父や母の顔は知らぬ。ただ、叔父上と叔母上がいた。
叔父上は豪放磊落を絵に描いたような人物で。朝、山へ柴刈りに出かけ。日が暮れる頃に帰ってくると、俺に稽古をつけてくれた。鬼神の如き強さを持ち、一切の加減容赦無し。俺は毎日ぼろぼろになるまで挑んでは、気が付いたら朝になっていた。どうやらいつも気絶していたようで、叔父上が布団まで運んでくれていたらしい。朝起きて、居間を横切り。空になった徳利を抱えるように大いびきをかいている叔父上を横目で見ながら、起こさぬように素通りし。夜明け前、風呂に入る。それが俺の日課であった。
叔母上は優しかった。朝餉の後に、決まって吉備団子を一つくれた。俺はこれが毎日の楽しみだった。辛い物やしょっぱい物、苦い物しかないこの山では、甘い物などめったに手に入らぬ。毎日毎日、大切に味わって食べた。叔母上は俺が吉備団子を食べ終えるのを見届けると、川へ洗濯に出ていった。そして俺は、日が暮れるまで鍛錬をしていた。それが俺の一日であった。
叔父上はたくさんの技を見せてくれた。例えば、地面が隆起するほどの剛力を獲物に乗せて叩きつけ、衝撃波とともに岩柱を繰り出す【鬼断ち】。例えば、身体能力を大幅に引き上げる【百鬼掃討の構え】。例えば、裂帛の気合いを放ち、相手の動きを止める【鬼殺しの一喝】。だが、俺はそのどれも、一つも。真似することすらできなかった。俺と叔父上の技には、どんな違いがあるのだろうか。いくら考えても分からない。何を試しても実らない。毎日毎日飽きることなく鍛錬を繰り返しては、毎晩毎晩叔父上に挑む。叔父上はそんな俺を、ただただ面白そうに眺めているだけだった。
「よしな、馬鹿がうつる!」
これが叔母上の口癖だった。叔父上が粗暴な行いをすると、決まってこう怒鳴りつけた。どんなことをしていたかは、色々とありすぎてこれといった例を挙げることすら難しい。その後叔父上と口論になるが、ひとしきりお互いにわめき散らすと。気が済んだら何事もなかったかのように静まった。叔母上がこう怒鳴るということは、してはいけないことなのだろう。俺は叔父上の行いを見て、色々なことを学んでいった。
ある日、山で童(わらべ)を見かけた。麓(ふもと)の村に住む者たちのようだった。俺は叔母上から、山を下りてはいけないと言いつけられていた。だから、無暗と人前に姿をさらすのも良くないのかもしれないと思い、遠目からずっと後をつけた。どんどんと山奥へ入っていく童たちの姿は、山の恐ろしさを知らぬように思えたからだ。
案の定、彼らは野生の獣に遭遇した。冬ごもりを終えた猪の気性は荒い。獣の縄張りを犯した童たちは、空腹の猪に襲われることとなった。散り散りとなって逃げ去る童たち。しかし、一人の女子(おなご)が足をもつれさせ、転んだ。他の物は皆既に姿無く。仕方なく、助けてやった。助けた女子は、俺の顔を見るなり悲鳴をあげて逃げていった。
その晩、叔母上にこの話をした。女子が何故逃げたのか、俺には分からなかったからだ。
「それはあんた、仕方なかったねぇ」
叔母上はくすくすと笑った。どうやら目の前で猪を真正面から受け止め、投げ飛ばしたのがいけなかったらしい。普通の人間には、そういうことはできないのだそうだ。その日まで自分以外の人間を叔父上と叔母上しか見たことが無かった俺は、なんとも不思議な気持ちになった。疑問が、口を突いて出た。俺は人間ではないのでしょうか、と。叔母上は言葉に詰まり、表情が固まった。その顔を見て、こんな質問はすべきではなかったか、と後悔した。
ずっと黙っていた叔父上が、盛大に酒を噴き出した。
「ぶはっ! ぶは、ぶはは、ぶはははははははっ!!」
腹を抱えてごろごろ転げまわった。とても面白かったのだろうか。何が面白かったのだろうか。俺はまた不思議に思った。ひとしきり笑い転げたあと、叔父上は俺に向かって座りなおした。
「吉備津よ。言葉の意味など気にするな」
意味、とは。と俺は聞き返した。すると叔父上は、くつくつと喉を鳴らして笑い含んだ。
「俺たちは確かに人の身を凌駕した力を持っている。しかし、間違いなく人ではある。傷が付けば血を流すし、老いるしな。俺に言わせてみりゃ、あいつらが軟弱なだけなんだよ」
叔父上に比べれば。確かにあらゆる生きとし生けるものは、軟弱と言えるかもしれない。それを聞いて、俺は腑に落ちたような気になった。
「人間かそうでないか。それを分けるのはすなわち数だ。俺たちは少ない。あいつらは多い。だからあいつらが人間、ってことになってるだけさ。俺たちのほうが多ければ、俺たちが人間と名乗れていたかもな」
結局はそれだけの違いでしかない。だから、自分が人間かどうかなど考えても仕方がない。酒でも飲んで忘れてしまえ。そう言うと、叔父上は寝転がってまた酒を飲み始めた。叔母上は口を挟まなかった。ということは、叔父上は間違ったことは言っていないということなのだろう。
「吉備や。人は弱いんだ。だから、許しておやり」
叔母上はさらに、恐怖にかられた人間は俺を攻撃してくるかもしれない事。俺をかばった人間は、その人間が次に狙われるかもしれないことを教えてくれた。人間とはなんとも摩訶不思議な精神をしているのだな、と俺は思った。そんなことを考えていると、叔母上はまた俺の名を呼んだ。
「吉備や。おまえも人間なんだ。人の心を忘れてはいけないよ」
俺の考えを見透かしたのだろうか。叔母上は聡い方だった。
「もし何かされたなら、やり返すなとは言わない。けどね。これだけは言っておく。弱い者いじめは、よすんだよ」
叔父上は何も言わなかった。ということは、これも間違いではないのだろう。
あくる日、別の童と遭遇した。
「あ、お前!」
ひときわ体の大きな、太鼓のような腹をした童が言った。
「お前がこの山に隠れてる鬼だな! 成敗してやるぞ!」
折れた木の枝を木刀のように振り回し、その切っ先を俺に突きつけた。その立ち振る舞いからは、武道の心得がどこにも見えない。素手ですら勝てそうだった。どうしたものかと考えていると、太鼓腹の男は得意げに勝ち誇った。
「へへん、怖気づいて声も出ないか。謝るなら今のうちだぞ! 大人しく山から出てけ!」
どうやらこの童は、俺を山に棲む化生(けしょう)のたぐいだと思っているようだ。かといって、叔母上から弱い者いじめはするなと言いつけられている。か弱き者を、いじめることはできない。俺はなんと返すべきか思いつかず、なおもただただ黙っていた。
すると、別の声が聞こえてきた。
「ま、待って」
先日助けた女子だった。どうやら木陰から様子をうかがっていたらしい。何故隠れていたのだろうか。何故出てきたのだろうか。前はさらに数人の童がいたのだが、今日はこの二人だけのようだった。
「静(しず)! 出てくるなって言ったろ! 危ないから隠れてろ!」
「田助(たすけ)、待って……」
静と田助というらしい。この田助という童は、俺を退治しに来たようだが。たった一人で得物は木の枝とは、よほど腕に自信があるのだろうか。この静という童は何をしにここへ来たのだろうか。尽きぬ疑問に、俺は自然とさらに押し黙った。
「あの」
静という童が近づいてきた。田助とやらが止めようとするが、静とやらは聞かなかった。俺と静とやらは向かい合った。
「わ、わたし。しずっていうの。麓の村に住んでるの。この前は、みんなで探検してて。わ、わたし。帰ろうって。危ないって言ったのに。みんな行っちゃうから。心配で」
静とやらは一生懸命に話す。彼女は村でも齢が上の方の子どもだから、下の者たちを放っておけなかったらしい。先日の童たちの中に、田助とやらはいなかった。そのせいもあったのかもしれない。
「えっと。あの。その」
静とやらは顔を真っ赤にしてうつむいた。俺はただ黙って言葉を待つ。静とやらはひときわ大きな声で、
「――ありがとう!」
と。上げた顔。丁度、目が合った。静とやらは、花が淡く開くように笑った。
「助けてくれて、ありがとう。どうしても、言いたかったの」
田助とやらが、面白くなさそうにふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
この日、俺は友だちができた。短い間ではあったが、今でも鮮明に思い出せる。山で鍛錬をしている俺を、静と田助は毎日のように訪ねてきた。彼らはたくさん遊びを知っていて、三人で日が暮れるまで遊んだ。田助は侍になりたいらしく、俺の稽古を真似し、模擬試合を挑んできた。田助は一度も俺に勝てなかったが、それでも彼は腐ることなく幾度も俺に挑んできた。俺はそれを何度でも受けた。叔父上の気持ちが、すこしだけ分かったような気がした。
一か月後のあの日。あの日が来るまでは、とても楽しかった。
その日は、田助と静が村の童たちを連れてくるという話だった。数日前に、叔父上と叔母上にそのことを話すと。叔母上はなにか言おうとしたが、一呼吸おいて「そうかい」とだけ口にした。叔父上は興味が無いのか、酒を飲んだまま振り返ることも無かった。
我ながらいささか高ぶっていたのか。前の日、俺は叔父上との稽古を休んで、早めの床に就いた。
飛び起きた。不穏な気配を感じた。焼けたような臭いだ。枕元に置いていた鍛錬用の木刀をひっつかみ、寝床から飛び出して臭いを辿った。夜明け前の暗闇の中を、麓の村が見える切岸まで走った。――村が燃えている。
そのまま、俺は飛び降りた。
木々の間を縫うように、野生の獣の如く山を駆け下りた。俺の脚はこんなにも速かっただろうか。自分でも驚くほどに、村がすぐ見えてきた。
村から逃げてきた村人たち。その集団の中央を、切り裂くように駆け抜けた。村は、闇色の化生たちに蹂躙されていた。角の生えた人型の化生。叔父上が言っていた。この世界には、鬼とは別に、闇なる存在がうごめいていると。その者たちが、うじゃうじゃと群がるように、村中で破壊の限りを尽くしていた。足を止めぬまま、村の中央へと一直線に駆け抜けた。壊された物はもはや致し方なし。逃げ遅れた者がいれば見つけねばならない。
村深くへ差し掛かるにつれて、化生の数は増えていく。木刀を堅く握りしめ、眼前で暴れまわる化生の集団へと切りかかった。一太刀にて両断。化生の体は崩れ去り、闇の中へ溶けるように消えた。どうやら倒せぬ類ではないようだ。返す刀で、驚愕に硬直した二体を切り伏せた。村の中央ににあった、集会所らしき建物の屋根へ一跳びで跳び登り、村中を見回した。いたるところから上がる黒煙、燃え盛る家屋。略奪するわけではなく、ただただ破壊を目的とした暴力が生々しく刻まれていた。家屋の中から、遠くから。ぞろぞろと闇色の化生たちが蟲のように這い出てくる。一様に、一目散に。俺の方へ向かってきていた。屋根の下はもはや土の色すら見えぬ。闇一色で埋め尽くされていた。
向こうから来るのであれば話は早い。俺は屋根から飛び降りて、勢いのまま木刀を振り下ろす。轟音と共に地面ごと化生たちを吹き飛ばし、石欠片もろとも粉みじんに打ち砕いた。
斬り。断ち。薙ぎ。突き。吹き飛ばし。跳ね飛ばす。眼下を埋め尽くすかのように群れていた闇の化生も、残すところ数匹というところ。逃げ遅れた者も見当たらなかった。いざ殲滅、と木刀を握りなおした時。突如として、大穴が開いた。闇色の化生たちよりもさらに黒い大穴は、上にあるあらゆる全てを呑み込んでいく。家屋は燃え盛るその炎までも。闇の化生たちすら、その深い闇に呑みこまれていく。あまりにも奇怪な出来事に、様子を見るしかできなかった。
大穴から、巨大な化生が姿を現した。よじ登るように穴の淵へ足をかけ、闇の中から生まれ出でたそれ。姿かたちは他の化生と同じだが、大きさがはるかに違う。叔母上から寝物語に聞かされた、ダイダラボッチもかくやという体躯。でこに生えた二本角の化生は、体中から闇をしたたらせていた。
このような巨大な化け物が暴れまわれば、この村は本当に滅びてしまう。そう思うよりも先に身体が走り出していた。放たれた矢のように駆け、家屋の残骸を踏み台に跳躍し。頭上より一刀両断せん。しかしその刃は通ることはなく。俺は豪速で瓦礫の山に叩きつけられた。
何が起きたのか。一瞬分からなかった。片腕で止められ、その勢いのまま殴り飛ばされたのだ。自分が叩きつけられた音すら遠く聞こえた。背中から受け身も取れず。あまりの衝撃に呼吸ができない。巨大化生が近づいてきた。立たねば。立たなくては。急く気持ちとは裏腹に、膝が立たなかった。
「おい、化け物!」
遠くから、声。田助の声だ。逃げなかったのか。逃げたのに戻ってきたのか。巨大化生に石を投げていた。
「こっちだ! こっちへ来い! かかってきやがれ!」
お前では勝てない。逃げろ。いや。俺のせいか。俺が不甲斐ないばかりに、友を危険にさらしている。俺が守らねばならぬのに。力が。力が欲しい。友を守れるだけの力が――
(俺たち【鬼憑き】は、その身に鬼を宿していると言われている。本当かどうかは知らんがな。俺の技も、俺の中にある鬼の力を形にしただけなのさ)
叔父上の言葉が脳裏によぎった。己の内の鬼を起こす。俺の内に眠る鬼は、友の一人も守れぬ如き矮小な雑魚なのか。そうでないというのであれば――今すぐこの場で、目覚めてみせよ。
高速で傷が癒えていく。両の膝に力が戻った。全身に力が漲り、虹色の輝きとなってあふれ出た。我が身は修羅となりて、我が心無双の境地に至らん。木刀を握りしめ、大上段に構えた。繰り出したるは、【赤鬼】の技――【鬼断ち】。
巨大化生は異変に気付き、振り返った。しかし、もう遅い。
「――全身全霊の一撃を受けよ!!」
裂帛の気合いと共に打ち下ろした木刀が、大地そのものを刃と変えた。我が【鬼断ち】は大地を奔り、巨大化生を両断す。身体を真っ二つに割られた巨大化生は、闇へと帰り。夜明けの陽光の中へ、溶けるように崩れ去った。
吉備津彦は木刀を払い残心を結び腰に差すと、田助の方へと歩み寄った。危険を顧みず助けに来てくれた友に、礼が言いたかったからだ。しかし、田助は吉備津彦が一歩近づくごとに、顔をこわばらせ後ずさっていく。不思議に思った吉備津彦は、一旦歩みを止めた。
「わ、わりぃ……吉備津。お前は。お前は違うって分かってるんだ。けど。震えが……震えが止まらねぇんだ」
はたで見ても分かるほどに田助はがたがたと肩を震わせ、顔は蒼白になっていた。
「田助っ!!!!」
そう叫びながら、女が走ってきた。歳の頃を見るに、田助の母親のようだった。彼女は田助に覆いかぶさるように彼を抱きしめると、吉備津彦に向かって敵意に満ちた視線を向けた。
「この化け物!! うちの子に近寄るなっ!!!!」
「か、かあちゃん! 違うんだ、吉備津は」
「あんたは黙ってなッ!!!!」
鬼気迫る母親の言葉に、田助は言葉を失ったようだ。近づけば、斬りかかられそうな。殺されるような殺意を感じた。吉備津彦は先ほどまでに相対していた闇の化生たちよりも、田助の母親のほうに恐ろしさを感じた。
「吉備ちゃん!」
静の声。彼女も村に戻ってきていたようだ。彼女のかたわらには、年を召した老人が一人。その後ろには、屈強な若い衆が何人も控えている。
「お初にお目にかかる。【桃太郎】よ。儂は、この村の村長じゃ」
【桃太郎】。吉備津彦はその呼び名に聞き覚えがあった。当代の【桃太郎】は叔父上のはずである。ゆえに、何故自分がその名で呼ばれるのか。合点がいかず戸惑った。
「お主のことは、お主の育ての親より聞き及んでおる。思慮深く、正義ある若者じゃとな。村を救ってもらった恩もある。じゃから、儂も全てを話そう」
村長は体を支えていた静に下がるよう手で示し、吉備津彦の前に進み出た。
「この村は【鬼憑き】を監視するために作られた。その動向を見張り、なにかあれば帝へ報告する。その代わりに年貢の免除と、食料その他の援助をお上より頂戴しておるのじゃ」
村長の後ろに控える若衆は、皆吉備津彦を射殺さんばかりの眼光で睨みつけている。各々、農具を手にしており、クワやスキが朝日を反射して鈍く光っている。
「この村の住人は皆、【鬼憑き】に親きょうだいを殺された者たちじゃ。その者たちへの見舞金、という意味合いもある。それに、【鬼憑き】の真の恐ろしさを知らぬ者には、監視の任は務まらんからのう」
村長は振り返った。
「田助は父を【鬼憑き】に殺された。じゃから、この通り【鬼憑き】に対しての恐怖が拭えん。お主は違うと分かっていても、身体が言うことを聞かぬようじゃ」
ゆえに、田助の母も。自分のことをこれほどまでに敵意を持って睨むのだろう。そう吉備津彦は受け取った。
「お静は両親と弟を失っておる。この村におる子どもたちは、ほとんどが【鬼憑き】により親を失った子どもたちじゃ。そういった子らは、成人まではうちで面倒を見ておる。お静は、今の一番上の子なんじゃ」
静と目が合った。静はなにか言おうとしたが、言葉にならずうつむいた。
「村の者は皆、【鬼憑き】に対して大なり小なりの想いを抱えておる。お主が違うと分かっておっても、皆。【鬼憑き】を見るだけで、消えぬ傷跡が疼くのじゃ」
そこまで言われれば、吉備津彦ももう聞かずとも分かった。
「この子らを止めなんだ儂にも非はある。じゃが。すまぬが、もう山を下りないではくれんかの。不要不急の下山は避けておくれ。山への入り口は、金輪際封鎖しよう」
吉備津彦の脳裏には、叔母の言葉が甦っていた。
(弱い者いじめは、よすんだよ)
吉備津彦は踵を返した。
「あい分かった」
振り返ることも無く、いつも通りの歩幅で歩きだす。友を助けることはできた。それだけで構わない。そのはずである。背後から、大きな声で名前を呼ばれた。振り返ると、田助と静が並んでいる。静の両の瞳からは、大粒の水滴がとめどなく流れ落ちていた。また、叔母の言葉を思い出す。自分をかばった人間は、代わりに村人から狙われるかもしれない。だから、多くを語ることはできない。
「達者であれ」
吉備津彦はそう一言だけ残すと、もう振り返ることなく村を出て行った。背中にかかる「すまねぇ」、と、「ごめんね」は、聞こえないふりをした。
帰り道の山道。柴刈りの翁が徳利をひっかけながら、岩の上に座り込んでいた。
「ごくろうさん。よくやったな」
吉備津彦はちらりと見やるだけで、そのまま家路をてくてくと辿る。柴刈りの翁はそれ以上何も言わず、吉備津彦の後ろについて歩く。
家近くの川辺に差し掛かった時、柴刈りの翁が言った。
「その恰好じゃあ、家が汚れる。顔ぐらいは洗って行け」
言われるがままに川辺へ座り込む。水面に映った自分の顔は、血と砂に塗れていた。長く伸びた髪を結っていた髪紐も千切れてどこかに行ってしまって、お化けのような乱れ方をしている。寝間着のままに飛び出したせいで、山を駆け下りる際にぼろぼろに千切れており。そのうえ傷を負った時に噴き出した血がべっとりついていて、もはや雑巾のようになってしまっていた。
吉備津彦は水面に映る自分の姿が、闇の化生たちと変わらないように思えた。
「――ぅ」
視界が歪む。目じりからとめどなく水が垂れる。止めようと思っても、止まらない。いったいこれはなんなのだろうか。
「人間は悲しい時、目から熱い水を流すらしい。それを泪と呼ぶそうだ」
柴刈りの翁は、吉備津彦の頭をがしがしと撫でた。
「今日という日を忘れるな。そうすれば。お前はいつまでも人でいられるだろう」
柴刈りの翁はそう言ったきり、吉備津彦を残して立ち去った。
「――ぅう。ううう。ううううううう」
溢れ出る泪を拭うことも無く、流れるに任せて吉備津彦はうめく。きしむほどに歯を食いしばり、漏れ出る嗚咽を押し殺す。流れ落ちた泪の雫はぽたぽたと水面に落ち、いつまでも波紋を描き続けた。
柴刈りの翁は目を覚ます。どうやら酒を呑みながら眠ってしまったらしい。既に日は落ち始めており、空は茜色に染まり始めていた。
柴刈りの翁は、吉備津彦に何も言わなかった。それは言わなかったのではない。語る言葉を持たなかった。何故なら彼は生まれてこのかた、今日まで一度も泣いたことが無いからである。敵意には敵意を持って、暴力には暴力でずっと返し続けてきた。ゆえに、悲しみに泪を流す、吉備津彦の気持ちが分からない。分からないから、何も言えなかった。
本来、今朝の一件は自分が片付けるつもりであった。止める間もなく吉備津彦が飛び出してしまい、そのせいでこんなことになった。しかし、手出しをしなかったのは柴刈りの翁の意思でもある。【鬼憑き】である吉備津彦は。世間が自分をどう見るのかを、一度その目で見なければならなかった。少し早いが、その機会が今日だった、というだけのこと。
予定通りのはずなのに。柴刈りの翁は、なったこともない二日酔いのような、胸のむかつきを覚えた。吉備津彦の様子を見ようと、居間から庭への襖を開けた。吉備津彦は、木刀の素振りをしていた。湯気が立ち昇るほどに汗をかきながら、一向に止める気配が無い。吉備津彦には、考え事があると素振りをする癖がある。それを柴刈りの翁は知っていた。答えが出るまで絶対に止めない。自分が寝ていた間中、ずっと素振りをしていたのだろうことが容易に想像できた。
柴刈りの翁はじっ、と吉備津彦の様子を眺めた後。すっと襖を閉めた。
その後。吉備津彦が齢二十五になった時。麓の村から文(ふみ)が届いた。差出人は田助と静。田助は侍となって、静と祝言を上げたという内容だった。
吉備津彦はそれを端から端まで読み終えた後。雪が溶けるように顔をほころばせた。