク家のエドワード4世はシャルル突進公の支援を受けてイングランドへと逆上陸を掛ける。この時、ウォリック伯爵と袂を分かったクレランス公がエドワード4世に寝返り、ヨーク家はロンドンを占領しヘンリー6世を再び逮捕した。

ランカスター家の勢力はこの時を境に急激に傾いていく。ウォリック伯爵が戦死、その後イングランドへ上陸していたマーガレット王妃、エドワード王子も捕縛され、ヘンリー6世とエドワード王子はヨーク家の王権確立のために処刑された。

第二幕はこうして幕を閉じたが、イングランドに平穏が訪れるにはまだ早い。第三幕の開幕はもうすぐであったからだ。

エドワード4世が1483年4月に崩御したことで第三幕は開幕する。

この時後継者であるエドワード5世は僅か12歳。また外戚がその地位を不動にするためにロンドン塔の武器などを制したことで闘争が始まった。

エドワード4世の弟グロスター公リチャードが外戚を排斥するために行動を開始、そしてエドワード5世やその兄弟を幽閉し後に殺害、また同時に王たる資格無しとして自身の正当性を認めさせ事実上のクーデターによる王権奪取を行う。1483年7月、グロスター公はリチャード3世として戴冠した。

だが、その政権は安定に向かうどころか混迷へ向かって突き進む。

1483年10月リチャード3世に対する反乱が発生、バッキンガム公がランカスター家の血を引くヘンリー・テューダーを擁立せんと決起したのである。だが、この反乱は早期に片付くこととなる。バッキンガム公の軍隊の瓦解とそれによるバッキンガム公の処刑がなされたからだ。

だが、リチャード3世もその勢いを回復しているかと言えばそうでもなかった。自身の王妃と王太子を相次いで失っていた。

そんな中、バッキンガム公の残党や不平貴族が亡命中のヘンリー・テューダーのもとに集まった。ヘンリー・テューダーは自らに貴族や官吏たちが同心すると確信したことで1485年8月、遂にフランスにおいて決起、海峡を渡った。

イングランド上陸後、辺境地方やウェールズを平定していったヘンリー・テューダーの軍は8月下旬にリチャード3世との決戦に臨む。乱戦によって日和見していた勢力が味方したことでヘンリー・テューダーはリチャード3世の軍を破ったことで30年に及ぶ王権争奪戦は終幕を迎える。

1486年10月、ヘンリー・テューダーはヘンリー7世として戴冠、1486年1月、ヘンリー・テューダーはエドワード4世の王女と結婚し、これによって王家の統合を果たし紋章をテューダー・ローズとした。

いくつかの反乱や外国勢力の介入などがあったが最終的に16世紀中頃にプランタジネット家の末裔を完全に抹殺しテューダー朝の安定した王権が確立された。

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