私は昔、格闘ゲームに心血を注いだ時期がある。のめり込んだ本当の理由は、祖父の介護による精神的ストレスから逃れるためだったのだと、介護が終わった今だから思うが。上手くなるために、強くなるために努力した日々はどんな理由であれ本物だと思うので。なんやかんやで良い思い出だと自分自身を納得させている。
今の時勢的に狭い空間に集まることができないので、今から格闘ゲームを始めようという人は大変だ。ネット対戦という文化が普及して家で格闘ゲームができる時代にはなったけれど。ちゃんと遊ぼうと思ったら、そのハードに対応したアーケードコントローラ(ゲーム筐体のコントローラー部分だけを抽出したようなコントローラー。以下、アケコン)を買わないといけない。これだけでけっこうな出費である。さらに、今だとレバーすらボタンになったコントローラー(ヒットボックスだったかな?)もあって、レバー勢とヒットボックス勢での性能差も論争を呼んでいると聞いたことがある。
とある格闘ゲーム大会では、なんとヒットボックスコントローラーが使用禁止にされたこともあったんだとか。個人的には、自転車レースで本場イタリアとかの自転車のフレームを開発してるメーカーが廃業しないために、工場でのプレス加工などで作られる、自転車レースの協会が定めた基準を満たさない形のフレームは原則レース参加禁止になった措置みたいな話だと思ったりした。既存のレバー勢が新しい勢力であるヒットボックス勢に太刀打ちできないからと禁止にする。乱暴な措置ではないだろうか。
話が逸れた。私は十数年前に格闘ゲームをやって、偶然にも同時期に同じゲームを始めた人がいたのでモチベーションを保つことができた。同時期に始めた人間がいて、そのゲームを開発したサークルの人が地元でゲームセンターを開業していて。さらにはそのゲームセンターで毎週定期的に対戦会、大会が行われていた。今考えても、これほどまでに恵まれた状況は無かっただろう。私が格闘ゲームを上手くなれたのは、大部分この運に救われたのだと思う。
今日は、その同時期に始めた人とあったとある話をしよう。
その人はGさんといって、格闘ゲームが上手い人だった。KOF(キングオブファイターズ)系のゲームがメインならしいけれど、だいたいの格闘ゲームを初めて触ってもある程度動かせるような、センスのある人だった。対する私は格闘ゲームずぶの初心者で、どうあがいても太刀打ちできない。結果、毎度私だけが筐体に100円をチャリンチャリンと入れまくることになる。私はそれもきつかったので、節約のためというのも強くなる大きなモチベーションだった。
長く遊び続ける中で、その人にも勝った負けたができるようになり。新しく始めた子たちには10戦中9戦ぐらいは勝てるようになった。格闘ゲームは、ミスしなければ基本的に力量が如実に出るので。強い人が弱い人に負けることというのが基本的に無い。これはどうしようもない事である。そしてそれも私の自信となっていた。
だが、ある時の何気ない会話で、彼がこんなことを言った。
「いや、E1さんは上級者じゃないですよ」
この一言を聞いた時、私の中の格闘ゲーム熱というか、意欲が一気に霧散した。彼自体は会話していて唐突に真逆のことを言いだすことがよくある人で。この一言も多分雑談の中の唐突な逆張りだったのではないかとは思う。だが、言われた私自身が。この一言に至極納得してしまった。認めてしまったのだ。
格闘ゲームと言うのは、キャラ差を覆すことができない。人間はミスをする生き物だから、そのおかげで勝った負けたが発生するけれど。お互いがミスをしなかったら、キャラ性能が強い方が勝つ。悲しいが、それがどうしようもない現実だ。それが嫌なら、弱いキャラを使う人間は、強いキャラを使う人間より千倍も万倍も努力しなくてはならない。そうしなければ、発言権すら与えられない。格ゲーマーの世界とは、そういう世界である。
だが私は、弱いキャラがそれだけ余計に努力しなければいけないという現実自体を受け入れることを拒否した。割に合わないからだ。しかも、強いキャラを使う相手だって日夜努力をしている。お互いがお互いに努力し続けているのだから、差が埋まることなんてあるわけがない。なにより、ゲームだからといって。いや、ゲームだからこそ。「ミスしなければ勝てない」というコンテンツを、私は真剣に遊び続けることが出来なかった。
遊び続けなければたどり着けない結論。だが、最後に得た答えは私にとって残酷だった。私が私なりに真剣に遊んでいても。上級者たちにはそれが「努力している」ように見えない。どうあがいても、「努力が足りない」の一言で済まされる。まるで別の種族、別の生命体のように。分かり合うことができない。意思の疎通自体が無理なのだ、と私は理解してしまった。その人たちの言う「努力」というのは、私にとっての「不可能」と同意義だったのだから。不可能なことをやれと言ってくる相手と、一緒に遊び続けることは不可能なのだ。
今、一緒に遊んだ彼がどうしているのかは分からない。私が格闘ゲームをまたやり始めることもたぶん無いと思う。楽しい時間の先にあったのは、どうしようもない別れではあったけれど。あの日々は、間違いなく楽しかった。
分かり合えない人たちとは別れる。どれだけ努力しても差は埋まらない。そこでさらに頑張るか、はたまた止めるか。私は、止めることも勇気だと思う。それが、自分を守ることに繋がる。
結局のところ。「楽しく遊ぶ、楽しくなくなったらやめる」。それだけのことなのかもしれない。無理しても遊んでも疲れるし傷つくだけ。悲しいことだが、分かり合えない人たちとは交流を続けない方がいいのだ。そこで無理して合わせようとしても、お互いにとって悪い結果にしかならないのだから。