シロフミ 2020/08/05 21:53

明楽の入学式・前編

 ぎしっ、と洋式便座が軋む。
 両足をぐっと床に押しつけ、おなかを両手で揉みながらおしりに力を篭める。下腹部の奥底にずぅんと横たわ重苦しい感触を、無理矢理下のほうへと押し込む。
「ふぅうんっ……」
 鼻にかかった声が漏れ、気張った両足がぴくぴくと引きつる。
 膝にかかったスカートがくしゃりと皺になり、むき出しの間っ白なおしりのふっくらした丘の隙間で、小さな孔がぷくっと膨らんで盛り上がった。
「んんっ……んっ……~~っ……」
 洋式便座の上で息を詰め、真っ赤になって、明楽はおなかに力を入れ続ける。
 ぎゅっと握り締めた手のひらに汗が滲み、硬く張り詰めたおなかが痛くなってくる。
 しかし、そうやって少女がどれほど気張ってみても、鈍く澱む下腹部はまるで目立った反応を見せず、とうとう息が続かなくなってしまうのだった。
「っ、はぁ、はぁ……はぁっ」
 詰めていた息を吐き出すと、お腹に篭っていた力も抜けてゆく。強張っていた足をトイレの床に投げ出して、明楽は荒くなった呼吸を繰り返した。
 渾身の踏ん張りと息みで一度はぱくりと口を開き、肉色の内側を覗かせていた排泄孔もくるんとすぼまり、もとの格好を取り戻した。
 便器に腰掛けたまま、どんよりと沈む気分を拭い去れず、明楽は深い溜息をつく。
(…今日も、出ないや……)
 明楽が、トイレに行ってもまるっきりすっきりできないことに気付いて、もう4日になる。どちらかと言えばあまりお通じの良くないほうである明楽には、これまでにも二日三日、ウンチを済ませないことは時々あったことだが――こんなにも長い期間、排泄の兆候すらもないのははじめてだった。
 トイレに閉じこもってどれだけ気張ってみても、まるで明楽のおなかはうんちをする方法を忘れてしまったように動いてくれなかった。息んでも息んでも排泄孔だけがぱくぱくと蠢き、何も出すものがないよいうように孔口を開ける感覚ばかりで、明楽はそのたびに言うことを聞かない自分の身体を呪ってしまう。
 なにしろ今日で便秘7日目。
 もう一週間以上、明楽はうんちを出せていないのだ。
(あ……)
 どんより沈む気分で壁の時計を見れば、そろそろ7時40分を回ろうとしていた。そろそろ学校の時間が迫りつつある。
 明楽はとうとう今日もうんちをすることを諦めて、カラカラとトイレットペーパーを引っ張った。まったく汚れていない後ろの孔と、オシッコの出口をそれぞれ別々に綺麗に拭いてトイレを立った。
 ゴボ、ゴボボジャァアーーーッ……と大きな水音を立てて流れてゆくトイレを後に、憂鬱なため息を残して手を洗う。
 幸いにして、今のところ便秘による身体の変調はなかったが、1週間という長い排泄のなさは明楽の心を支配していた。今日こそちゃんとしよう、と決心して何十分もトイレに閉じこもっても、出てくるのはせいぜいおならか、焦げ茶色いカケラのようなものがころころとする程度。すっきりとするにはまるで及ばない。
 そうやって明楽が気にすれば気にするほどおなかは鉄のように鈍くなって、おしりの孔だけがじんじんと痛むばかりだった。
(ちょっとだけだけど、出そうな気がしたのに……)
 すっかり支度を終えた後でトイレに入ってしまったのも、ほんの少しだけ下腹部に感じた違和感のせいだった。それも結局気のせいだったのだ。おなかは変わらずずぅんと重く張って、1週間に渡って溜めこまれた食事のなれの果てをくすぶらせている。
「はぁ……」
(今日、入学式なのに……)
 鏡に映った紺色の制服を見て、また溜息をつく。この春から通うことになった学校の制服は、まだ幼さの残る明楽にはすこし大きい。これまでとは違う制服は、明楽が一歩『オトナ』に近付いたことの証でもある。
 そのはずなのに、まだ自分がきちんとトイレも済ませられないなんて、本当にみっともないように感じられてしまう。
(昨日のお薬も効かなかったのかな……)
 一昨日、明楽は薬局に入り、顔から火が出るくらいに恥ずかしいのを我慢して、おこづかいをはたいて便秘薬を買った。はじめてだからあんまり強くないお薬を、という店員さんのアドバイスにしたがって漢方薬のものを選んだのだが、二日飲み続けてもまるで効果はなかった。昨日の分は量を倍にしているというのに、今日もまったく変化はない。
 憂鬱な気分でトイレを出た明楽は、鞄を手に玄関へ向かう。
 共働きの両親はすでに会社に行っていて姿は見えない。それでも、連絡用のホワイトボードには入学式を案じる母の言葉があり、明楽の心をいくらか落ちつかせてくれた。
「……うん。がんばろう」
 今日から始まる新しい生活。新しい毎日。
少しでも気持ちを切り替えようと、明楽は一人、『いってきます』と挨拶をしてドアの鍵を閉め、家を出た。


 ◆◆◆


 朝の空気の中を、爽やかな雑踏が過ぎてゆく。
 明楽の街は大きく海に面している。海に向かって下る坂道を登ってゆくのはJRの駅に向かう大学生やサラリーマン。逆に海へと向かうのは明楽と同じ中学に通う生徒たちだ。みんなおなじ紺色の制服に身を包んで、口々に話しながら歩いている。
 そんな中にいると、明楽はの視界はだんだんと靴の爪先へと落ちていってしまう。
 明楽は、あまり人とおしゃべりをするのが得意ではない。アキラ、という読みの男の子みたいな自分の名前のせいで誤解されがちだが、どちらかと言えば明楽はおとなしい女の子で、外で遊んだりみんなとでお出かけするのよりも、図書館で一人静かに本を読んだりする方が好きだ。
 だから、明楽は自分の名前が好きではなかった。
 両親が生まれた時にちょっと体重が足りなかった赤ちゃんが元気に育ちますようにと願いを込めて付けてくれた名前だけど、初対面のたびに男の子みたいな名前だねと言われてしまうのには、もううんざりしているのだった。
(……はぁ)
 そんな自分の性格が嫌で、明楽はいつも一生懸命になって引っ込み思案な自分を直そうとしているのだが、これまであまり上手くはいっていなかった。
 実は今回の体調不良も、入学式、中学校での新生活という新しい環境を前にして『オトナ』にならなきゃいけないという見えないストレスになって起きているものなのだが――それに明楽自身は気付けていないのである。
「ふぅ……っ」
 制服のスカートが、ほんの少しだけきつい。先月にきちんと採寸して作ってもらっただいぶ大き目の制服なのに、今の明楽のおなかはぱんぱんに張っていて、動くたびにじんわりと痛むような気がする。
 どんよりと濁ったものがお腹の奥に澱んでいる感触は、忘れようにも忘れられず、明楽はいつも以上に落ち込んでしまっていた。
 いくら気にしないようにしようと考えても、1週間もうんちを済ませられず、今もなおおなかの中に排泄物を溜め込んでいるという事実は、女の子としてはあまりに恥ずかしいことに思えた。
(嫌だな……学校で、はじまっちゃったりしたら……)
 想像はどんどんと嫌なほうに悪い方に傾いてゆく。
 明楽はぎゅっと唇を噛んだ。さっきまでは出したくてたまらなかったおなかの中身だが、もし学校でそんなことになったら大変だ。明楽は家の外のトイレをほとんど使ったことがない。壁ではなく板で仕切られた個室が並ぶ学校のトイレは、視界だけは遮られるものの、音や匂いはまる通しなのだ。注意さえしていれば、隣の個室に入った子が何をしているのかなんて簡単にわかってしまう。それは多分、上の学校でも同じだろう。
 羞恥心が人一倍強い年頃の少女にはとても耐えられるものではなく、そんな場所を使うのは明楽もよほど切羽詰った時だけだった。
 まして大事な入学式の日にそんなことになってしまったら、どんな噂をされてしまうかわかったものではない。
 不穏な想像に頭を悩ませつつ、明楽がもう一度ため息を付いた、その時だった。

 ぐるぅ……っ

「……ぇ…」
 はじめは気のせいだと思っていた。けれど、すぐに二度、三度と重い音がおなかの奥に響く。耳ではなく身体を伝わってくる鈍い音は、確かに明楽の身体の内側から発せられたものだった。
 明楽は息を飲んで、重く張り詰めたおなかに手を当てる。

 ぐるるるぅ……ごきゅぅうぅっ……

 注意していなければ分からないほどのかすかな異音。けれど、4度目に鳴り響いたそれははっきりと明楽の耳に届いた。
(う、うそ……)
 これまでどれだけ体操をしても、薬を飲んでも、トイレで頑張っても微動だにしなかったおなかが、ぐるぐると鈍い音を立てている。
 空腹のそれではありえなかった。朝食のハムサラダとトーストはきちんと食べてきたし、おなかはまるで空いていない。そしてなによりも、音の発生源はそれよりももっと下、明楽の下腹部から伝わってくる。
「ちょっと、急に止まらないでよっ」
「あ、ご、……ごめんなさいっ」
 立ち止まった明楽にぶつかりそうになった二年生のグループに道を譲って、明楽は慌てて頭を下げる。
 その間にも、また明楽のおなかはぐるるるぅ……と鈍い音を立てた。
(うそっ……これ、本当に……?)
 背筋がおののく思いで、明楽はぎゅっとスカートの裾を握る。
 確かに、これはおなかの音だ。内臓が活性化し蠕動が起きる予兆だ。この1週間一度もなかった出来事に、明楽は慎重におなかの様子を探る。
「…………」
 制服の上からおなかに手を添えて、そっとさする。
 異常は……ない。おなかは完全に沈黙していて、まるで平静、平穏。ベタ凪だ。トイレに行きたいなんてことは少しも感じない。
 何度確認してもそれは変わらなかった。
 それなのに、妙な音だけが下腹部で蠢いている。正体不明の蠕動は、身体に異常をもたらしていない分だけ不気味に感じられた。
(……なんでもないの、かな……)
 慎重に、周りからは気付かれないようにおなかを撫でる。
 何度か低く鈍い音を立てながら唸り声を上げる自分の下腹部――明楽は不安を抱えたまま、ゆっくり歩き始めた。
(…………へいき、だよね……?)
 慎重な足取りでそろそろと進む。一度そうやって意識してしまえば、下腹部に集まる重い澱んだ気配はますます強くなっているような気がした。
 明楽が、ここまで神経質にトイレのことを気にするのには訳がある。
 小学校5年生のときのこと。当時、両親の勧めでテニスのサークルに所属していた明楽は、一泊二日の合宿に参加していた。慣れない仲間と知らない土地、そんなちょっとしたことの積み重ねは、しかし繊細な少女の身体に大きな異変を及ぼし、明楽は行きと帰りのバスの中で3回もトイレに行きたくなってしまったのだ。
 トイレに入れる機会はきちんとあったのだが、恥ずかしがり屋の明楽は外のトイレを使うのが嫌で、その結果バスの中でどうしようもなくなり、なんと3回もバスを止めてしまったのだ。
 2回目までは運良く近くにあった公衆トイレに駆け込むことができたが、最後の1回はなんと高速道路の上。明楽は、部活の皆が乗っているバスの中でエチケット袋にトイレを済ませなければいけなかった。
 引率の先生はフォローしてくれたが、5年生もなってトイレが我慢できない子だということはたちまち噂になり、明楽はついにサークルをやめなければならなかった。その時の死んでしまいたいくらいの恥ずかしさ、情けなさは少女の心に深いトラウマになって突き刺さっている。
 だから、もうそんな子供のようなことは絶対に繰り返すまいと、明楽は固く心に誓っていたのだった。
「どう、しよう……」
 通学途中の生徒達に次々と追い越されながら、幼い少女は思い悩む。
 一週間ご無沙汰の排泄、という事実は重く少女の頭を支配している。明楽がおなかの中に不安な爆弾を抱えているのは確かなのだ。そして、これから明楽は入学式という長い式典に臨まなければいけない。
 もしその時に、今はないような便意が本格的に襲ってきたなら――
 いったいどうなってしまうのか、想像するだに恐ろしい。
 いっそ家まで戻ろうかと考えたりもしたが、流石に今来た道を戻ってトイレに入り、また再び学校まで行くにはいくらなんでも時間がかかりすぎる。
気を揉みながらのろのろと歩いていた明楽の視界に、見なれたコンビニのマークが見えたのはその時だった。
(……あそこ、なら……)
 前に、一度だけ。明楽はこのコンビニのトイレを使ってしまったことがあった。
 その時は確かオシッコの方だったが、もうどうしようもないくらいトイレに行きたくなって、とうとう我慢できなくなってしまったのだ。お世辞にも綺麗なトイレとは言えなかったが、それでもオモラシの悲劇を回避できたのは今でも記憶に残っていた。
 具合のいいことに、あのコンビニのトイレは自由に解放されていて、いちいち店員さんに使っていいかどうか聞いたりしなくてもこっそりと入れるのだ。
「……うん。そうだよね……」
 引っ込み思案な自分とさよならをして、ちゃんとした『オトナ』になるために。ここで昔みたいに外のトイレに入るのを恥ずかしがってはいけない、と明楽は決心する。着ている制服も、明楽に力を貸してくれているようだった。
 ぐっと拳を握り、明楽はコンビニの入り口に向かう。
『いらっしゃいませー』
 店員の挨拶に出迎えられながら、そそくさとドアをくぐった。
 会社や大学に向かう大人たちが朝食や新聞や煙草を買うのでごったがえしているコンビニは、明楽のような中学生が一人で入ってゆくのにはかなりの勇気を必要とした。
(ごめんなさい……おトイレ、使います……)
 明楽はけっしてお客としてここに来たのではない。ただただ、重苦しいおなかをすっきりさせるためだけにコンビニに入っただけなのだ。それが罪悪感になって、少女の顔を俯かせてしまう。足早に店内を横切って、明楽は奥のトイレに一直線に向かった。
 男女共用のトイレは飲み物を売る冷蔵庫の棚と、雑誌を売るフロアの間にあった。
 鍵が掛かっていないのを確認して、ドアをノック。返事がないのを確かめて個室に入る。
 中には古いタイプの和式の便器がひとつ。
 掃除はそこそこの頻度でされているせいか嫌な匂いこそしないが、くすんだ色のタイルと、無造作に積まれた予備のトイレットペーパーが明楽に生理的な嫌悪を催させる。清潔な家のトイレに慣れた明楽には、それだけで出したいものも引っ込んでしまうような気分だった。
「…………っ」
 回れ右をしたくなるのを我慢して、明楽は鞄を荷物起きに乗せ、スカートをそっとたくし上げた。下着を下ろしてゆっくりとしゃがみ込む。
 明楽の家のトイレは洋式で、こうして深くしゃがみ込んで排泄を試みる機会はない。いつもと違う姿勢のせいか、さっきまでのおなかの音のせいか、今度はちゃんとうんちが出てきそうな気がした。
 明楽はゆっくり水のレバーを倒し、音消しをしながらおなかに力を入れる。
「ううんっ……っ」
 鼻にかかった少女の声が、狭い個室に響く。
 むき出しになった白い肌がゆっくりとうごめき、小さな下腹部が緊張と弛緩を繰り返す。何度も息んでは拭いていたせいか、明楽のおしりの孔の周辺はいくらか赤くなっていた。小さなすぼまりは明楽が息むのにあわせてゆっくりと盛り上がり、ふっくらと綻びて、飴色のなかに綺麗なピンク色の、内臓の色を覗かせる。
「ふぅぅぅうっ……くうぅっ……」
 けれど、明楽が可愛い眉をぎゅっとよせていくら気張っても、おなかの中身は重く澱むばかりで、まるで動く気配がなかった。タイルの上に革靴の底を擦らせて、明楽は姿勢を変えながらなんどもおなかの中に『うんちを出せ』という命令を繰り返す。
「んんっ……んっ、んんっ……っ!!」
 長く長く息を止め、ぐっとおなかを押し込んでみても、結果は同じ。相変わらずの便秘が少女の身体を支配している。
 ふぅーっ、と大きく息をして、明楽は俯く。
(やっぱりダメなのかな……)
 わざわざトイレに入ったのに、ちゃんとトイレも済ませられない。情けなさと恥ずかしさで、顔から火が出そうだった。
 と……
 がちゃ、というノブを引く音に明楽ははっと身体を竦ませた。
 空耳かと思うが、それを打ち消すように、ドアを叩く二度の音が狭い個室に響く。

 コンコン。コンコン。

(だ、誰か……入りたいん、だ……っ)
 明楽は慌ててノックを返した。そうしてはじめて、家ではない外のトイレの個室の中で、おしりをまる出しにして、うんちをしようとしている自分に気付く。とたんに沸き起こってきた羞恥心が明楽をがんじがらめに縫いとめてしまった。
 今、外には誰かが、トイレに入りたくて待っている。
 もはやこのトイレですることがない明楽がすべきことは、すぐにでも服を整えて、外の人と変わってあげることだったが、それでは自分がここに――トイレに入っていたことがバレてしまう。
 トイレを。うんちを、しようとしていたことが。
(ゃだ……っ)
 人一倍の羞恥心が一気に高まり、明楽の心臓を鷲掴みにした。あっという間に鼓動が跳ね上がり、明楽はしゃがみ込んだまま動けなくなってしまう。
 個室という密室の中で、次を急かす誰ともわからない相手。それが怖くてたまらない。もし男の人だったら。自分がここで何をしようとしていたのか、全部知られてしまう。想像するだけで気が遠くなりそうだ。
 もはや明楽は動けなかった。ぎゅっと目をつぶり耳を塞いで、表に待つ誰かの気配が遠ざかっていくのを願うだけだった。





 かち、かち……と、痛いほどの沈黙の中を、腕時計の秒針の音だけが響いている。
(……やっぱり、だめ……出ない……)
 個室に駆け込んでから10分あまり。遅刻までの時間はそろそろ秒読みに入っている。完全にうんちを済ませるための体勢を整えながらも、明楽のおなかはそんな役目すら忘れてしまったように、排泄を拒否し続けていた。
 下腹部に溜まった重みが薄れたわけではない。むしろそれは家を出たときよりも増している。しかし、そんな違和感とは裏腹に便意だけがすっぽりと抜け落ちたように感じられなかった。
 さっきまであれほど響いていた腹音もすっかりおさまり、ドアを叩くノックも途絶えて久しい。
(……そろそろ、行かないと……遅刻しちゃう……)
 刻々と進む時計の針に背中を押され、明楽はとうとう諦めてトイレットペーパーに手を伸ばした。朝と同様、まるで汚れていないお尻を丁寧に拭いて、下着を履きタンクのレバーを倒す。
 慣れないしゃがんだままの姿勢でいたせいか、脚が少し痺れていた。
 タンクの水が、白い便器の中を洗い清めてざぁざぁと流れてゆく。しかし明楽の憂鬱はとどまり続け、一緒に流れ去ってはくれなかった。
「はぁ……」
 新しい学校での第一日となる入学式に、おなかに不安の爆弾を抱えたまま参加しなければいけないのかと思うと、明楽の気分はますます沈んでゆく。
 トイレを出ると、コンビニの中の人影はかなりまばらになっていた。もうあまりゆっくりしていられる時間ではないのだろう。コンビニに入る前は大勢見えた紺の制服姿もかなり少なくなって、生徒達は足早に坂を下っている。
「急がなきゃ……」
 こんな気分のままで気分良く心弾ませて登校できるわけがないが、それでも入学式に遅刻なんて許されない。家を出る前の予定ではとっくに学校に到着しているはず時間である。坂を駆け下りてゆく生徒たちに置いていかれまいと、明楽も精一杯気持ちを切り替えて通学路を走りだした。
 慣れない坂道で、鞄の中をかたかたと筆箱が踊る。
 と、それに併せて、かすかな異音が明楽のおなかの奥深くで響いた。

 ぐる……ぐるるるぅ……

「……あ……」
 今度こそ気のせいではない。トイレに入っていた間はおさまっていたおなかの音が、今になってまた活動を開始していた。同時に、おなかの奥でかすかなうねりが蠢いているのも感じられる。
(やだぁ……な、なんで今さら……)
 急に走りだしたせいで、安静を保っていた腹腔の中に刺激されたのだ。
あれほど待ち望んでいたものの予兆が、まるで来てほしくない時にやってくる。自分の身体のことながら、言うことをまるできいてくれないおなかに文句の一つも言いたい気分だった。
 けれど、もうコンビニに戻ってもう一度トイレを借りている時間はとてもではないが残されてはいない。急がなければ遅刻だってありえる時間なのだ。
 後ろ髪を引かれながらも、明楽は通学路を急ぐしかなかった。

 ぐる……ごろろっ……

(うぅ……やだぁ……)
 せっかく気持ちを切り替えようとした矢先、駄々をこねるように唸りだす不穏なおなかにうんざりしながら、明楽は背負った通学鞄の位置を直す。
 坂の先には学校の校門が見え始めていた。桜の花飾りで彩られた看板には、今年度の新入生を歓迎する文字が大きく踊っている。
 今日から始まる、新しい生活。上の学校でのオトナの第一歩。
 その晴れやかな門出を脅かすかのように、繰り返し鳴り響くかすかな異音は、少女の体内でわずかずつその存在感を増していた。


 ◆◆◆


 校門をくぐると、胸に案内役の名札を付けた上級生が並んで、新入生の誘導を行なっていた。新入生は一度、校舎4階の教室に集められてから講堂での入学式に臨むらしい。大きく張りだされたクラス分けの名簿の前にできた人だかりを潜り抜けながら、明楽は昇降口を通りぬける。
 上級生から赤いリボンを受け取り、新しい上履きに脚を通して四階分の階段を上ると、ワックスの匂いが残るたくさんの教室が目に入る。
 真新しい気配は明楽には馴染みの薄いものだ。見知らぬ相手をことさらに強調する出会いの雰囲気に、ただでさえ人見知りの強い明楽の心はますます萎縮してしまう。
(……っ)
 不安と緊張に下腹部がきゅぅと蠢くのがはっきりと感じられる。できるだけ忘れようとしていた下腹部の鈍い重みまでもがじんわりと強まっているようだった。鈍りがちな上履きの爪先をなんとか動かして、明楽は階段を登り、3階にある1-Cの教室へと向かった。
「…………ここ、だよね……」
 廊下の端まで歩いて、目指す『1-C』のプレートを確認した明楽は、恐る恐るドアを引き開け、遠慮がちにドアをくぐる。
 とたん、教室の中に座っていた数名の生徒が振り返って明楽のほうを見た。
「……ぉ、おはよう……ござい、ます……」
「ああ、おはよー。よろしくねー」
 思わず口篭もりそうになってしまいながらも、明楽はどうにか小さく頭を下げ、挨拶を済ませた。これからクラスメイトになるだろう少女の一人が、さして興味がある風でもなく適当な挨拶を返す。
 それきり、ほかの生徒たちは明楽に興味をなくしたようだった。髪を脱色しお化粧を済ませ、校則にもひっかかりそうなアクセサリーを身に付けた彼女たちには、いかにも地味で野暮ったい明楽は声を掛ける価値もないと思われているらしい。そのことを悲しく思いながらも、少しだけ安堵もして、明楽はそそくさと教室の後ろに移動する。
 そんな明楽をよそに、教室の中では今日からの1年間を共に過ごすクラスメイト達が、それぞれに寄り添って席についている。明楽には見知らぬ顔ばかりだが、中には同じ学校から進学した顔見知りもいるらしく、あちこちにはそれぞれ楽しげに談笑しているグループもあった。
「あっは、またおんなじクラスだね、よろしくー」
「こっちこそよろしくねっ」
 別の入り口から入ってきた新入生が、親しげに挨拶を交わし、話の輪に加わってゆく。初対面でも構わず楽しそうに自己紹介を済ませ、グループの輪に溶け込んでゆく様は、明楽にはとても真似のできないものだった。
 まるで自分一人が知らない場所に取り残されてしまったような錯覚を覚えながら、明楽は黒板にある席順から自分の名前を探し、窓際、前から2番目の席に座る。教卓のすぐ近く、勉強熱心ではない子には不人気な座席だった。サボりや授業中の居眠りとは無縁の学校生活を送ってきた明楽にはさして気になる場所ではなかったが、なによりも人目を気にしなければならない今は、背中に沢山の視線を感じる教室の前のほうの座席は、あまり気の進む場所ではない。
 荷物を下ろし、新品のノートを机に移して空の鞄をテーブルの脇のフックに掛ける。用意されていた椅子は大き目で、深く腰掛けると明爪先が辛うじて床に届くくらいだった。
(………あと、5分くらい……?)
 時計の針と黒板に記された行事予定を確認すると、式の開始までにはまだそれくらいの余裕はあるようだった。

 ……ぐきゅるる……きゅぅう……

(まただ……もう、いい加減におさまってよぉ……)
 あれからおさまることなく響き続けている腹音が、明楽をいっそう不安にさせる。相変わらずトイレに行きたいなんてまるで感じないが、繰り返し押しては返すよう続く腹腔のうねりは、馴染まない環境に放り込まれた少女の不安を掻きたてるには十分すぎるほどだった。
 しかし、今日はもう朝から二度もトイレに入って頑張ったのにまるで成果がない。自分の身体に起きている異状をどう扱っていいのか解らないまま、明楽の思考はどんどんと悪いほうへと沈んでしまう。
 そうして机の模様を眺めながら、明楽はぼんやりとクラスメイトたちを眺めていた。
(どうしよう……全然したくならないけど……やっぱりトイレ、行っておいたほうがいいのかな…)
 そう思いはするものの、学校には明楽のほかにも大勢の生徒がいる。そんな中でトイレを使うことには強い抵抗を覚えるのも事実だった。しかも、新しい学校という勝手の分からない環境でいきなりトイレに駆け込むのである。人一倍の羞恥心をもつ明楽には明らかにハードルが高い。
 しかし、さりげなくおなかをさすったり、座る位置をずらしたりしてできるだけおなかに負担を掛けないように姿勢をただしてみても、腹音はいっこうにおさまる気配を見せないのだ。
(……どうしよう……)
 これで十数回目になる煩悶。明楽は収まらない異変に頭を悩ませていた。
 他の子たちが新しい生活に向けて頑張っている中で、自分はおなかやトイレのことばかり気にしている。一週間前からずっとおなかに居座っている汚らしい塊のことにばかり注意を払う自分が、思春期の少女の繊細な心にはあまりにも情けない。
(でも……うん。……そうだよね。……その、入学式の間に、したくなっちゃったりしたら……大変だもん)
 なおもしばらく逡巡を続けていた明楽だが、ようやく気持ちを切り替えることにして、席を立つ決意をする。
 たとえすっきりできないにしても、もう一度行って確認だけはしておいたほうがいい。今日からまた一歩『オトナ』に近づくのだ。もう二度と失敗のないように、用心は重ねておくべきだった。
 だが――
「おーし、新入生注目ー。前を見ろー」
「はい、それじゃあ新入生のみなさん、廊下に整列してください。移動します」
 明楽がせっかく勇気を振り絞り、踏み出そうとした一歩は、無常にもやってきた上級生と、教諭の言葉に遮られたのだった。
「「「「はーいっ」」」」
 応じるように大きく声を上げ、クラスメイトたちが立ち上がる。
 そして、まるでそれに応えるように、明楽のおなかでぐきゅぅ……とさっきまでよりも大きく腹音がうねってしまう。
(や、やだっ!?)
 はっきりと外にまで聞こえてしまうような異音に、赤くなって周囲を窺う明楽だが、幸いなことに席を立つクラスメイト達の雑踏がそれを掻き消していた。
「ほら、後ろの子も早く廊下に出ろ、一列に並べー」
 戸惑う明楽に、担任らしき男性教諭の声が追い討ちをかける。教室に残るクラスメイトたちもたちまちのうちに廊下へと追い出され、出席番号順に作られた列の中に押し込められてしまった。
「よし、全員いるな? じゃあこれから式が始まるから、講堂まで移動するぞ。案内役の上級生に従うように。いいなー?」
「……え、あ、……あのっ……」
 明楽の声は、やはりクラスメイトたちの雑踏に埋もれて担任までは届かない。はっきりとした拒絶もできないまま、明楽は進み始めた列に促されて講堂への移動を余儀なくされてしまいのだった。
 無力な少女の下腹部で、また不気味に小さな異音がうねる。

 ぐる……ぐきゅるるるるるるる……

 さっきまでよりも長く、重く続いてゆくそれは、ことさらに下腹部の不安を募らせる。まるで、これから明楽を襲うであろう悲劇の予兆を囁くかのようだった。


 ◆◆◆


 ぐぎゅぅううううう……

(やだ…ま、またっ……)
 おなかの奥底から湧き上がる異音が、ますます感覚を短くしているのを明楽は感じていた。すでにただの音だけではなく、はっきりとした蠕動の感覚すらある。
 講堂の壇上では、新入生を迎え新たな一年を過ごすための心構えを、初老の学長がとうとうと語っている。しかしそんなものが今の明楽の頭に入るはずもない。
 脳裏をよぎる汚らしい茶色い予感を振り払うかのように、明楽は俯きながらさりげなく下腹部に手を伸ばす。
(お願い……おさまって……っ)
 淡々と進んでゆく入学式は厳かな静寂に包まれていて、些細な椅子の軋みや衣擦れの音まではっきりと聞き取れるほどだ。まだまだ明楽のおなかの音もいつ誰に気づかれてしまうかわからない。まして、この腹音は押さえようとしておさまるものではないのだ。
 そっと押さえた手のひらに、制服越しの張ったおなかの固い感触が返ってくる。
 腹腔に詰まった汚らしい塊の存在ををはっきりと意識してしまい、明楽は羞恥に小さく唇を噛んでしまう。少女の身体の奥に澱んだ重苦しい感覚は、まるで鉛を飲みこんだように顕在化して明楽を苦しめていた。

 ぐるっ、ぐるるっ、ぐるぅるるるるぅう……ごきゅぅううっ……

 ひときわ長く大きなうねりが、腹腔の中から込み上げてくる。まるでなにかの別の生き物が腹の奥に潜んで唸り声をあげているかのようだ。
 いつしか明楽の手のひらにはじっとりと汗が滲み、やってくるうねりに合わせて左右の脚がぎゅっと緊張を繰り返すようになっていた。
 もはや、明楽の姿は見るものが見ればはっきりと“おおきいほう”の排泄の予兆であると分かるほどの仕草を始めている。
(ふぅ……ふううっ……)
 本来は身体にとって自然な反応である排泄欲を無理に押さえこもうとすれば、どうしてもその反動が生じてしまう。荒くなってしまう息を押し殺し、明楽は制服の上から何度もおなかをさすった。だが、硬く張り詰めた下腹部はその存在を誇示するようにますます重く凝り、押し固まったナニかが明楽の腹腔の中で異物感を増してゆく。

 ぐる……ぐるっぐるぐるっ、ぐるるるぅぅ……

 繰り返される異音の正体は、明楽の腹腔で発生・蓄積されたガスの塊であった。不幸なタイミングで一週間の長い停滞を打ち破り、じょじょに活動をはじめた少女の腸の中を、大きなガスのうねりが進んでは押し戻る動作が腹音となって響いているのだ。
 どうして今、この瞬間に明楽の身体がそんな反応を見せたか、その原因はひとつではなかった。一昨日昨夜と立て続けに摂取された整腸剤が遅まきながら効果を発揮し、朝、家を出る前に摂取した朝食が胃の蠕動を通じて下腹部に働きかけ、坂を下っての早足の登校が食後の運動となって自律神経の活性化を促し、さらに慣れない環境で感じた不安やストレスが少女を知らず害している。
 いずれにせよ、これまでは本来の機能を忘れたかのように停滞し、内部に溜め込まれたものを澱ませるばかりだった少女の消化・排泄器官はその本来の活動をようやく取り戻し、生命活動の常として、腹腔の中に蓄積された内容物を排泄するための準備に入りつつあった。
 それは、明楽が自分の身体の異変に気付いて以来のこの4日、待ち焦がれていた瞬間でもあった。
 しかし――
(やだ、よぉ……なんで、こんな時にぃ……っ)
 今は席を立つどころか私語も、身じろぎすらも慎まれるような厳粛な式の最中だ。伝統ある学校に相応しく、この入学式はおよそ一時間あまりも続く。神妙な顔をして席に着く新入生と、それを出迎え今日からの日を一緒に過ごす上級生、誰もが真剣に式に参加している。
 こんな状況でトイレに行きたくなっても、全くどうしようもないのだ。

 ぐきゅ……ごぽぽっ、ぐりゅるるぅ……

(お、おねがい……音、立てないで……っ)
 これまでしたこともないほどに真剣に、明楽は神さまに祈っていた。静まり返った講堂の中に、自分のおなかの音だけが響き渡っているようなそんな錯覚すら覚えてしまう。
 いや、あるいはもう自分の近くの新入生の何人かは、とっくに気付いているのかもしれない。下品な音を立て続けている明楽を、トイレもきちんと済ませられないみっともない子だと思っているのかもしれない。
(おねがいします……ちょっとだけ、ほんのちょっとだけでいいですから…っ)
 俯いた前髪の下で、あまりにも悲しい奇跡を願う明楽。
 教室でのはっきりとした決意も今はもう遠い出来事のようだ。見たこともない人ばかりのこの大きな講堂の中で、明楽は誰に縋ることもできず、たったひとりだった。いつまで経っても収まる気配がないおなかの異変を、じっと孤独に抱えながら、長い長い時間をじっとじっと絶え続けなければいけないのだ。

 ぐるるっ、ごぎゅっ、ぐきゅる……

 そんな明楽を嘲笑うかのように、下腹部の唸りは止まらない。断続的な異音が響くたびに、おなかの奥をなにか熱い塊が蠢いているのがわかる。それはずっとスカートの上からおなかを押さえたまま、離せない手のひらにもはっきり伝わっていた。
(やだぁ……っ、もう、もぉ……鳴らないでよぉ……っ)
 小さく明楽がしゃくりあげかけた時、不意に隣から声がかかる。
「……ちょっと」
 はじめ、自分のことだけで手いっぱいだった明楽は、自分が話しかけられているのだと気付く事はできなかった。
「ねえ、あなた。ちょっと……!」
 いくらか語気を荒げたようにもう一度。ようやく顔を上げた明楽のとなりに、きつい視線を向ける少女の姿があった。
 明楽にも見覚えがある。さっき、教室でお喋りの中心になっていたポニーテールの女の子だ。明楽に囁きかけるように顔を寄せ、ポニーテールの少女は苛立った声を向ける。
「さっきから、そんなに下ばかり向いてちゃだめじゃないの。ちゃんと先生のお話、聞かなくちゃ」
「え……、あ」
 そうして明楽は、ようやく自分が入学式の席に居る事を思い出す。慌てて姿勢を正そうとした明楽のおなかで、またも『ぐるるるぅう……』と腹音がうねる。明楽はとっさに伸びかけた手を意志の力で押さえつけた。万が一にも不審な動作をして、気付かれるわけには行かない。
 顔を上げた明楽を、彼女ははっきりと不快感を表す視線で睨んでいた。
「もう、ご父兄の方もいらしてるのよ? 子供じゃないんだから、こういう席でくらいちゃんとしてよね。一緒にいる私までみっともなく思われちゃう」
「は……はいっ」
「……しっかりしなさいよね」
 それは、歴史ある学校の晴れの入学式でだらしなくしている同級生を嗜め、自覚を促すための言葉だった。幸いな事に、傍らの少女はまだ明楽の身体の変調を察しているわけではなかったのだ。
 だが、『子供』と『みっともない』『ちゃんとして』というフレーズを含む言葉は、現在進行系でおなかの不安と戦っている明楽にはあまりにも重すぎる一言であった。
(や……やだぁ……っ)
 一通り注意を終えて満足したのか、少女はふんと鼻を鳴らして視線を壇上に引き戻す。
 しかし、明楽のほうはそう簡単には済まされない。急激に強まったプレッシャーと緊張に息を飲んだ。足元から不安が這い登り、少女の全身を包み込むようにして広がってゆく。『きちんとできていない』『みっともない』自分であることを、他人の目を通じて理解してしまったのだ。
 萎縮してしまった明楽はほとんど無意識に腰を浮かし、椅子に腰掛けなおすふりをしながら彼女との間にわずかな隙間を確保する。
 そうして、少しでも表面を取り繕おうとなけなしの努力を払おうとする明楽だが、無慈悲にも下腹部の違和感はそれを許さなかった。

 ごきゅっ、ぐりゅ、ぐりゅりゅるるっ、ぐぎゅぎゅるるるっ、

(う、うそ…!?)
 あまりにも唐突に――いや、たったいま明楽の晒されている急激なストレスを思えば決して不自然なことではないのだが――少女の下腹部を激しいうねりが襲う。
 声を上げる事もできない。いや、たとえ許されていたとしても、この状況では明楽には驚き慌てる事は許されていなかった。
 そんな明楽をよそに、何の前触れもなく沸き起こった大きな波が、少女の腹腔を駆け抜けてゆく。

 ごりゅるるるっ、ぐりゅるるるる、ごぼっ、ごぼぶぼぼっ!!

 これまでの断続的な異音とは訳が違っていた。はっきりと解るほどの大きな音が、明楽のおなかで自己主張をするように呻く。
(や、やだぁ…っ!!)
 うねる内臓。うごめく腹腔。びくびくとのたうつ消化器官。容赦のない蠕動が、小刻みな振動を伴ってゆっくりと動き出す。ぐっと口に両手を当てて塞ぎ、声を上げるのを堪えている明楽には、まるで耳元で騒音が響いているかのようにすら聞こえる。
 この異音は、あきらかに明楽の身体の外側にまで響いていた。これまで明楽の身体の奥深くで密かに起きていた現象が、ゆっくりと頭をもたげるように少女の知覚できる場所にまで迫っているのだ。

 ごるっ……ぐぼっ、ごぼっ、ぐぎゅるるるるりゅぅうっ!!

 これはもはや、異音などではありえない。
 はっきりとした質量と熱さ伴って感じられる、腸の蠕動だった。
(ぁ……あ、だめ、…だ、ダメぇ!!)
 これまで、腹奥の深い場所での違和感こそありはしたものの、直接的な被害は一切感じていなかった直腸にまで、じっとりと湿った熱い塊が押し寄せてくる。
 不定形の流動体――液体よりも遥かに軽く動きやすい、ガスの塊が明楽の排泄孔の内側へと殺到する。
(で、……でちゃ…ぅ……っ!!)
 屁意。オナラがしたい。
 催したガスの圧力は途方もなく強烈で、明楽は硬直したままただそれを受け入れる事しかできなかった。無論、ガスという形であるため本来の排泄衝動とは比べ物にならない些細なものだが、たったいま無作法を叱責されたばかりの明楽に、この突然の出来事はあまりに予想外だった。
 ぎゅっとスカートの裾を握り締めた手のひらに力が篭る。全神経を括約筋に集中して、おしりの孔をかたく締め付ける。全身全霊の我慢の体勢だ。……だが、全校生徒の真ん中でそんな体勢を取らねばならないこと自体が、明楽の羞恥心を激しく刺激する。
 こうしてガスを噴出させることだけは避けようという、少女の必死に努力すら、ポニーテールの少女が指摘した『みっともない』事なのだ。
 明楽がきちんとトイレを済ませてさえいれば、こんなふうにオナラを我慢する必要もない。
 だからこそ、今のこの状態は、自分がトイレのしつけもきちんとできていない、恥ずかしい女の子であると認めるに等しかった。
 おなかの中では、腐ったガスをごぼごぼと沸き立たせながら。我慢しているそぶりす7ら見せることの許されない、あまりにも無常な状況。誰一人味方のいない、しんとした講堂のなかで、明楽は必死になって耐え続ける。
(っ、……~、……っ!!)
 本来なら、腹の奥底から込み上げる衝動に耐えるには、足を寄せ合わせはしたなく、もじもじとお尻を突き出して揺するのが一番の楽な姿勢である。しかし、微動だにすることのできないままでは小さな衝撃すらぎゅっと締め付けた隙間を無防備に体内からの圧力にさらす行為だ。ただただじっと、明楽は耐え続けた。歯を食いしばり、ぐっと行きを飲み込む。

 ぐぅ……ぅぅぅ……

 少女の努力の甲斐あって、かたく閉ざされた出口にぶつかったガスの塊はゆっくりと腹腔の奥に戻ってゆく。その時に響くごきゅるるるっ……という逆流の蠕動が、恐ろしいほど不快に明楽の背筋を駆け上る。
(ぁ、……はぁ、はぁっ……よ、よかった……)
 辛うじて下品なガスの放出を押さえ込み、湧き立つ屁意を追い返した明楽だが、決して安心は許されなかった。
 どうにか放出を耐え切ったというのに、今もなおおなかはバランスを崩したかのように不安定な状態を加速させている。一番危険な状況さえ乗り越えてしまえばしばらくはおさまるだろう、と思い込んでいた明楽を無視するように、再び小さなうねりが断続的に響き、ねっとりとした熱いガスの塊が直腸のそばまで押し寄せてくる。
(そ、そんな……また…? だめ、出ないで、……だめぇっ……)
 一週間にわたる長期の熟成を経て発生したガスは、過敏になり始めた明楽の下腹部を無差別に駆け巡り、腸液を分泌し始めた柔毛をじわじわと蹂躙してゆく。
 不意に高まる圧力は、波のように押しては引いてを繰り返し、何度も段階を経てどんどんと激しさを増していった。せっかく飲み込んだはずのガスが、あっさりと腹腔から押し戻され、直腸まで再度せり上がってくる。
(だ、ダメ……ダメなのに、……したく、なっちゃダメなのにっ……!!)

 ぐきゅ、ごきゅるるるるっ、ごぶっ、ごぼぼぼっ、

(……っ、……ダメ、っ、がまんしなきゃ……!!)
 少女の内側で悲壮に繰り返される拒絶と決意。それを無慈悲に踏み潰して、ひときわ大きなうねりが明楽を襲う。なだれ込んだ濃密なガスが下腹部に達し、さらにおしりの一番先端、脆くも敏感な場所にまで押し寄せてゆく。自分の身体の奥底から襲い来る途方もない腹圧に、明楽はただ、無力だった。

 ごるっ、ぎゅるるるるっ、ぐぎゅ、ぎゅるるっ、りゅぶっ、ぶっ!!

(っ、あ、あ!!)
 声にならない悲鳴を、明楽が両手で塞いだその時だ。

 ぷ、ぷっ、ぷすっ、ぷぅっ…!

 灼熱のガスが、かたく閉じられた排泄孔をすり抜け、鉄壁のはずの守りを突破して吹き出した。背筋の寒気と共に全身を緊張させる明楽だが、もう襲い。

 ぷ、ぷぅっ、ぷぷぷっ、ぷすっ、すーーーぅ……

 伸縮を繰り返す排泄孔から、可愛らしい小さな音と共に濃密な悪臭の塊が吐き出されてゆく。うねる直腸の衝撃をそのまま形にするように、明楽のおしりの孔は何度も細く開いてはガスの塊を吹き出してゆく。
(ぁああ、あああああ……っ)
 放出の瞬間を感じ取り、無力な自分を呪いながらも、明楽はまるで動けない。下腹部のうねりはなお激しく、下手に刺激すれば即座に第2波が到来しそうな予兆があった。せめてもの幸運は、明楽の排泄孔が上手く作用したため、放出が『スカシ』となったことだろう。辛うじて大きな音は立てる事なく、漏れ出したオナラは周囲に拡散してゆく。
 だが、
 音はなくとも、そこに篭められた高密度の悪臭だけはどうしようもない。
「……ねえ、ちょっと」
「ううん、これ……」
「うわ……なに、これ」
「臭い……」
 たちまちのうちに周囲に拡散してゆく激しい腐臭。かすかなざわめきは、けれどそれだけ厳粛な式でははっきりと聞こえた。厳かな式典の最中には似つかわしくない生徒達の囁きが、あたり一面に広がってゆく。それはちょうど、明楽の放出してしまったガスの被災区域を知らせているかのようだ。
「ねえ、誰……?」
「みっともないよね……オナラ?」
「ちょっと、やめてよ、こんな時に……」
「もう、誰だか知らないけど、トイレ行きなさいよ……!!」
 明楽の周辺、クラスメイトだけではなく他のクラスの生徒たちまでもが一斉に顔を背ける。なかにはあからさまに呼吸を止めたり、顔を反らしたりしている者までいた。実際、そうでもしなければ耐えられないような悪臭なのだ。ほとんど毒ガステロと言ってもいいような事態だった。
 たった少しだけ、明楽の我慢を溢れて漏れ出したガス。しかしその悪臭はただそれだけで、明楽のおなかの中身がどんな惨状になっているのかをまざまざと知らせていた。
「っ………」
 身をちぎられるような猛烈な羞恥の中で、明楽はぐっと唇を噛んで堪える。
 幸いな事に、新鮮な空気を撹拌する空調が稼動し続けていたせいで汚臭はやがて薄まり、明楽の周辺の生徒たちは悪臭の発生源がどこなのかをはっきりと特定できずにいた。初対面の生徒が多く、一見目立たない明楽がまさかそんな事をしたのだと思いつく生徒がいなかったことも影響していた。
 だから、明楽はきつく目を閉じて、必死に時間をやり過ごす。できるだけ今のことを考えないように、周囲の生徒たちの反応を見ないようにしながら。
(っ……大丈夫、いま、ちょっとだけど……恥ずかしいけど、オナラ、でちゃったから……ちょっと楽になったし、あ、あと、これなら、……し、しばらくなら、ガマンできるはずだし……)
 現実逃避に近い意識の働きだった。
 しかし、このまま耐え続ければ、うやむやになってごまかす事は不可能ではない。怪しまれることはあるかもしれないが、大多数は顔も知らない生徒たちの集まりだ。入学式で起きた事なんてそのうち忘れてしまうのだろう。本当はそんな簡単な結末なんて想像できなかったが、明楽は無理にでもそう思いこもうとしていた。
(あと少し……たぶん、10分くらいだから……そしたら、今度こそ、おトイレ……行って……ちゃんと、ちゃんとうんち……!!)
 一週間ぶりに、最悪のタイミングで訪れた便意。あれだけ頑張ってもいうことを聞いてくれなかった明楽のお腹は、腐りきった中身をごぼごぼとうねらせている。まだ見ぬトイレでの解放を思い描き、明楽は必死に取り繕おうとする。
 だが、次の瞬間には健気な少女のその想いも虚しく打ち破られる。
 込み上げるうねりの第2波はまたも前触れなくやってきた。冷や汗にじっとりと湿る少女のおしりの孔に目掛けて、灼熱の衝動が一気に駆け下る。

 ぐりゅるる、ぐきゅるるるるるるるるっるるるうぅぅぅ!!

(ぁ、あ、あ、)
 あまりに激しく、突然で、一度目の放出を経て緊張の緩んでしまった明楽の下半身は、その衝撃に耐えきる事など、とてもできはしなかった。
「……ぁ…っ、…ぁあ…~~っ……!!」

 ぶぴっ、ぷすっ、ぷすすぅ……っ

 またも小さな排泄孔がひしゃげ、断続的にガスを撒き散らす。ねっとりとした灼熱の感触は、まるでおしりをべっとりと汚しているかのようだ。
 先ほどにも倍するような、さらに濃密な臭気があたりに立ち込める。今度の放出は1度目よりも勢いがよく、出されたガスの総量も多い。文字通り腐った肉のようなごまかしようのない腐敗臭が撒き散らされてゆく。
(や、やだ、なんで、なんで……っ!!)
 ついさっき、もう二度と漏らさないと覚悟を決めたばかりなのに。
 言うことを聞かない自分自身の身体に決意をあっさりと覆されて、明楽の心はさらに深く傷を負ってしまう。だが、今度はそれだけでは済まされない。
(だめ、だ、でちゃ、だめ……ぇええっ!!)

 ぷす、ぷっ、ぷぅぅ……っ、ぶびっ!! ぶぷぅうっ!!

 明楽にとっても最悪なことに、細孔をこじ開けて吐き出されるガスが、はっきりと『そう』だと分かる音を立ててしまう。悪臭に加えて騒音公害まで発展した明楽の排泄は、どよめきのように講堂に波紋を広げてゆく。
「うわ……また?」
「なにこれ……臭い……っ」
「ねえ、誰よ、さっきから……!!」
「ちょっと、勘弁してよ……?!」
 先刻よりもさらにはっきりした非難の声。標的を見定められない曖昧とした敵意が、講堂の中に満ちてゆく。1回目ならなんとか無視できても、2度目ともなればさすがに看過できない。
 この晴れ晴れしい舞台に、無礼にも2度に渡って悪臭をぶちまけた相手に対して、新入生の中からはっきりとした憎悪が浮かぶ。それぞれがまだ知りあってもいない相手だけに、吐き捨てられる言葉も遠慮のない鋭いトゲを纏っていた。

 ぐきゅるるっ……きゅるるるぅ……

「っ……やぁ……」
 なおもおさまらない下腹部の蠕動。たとえようもない恥辱に心を切り刻まれ、明楽は俯いてぎゅっと口を噤み、なおも激しくぐるぐると唸り続ける腹をさする。
(ご、ごめんなさい……ごめんなさいっ……)
 言葉にできない謝罪をなんどもなんども繰り返しながら、涙を滲ませて必死に念じる明楽。しかし、少女の身体を支配する排泄衝動はより一層その存在感を増し、明楽の排泄器官はすでに少女のコントロールから外れつつあった。


 ◆◆◆


「ぁ……っく、ふ……ふぅ……っ」
 こぼれそうになる呻きを噛み締めて、明楽はじっと立ち尽くしていた。
 合計1時間半にも及ぶ入学式と始業式を終えて、講堂横のトイレはかなりの混雑を見せていた。4つある個室に続く順番待ちの列には、どれも5、6人の少女が並んでいる。
 そんな中でも明楽の様子は際立っていた。不安定な下腹部が繰り返し発作を起こし、ぐりゅぐりゅと腹奥がうねる。明楽は暴発しそうになるガスを押しとどめるようにしてスカートの後ろに手を回し、直接、突き出したおしりを押さえていた。
 その有様はあまりにも不恰好で、少女としてはとても許されるようなものではない。だが今の明楽には、ひとりの少女として体裁を取り繕う余裕すら残されていなかった。
「ぅ…くっ」
(だめ……おなか苦しいっ……と、トイレ、早くぅっ……)
 ごぽり、と内臓の奥が撹拌されるような不快感が明楽の下腹をうねらせる。一刻も早く排泄をねだる汚らしい器官が惨めな音を立て続ける。

 ぐきゅるるる……きゅぅう…っ

(ふぅぅっく……っ、ぁ、あとちょっと、ちょっとだけだから……っ、トイレ、もうすぐトイレ……うんち、できるから……っ)
 蠕動する下腹部をなだめるように押さえ、明楽は祈るような気持ちで繰り返す。
 講堂での地獄のような我慢の最中で、明楽はあれからも何度かガスを漏らしてしまっていた。最初の2回に比べれば小規模なものだったが、静寂に包まれた講堂では些細な異音すらはっきり響く。講堂の中で断続的に悪臭を振りまいた『犯人』がいることに、あの場にいたほとんどの生徒が気付いていただろう。だが、隣の顔もわからない新入生同士ということが幸いし、毒ガステロの犯人特定までには至っていない。だから、明楽はなんとしても、ここでお腹の中に溜まった腐臭の源を処分してしまわなければならなかった。
 ほとんどの子が、明楽とは違う目的でトイレを利用しているようだった。順番待ちの列はさほど経たないうちに解消し、明楽の順番も見る間に近づいてくる。あとすこし、あとすこしだけと繰り返しては挫けそうになる心を鼓舞し、明楽はできるだけ平静を装ってそっとおなかをさする。
「ねえ、校長先生、話長かったよねー」
「……うん、漏れちゃうかと思っちゃった。……あははっ」
「もう、馬鹿いってないで早く行こ? ホームルーム、遅刻しちゃうってば」
「あ、待ってよー」
 用を済ました少女達が、すっきりと爽やかな顔で空いた個室を次の順番を待つ少女に譲り、談笑しながらトイレを出てゆく。
 一人ずつ短くなってゆく列は、まるで明楽の排泄の許可をするカウントダウンだ。
(あと、さんにん……っ、3人、……あとちょっと、3人、3、2、1、あと、いまと同じのを、3回だけっ……おしりぎゅって押さえて、ぐって、がまん、おんなじだけ、あと3回分、すれば、トイレ、トイレできるからっ……)
 少しずつ、しかし確実に進む列の順番を数えながら、明楽ははしたなくスカートの上からおしりを押さえ、込み上げてくる衝動にじっと耐え続ける。
 ほどなくして1ヶ所、、さらに続けてふたつの個室が空き、順番待ちの列は明楽を先頭にした。
 4つの個室が明楽の目の前に並ぶ。そのどれもが今は使用中だが、どこかひとつが空きさえすれば、明楽はすぐにでもそこに飛び込むことができた。
(はやく、はやくっ、はやく空いて、トイレ……トイレしたい、うんちしたい…!! はやく、早くっ、はやく!!)
 明楽の頭の中ではすでにスカートを下ろし、排泄を開始する自分がシミュレートされている。トイレの中で汚れたおなかの中身を残らず掃除する――そうして空想の中ですっきりするつもりになって、白い下着の奥で獰猛に牙を剥こうとする排泄衝動を抑え込んでいるのだった。
(あとちょっと……っ もうすぐ、もうすぐトイレ……っ、よっつ、どれでも、トイレ、空いて、すぐ……うんちできるっ……!!)
 明楽がこくり、と震える喉に唾を飲み込んだ時だった。
「なんだ、けっこう混んでるじゃん」
「だから早くしようって言ったのに。どうする? 校舎までいってみる?」
「いいよもう。面倒だし」
 どやどやといくつもの声が背後から聞こえてくる。どうやらまた数名、生徒たちのがトイレの順番待ちに並んだらしい。どうやら仲良しグループのようで、お喋りに夢中になりすぎて講堂を出てくるのが遅れたらしかった。
 だが、もうそんな事は関係無い。明楽はもう列の先頭にいるのだ。どれだけ後ろに列が伸びようと、次にトイレに入れるのは明楽なのだ。
「ったく、ここの校長先生も話長いよねー。30分もよく喋ることあるなって感心しちゃう。あんなの『学校に迷惑賭けるな』の一言で済むじゃん」
「あはは、言えてるー。はやくして欲しいよねー」
(はやく、はやくっ、はやくぅ……っ)
 かなりのボリュームでお喋りに興じる少女達の声をほとんど聞き流すように、明楽は焦れる心をじっと押さえ、個室が空くのをじっと待つ。いまはただそれだけが明楽の切望する事柄だ。
 そして、
 ――がちゃり、と一番右の個室のドアが開く。


 (続)

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