八卦鏡 2021/07/15 00:00

バイタルサイン

深夜の病棟

コツコツコツコツ

深夜のひんやりとした空気が漂う病棟に、乾いた靴音が響く。
靴音を響かせ歩くのは、白衣姿の神経質そうな顔の中年男性だ。
彼はこの病院に長年勤務する内科の医師だ。
今夜は宿直で、病院に隣接する宿舎で待機する事になっている。
今は病棟の入院患者の容態を確認して、その宿舎に戻るところだ。
べつに入院患者の容態が急変した訳ではない。
彼の性格が、深夜回診のような行動をさせるのだ。

奇妙な笑い声

それは、病棟の休憩室に近付いた時だった。

クスリ・リ
クスリ・リ
クスリ・リ

奇妙な笑い声が休憩室から聞こえて来た。
この休憩室には、夜勤の看護師がいるはずだ。

クスリ・リ
クスリ・リ
クスリ・リ

中年医師は、この奇妙な笑い声に聞き覚えがあった。
この病院に勤務する新人看護師の一人だ。
この奇妙な笑い声が不快で、彼の記憶に残っていた。
他の看護師たちからは、個性的で面白いと問題視されていないようだ。
とても生真面目な性格の彼にとって、とても信じ難い事だ。
それに、新人とはいえ看護師としての手際の悪さは目に余る。
それを、端麗な容姿と奇妙な笑い声でごまかしている。

休憩室の扉

彼はこのまま休憩室を通り過ぎようかと思ったが、その足を止めた。
気に入らない新人看護師に、何か小言でも言ってやろうと思ったのだ。
彼はノックもせずに、休憩室の扉をスライドさせた。

中年医師「!」

休憩室の扉の向こう側の光景を目にした時、彼は言葉を失った。

新人看護師

そこには、椅子に腰掛ける奇妙な笑い声の看護師の姿があった。
休憩室で看護師が椅子に座っている姿は、何の問題もない。
だが、その新人看護師は全裸だった。
看護服は脱ぎ捨てられ、彼女の豊満な乳房が蛍光灯に照らされている。
それでも、診察で若い女性の裸を何度も診て来た中年医師は動揺はしない。
この変わり者の新人看護師が、露出狂の可能性もある。
しかし、それは人間の知識が及ぶ光景ではなかった。
新人看護師は、彼の知識では理解できない異形の存在だったのだ。

新人看護師の腹部はぱっくりと開き、黒い内臓が外部に飛び出していた。
いや、それは黒い内臓と呼べるようなものではない。
それには、複数の目と昆虫の歩脚のようなものがあった。
そして、まるでそれ自体が生物かのように、うねうねと蠢き宙を舞っていた。

中年医師「…………なっ……何だ……お前は…」

彼はやっとの事で言葉を絞り出した。
新人看護師は、顔面蒼白の中年医師を一瞥した。

クスリ・リ
クスリ・リ
クスリ・リ

そして、件の奇妙な笑い声を上げた。

新人看護師「あらあら」
新人看護師「こんな深夜に、人間がこの場に来るとは想定外です」
新人看護師「この人間の姿を維持するのは、かなり精神的に疲れるんですよ」
新人看護師「だから、周囲に人間がいない時は、本来の姿に戻るんです」

この新人看護師は、何を言っているのだろうか。
医大を首席で卒業した彼でも、全く理解できない。

新人看護師「この姿を見ちゃいましたね?」
新人看護師「なら、貴方には私の養分になってもらいます」
新人看護師「この病院という施設、私はとても気に入っているんです」
新人看護師「人間の肉体の知識を得るには、とてもいい場所ですから」
新人看護師「だから、私はまだこの病院から去りたくないんです」

その瞬間、黒い内臓のようなものが高速で動いた。
あっという間に、中年医師の全身が包み込まれてしまう。

中年医師「ぐふっ!」

クスリ・リ
クスリ・リ
クスリ・リ

彼は薄れゆく意識の中で、彼女の奇妙な笑い声を聞いた。

中年医師の失踪

その中年医師が失踪してから半年が過ぎた。
未だに中年医師の消息は不明のままだ。
今後も彼の痕跡をたどる事は不可能だろう。
何故なら、あの黒い内臓のようなものに、完全に吸収されてしまったからだ。
それは、彼の存在そのものが、この世界から消滅したに等しい。
中年医師を失った病院の内科には、新しい医師が配属された。

看護師「こちらの患者さんのバイタルサインは、全て正常値です」

一人の医師が消えていなくなろうとも、病院の経営は続く。

クスリ・リ
クスリ・リ
クスリ・リ

病棟に看護師の奇妙な笑い声が響いた。

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