チョコレートローション【フォロワー公開】
「ど…どうも。こんばんは…」
里仲羊一はいつもの如く顔を上げられなかった。だって気配ですらイケメンなのだ。
彼と会うときは奮発して、彼にふさわしい、華美でなくとも上等なホテルと決めている。だから絨毯の赤色は深く装飾も細かい。
そこに立つ黒い革靴は、今、扉の前で磨いたかのように美しかった。
「里仲さん」
「っご、ごめんなさい」
ラブホテルの部屋で出迎えるたび、まるで介錯を頼む武士のように俯いている、とはもう十度は言われたことだ。笑い混じりの呼びかけにいつもの指摘を感じて、里仲は慌てて顔を上げる。
人目を気にする職の彼はいつもマスクを付けてくる。黒色のそれで半分覆われている顔すら美しいのに、形の良い指でそれを引き下げ、柔らかく微笑んだ表情は目が潰れそうなほど美しい。彼はいつも完璧だった。
里仲は彼の自撮りを見たときから、ずっと彼に恋していた。もちろん、付き合いが一年を超えた今だって好きだ。直視できないほどに。
再び俯いた里仲に、ユタカ、という名の出張ホストは笑って言う。
「いつも指名してくれてありがとう、里仲さん。ねえ知ってる? 今日はバレンタインなんだよ」
***
今思えばあれは営業アカウントだったのだろう。口元を隠したアイコンの、日常の呟きに時々出勤報告の交じるSNS。
里仲はそのときの自分が何をしていたか覚えていない。何しろ一年以上前だ。けれどゲイという性指向で検索していたのは間違いないだろう。生来内気な里仲は人前では萎縮するばかりだったが、その反動のように、インターネット上では自分の趣味に正直だった。
けれど交流を求めたことはない。自分と同じ人がいるのだと、その存在を垣間見るだけで満足だったのだ。…彼を見つけるまでは。
大人びた柔らかい微笑み。ビジネスマナーに反しない程度淡い色合いの、襟足を綺麗に揃えた髪。スーツの似合う逆三角形の体つきは、けれどマッチョと呼ぶほど男臭くなく、爪先まで形の良い彼の手のようにどこかが上品だった。
里仲は保守的な家で育ったし、もともと奥手な気質もあって性や夜の職については疎かった。だから彼が「売り専バー」という店で働いていることも、それがどういう趣旨の店舗なのかも、彼に教えられて初めて知った。
翻して言えば何もわからないままに彼を指名していたのだ。
ユタカというその男には金を払えば会える。コンサートやミュージカルのチケットを買うような気持ちで、里仲は最初、彼を買った。
「一人暮らしには慣れた?」
店舗へ連絡をして、ユタカはベッドサイドからそう里仲を振り返った。気鬱な冬の最中、上等な茶色のスーツは彼にだけひと足早く春を与えているようだ。
一年間、少なくても月に二度は会っている。彼がふたつみっつ年上なのも関係しているのだろう。最初は里仲の不慣れゆえの言動で戸惑わせてしまったし、多分今だって変なことをしているだろうが、里仲のテンポを掴んだのかユタカは鷹揚だ。
問題は一年経っても彼と同じ空気を吸うことに慣れない里仲である。
ユタカを迎え入れたドア前に立ち尽くしたまま、里仲は俯き、ソワソワと指を組みながら答える。
「あ、えっと、…はい」
「本当に? だって初めての一人暮らしでしょう? それにまだ三ヶ月だ」
「でも、その、自由になりました。色々…」
「緊張しないで過ごせる?」
「はい」
その通り。毎日気が楽だ。
里仲は遅く生まれた末息子で、両親は老齢だった。性嗜好の話なんか単語からして伝わらない。異星人ですと言うに等しいカミングアウトで両親の平穏を破りたいなど考えたこともなかった。
ただ、里仲はとにかく小心者なのだ。
気づいていない。そういう性嗜好をそもそも知らない。わかっているが、流行りの女装タレントがテレビに映るたびドキッとする。親族の誰が結婚したしないという話題に緊張する。
両親は何も言っていない。ただ里仲がビクビクしていただけだ。けれど遅い独立を果たした今、緊張から解放された日々は気楽だ。
ユタカは微笑む。穏やかでやさしい彼の性根通りの、柔らかい笑顔だ。
「それはよかった」
「ユタカさん、相談を…聞いてもらって、その…」
「うん」
「あ、あの…」
礼を言いたい。
けれど里仲の目の前まで戻ってきたユタカが鼻先をくすぐるから、そのまま下半身を密着させるように腰を抱くから、里仲の言葉は迷子になってしまう。息を吹きかけそうで呼吸ひとつ上手くできない。
反してユタカは余裕たっぷりに笑っていた。
いつもクリーニングしたてのスーツを着ていてそうは見えない品の良さだが、こんな職業をしているのだ、こういった接触には慣れているのだろう。
「真っ赤になった」
「…やめてください」
里仲は俯いたけれど、会社勤めの短髪は耳の赤みまで隠してくれないし、もちろん、そこに口づけてくる唇を防いでもくれない。
「っあ、ぁ、…あの…っうう♡」
「まだ慣れない?」
「そりゃ…だって…」
「一年間、ずっとしてるでしょう? それに予約するときいつも俺のプロフィールを見てるはずだ。イチャイチャするのが好きだって、毎回目に入ってるよね?」
「う、う…っ♡」
耳元に触れる囁き声はもはや愛撫だと思うのだが、過敏すぎるだろうか。こんなのただの挨拶で、自分は日常的な接触に興奮しているのだろうか。里仲は自分だけ卑しい気がして、顎が喉元へ触れるほどに視線を下げる。
所在なく降ろしていた手を取られ、指先を握ったり絡ませたり、やはり愛撫のようなことをされる。「ねえ」という声に返答を促され里仲は息を呑みながら訴えた。
「な、慣れないです…無理です…っ! ゆ、ユタカさん、い、いつも、ずっと、格好いい…っ!」
「ありがとう。…これだけ長く指名されて気に入られてるのはわかってるけど、改めてそう言われると嬉しいな」
「でもあの、あの…もうくっつくのは、その、後で良くて…あの…」
出張ホストを、それがどういうサービスを施してくれるのか知っていて呼んだ。なのに居た堪れなくなるのはいつものことだ。
触れ合う時間を後に伸ばしたくて、里仲は気になってもいないことを問う。
「バレンタインって、な、何か、ありましたか。すみません。予定があるのに呼んじゃいましたか」
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