【小説】覗くな!

午後10時が近づいてきたので、いつも通りに屋上へ出た。雲の少なく星空の冴えた夜だった。涼しげな夜気を感じながら、手すりを乗り越え三階部分の屋根へ降りた。30度くらいの傾斜になった屋根の上を裸足でペタペタと渡って、屋上の出入り口の後ろ側の壁を背もたれに、三角屋根の頂点に尻を据えて片胡坐した。パーカーのポケットから携帯式ラジオ受信機を取り出し、スイッチを入れると、丁度時報が鳴って番組が始まった。

 イヤホンで馴染みのパーソナリティの声を聞きながら、首から下げた双眼鏡で家のぐるりを眺めた。六階建てのマンションの窓から見えるテレビの液晶には、眼鏡のキャスターのしかつめらしい顔。公園のベンチでワイシャツのリーマンが、スーツを掛布団にぐでーっと伸びている。古い桜の木が枝を広げる公園の沿道を、トレーニングウェアの男が走り去っていく。往来の少ない車道を猫が悠々と横切った。夜中の住宅街はひっそりと静まり返っていて、さして面白い物は見られない。それでも、双眼鏡を片手にしばし夜景を見渡した。

 何故こんなことをしているのかを申せば、実は俺、某国のスパイなのである――というのは嘘で、単なるヒューマンウォッチング。平たく言えば、覗き趣味ってやつだ。

 きっかけは、中学2年の夏、我が部屋の熱さと受信状態の悪さに耐え兼ね、屋上に上がってラジオを聞いていた時のことだった。偶然にも目撃してしまったのである。近所の公園の前で、年頃の男女が熱烈な接吻に興じている所を。

 気が付けば、食い入るように彼らと彼らの行為を眺めていた。細部まで見たかったから、一旦部屋へ戻ってバードウォッチングが趣味の父から譲ってもらった双眼鏡を持ってきて、じっくりカップルを観察した。キスはそれから3分くらいも続いた気がする。二人共首をしきりに動かしていた。音が聞こえてきそうなぐらいエロくて、無茶苦茶興奮した。別れのキスだったのだろう、事が済むと、男の方は車に乗って国道の方へ去り、女は近くのマンションへと消えた。

 強烈な経験だった。性に対する欲求と経験がチグハグで好奇心旺盛な中学生にはたまらなかった。その日から、双眼鏡とラジオを手に屋上へ上がる習慣が出来ていた。寒い日と雨の日以外はこの暇つぶしを続け、この5年間であのカップル以外にも、何組ものカップル――男女の組み合わせだけではないカップル――が公園の付近でこっそり乳繰り合うのを目撃した。見ているとも知らずに、セックスの一歩手前まで行ったカップルまでいた。マンションの窓から、電気を消し忘れていぎたなく眠る女の子の姿に興奮した夜もあった。奇妙な縦揺れをする路駐の車を見かけたこともある。鉄の箱の内部で繰り広げられている淫行を想像し、双眼鏡を左手に持ち直して、硬くなったそれを握って扱いた。すぐに射精した。せめて音が聞けたらもっといいのに。そう思って、電気街で小型の集音器を購入した。これで再び縦揺れ車に遭遇してもバッチリだと息巻いたが、残念ながら今でもその再びは訪れていない。

 毎日のように覗き、もといヒューマンウォッチングをしていても、こんな閑静な住宅街では、“いい場面”を目撃できる機会など、一か月に一度か二度ほどだった。だから、ラジオのついでに覗きをしているようなものだった。非常に、言い訳臭いけれど……。

 今日も特になんもねえやな、と独りごち、足を伸ばして屋根の斜面に添うようにして仰向け様に寝転んだ。しばらくしたら、また出歯亀を再開するつもりで、双眼鏡は胸の上に置いた。暇をつぶすのに携帯ゲーム機でもとってこようかと思ったが、夜は澄んで冴えわたり、星が綺麗なので止した。番組は開始20分を過ぎ、二つ目のコーナーに差し掛かっていた。ラジオから流れる音声に耳を傾けつつ、ぼんやりと天の川を見上げた。

 ウトウトと目を覚まし、それによってやっと自分が眠っていたことに気が付いた。イヤホンから、本日の放送は終了したことを伝えるしみったれた音色が流れている。つまりは、午前一時よりも遅い時間だ。番組を聞き逃したことを残念に思いつつ、うんと伸びをして上体を起した。ここまで夜が更けると、破廉恥カップルどころか、起きているやつも稀だ。向こうのマンションを見ても、二つまだ明りの灯っている部屋もあるが、ほとんどの窓は暗い。俺も寝よう。のっそり立ち上がり、部屋へ戻ろうとしたところ。

 突然、叫び声が夜のしじまを引き裂いた。起き抜けの頭がボケて犬の吠え声を聞き間違えたのか、我と我が耳を疑ったが、間違いなく人間の男の声だった。声のした方――丘塚公園の方へ視線を巡らせると、男が公園の砂場にへたり込んでいるのが見えた。そして、その男の前方に、公園の白い照明に照らされて、何か黒い影があった。俺は自然と双眼鏡を覗いていた。見つからないよう、狙撃手よろしく匍匐状態になったのは、いつもの習慣からだった。よく見ると、男はさっきベンチで酔いつぶれていたサラリーマンだった。年齢は30歳くらいだろうか。スーツを小脇に抱えて、ジタジタと足で砂場の砂を掻いている。目の前のモノから、逃れようとしているが、腰が抜けてしまっているらしい。細かな顔の造作までは分からなかったが、その表情が恐怖に歪んでいるのは容易に想像できた。すぐ近くに落ちている、スマートフォンがバックライトのぼうとした光を放っている。驚いた拍子に落としたのだろう。

「なんだあれ……?」

 へたり込む男に“何か”がにじり寄っていた。双眼鏡越しでさえ、ソイツは“何か”としか言いようが無かった。全身が影のように真っ黒で、輪郭さえも覚束なく曖昧で、だというのに、そこに実体があるということは、ハッキリと感じ取れる。まるで、切り取った闇に命を吹き込んだような――そう表現する他ないような、おぞましく、不吉な存在だった。生物かどうかさえ不明だったが、良くないモノだと直感的に理解できた。異形。異形である。遠くから目にしているだけで、背中が冷たくなった。

 男との距離が3m程になった所で、ふいに黒い塊は動きを止めた。自然と、俺も呼吸を止めていた。と、次の瞬間、黒い何かは膨張して弾け、アメーバが擬足を伸ばすみたいに男に襲い掛かった。男はあっという間に砂の上に押し倒された。悲鳴を上げる暇さえなかった。ドロドロとした不定形の塊が自在に拡がり、胴を、顔を、足を、手を、全身を隈なく包み込んでいく。バスタブ一杯のタールを浴びせかけられたみたいだった。さらに、その異形のタールは体の下にまで潜り込み、捕食するように男を取り込んでしまった。

 何がどうなっているのか、まるで見当がつかなかった。男を捕獲した黒い物体の表面が波打つように躍動している。一体、あの内部では、どんなことが行われているのか――
その時、ポケットの中の集音器の存在に思い当たった。双眼鏡を構えたままそれを取り出し、ラジオのイヤホンを付け替えた。装置を操作し、公園の方向へ向ける。

 すると――
 ずぷ。ぐちゅ。ぬちゅ。ぬるる。ぐぽ。ぐぽ。ぐじゅる。うじゅる。じゅる……。

 イヤホンから耳の奥にへばりつくような不快な粘着質の音、それに混ざって、「んんっー!」とか、「うっ、うっ!」というような、くぐもった男の声が聞こえてきた。言葉ともつかない意味不明瞭な叫び声だったが、それが恐怖と混乱で彩られていることは、ハッキリと理解できた。

ずるずる。ぬぷぷ。ぐっぽ。じゅる。じゅるる。ぬちゃ。ぬちゃ。ぬちゃ……。

 闇の塊は不気味な音を立てながら、内臓めいた収縮を繰り返した。俺は魅入られたように、惨状を見続けていた。どれくらい時間そうしていたのだろう? おそらく十分ほどだろうが、一時間以上にも長く感じられた。男の声は次第に小さくなり、とうとう聞こえなくなってしまった。


ぬちゅ。じゅじゅる。じゅる。ぬぷぷ。じゅる。じゅずるる……。


 その黒い異形は、さらにしばらくは奇妙な躍動を繰り返していたが、最後に一つ大きく震えた切り、動きを止めた。それと同時に不快な音も、聞こえなくなった。

「まさか……食べられちまったのか……? じゃあ、あれ、人を食うのか?」

 肉まんのような小山型になって動きを止めたそいつは、いかにも満足げだった。さっきのリーマンは、アメーバに取込まれた獲物のように、吸収されてしまったのではないかと言う気がした。つまり、もう。

 こういう場合、どうすればいいのだろう。好奇心で一部始終を見てしまったが、今からでも、警察でいいのか? とにかく誰かに連絡を――
刹那、黒い塊がずるりと音を立てて蠢いた。

「ひっ……!」

 見つかった――直感的にそう思った。目鼻どころか、体の起伏すら皆無であるというのに、確かに俺はその瞬間、レンズ越しに黒い異形と眼が合ったように感じたのである。論理や知性以前の感覚によって。恐怖が背筋をゾクゾクと走り抜け、無数の鳥肌となって表れた。公園から我が家まで50m以上は距離がある上、屋根で匍匐状態。そんな俺の存在を察知したのだろうか? 疑問は頭に浮かぶと同時に、後回しになった。異形が、家を目がけて、真っ直ぐに近づいてきたのである。どうやって動いているのかは分からない。ナメクジのように這いずってきているようにも、無数の足を生やして駆けてきているようにも思えたが、確認はできなかった。奴が動き出すや否や、俺は短い悲鳴を上げて立ち上がり、身を翻して屋根の上を駆けていた。家の中へ逃げ込むために。

 三階にある自室に入るや、荷物を床に放ってベッドに潜り込み、頭から布団をかぶった。部屋の電気は付けていない。真っ暗闇の中で荒くなった呼吸を整え、体を丸くする。熱帯夜だというのに、全身に鳥肌が立っていた。しかし、布団は外敵から自分を守る殻のようで、いかにも頼もしく、包まって震える内に、少しずつ安らいだ気分になってきた。

 平静を取り戻しつつある頭で考える。あれは一体なんだったのか? 影のような、モヤモヤとした黒い不定形の物体。見たことも聞いた事も無い、異形の存在――だが、そんな考えは馬鹿らしい。もしかしたら、何かを見間違えたとか?
ふいに頭をよぎったその素敵な考えを、全力で肯定することにした。

「いひ、ひひ……そうだよな、あんなモノ、初めから存在するわけねえよ。あれは寝ぼけてみた幻。あのリーマンだってきっと、もう起きて公園から帰ったあと。最初から公園には誰もいなくて――」

 その時ふいに、嫌な気配を感じた。まるで、素肌の上を何十という蟲が這い回るような、不快な怖気が背筋を駆け抜けた。

「ひ……」

 咄嗟に上体を起し、部屋の中を見回した。闇に慣れた眼が、ぎっしりと小説本が詰まった本棚や、筆記具や書類が乱雑に置かれた学習机などを捕えた。いつもと変わり映えの無い、俺の部屋だ。しかし、この悪寒はどこから――視線は、自然と窓の方へ注がれていた。部屋には南側にベランダがあって、西側には出窓がある。今はそのどちらにも、カーテンを引いてあった。外の様子は見えない。だが、おかしなことに西側、ベッドのすぐわきにある窓が暗いのである。いつもなら、窓の外は月の光でほのぼのと明るいはずなのに――
 ベッドの上に膝立ちになって、恐る恐るカーテンを引いた。果たして、4枚のガラスで構成された台形に出っ張った窓の向こうには、夜よりもなお黒い暗黒が広がっていた。いや、それだけではない。その暗黒の存在は、すでにテリトリーを侵し始めていた。正面のスライド式の窓の隙間からソイツの一部が、滑り込んできていたのである。鍵を開けようとしている――それを理解した瞬間、カッチ、と音を立てて取っ手式の鍵が下ろされた。窓の外の異形が、にぃ……といやらしい笑みを浮かべた。顔すらも無かったが、確かにそいつは笑ったのだった。

 ガラガラと音を立てて窓が開く。その隙間から、何とも言えない悪臭がむわぁ、と漂ってくる。子供なら何とか通れそうなくらいの狭い隙間だった。だが、異形は全身がゲルで出来ているかのように柔軟で、狭い隙間を一杯に埋め尽くしながら、ぬるりと室内に侵入しようとしてくる。間抜けなことだがトコロテンを想起した。

「なんなんだよてめぇ……く、くんなよっ! わっ!」

 後ろへ下がった拍子に、ベッドから転げ落ちてしまった。ぶつけた腰が痛んだが、懸命に立ち上がってドアへ向かって逃げた。しかし、ドアを開けたその瞬間、背後の異形はツルのように体の一部を伸ばして右足首を把握してきた。強い締め付け。ヌメヌメとした、世にもおぞましい質感。咄嗟に俺は体を捻転させて拘束を解き、勢い廊下に転び出た。少しでも時間稼ぎになればと、ドアを閉め、廊下の突き当たりにある階段を下りた。部屋の方から開こえた扉を開ける音が俺の足をさらに急がせた。少し掴まれただけなのに足首にはヌタを思わせる奇妙に温かい粘液が多量に付着し、酷く気味が悪かった。まるで、掴まれた部分が腐っていくような心地に眉根をひそめながら、玄関の鍵を開け、寝間着姿で靴も履かずに外に出た。素足で踏むアスファルトが冷たく痛い。首にかけた双眼鏡がブラブラ揺れる。

 とにかく、誰か助けを呼ばないと――走りながら辺りを見回したが、深夜の住宅街には人の影すら見えない。舌打ちして国道を目指した。国道に出て、どうにか車を捕まえよう。それができなければ、警官、国道沿いに確か妙に近代的な形をしたポリボックスがあったはずだ。

 警察官にあれをどうにかできるかどうかは知らないが、今は藁にもすがりたい。アイツはやっぱり、俺を食うつもりなのだろうか。どうして? ただ、見つけたからか? 無差別? もしそうだとしたら、家の者が危ない。姉も親父もお袋も、家で寝ていた。もし襲われたら、ひとたまりもない。逃げる間もなく、あのサラリーマンみたいに。ああ、くそ。それなのに、俺はどうして一人で逃げてきたんだろうか。

 戻って様子を見てこようかという考えが頭をよぎったが、足は回転を続け、とうとう国道まで来てしまった。片側2車線の道路には、全く車が通っていなかった。ヘッドライトの光すら見えない。少し待とうかと一瞬ためらったが、すぐに東側へと方向を変えた。横断歩道を渡ってすぐの所に、交番が見えたからだ。赤信号を突っ切って、転がるように明るいその内部へと飛び込んだ。

「おまわりさんっ!」

 飛び込み様に呼びかけたが、返事は無かった。もう一度呼びかけようと思って、すぐにやめた。真新しいデスクの上に、巡回中の三角パネルが立ててあるのをみつけたからだ。

「くっそ! 役立たずのポリ公っ!」

 悪罵が口を突いて出た。

 白い壁に貼られた様々の掲示物、悪面相の指名手配犯がこちらを睨んでいる。壁にかかった時計の秒針が、キリリキリリと時を刻んでいる。俺はイライラと交番の外へ飛び出した。夜行巡査がすぐそこまで帰ってきてはいないかと、左見右見し、東へとまた駆けだす羽目になった。西側、横断歩道のその向こう側に、奴の黒い姿を捕えたからだった。追いかけてきているのは確実だ。俺が狙われているのだ。疾駆しながらそう考えた瞬間、なぜ? という疑問と、家の者が危険にさらされなくてよかったという安堵が同時に胸に去来した。自分でも安堵の感情は不思議であったが、すぐにその不思議さは焦りと恐怖の中に紛れてうやむやに溶けた。逃げる。生命の危機に晒された動物の本能が、理性を押して前に出ていた。誰かに出会わないか、車が通りかからないか、迫りくる恐怖の存在を背中に感じながら、必死にすがれるものを探した。しかし、走れど走れど街路灯と歩道橋があるばかりで、人の姿は霞も無い。ガソリンスタンドは人件費をケチってセルフサービスだ。

 ぐじゅり。ぐじゅる。何かがのたうつような、不気味な粘質の音が徐々に近づいてくる。振り向くな。脳裡を警告がよぎったが、恐怖の誘惑に負け、一瞬後ろに視線を投げてしまった。黒い物体が歩道一杯に広がって、津波のようにうねりながら追いかけて来ていた。引き攣った、声にならない声が、唇の隙間から、ひゅ、と漏れた。距離は10メートルとなかった。息が上がる、横っ腹が痛い。もう少し体を鍛えておけばよかった。

 やがて道は緩やかな下り坂になった。その先で、道が二手に分かれていた。まっすぐ行けば坂、勾配が急な、高波のような坂道だ。もう一方は、南へと折れる道、国道の下を潜る、歩行者及び自転車用のトンネルだった。選択の余地は無かった。上りでスピードが落ちれば、その間に奴の擬足に捕らえられる恐れがある。

 俺は左足を強く踏み切って、ほぼ直角に曲がってトンネルに入った。それがまずかった。足首に鋭い痛みが走った。と、同時に前につんのめっていた。5歩6歩とどうにか堪えてたたらを踏むようによろめいて、それが限界だった。

 果たして、コンクリートで舗装された硬い路面に、肘をついて倒れ込んでしまった。痺れるような痛みが肘と膝に広がる。擦りむいたかもしれない。転んで擦り傷をこさえるなんて、何年振りだろうか。思考にそんなノイズが混じる。痛みをこらえ、手をついた、次の瞬間。

――ずるるるるっ。

 背後で音が聞こえた。見てはいけないと思いつつも、つい後ろを振り向いてしまった。名状しがたい黒い怪物は、トンネルの入り口に差し掛かっていた。

「ひいっ……!」

 恐怖に駆られた俺は、赤ちゃんのような四つ這いで逃げた。硬い路面が膝に擦れて痛い。走って逃げないといけないのに、すっかり腰が抜けて立ち上がれなかった。

 自転車に乗って立ち上がれば、頭をぶつけかねない高さの、狭い、20m程の長さのトンネルの内部は全く森閑としていた。薄暗く、冷たい匂いが充満している。等間隔に並んだ電灯は、一つが切れかかって明滅を繰り返し、別の一つは完全に切れていた。壁際に500mlのビールの空き缶が転がっている。こんな所で、こんなわけのわからないやつに、命を奪われてしまうのか――あまりに理不尽じゃないか。気が付けば、目の縁に涙が溜まって、視界が滲んでいた。悪い夢なら、はやく覚めてくれ。現実の世界に戻りたい。安閑とした、死からほど遠い世界に――
 黒い塊がヌチャヌチャと音を立て、背後からゆっくりと迫ってくる。まるで、仕留めた獲物を弄び、怯えさせることに悦びを見出しているようだった。

 ふいに、ヌメヌメとした不気味な感触が足首にぬちゃりと絡み付いてきていた。見ると、黒い塊は触手のように体の一部を伸ばして、俺の右足を捕まえていた。

「やめろ、はなせよ……!」

 裏返った声で弱々しく叫び、闇を振り解こうとする。そんな俺の抵抗を嘲笑うかのように、暗黒の塊はその魔手を収縮させ始めた。縄を手繰るように、足首を引っ張られる。すると当然、俺の体はヤツの元へと引きずられることとなる。

「やめてくれぇ……! もう、勘弁してくれ……」

 ズルリ、ズルリ。四つ這いすら崩され、匍匐の格好で捕食者の元に引き寄せられていく。節の白むほど強く地面を掻いた指は、何の歯止めにもならなかった。

 ズルリ、ズルリ。擦過性の熱さ。指先の皮膚が破れる。右の中指の爪が破れて血が滲んだ。不思議なことに、痛みは感じなかった。痛みよりも恐怖が勝っていた。

 ズルリ、ズルリ。とうとう爪先が闇に触れた。そのまま、引きずり込まれる。まるで泥濘を踏みしめたように、爪先が、足首がズブズブと闇の中に沈んでいく。ぬかるんだ、滑やかで温かな感触に膝の下まで包まれた。気持ち悪い。おぞましい。怖い。死にたくない。許せない。様々な感情が、胸の内で渦巻く。激しい悪寒が全身にプツプツと鳥肌を撒いた。俺はガタガタと身を震わせながら、ヤツを仰ぎ見た。目鼻どころか顔さえもないソイツは、またニヤリと、嗜虐的に笑いやがった。

 と、次の瞬間、闇が膨張した。アメーバの擬足。逆巻く波。打たれた投網。様々な比喩が頭に浮かんだ。闇がうねりながら、天井を覆い、視界一杯に広がって――
「やだ、やだよ……まだ死にたくねぇ……俺、死にたくねえよぉ……おかあちゃーん」

 そしてとうとう、全てが闇に閉ざされた。獣臭とも腐敗臭ともつかない、あくどい臭いが鼻腔を汚染する。

 スライムのように粘性のあるドロドロの物体が、じゅるじゅると不快な音を立てながら、肉体をじっくりと包み込んでくる。裾から、袖から、襟元から、服の内部に侵入し、生温かなおぞましい触感を、念入りに肌に擦り付けてくる。これから俺は肉をスープのように溶かされ、骨の髄までしゃぶり抜かれるのだ。あのサラリーマンのように。そう確信し、震えていたのだが――
「こ、こいつ……なにするんだ……!?」

 粘液の動きに、思わず首を傾げた。上半身を這い回る闇は、首筋や臍窩や脇腹や腋の下をヌルヌルと舐め回し、胸の突起を撫でるように刺激してきていた。さらに不思議なことに、ズボンに入り込んだ大量の闇は、パンツの中に潜り込み、性器を弄び始めたではないか。ヌメヌメとした感触が肉棒にねっとりと絡み付き、睾丸を緩やかに包み込んでくる。まるで温かなスライムに責められているようなその刺激はあまりにも艶めかしかった。恐怖に強張った肉体が、甘い快感の中に弛緩する。気味悪さを感じながらも、体がビクビクと震えてしまう。気が付けば、下半身に血液が流れ込み、肉棒は硬く張りつめていた。

「あ、ああああぁ……やめろぉ……気持ち悪い……」

じゅるり……ずるり、ずるる……。

 筋張ってエラの張った肉棒の表面を、闇がねっとりと這い回る。その感触は、恐怖とは違ったゾクゾクを背筋に這い上らせた。こんなヤツ相手に、感じさせられている――その屈辱的な事実に、悔しさと怒りが込み上げるが、体の反応を抑えることができない。と、さらにゲル状の触感は、パンツの裾から入り込み、蟻の門渡りに淫らな刺激を加え、アナルにまで到達した。尻肉を卑猥に撫でながら、その中心の窄まりをユルユルと舐め回し、時折強い力でノックするように突いてくる。間違いない、中に侵入しようとしている――獲物の体内に口吻を差し込んで、消化液で内臓をドロドロに溶かして啜り食う円口類の生態が、記憶の引き出しから不意打ちのように転がり出てきた。嫌悪と忌避に戦慄した俺は身悶えしながら大声で叫んでいた。

「いやだああっ……そんな卑猥な食べられ方……絶対に……いや――むううっ!」

 大きく空いた口に、闇の一部がなだれ込んで来た。ドロドロとしたスライム状の穢れた物質が、口いっぱいに広がり、喉を犯してくる。悪臭がより強くなった。舌の上に生臭いようなエグ味が広がる。一瞬で吐き気が込み上げるが、強○的に喉に蓋をされた状態では、爽快な排泄は不可能で、むかつきが蓄積するばかりだった。さらに、耳の穴まで粘液は入り込んできた。ぐちゅぐちゅ、ぬるぬると粘着質な水音が頭の中に直接響いてくる。まるで、脳味噌をかき混ぜられているような感覚に襲われる。あまりに気味が悪く、苦しかった。だが、鼻腔は塞がれていないため、かろうじて呼吸は出来た。意図してかどうかは分かりようがなかったし、理解したくも無かった。

「むうう、ううううぅ……!」

 俺は口内への侵入物を噛み切ろうとした。だが、文字通り歯が立たなかった。スライムのようになのに、その内部には芯が通っているように弾力があって硬いのだ。いや、“硬くも出来る”のかもしれない。

 さらに、パンツの前の部分から侵入した闇が、淫らな刺激に痙攣する肉棒を、睾丸ごとねっとりと包み込んできた。何をするつもりなのか――そう思った次の瞬間、ペニスが強烈な扱き上げとバキューム感に襲われた。見えないが、筒状になった闇のゲルが、波打つように蠕動し始めたのだろうと直感した。睾丸への揉み込むような刺激もたまらない。気持ち悪いのに、なすすべなく快楽を引きずり出されてしまう。

 何のためにこんなことをするのか? 何もわからないまま、肉体を弄ばれる。快感と酸欠によって、徐々に恐怖心が薄れていく。危険だという意識はあったが、五感を犯されながら、どんどん筋肉が弛緩し、体が脱力していってしまう。

 その時、不意打ちのように肛門をグイッ、と押された。あ、という間もなく、ドロドロの粘液に浸され、緩み切った後孔は、おぞましい触手の侵入を許してしまった。

「うぐ、ぐうううぅ……!」

 ヌメヌメとした、生温かい異物感。巨大な不定形の、けれど硬くしこった触手がグネグネと、腸内を拡張するように蠢く。そのゼリー質の表面が腸壁を摩擦する度に、何とも言えないもどかしい感覚が生まれ、体が意思とは無関係にピクピクと反応してしまう。そして、流動する粘液塊がペニスの裏側辺りを捕えた瞬間、

「ううっ、ふうううぅ……!」

 強烈な快楽の電流が背筋を駆け抜け、体が弓なりにしなった。快感のツボを直接刺激されたようだった。男のお尻には、前立腺という器官があって、そこを刺激されると女のように気持ち良くなれる、と聞いた事があったが、まさかこんなにすごいなんて――
腸内を○す闇の粘塊はさらにうねり、のたうちながら体の奥深くへと侵入してくる。侵入の動きに伴って、快楽ポイントをゴリゴリと抉られ、俺の体は解剖実験のカエルのような意思とは無関係の発作的な痙攣に見舞われた。

 痺れるような恍惚感が全身に広がる。前立腺への刺激が、ペニスの快楽と脳内で有機的に結びついて、喩えようも無い快感となって作用した。体が熱い。もう、我慢出来ない――次の瞬間には、闇に貪られたペニスの先から、快楽への降参を示す白が漏れ出していた。淫有する異物に圧迫され、押し出されるような無様な射精。だがその放出感は、今までに経験したことが無いくらい、素晴らしいものだった。

「むううぅ……うく、くう、うううぅ……」

 体から、さらに力が抜けていく。たとい無駄な抵抗でも、生命としてあがかなければいけないと感じつつも、全身を闇に抱かれたまま、四肢をだらりと投げ出した。無抵抗になった俺に、闇の塊はさらなる追い打ちをかけてきた。

 肉棒に纏わりついた粘塊が、淫らな音を立てて激しい蠕動運動を開始した。射精直後で敏感になった亀頭を、ヌメヌメとしゃぶり抜かれ、サオを扱き上げられ、尿道内に残った精液を啜りあげられる。その腰砕けの快感に、ペニスは堪えきれずに二度三度と立て続けに精液を噴きだした。闇の触手はまるでポンプのように、ぎゅぽぎゅぽと尿道から精液をバキュームしてくる。

「うぐぅ……ふううぅ、うううう……!」

 射精が止まらない。精液の放出が止められない。精巣から直接吸い出されているような気が狂いそうな射精の快感に俺は目を白黒させて悶絶するばかりだった。自分独りでする場合なら、一度満足すればそこで終えられるのに。強○される絶頂感は、もう快楽を通り越して苦痛の域に達していた。もうやめてくれ。これ以上されたら、気持ち良過ぎて頭がおかしくなる。そう叫びたかったが、喉奥を○す粘塊のせいで、くぐもった呻きにしかならなかった。

 体内への侵略も、ずっと続けられている。個体とも液体ともつかない弾力のある物質が、常に肛門と前立腺を圧迫し、質量と共におぞましい快感を送り込んでくる。暗黒に閉ざされた眼では見えないが、ずしりとした重みと、皮膚が張ったような感覚があって、もうお腹はカエルか臨月の妊婦のようになっていると理解できた。

 体の中から外から、闇に侵略される。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。五感全てをおぞましい闇にレ○プされ、穢される。息苦しさと、体の重さと、不快感と、恍惚感と、快感とが、渾然一体となって脳に押し寄せてくる。もう、辛いのか、気持ちいいのか、区別できない。いや、その二つはもともと同じような物なのかもしれない。わからない。ただ、真っ暗な闇の中で、ウネウネと蠢く闇に全身の皮膚と穴を犯され、目に涙を浮かべ、くぐもった声を上げ、体をヒクヒク戦慄かせて、絶頂に脳を痺れさせている俺が存在している。わからない。一体なんでこんなことになってしまったのか。

 わからないまま、内外からの凌○によって、肉体がエクスタシーに歓喜する。だが、もう精液は漏れ出さなかった。闇が脈動する肉棒に根を張っているからだ。つまり、細くした体の一部を尿道内に潜り込ませ、睾丸からこみ上げる精液をいち早く強奪しているのである。その副産物として尿道内から、前立腺を刺激される。アナルに入り込んだ粘塊との間で前立腺をサンドイッチされ、グニグニと嫐られると、脳内に危うい多幸感が広がって、心が蕩けてしまう。麻薬のような妖しい快楽のなかに、精神が取り込まれていく。

 ドロドロ。肉体もまた、闇の中に取込まれていく。手も、足も、腿も、尻も、胸も、肩も、首も、頭も、全て。捕食されているというのではない。消化吸収されているのでもない。体が闇に溶け出しているような、はたまた闇が自分の一部になっているような――だから同化というのが正しいのかもしれない。だが、摂食というのは、原初的なセックス、自他同化であって――ああ、もういい。分からない。考えるのはよそう。やめやめ。

 ただ気持ちいい。死ぬほど気持ちいいのだ。どうなってもいい。何も考えず、ただされるがままに身を任せる。わからないことは、わからないままでおいておく。無抵抗に侵略を、凌○を受け入れる。無抵抗になって、快楽に屈服しろ! 

 恐ろしくおぞましい闇の粘塊に肉体を蝕まれ、精神を蝕まれ。一つになる。真っ黒のコーヒーと真っ白のクリープのように。名女優と役のように。コデインとエフェドリンのように。生と死のように。精子と卵子のように。きれぎれになってドロリと溶けて、肉の一片、毛の一筋、細胞の一つにいたるまで結合して混じりあう。死ぬほど気持ちいい。気持ちいい。わからない。光が全て消え失せて。ただ黒々とした闇。闇。やみ……。


 時刻は、午前二時を過ぎていた。国道の下を潜る歩行者用の薄暗いトンネルの中央で、

 カシャ――と、電気的に合成されたシャッター音が鳴った。頭を金色に染めた、咥え煙草の若者が、コンビニ袋を左手にして、右手でスマートフォンを操作したのである。本能的な危機感に身震いしながらも、携帯で写真を撮って、ネット上のコミュニティにアップしようと思ったのは、哀しい習性かも知れない。そのレンズの向こうでは、うすぼんやりとした電灯に照らされて、不気味な黒い物体がその表面を波打たせていた。縦長の画面の中で、闇がのたりと動いた。そして、声も出せない若者に向かって、ニヤリと不気味な笑みを、確かに見せたのだった。

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