三笠 陣 2024/01/01 18:00

北溟のアナバシス(試し読み版)

1 赤い艦隊

 白地に赤い星と鎌と鎚を描いた軍艦旗をはためかせた艦隊が、東シナ海を北上していた。

「何とも気味の悪い光景だな」

 それを追跡して監視を続ける軽巡名取の艦橋で、艦長の猪口敏平大佐は呟く。
 一九四三(昭和十八)年六月、マラッカ海峡を抜けて南シナ海へと入ったソビエト社会主義共和国連邦の艦隊は、ヴィシー・フランス政府に属するフランス領インドシナのカムラン湾で一度補給を受けた後、ウラジオストクを目指してさらなる北上を続けていた。
 まるで、約四十年前のロシア帝国海軍バルチック艦隊を彷彿とさせる動きであった。
 名取は、南シナ海の大日本帝国領・新南群島(南沙諸島)あたりからウラジオストクへと向かうソ連艦隊の追跡を開始していた。
 ソビエト連邦として初めて就役させた戦艦であるソヴィエツキー・ソユーズ、そしてその二番艦ソビエツカヤ・ウクライナを基幹とする艦隊は、まさしく四十年の時を超えて蘇ったバルチック艦隊の亡霊のように、猪口の目には見えていた。
 しかし、日露戦争と違うのは、対馬沖で連合艦隊が待ち構えていないということだ。
 日本とソ連は、戦争状態にあるわけではない。それどころか、二年前の一九四一(昭和十六)年には日ソ中立条約すら結んでいた。
 一九三九(昭和十四)年のノモンハン事件に代表される日ソ間の武力衝突は、中立条約締結以降、発生してはいない。
 だというのに、中立条約締結以降も日ソ関係は緊張状態が続いていた。
 日本の統治する朝鮮半島東岸では、海流に乗ってソ連から流れてきたと見られる機雷によって多数の船舶が犠牲になっている。
 その最大の悲劇は、敦賀―清津間の連絡船|気比丸《けひまる》沈没事件であった。この事件により、気比丸乗員・乗客一五六名が犠牲となった。
 しかしながら、日本側の度重なる抗議にもかかわらず、ソ連側は機雷の敷設は国際法上認められていること、漂流している機雷がソ連のものであるとの証拠がないという理由から、一切の補償に応じていない。
 内地では、ソ連膺懲論まで持ち上がっていると聞く。
 そうした状況下での、ソ連最新鋭戦艦の極東回航。
 ソ連は明らかに、日ソ関係のさらなる緊張化を狙っているとしか思えなかった。

「あの程度の艦隊、帝国海軍が全力を挙げれば即座に撃滅することが可能であろうに……」

 もちろん、猪口自身もソ連艦隊の監視に留めなければならないことに歯がゆさを禁じ得なかった。出来ればこの名取でソ連戦艦に突撃し、魚雷を叩き込んでしまいたいとすら思う。
 しかし、日本を取り巻く国際情勢は、それを許すほど楽観的な雰囲気に満ちてはいなかった。
 一九三一年九月の満洲事変とその後の満洲国建国、日本の国際連盟脱退によって日米関係は十年近い緊張関係にあり続けている。アメリカから対日経済制裁が科されているわけではなかったが、軍事的圧力は年々増し続けていた。
 特に海軍軍人である猪口にとっては、何よりもアメリカ合衆国海軍の増強ぶりが気に掛かっていた。
 かつて帝国海軍内部で盛んに唱えられていた対米七割論。
 しかし、一九四二年を境にして、帝国海軍は対米七割の艦艇保有比率を維持出来なくなっていた。
 原因は、一九三九年九月、ドイツ第三帝国のポーランド侵攻によって始まった第二次欧州大戦であった。この戦争は翌四〇年七月にフランスの降伏、独英の講和という形で終結していたが、アメリカはこれを契機として太平洋と大西洋、両洋情勢の緊張化を理由に「両洋艦隊法」を成立させ、総計約一三〇万トンという大規模な海軍拡張計画に取りかかっていたのである。
 それ以前に進められていた三次にわたるヴィンソン計画と合わせれば、米海軍は帝国海軍連合艦隊を上回る艦隊を新たに一つ、造り上げることとなる。最早、帝国海軍は対米保有比率五割を維持出来れば良い方と言える状況にまで追い込まれていたのである。
 その対米関係にも増して緊張化の度合いを高めているのが、対ソ関係であった。
 欧州での戦火が止んで、すでに三年が経とうとしている。この間、極東情勢も欧州情勢も表面的には静謐を保っていた。
 日本は満洲事変以降、中国大陸での軍事行動は行っておらず、ドイツもまたフランスを降伏させイギリスと講和を結んだ後は、ユーゴスラビアで発生した反独派将校たちによるクーデターに軍事介入して鎮圧したのを最後に武力による周辺諸国への侵攻を止めていた。
 欧州での戦火が止んだことでソ連の関心が極東方面に向くことを恐れた日本は日ソ中立条約を結ぶことに成功してはいたものの、果たしてソ連側にその条約を守る意思がどれほどあるのか、極めて疑わしかった。

「太平洋の米艦隊と対峙しなければならないというのに、日本海にあのような艦隊がやってくるとは……」

 恐らくは、ソ連海軍は日米関係の緊張化に乗じて日本に対する軍事的圧力を高めようとしているのだろう。その目的がどこにあるのか、猪口には判らない。
 あるいは帝政ロシアのごとく、南下政策をおし進めようというのか。
 猪口の憂慮を他所に、ソ連艦隊はなおも東シナ海を北上していた。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

「本日、東シナ海を北上していたソ連艦隊は、対馬海峡を抜けて日本海に入りました」

 猪口が艦長を務める軽巡名取が東シナ海を北上するソ連艦隊を監視してから数日後、瀬戸内海柱島に錨を降ろしている連合艦隊旗艦・戦艦武蔵にて、そのような報告が司令長官・古賀峯一大将の元に届けられた。
 報告者は、先任参謀の柳沢蔵之助大佐であった。
 武蔵の右舷中央部舷側寄りにある連合艦隊司令長官公室には、参謀長・塚原二四三(にしぞう)中将始め司令部の者たちが集まっている。皆一様に、眉根に皺を寄せたり腕を組んだりして、険しい雰囲気をかもし出していた。

「日本海側の情勢は、これで一段と厳しくなったな」

 呻くように、古賀司令長官が言った。
 ソ連側からの機雷漂流により、日本海を航行する船舶の安全確保は海軍にとって重要な役割となっていた。すでに、少なからぬ数の掃海艇が日本海側に回航されている。
 掃海艇は戦艦や空母に比べて目立たぬ艦種ではあったが、軍港や要港の防備、そして戦時前進根拠地の整備などには欠かせない艦種であった。帝国海軍では掃海艇の数が根本的に不足しており、一九三七(昭和十二)年の第三次海軍軍備補充計画以降、建造が進められているものの、サイパン島やトラック諸島といった南洋群島の島々の存在を考えれば、依然として絶対数は不足しているといえた。
 その貴重な掃海艇が、太平洋方面ではなく日本海方面に引き抜かれているのである。
 仮に対ソ戦となれば、ソ連海軍が極東地域に配備している一〇〇隻超とも言われる潜水艦(その実態は沿岸防衛用の小型潜水艦であったが)をも相手取らねばならず、さらに海軍戦力が日本海側に引き抜かれるだろう。
 日ソ関係の緊迫化は、アメリカを第一の仮想敵国とする帝国海軍にとって決して望ましいものではなかったのである。

「いったい、ソ連側の意図は奈辺にあるのか……」

 日ソ中立条約が結ばれたとはいえ、日ソ間の懸案事項はそれだけではない。北方海域での日ソ漁業条約延長交渉や北樺太油田の利権を巡る問題など、外交課題は山積している。そうした外交交渉を有利に進めるためにソ連側は軍事的圧力を強めているのかもしれないが、最新鋭戦艦をわざわざ極東に回航するのは過剰であるとも言えた。

「長官」

 塚原参謀長が、口を開いた。

「この上は、日本海方面を担当する新たな艦隊の新編が必要かと存じます」

「うむ」難しい表情のまま、古賀は頷いた。「日露戦争時のウラジオ艦隊の事例を考えれば、一理ある意見ではあろう」

 古賀は自らの参謀長の意見の正しさを認めてはいたが、一方でただでさえ米海軍に対して七割を切っている戦力が、さらに減少してしまうことに懸念を抱いてもいた。
 現在、連合艦隊は艦隊決戦の主力部隊である第一艦隊、夜戦部隊である第二艦隊、空母機動部隊である第三艦隊、南洋群島の防衛を担当する第四艦隊、本土東方および北方海域の警備を担当する第五艦隊、そして潜水艦隊である第六艦隊の六個艦隊から成っている。
 そこに、新たにもう一個、日本海を担当する艦隊を編成しようというのだ。
 これ以上、太平洋方面の戦力が日本海方面に引き抜かれることは、古賀にとっても認めがたいものであった。しかし一方で、北方から強まるソ連の脅威にも対抗しなければならないことも、また事実であった。

「……私の方から、軍令部には上申しておく。諸君らは、対米作戦のみならず、万が一対ソ開戦となった場合についても、研究しておくように」

 結局、古賀はそう結論付けざるを得なかった。大日本帝国を取り巻く情勢は、最早海軍を対米作戦のみに集中させておくだけの余裕を与えなかったのである。





 そして一九四三年十月一日、平時艦隊編制が改訂され、日本海を担当する第七艦隊が新たに編成されることとなった。
 それは、極東地域に不穏な暗雲が立ちこめ始めていることを示す証左でもあったのである。

2 第一次世界大戦と戦後秩序

 一九三〇年代から四〇年代の歴史を見るとき、そこには第一次世界大戦とその終結によって構築された戦後秩序に徐々に綻びが生じていく過程が見えるだろう。
 一九一四年に勃発した第一次世界大戦は、ある意味でその後の日米対立、特にアメリカ国内の対日脅威論を醸成する要因となった。この大戦で日本が見せた積極的な姿勢が、アメリカの対日警戒を呼び起こしたのである。
 大戦の勃発について、日本では元老・井上馨のように「日本国運ノ発展ニ対スル大正新時代ノ天祐」と捉える者がいる一方で、同じく元老である山縣有朋などは参戦に慎重な姿勢であった。
 しかし、第二次大隈重信内閣の外相であった加藤高明は参戦を強く主張し、日本は一九一四年八月二十三日、対独参戦を果たすことになる。
 青島を始めとするドイツ租借地や太平洋のドイツ領南洋諸島の攻略を成功させる一方で、日本海軍は同盟国イギリスからの要請により、金剛型巡洋戦艦四隻を基幹とする遣欧艦隊、船団護衛を担当する第二特務艦隊を欧州に派遣した。英独艦隊決戦の場となったユトランド沖海戦にも、四隻の金剛型は参加している。
 また、フランス、ロシアから三個軍団の派兵を要請されたこともあり、閑院宮載仁(ことひと)陸軍大将(参謀長は青島攻略を指揮した神尾光臣中将)を総司令官とする欧州軍を編成、西部戦線に派遣している。
 このように日本が積極的に大戦へと参戦していった要因には、青島陥落が目前に迫った一四年十一月二日、英外相エドワード・グレイが加藤外相に対して、日本が欧州へ派兵するための費用負担のみならず、日本の満洲権益の保障や英自治領(主にオーストラリアとニュージーランド)における日本人移民差別問題の解消などの踏み込んだ見返りを提示したことが挙げられる。
 また、イギリスの駐日大使ウィリアム・カニンガム・グリーンも、日本の積極的な参戦は戦後の会議における日本の発言力増大に繋がると、しきりに説得した。
 イギリス以上に日本の欧州派兵を望んでいたフランスに至っては、ルネ・ヴィヴィアーニ首相がフランス領インドシナの日本への割譲を、閣議において提案しているほどであった。流石にこれは内閣で認められはしなかったが、フランスも日本の欧州派兵の代価として満洲・朝鮮の開発するための財政援助を申し出ていた。
 大隈内閣は、こうした英仏から提示された参戦の代価を得るために、欧州派兵を決定したのである。
 この当時、日本が日露戦争にて獲得した満洲権益の内、関東州の租借期限が一九二三年に迫っており、列強諸国からの満洲権益の保障は日本にとって重要な問題であった(その他、南満州鉄道の経営権益は三九年、安奉線の経営権益は二三年)。
 日本国内の新聞では、欧州列強が日本を頼るまでに至ったことへの自尊心・自負心を高らかに書き立てるところがある一方、万朝報(よろずちょうほう)などは当初、派兵に慎重な論説を掲載している(その後、万朝報は一転して派兵賛成に回る)。一四年十二月に「欧州出兵期成会」が成立すると、国内世論はこれを国威発揚、対外発展、対外権益増大の好機であるとして、盛り上がりを見せた。
 自らの内閣が大衆からの支持に支えられたものであることを自覚していた大隈は、こうした国内世論もあり、政府として国民に対し積極的に欧州派兵の意義を説いた。
 大衆の反独感情を煽り、国民に派兵を納得させようとしたのである。三国干渉に始まるドイツの東洋政策を過剰に宣伝し、あたかもドイツが戦争に勝利すれば日清・日露戦争で得た領土や権益が失われるかのごとく、国民に説明したのである。
 このように、対外的には第一次世界大戦に深く関与していく日本であったが、国内では元老筆頭の山縣有朋と外相である加藤高明との対立が深刻化していた。二人にとってイギリスが日本の欧州派兵の見返りとして満洲権益の保障を与えてくれたのは望ましいことであったが、満洲権益の維持と袁世凱政権との関係改善を望む山縣に対し、加藤は満洲以外への利権拡大も目指していたのである。
 山縣は、イギリスの後援を受ける袁世凱政権を日本も支持することで、満蒙権益の維持を図ろうとしていた。また、山縣はドイツとの関係も一定程度、維持すべきであると考え、大隈内閣による国民の反独感情を煽ろうとする言説には反発を覚えていたという。
 このため、加藤外相への不信を強めていった山縣は、それまで政敵であった政友会総裁・原敬と手を組み、大隈内閣に圧力をかけることで加藤高明を更迭させるようと画策した。
 すでに中国側は日本が青島攻略作戦に伴い、膠済(こうさい)鉄道を占領したことへの不信感を募らせていた。第一次世界大戦勃発当初は中立国であった中華民国は、自国領内での戦闘について交戦区域を定めて各国に通告していたのであるが、当然ながらそうした区域を逸脱して戦闘が繰り広げられていたからである。
 加藤外相はドイツの山東権益を日本が引き継ぎ、さらには中国最大の製鉄会社・|漢冶萍公司(かんやひょうコンス)の日中合弁化なども目論んでいた(ただし、彼も満洲権益の期限延長こそが最も重要だと考えてはいた)。
 これを、山縣は阻止しようとしたのである。
 原敬まで巻き込んだ政府中枢での暗闘は、結果として山縣の勝利に終わった。
 加藤は一四年十二月、駐華公使・日置益(えき)に対して袁世凱との直接交渉を指示する訓令を発したが、それは当初、構想していた五号二十一項からなる対華要求ではなく、満洲権益の延長のみを求める要求となっていたのである。
 その後、山縣との政争に敗れた加藤は外相を辞任する。後任外相には、一時大隈が兼任した後、石井菊次郎が就任している。
 自身の望む通りの対中政策を実現しつつあった山縣ではあったが、ここで一つ、誤算が生じた。
 それは、満洲権益の期限延長をアメリカが中国の門戸開放を理由に反発したことである。すでに日露戦争直後から満洲市場の開放を望んでいたアメリカにとって、日本の満洲権益の期限延長は認められるものではなかったのである。かつて満洲権益の日米共同経営を定めた桂・ハリマン協定を反故にされ、満洲鉄道中立化提案も拒絶されているアメリカは、こうして対日不信を強めつつあった。
 結果、外相となった石井菊次郎の最初の課題は、アメリカとの関係改善となった。
 この問題は一九一七年、寺内正毅内閣において駐米大使となった石井菊次郎とランシング米国務長官との間に「石井・ランシング協定」が結ばれたことによって一応の決着が付けられた。これにより、日本は中国の門戸開放・機会均等や領土保全を認める一方、アメリカも満蒙における日本の特殊的地位を認めるという合意がなされたのである。
 第一次世界大戦は一九一八年十一月十一日に終結することになるが、それは新たな日米対立の始まりをも意味していた。
 アメリカが連合国側に立って参戦したのは一七年四月であり、日本軍の欧州派兵よりも二年近くも遅れていた(アメリカ軍が欧州戦線に到着したのは、一七年十月以降)。
 しかし、四十二個師団、約二〇〇万もの兵力をヨーロッパ大陸に送り込んだアメリカが、連合国陣営の勝利に大きく貢献したことは明らかであった。これに対し、日本が一九一五年以降、欧州戦線に派兵した兵力は十五個師団(戦時編制、約三〇万)であった。
 日本としては、欧州戦線で多くの将兵が犠牲になった以上、戦後の講和会議における発言力、そしてドイツ権益の継承は重要問題であった。だというのに、ヴェルサイユ講和会議におけるアメリカの発言力は、先に欧州戦線に派兵し多くの犠牲を出した日本よりも上であった。
 アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンは、国際連盟を始めとする戦後新秩序の構想を、この会議で訴え続けたのである。
 しかし、これには日本側の全権代表団の人選にも問題があった。首席全権代表の西園寺公望はすでに七〇歳になろうとする人物であり、講和会議の場でほとんど発言しなかったのである。
 実際に講和会議の場で日本の意見を主張したのは、英語が堪能な次席全権の牧野伸顕(まきののぶあき)、駐英大使の珍田捨巳(ちんだすてみ)であった。ヴェルサイユ会議は、それまでフランス語が主流であった国際会議において、初めて英語中心で行われたものであった。ここにも、アメリカの存在感の大きさが表れていた。
 日本側は、語学力の問題もあって十分に会議に参加出来たとは言い難かった。
 そうした中でも、日本は国際連盟の成立にあたって、人種平等条項を連盟規約に盛り込もうとした。アメリカ・カリフォルニア州では排日土地法が成立するなど、アメリカにおける日本人移民排斥運動は日本にとって懸念事項だったからである。
 さらにこの時期、アメリカ国内では日本陸軍の欧州派兵、日本海軍の大西洋回航などに脅威を覚えているアメリカ人も多くいた。実際、アメリカ西海岸に近いメキシコ・マグダレナ湾でドイツ艦隊を追っていた巡洋艦浅間が座礁すると、アメリカ国内の新聞は日本がわざと座礁してその地域を占拠しようと陰謀を企んでいると書き立ているほどであった。
 そうしたことから、アメリカ国民の中には日本軍のカナダ上陸を本気で危惧する者たちも現れていた。
 日本の第一次世界大戦への本格参戦は、アメリカの対日警戒感や差別感情を助長する結果をもたらしたのである。
 そして、この日本による人種平等提案に対し、最も強硬に反対しようとしていたのが白豪主義を掲げるオーストラリアであった。こうしたオーストラリアの姿勢に対し、イギリスはかつてグレイ外相が日本に差別問題の解消を約束した通りに説得を試みたが、オーストラリアの白豪主義感情はあまりにも激しく、宗主国による説得も意味をなさなかった。
 当然、アメリカ側も反対に回り、結局、日本の人種平等構想は挫折する。
 南洋群島の統治継承などドイツ権益継承問題に比べれば日本外交における人種平等構想の優先順位はそれほど高くなかったのであるが、その内容が内容であっただけに、全権団に随行した近衛文麿などに反米的な思想を抱かせることとなってしまった。
 そして、外交の舞台において日本とアメリカが次に対決することになったのは、続く一九二一(大正十)年十一月から始まるワシントン会議においてであった。

3 ワシントン体制の蹉跌

 一九〇七(明治四〇)年に成立した帝国国防方針でアメリカを仮想敵国と定めた日本海軍は、国防方針に付属する国防所要兵力において、いわゆる八八艦隊の建造を目指していた。
 この八八艦隊計画は、一九一七(大正六)年に、まず八四艦隊案として帝国議会で予算を獲得していた。
 こうした中で、第一次世界大戦後の軍縮の気運が、新たな日米対立の要因を生み出すこととなったのである。
 とはいえ、アメリカのハーディング大統領によるワシントン会議の提案は、ある意味で日本の財政を破綻から救うことには成功した。この提案のあった一九二一(大正十)年における日本の国家予算は十五億九一二八万円で、その内三十一・六パーセントに当たる六億二一二万円が海軍予算、陸軍予算も合せれば四十八・一パーセントが軍事費に充てられるという状況だったのである。
 第一次世界大戦の欧州戦線で大きな損害を受けた陸軍はその再編の最中であり、さらには大戦を直接経験したことによる陸軍の近代化も急務であった。このため、陸海軍の予算はこの後も増大していくことが予想されていた。
 ワシントン会議は、その意味において軍事支出に歯止めをかける切っ掛けとなったのである。
 しかし一方で、国防を担う者たちの胸中は複雑であった。
 軍縮会議の開催を受けて、海軍は八八艦隊計画には固執しない姿勢を見せる一方、戦艦の保有比率は対米七割を最低条件としていたのである。
 だが会議が始まって早々、アメリカ首席全権代表であるチャールズ・ヒューズ国務長官は、米英日の主力艦保有比率を五・五・三とする提案を持ち出してきた。これに対して日本海軍首席随員であった加藤寛治(かとうひろはる)中将が対米七割を主張して反発するなど、ワシントン会議は最初から波乱の幕開けとなった。
 この会議におけるイギリスの立場は複雑であった。
 すでに日英同盟は、第一次世界大戦の勝利によってその価値を失いつつあった。また、第一次世界大戦における戦費を確保するため、イギリスはアメリカから四十一億ドルもの借款を受けていた。戦争によってドイツやロシアに持っていた資産を失ったこともあり、イギリスは債権国から債務国へと転落して、その国際的な立場を弱めていたのである。
 だからこそ、イギリスにとって戦後の対米協調外交は必然であった。
 しかし一方で、イギリスは大戦を通じて日本との結びつきを強め過ぎてもいた。日本の満洲権益に保障を与えてしまったこともそうであったが、欧州派兵の見返りとしてドイツ権益の一部を日本に継承させるという密約が、日英仏の間で結ばれていたのである。
 特に重要だったのは、ドイツ銀行が株式の二十五パーセントを保有していたトルコ石油の利権を、日本に分け与えたことであった。
 トルコ石油は、一九〇八年のペルシャ湾油田発見を受けて、メソポタミア地域(主にイラク)での石油開発を目的に設立された会社であり、株式の五十パーセントをアングロ・ペルシア(英)が保有し、残りの二十五パーセントずつをシェル・グループ(英)とドイツ銀行が保有していた。
 このドイツ銀行の株式保有分を、フランスが十五パーセント、日本が十パーセント、継承していたのである。
 当時、アメリカは世界の三分の二の産油量を誇り、第一次世界大戦中は連合国の消費する石油の四分の一をスタンダード・グループのニュージャージー・スタンダード一社で賄っていたほどであった。しかし、アメリカは東半球に石油利権を持っていなかった。
 中東の石油利権に介入したいアメリカは、アメリカ企業の事業への参入を許さない国に対してはアメリカ国内での採掘権を認めないとする「鉱物法」を成立させて、イギリスの石油産業への圧力を強めていた。
 このためイギリスは、アメリカと協調する必要性と、アメリカを牽制する必要性との間で、板挟みとなっていたのである。
 ワシントン会議では、共同して日本の保有比率を六割に押さえつけようとするアメリカ側の働きかけに対し、イギリスは終始、日米に対し中立的な立場を維持しようと腐心していた。
 中国の利権を軍事力で脅かしかねない日本はイギリスにとって警戒の対象となりつつあった一方、第一次世界大戦では結局、満洲利権の維持のみに努めた日本の抑制的な態度をイギリスは評価してもいた。
 さらに、アメリカ海軍に日本海軍を牽制させる一方、日本海軍にもアメリカ艦隊を牽制してもらい、アメリカの中国市場への介入を抑制したいという思惑もあった。
 結果、日本が対米七割に主張していることもあり(加藤友三郎は六割で妥協する肚ではあったものの)、イギリスは日米に対して十六インチ砲搭載戦艦を三ヶ国それぞれが保有することを提案した。
 アメリカ側としては会議においてイギリスと完全な外交的連帯がとれなかったこともあり、また会議開催時点で十六インチ砲搭載戦艦をメリーランドしか竣工させられていなかったこともあり、不満はありつつもイギリスの提案を受け入れることとなった。
 結果、日本は加賀、土佐、長門、陸奥の四隻、アメリカがメリーランド、コロラド、ウェストバージニアの三隻、イギリスが新たにネルソン、ロドネーの二隻を保有し、日本が三八万三二五〇トン、英米が五二万五〇〇〇トンという割合で交渉は妥結することとなった。
 比率に直せば、日本は英米の七十二・五パーセントを確保するという、望外とも言える結果を手にしたのである。
 ただし、アメリカ側は流石にこれでは日本の海軍戦力が過剰になりすぎると警戒し、太平洋防備制限案を会議の場に持ち込んだ。
 これは本来、加藤友三郎が対米六割で妥協する代わりに英米に認めさせようとしていたものであり、日本の外交暗号を解読していたアメリカは、逆にこれを日本側に認めさせようとしたのである。
 太平洋防備制限案は、各国の本土や付属する島嶼部以外の軍事施設の現状維持を謳ったものであり、日本では千島列島、小笠原諸島、奄美大島、琉球諸島、台湾、澎湖諸島がその対象となる(ヴェルサイユ条約とのその後の国際連盟で日本の委任統治領となった南洋群島は、そもそも連盟規約で軍事基地化が禁止されている)。
 アメリカも当然ながらアリューシャン列島、グアム、フィリピンなどがその対象となるが、アメリカはフィリピンにはハワイ、パナマ運河地帯と同じく例外とするよう、強硬に求めた。
 こうしたアメリカ側の姿勢に対し、すでに戦艦が土佐まで保有することを認められた日本は大きな反対をしなかった。
 対米七割を達成して満足していたといえばそれまでであるが、本土の軍事基地には制限を設けられていないのだから、むしろ本土近海で艦隊決戦に臨める日本側が有利と、加藤友三郎も加藤寛治も考えていたのである。
 これは、第一次世界大戦の戦訓から、遠隔地に大量の陸軍部隊を輸送することがいかに困難であるかを実感しており、対米七割の艦艇保有比率を達成しているのならばアメリカ本土からフィリピンまでの長大な航路を日本はいつでも遮断出来るだろう、という冷静な判断に基づくものでもあった。
 一方のイギリスは、シンガポールが防備制限の範囲から除外されていることに満足する一方で、フィリピンの軍事基地化は自国の中国市場に対するアメリカの軍事的圧力の増大をもたらすものとして警戒していたが、結局は対米協調を優先して妥協するしかなかった。
 こうして、ある意味で日本が一番会議の結果に満足していた一方、アメリカとイギリスはそれぞれにしこりを残して、ワシントン海軍軍縮条約は締結されることとなったのである。
 そしてこの日本の対米保有比率七十二・五パーセントという数値は、その後もアメリカ国内で日本脅威論の根拠とされていく要因となった。
 すでに第一次世界大戦時から高まりつつあった日本人への差別感情も同様であり、日本人移民の多かったカリフォルニア州出身の下院議員を中心に「帰化不能外国人」の移民禁止を求める動きを強めた(「帰化不能外国人」とは、主に日本人のことを指す)。
 結果、一九二四年、いわゆる「排日移民法」が制定され、日米対立の新たな要因を生み出すことになる。
 ワシントン会議では中国の領土保全や門戸開放、機会均等を認めた九ヵ国条約、太平洋の現状維持を謳った四ヶ国条約が成立し、満期となった日英同盟は解消された。しかし、日英はこれ以降も、中国権益などを通じて緩やかな連帯を続けていくこととなる。
 ワシントン体制の成立は結局のところ、日米間の対立要因を徒に増やしてしまう結果しかもたらさなかったとも評価出来るのである。


  あとがき

 拙作をお読み下さり、誠にありがとうございます。

 これまで架空戦記は太平洋戦争中のある一海戦を改変しつつ物語を進める形式ばかり書いてきましたが、本作はそれ以前の時代から改変を加える形式の物語となります。
 私にとって太平洋戦争以前の段階から歴史改変を行う形式の物語は、挫折してしまった初期作「東京テンペスト」以来となります。
 あちらは現代まで存続した大日本帝国を生きる陰陽師たちを中心とした現代ファンタジーとして書きましたので、架空戦記としては初めての試みとなります。

 なお、参考文献については執筆途中で増えていく可能性がございますので、完結時にまとめて掲載する形にしたいと思います。

 それでは、新たな拙作を何卒、よろしくお願いいたします。


【史料】史実ワシントン海軍軍縮条約の太平洋防備制限条項

海軍軍備制限に関する条約
(前略)
第十九条 合衆国、英帝国及日本国ハ左ニ掲クル各自ノ領土及属地ニ於テ要塞及海軍根拠地ニ関シ本条約署名ノ時ニ於ケル現状ヲ維持スヘキコトヲ約定ス
(一)合衆国カ太平洋ニ於テ領有シ又ハ将来取得スルコトアルヘキ島嶼タル属地但シ(イ)合衆国、「アラスカ」及巴奈馬運河地帯ノ海岸ニ近接スル島嶼(「アリューシャン」諸島ヲ包含セス)竝(ロ)布哇諸島ヲ除ク
(二)香港及英帝国カ東経百十度以東ノ太平洋ニ於テ現ニ領有シ又ハ将来取得スルコトアルヘキ島嶼タル属地但シ(イ)加奈陀海岸ニ近接スル島嶼(ロ)濠太利聯邦及其ノ領土竝(ハ)新西蘭ヲ除ク
(三)太平洋ニ於ケル日本国ノ下記ノ島嶼タル領土及属地即チ千島諸島、小笠原諸島、奄美大島、琉球諸島、台湾及澎湖諸島竝日本国カ将来取得スルコトアルヘキ太平洋ニ於ケル島嶼タル領土及属地
前記ノ現状維持トハ右ニ掲クル領土及属地ニ於テ新ナル要塞又ハ海軍根拠地ヲ建設セサルヘキコト、海軍力ノ修理及維持ノ為現存スル海軍諸設備ヲ増大スルノ措置ヲ執ラサルヘキコト竝右ニ掲クル領土及属地ノ沿岸防禦ヲ増大セサルヘキコトヲ謂フ但シ右制限ハ海軍及陸軍ノ設備ニ於テ平時慣行スルカ如キ摩損セル武器及装備ノ修理及取替ヲ妨クルコトナシ
(後略)
(外務省編纂『日本外交年表竝主要文書』下、原書房、1965年、9~12頁)

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

月別アーカイブ

記事を検索