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2020年 06月の記事 (2)

山葵は今こんなことを考えている~批判やら誹謗中傷やらについて~

誹謗中傷は、まあよくないよね

 最近、誹謗中傷や批判に関する話題をよく目にする。やれ絵が下手だの、文章が下手だの、二度と書くなだの、お前がそんなことを言う立場ではないだの、ちんちん見せろだの、野郎ぶっ殺してやるだの、言われたなんて話が毎日のように。

 幸いにも山葵は誹謗中傷というものをされた記憶がない。TwitterのDMもpixivのメッセージも、要望のようなものくらいは来るけれども、暴言はもらったことがない。dlsiteの評価でこっそり作者にくるメッセージで「○○なのでよくなかった」という感想がきたり、fanzaのレビューで変なのはあるけれど、それは個人の主観的意見であり、誹謗中傷とは呼べない。がんばってググって、「人間性は最低だが書くものはよい」という感じの、下げて上げる式の称賛があったばかりだ。これを書いた人を一生をかけてでも探し出して「俺もそう思う」と言ってやりたい。
 つまり何が言いたいかというと、ここで書くことは誹謗中傷された人と同じ立場からってものではないということだ。それは先に示しておくのがフェアだと思う。

 誹謗中傷、一言で誹謗中傷と言ってもどんなことなのかって言うと、「誹謗」とはそしること、悪口をいうことで「中傷」とは根拠のないことを言い他人の名誉を傷つけること、とある。ざっくり言えば、人のことを悪く言うことである。そこに、事実であるかどうかは全く関係がない。
 ただし、感想くらいのものであれば、そこまで悪質ではないと山葵は思う。例えば、流れてきた絵に「下手だな」とか他人の顔に「ブスだな」くらいのものだ。見た人は傷つくだろうが、ネットにアップした時点でそういうことくらいは言われるものだ。ただ、「ブスだな」の後に「だから、さっさと死ね」とか「下手だな」の後に「もう二度と書くのをやめろ」とかだとかなり攻撃性が高くなるし、SNSなんかで引用とか返信とかDMとか、相手や大多数に表明する形で悪口を言うのは、悪質に当たるんじゃないかと思う。それが不特定多数からであれば、当事者は相当傷つくことになるだろうとは想像に難くない。
 山葵は心が優しいので、誰だって必要以上に酷い目に合ってほしくない、と考える。それがどんなに悪いとされる人間でもだ。目には目をというハムラビ法典は復讐法ではなく、犯した罪は同量の償いをしなければならないという規定に過ぎない。

 だが、よくないことをした人間を叩く、という行為は、ヨハネによる福音書で売春婦が人々から石を投げられた時代からあり、それは我々にとって愉快なことだ。正義に浴し、善なる行いをしたいという欲望は誰しも持っているし、暴力的な振る舞いというのはスッキリするものだからだ。
 私も、あなたも。同じように正義の暴力を振るう可能性はある。いや、今も振るっているかもしれない。だからこそ、そのように振る舞いたくないのであれば、常に自分がそうなっていないか自問し、自制し続けるべきだと山葵は考える。
 そのためにまず認めよう。暴力は愉快だと。
 そして、他人に暴力は振るうべきではない。振るうなら不特定多数じゃなく、一対一で、やり返される覚悟で、フェアにやるべきだ(これは個人的な義侠心に過ぎない)。

批判について

 批判、という言葉の意味はしばしば誤解されがちだ。なぜなら、批判の意味を調べてみると、「良い所、悪い所をはっきり見分け、評価・判定すること」や、「人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること」とある。
 つまり、評価をする、間違いを詳らかにし建設的意見を述べること、が批判なのである。しかし、世で言われる批判に対するウンザリな感じを見るに、多分上述の意味で使われていることはない、どちらかというと悪し様に言われることを批判と呼んでいるように思われる。どっちかっていうと非難かな。
 まあ、それはさておき、ここでは作品などについて悪し様に言われることが批判であるとしよう。
 その上で批判というのはそんなに悪いことなのかな、という風に感じている。
 なぜなら、批判は文化の発展に必要――かはともかく、批判や批評というものによって良くなってきた部分が存在するからだ。誰かの鋭い批判によってぼんやりと思っていたことが明確化され、別の作品や新たな思想のきっかけになるものだ。
 だから、された当人が傷つこうと、批判そのものがなくなればいい、ということは寸毫も思わない。
 ただし、批判する以上は、しっかりと精査して批判しなければならないと考える。なぜなら、批判や批評というのもまた、一つの作品であるからだ。他者からの批判に耐えうる、鋭く的確な批判でなければならない。相手を傷つけてやろう、という目的でクソミソに叩くのは目的が暴力になってしまっているので、妥当性のある批判とは呼べないだろう。

 少し話はそれるが、不思議だな、と常々思っていたことがあるのでついでに書いておく。作家や絵描きの中で批判されたり、文句を言われたりすると不機嫌になられる方がいる。もちろん、自己の出した作品を貶されることは快いことではないし、腹が立つこともあるだろう。だが、批判をして欲しくないというのなら、自分もあらゆる作品に批判してはいけないのではないだろうか。
 というのも、イラストや小説なんかに対する批判や否定的評価を嫌がっているのに、映画やゲームに対しては題名を出して文句を言っている人を見るからで、なんというかそれは都合がよすぎるのでは、と。
 山葵はゲームや映画や小説を読んで面白かったら面白かったというし、よくないなって思えばそういう風に書くこともある。だから、自分の作品に対して何か言われるのもオッケーだ。まあ、逆捩じにやり返すことはあるかもしれないけど。
 

誹謗中傷はなくならない

 誹謗中傷はなるべくならしない方がいい、とは思うのだけれど、現実的に無くなることはないだろう。楽しいから。
 匿名だからやる、というような話もあるが、実名のみの場所でも叩かれることはあるし、もっというと現実でいじめとかって無くならないし、匿名じゃなくなったからと言ってなくなるわけはない。
 ただし、匿名だと無茶をしやすい、というのはある。ニコニコのコメとか、5ちゃんねるの書き込みとかで名無しの一人になると多少きつめのことは言いやすくなるし、その場のノリと勢いで思ってもないようなことも書いてしまう。
 でも、匿名でも捕まることしたら捕まるからな。具体的な殺害予告とか繰り返し行われていて悪質性の高いものとか。

酷いことを言われた時の反応について

 酷いことを言われた際の反応にはいくつかのパターンがあると思う。
 1.ショックを受けたことを周りに伝える
 2.支持者を募って叩き返す
 3.送ってきた当人と話し合う
 4.無視する
 と大体こんな感じだろうか。一体どういう反応をするのが妥当なのだろう?
 まず1つめのショックを受けました、というように発表するのは、よく見られる光景だ。スクショとか張るやつ。これに関しては、周りから慰めてもらえる、というメリットがある。ただ、傷つけるために叩いた側の視点で見ると、「おいおい、めっちゃ効いとるで」となる。それに、誰か叩いて悪戯しよう、みたいな人からは「こいつぶん殴ったら音鳴るんやおもろ」となり、さらに叩く人が増える可能性がある。酷い話ではあるが、そういう人がいる以上はそうなる危険性は覚悟したほうがいい。ただし、叩かれた結果、かわいそう、となって認知度が増えるケースもあるので、悪いことばかりではない。

 こんなこと言われたんだけど許せない、と周りを焚き付けて叩いてきたやつを叩かせるのは、支持者数の多さ勝負みたいになって、陰惨だなと感じる。叩いてきた人が当人にやり返されるのは仕方がないとしても、不特定多数で叩くのはただのリンチだ。それをしたいならかまわないが、やはり陰惨だ。あと、捨て垢を作って叩く人間の中には、そういう風にリンチされることも織り込み済みで楽しめる手合いもいるので、やはりこれも、「効いとるやん、おもろ」になりかねないので、叩かれないようにするためにはそんなにいい方法ではないかなと思う。

 送ってきた相手と水面下で話し合うのは、相手が話の通じる相手であれば一番ことを荒立てない方法であるし、それによって仲良くなることもある。まあ、叩くことを目的として叩く人間に対しては意味はない。ただ、情報が拡散されたり大事にならないから、叩いた方としては、そんなに面白くない。

 無視するのは一番無難な方法だ。反応されないと、叩く側はつまらない。もちろん、ものによっては無視できないこともあるだろう。だが、SNSとか表に向かって何か書く必要があるか? 恋人とか、友達とか、家族とか、同僚とか、弁護士でもいいし、ペットでもいい、井戸を掘って叫んだっていい、とにかくまず閉じたところで愚痴を垂れろ。叩かれないためには反応しないのが一番楽だ。それに、表立って叩き返したりしない方が法的措置は取りやすい。

 もちろん、誹謗中傷されるときなんてのはいろんなパターンがあるし、無視した程度ではどうにもならない状況に陥る時もある。けれども、根本的な話をしてしまうと、ネットで叩かれるなんてことはクソどうでもいいことだ。Twitterなんぞを真剣にやるな。SNSなんて生きていくのに必要はないし、それでメンタルをやるくらいなら今すぐ止めちまった方が懸命だ。

ところでなんで山葵は誹謗中傷されないんだろう?

 と、以上がネットでさして叩かれたことのない山葵の意見なんだけど、山葵はなんでネットで叩かれないんだろうな?
 もしかしたら、ココで明らかにしてないだけで、尋常じゃないくらいの誹謗中傷が来てて、自分でアドバイスしたみたいに、無視してうめえことやってるのかもしれないが、一応叩かれたことがないということにしておいてくれ。
 単純にミュートされてていて誰も気が付かないという可能性もある。感想とかもそんなにもらわないしな。
 あとは、絡みづらい、ないしは叩いたときに面倒くさそうだから叩かれないのかもしれない。やっぱ逆に粘着してきそうなやつは叩かないだろ? もっと楽なやついくべよ。
 結句、なんでだかはよくわからない。悲しいね。
 

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山葵は今こんなことを考えている~受動的選択~

 Twitterとは面白いもので、変な話や愚にもつかない話、どうでもいい話、楽し気な話、エロ、ちんちん、おっぱい、犬、猫、トカゲ、あんにゃもんにゃが流れてくる。

 たまたま目にしたもので面白いものがあった。少年ジャンプ+の編集の人が受け取ったDMで、新しい漫画アプリの提案だった。
 
 その中でなるほどなあと思ったのは短い時間で心に刺さるものが必要で、若年層は選択コストをかけたくない、という点で、tiktokというサイトでは、自分の好みの傾向にあったものがおすすめ動画として再生されるらしい。

 そこでこのツイートの中では新しい漫画サービスとして、数ある漫画の中から好みの漫画を選別し読者に刺さりそうなコマを次々と提示し、それによって内容で読者の興味を惹きつけ、タイトルや表紙でUターンしてしまうタイプの読者を離さないシステムを構築してはどうか、という話である。

 他にもマシュマロという匿名のやさしいメッセージを受け付けるアプリのところが始めようとしている新しい小説のサービスでは、読者の好みにあった小説を提示し、ランキングシステムを排除し、他人の小説データなどをみられないようにするという。これによって”絶賛される他者を見て、自分が無価値なんじゃないかと悩んでしまう人が大量に生まれている現状を爆破したい”という語気の強さはウケたが、なるほど多くの人が好んでいる、ランキングに乗らないような、しかし自分の好みに合うかもしれない作品を拾い上げる役割というのは惹きつけられる要素ではある。
 
 しかし、マッチングシステムの選択によって選択コストを削減する、という点に私は少し引っかかる。それは、第一に自己の意思による選択を放棄していることであるし、第二に好きでもないものを摂取する機会がなくなる、ということだからである。

 自己の意思による選択、つまり本屋なんかに立ち寄って面白そうな本を物色する、あるいはpixivなんかで読みたい作品を検索する、という行為に当たる。他にも飯を選んだり服を選んだり生活の上では様々な選択というのが行われている。スティーブ・ジョブズがパタリロみたいに同じ服ばかり着る理由は朝何を着るかという選択に頭を使いたくないからだそうで、なるほどそれを削減するというのは理にかなっているようにおもわれる。摂取する作品の選択にストレスがかかるのであるならば、それを回避するのは妥当な考えかもしれない。

 とはいうものの、漫画や小説、映画、ゲーム、音楽なんかの好みを自分の意思ではないもの、に選ばれるというのはいささか気味が悪い。私は自分で選んだものを読み、遊び、楽しんできたからで、当然面白くないものも時間の無駄もあったが、それに対し少しも後悔、というかそうしなければよかった、というようには思えないからである。時には自分が好きでないもの、異なる世界観を有する人によって書かれたものを読みたいと思うときもある。面白くないものは面白くないなりに、何故面白くないと感じるか、ということを考えるきっかけにもなる。

 それに、例えばアンソロジー作品や雑誌なんかを購入する時のことを考えて欲しいのだが、好きな作家の作品が載っている、読みたい記事があるものを購入したとしても、それ以外の部分には目もくれない、という人は多くはないだろう。私もそうで、小説の短編集を読むことによって知った作家は多い。それに、古書店などで積み上げられた本の中からなんとなく心を惹かれるものを手に取って読む、ということは、先述したような方式では起こりえないであろうことだ。

 私はそういう慮外の出会いを好む。父は蔵書の多い人で、廊下の本棚に大量の本が並んでいて、その本の中からあれこれと読んでいた。友人や先生から貸してもらった本や、授業中に回し読みしていた漫画なんかは、自己の好みというデータの中からは決して出てこないものだったがそれが自己の思想や作品の一部に影響を与えているということは疑いようがない。そして、他人と共通する作品に触れる、ということは交流の上でも役に立つということは論を待たないだろう。

 ……しかし、翻って考えてみるに、作品を選ぶ、という行為に関して私、あるいは我々は果たして自己のみの意志によって選択を行っているのであろうか?

 ここまで読んでたしかにね、なんて思われた方には申し訳ないが、自己の意思のみで作品を選択しているということはまずありえないだろう。

 動画サイトでは急上昇した動画に人が集まり、小説サイトではランキング上位にさらに人が集まる。ブックマーク数が多いものを優先的にクリックし、圧倒的好評や賛否両論という文字を検討の材料とし、RTやいいねの数でツイートを読むかどうかを決めてはいないだろうか。

 もちろん、そんなことはないという人もいるかもしれない。だが、あえて付け加えさせてもらうなら、例えばランキング上位を避けるという行為は、立派に影響を受けている。情報はあらゆる形で影響を与えるのである。

 インターネットでの話だけではない。それ以前からずっと、選択というのは何かの影響を受けてきた。

 テレビではCMが流れ、チラシ購買意欲を誘う文句が踊り、今年の流行色、今ひそかなブームになっているバンド、行列のできるラーメン屋、書店員のイチオシ、ベストセラー、直木賞、芥川賞、ノーベル平和賞、あらゆるものが、人々の選択に影響を与えている。欲望は巧みに作り出され、必要かどうかという検討の前に欲しいと感じる。イヌイットに冷蔵庫を売りつけろ。おばあちゃんに水着を買わせろ。

 以前からそう変わらないのではないだろうか。
 システムによって選別される前から、自分以外の好みによって選択しているじゃないか。完全に自由な選択、なんてものがあるのだろうか。あなたは誰かに操られている! 陰謀だ! 洗脳だ!

 ……などということはないが、まあ、自分の意思で選んでいる、と思えるものというのは、完全にそうでない場合も多い。知り合いに勧められてとか、信頼する誰かがいいと言っていたから、という風な選択によってもよいものに出会うことはできる。アンソロジーだって、雑誌だって編集者がいる。

 自分の好みの傾向から選ばれる、というのだって少なくとも今のところは特定のサイトだけだし、気に入らなければ他のサイトを選択すればいい。自動選択サービスが生き残っていくかもまだわからない。もしかしたら、大した反響もないままにいつのまにかなくなっているかもしれない。

 もしかしたら、選出がべらぼうに良くて、なんでもっと早くこの方式にしないんだ、というように思うようになるかもしれない。30年後には、昔の人って大量の作品の中からわざわざ選んでたんだってー馬鹿だよねーなんて言ってるかもしれない。
 
 そもそもタグ検索やらタイトルで選出やらしている時点で、自分の好みそうにないものは排除しているのだ。ネットをやっていると、好きなものを見がちだ。

 ただやはり、少し寂しいなと思うのは、興味のない作品を読む機会がない、というところだろうか。好きなものばっかり食べてると、引き出しも少なくなるから。

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