八卦鏡 2022/02/15 00:00

寮長日記7[老女]

高齢者向け分譲マンション(午後)
車椅子に白髪の老婆が座っている。
老婆は窓の外に舞う粉雪を見詰めている。
老婆の顔色は悪く、健康的とは言い難い。
彼女の部屋は広く、エアコンの暖房が効いて暖かい。

安山無針(あんざん・むしん)

世界的に名の知られた抽象画家だ。
彼女の描く抽象画は難解だが、海外での評価が高い。
緑を基調とした画風は、見た者の心を抉るという。
全くメディアには登場せず、その素顔を知る者は少ない。

無針「…もうすぐ…60歳……」

車椅子の無針は、雪空を見上げながらぽそりと呟いた。
無針は、自分の寿命が尽きる日が近いのを確信していた。

無針「…とても…幸せだった……」

この60年間、絵画に一生を捧げて生きた人生だった。
若い頃から身体が丈夫でなく、結婚も子供も諦め独身を貫いた。
だが、好きな絵を描いて、その一生を終える事に後悔はない。
世界的に絵が評価され、生活も困窮する事なく過ごせた。
彼女にはたくさんの弟子がおり、子供がいない寂しさもない。

無針「…でも…あの時の…あの言葉……」

無針は、人生で一つだけ気掛かりな事がある。
それは、学生時代の夏合宿の時の記憶だ。
無針は美術部に所属し、夏合宿に参加した。
その時、事故が起きて、無針以外の全員が亡くなった。
だが、無針はその事故の時の記憶が全くない。
病院で意識を取り戻した時には、何も覚えていなかった。
警察の事情聴取にも、全く答える事ができなかった。
警察の説明で、夏合宿の事故は陥没事故だと知った。
病院の医者は、事故が原因の記憶障害だと診断した。
全ての話を総合すると、特におかしな点はない。
しかし、それを鵜吞みにできない出来事があった。
それは、病室で無針が目を覚ました時の事だった。
無針が意識を取り戻したのは、深夜の病室だった。
病室は暗く、そこが病室だと分かるのに時間が掛かった。
無針が眠っていたベッドの傍らに、人の気配があった。
顔は暗くて見えないが、無針が通う学園の制服を着ていた。

無針「…誰?」

声「60歳」

無針「えっ?」

声「60歳まで、後悔がないように生きなさい」

無針「どういう、意味ですか?」

声「今真実を知れば、あなたは発狂してしまうでしょう」
声「あなたが60歳になった時に、真実をお話ししましょう」

そう告げると、声と気配は病室から忽然と消え去った。

無針「…あの時の人物は…一体誰だったのかしら…」
無針「…手掛かりは…私の母校の制服を着ていた事だけ…」
無針「…その後…調べても誰だか分からなかったわ…」

無針は衣服の右腕の袖を捲り上げた。
袖から現れた細い右腕には、緑色の痣が広がっていた。
学生時代に患った、原因不明の皮膚病だ。
色々と治療を試みたが、痣を消す事はできなかった。
それどころか、痣は歳を取るごとに、全身に広がっていった。

無針「…私の絵には…この緑の痣に対する恐怖が塗り込んであるわ…」

無針は自分の胸元に手を当てた。
胸には、あの時の事故で負ったと思われる傷跡がある。

無針「…時々…この胸の傷が激しく痛むわ…」
無針「…まるで…あの日の事故を忘れるなと告げるように…」

無針は窓から視線を流し、部屋の豪華な掛け時計に向けた。

午後4時44分

無針「…明日…私は60歳になる…」

部屋には真っ白なキャンバスが置いてある。
遺作でも描こうかと思ったが、全く描く気になれない。

無針「…あの時…あの人物が告げた言葉…」
無針「…あの人物は…私が60歳になった時に…」
無針「…あの夏合宿の真実を…私に告げると言った…」

高齢者向け分譲マンション(深夜)
その夜、無針は眠る事ができなかった。
ベッドの上で何度も目を覚まし、視線を掛け時計に向けた。
時刻は既に午前0時を過ぎ、無針は60歳になっていた。
眠っているのか、起きているのか、分からない時間が過ぎる。
無針は瞼を開き、視線を掛け時計に向けた。

午前4時44分

無針「…はぁ…私は何を期待していたのかしら…」

無針は非現実的な期待をしている事に気付いた。

無針「…あの人物も…既に老人になっているわ…」

あの時の人物が、まだ生きているのかも分からない。

無針「…それに…どうやって…この部屋に来るというの……」

この高齢者向け分譲マンションは、セキュリティーが高い。

無針「…はぁ…」

無針はベッドの上で大きな溜息を吐いた。
身体が衰弱しているのがはっきり分かる。
今日の朝日を見る事はできるのだろうか。
しかし、無針は悲観はしない。
世の中には、無針よりも若くして亡くなった芸術家もいる。
人生60年、もう十分に生きたし、幸せだったと言える。

声「安山無針さんですね?」

その声は、無針のベッドの傍らで突然聞こえた。
部屋の扉が開かれた音は聞こえなかった。
どうやって、この部屋に入って来たのだろうか。
しかし、確かにベッドの傍らに人の気配を感じる。

無針「…あなたは…あの時の人かしら…?」

無針は興奮し震える声で尋ねた。
まるで、待ち焦がれた恋人が現れた感覚に似ていた。

声「いえ、その人が直接来られないので、代理で来ました」

無針「えっ?」

予想外の返事が返って来た。
確かに、無針が記憶している、あの時に聞いた声とは全く違う。

無針「…あなたは…どなたかしら…?」

声「私は青島魔夜です」

無針「…青島魔夜……」

無針の記憶の中には存在しない名前だ。
無針は重たい身体を鞭打って、声のする方向に寝返った。
そこには、長身の人影が立っていた。
部屋が暗くて顔はよく見えないが、その衣服には見覚えがあった。

無針「…その制服……私の母校の制服ね…」

魔夜「そうです」

無針「…私の頃と…基本的なデザインは変わってないのね…」

無針は学生時代を思い出し、懐かしむように目を細める。

無針「…あの病室で…私と話した人物は誰なのかしら…」

魔夜「あの時、あの病室であなたと話した人物は…」

紺堂遊魔(こんどう・ゆうま)

魔夜「…です」

無針「…紺堂遊魔……」

この名前も、無針の記憶の中には存在しない。

無針「…私が通っていた…学園の生徒よね…?」

魔夜「学生寮の先代の寮長です」

無針「学生寮!」
無針「…あの不思議な噂の絶えない…学生寮の生徒だったのね…」

無針は妙に納得したような顔をした。

無針「…ここに今日来れないという事は…その方は亡くなったのね…」

魔夜「そうとも言えますし、そうでないとも言えます」

魔夜は懐から古びたカセットレコーダーを取り出す。
レコーダーには、カセットテープが入っている。

魔夜「では、先代寮長からあなたへのメッセージです」

魔夜は、再生ボタンを押した。

紺堂遊魔のカセットテープ(CV.マキノ)

無針「………………………………」

それは、衝撃的な内容だった。

無針「…そう…あの夏の日に…私は既に死んでいたのね…」

しかし、不思議とでたらめな作り話には感じられなかった。

魔夜「私の見立てでは、あなたの肉体の限界は近い」
魔夜「もし、朝日を浴びると、緑の崩壊を起こすでしょう」

無針「緑の崩壊?」

魔夜「グラーキのゾンビは、不老不死ではないのです」
魔夜「年齢が60歳を過ぎて、日光を浴びると死にます」

無針「…人間の死と…何か違うのかしら…?」

魔夜「死体が残りません」
魔夜「肉体は完全に崩壊し、後には緑色の染みが残るだけです」

無針「……………………そう…」

魔夜「もし、あなたが望むのならば」
魔夜「誰にも目撃されない場所に、あなたをお運びします」

無針「…いえ…結構よ…」
無針「…私は…このベッドの上で…緑の崩壊を迎えるわ…」
無針「…私が朝日を浴びれば…この白いシーツに緑の染みが残るわ…」
無針「…それが…私の…安山無針の最期の作品となるわ…」
無針「…だから…その窓のカーテンを…開けてちょうだい…」

魔夜「…分かりました」

魔夜は、ベッドの隣の窓の遮光カーテンを開いた。
もう既に夜が明けており、朝日が無針の身体を照らした。

無針「…紺堂遊魔さん…同じ学園生徒なら…お友達になりたかったわ…」

全身が緑色に染まった無針の肉体が、サラサラと砂のように崩れ始めた。

魔夜「…………………………」

魔夜は黙って、無針の緑の崩壊を最期まで見守った。

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