衛元藤吾 2020/11/25 04:18

wicca

・ペトリコール

 雪の降る夜、青白い光を放つ街灯の下。
 その日私は魔女と出会った。

 しんしんと、道路に雪が降り積もる。空腹と、身体の痛みと、寒さのせいで身動きの取れなくなった私の前に、いつの間にか彼女は立っていた。

 彼女は黒いコートを身に纏った背の高い女性だった。
 真白い肌と、真白い長髪、赤く塗った口紅の色が自棄に目立つ。黒い手袋に覆われた細い指で私の髪を掴みあげ、彼女は私の顔を覗きこむ。
 彼女は問うた。

「明日の朝になれば、お前はきっと死体になって発見される。哀れな孤児の凍死体なんて誰も気にも留めないだろう。葬儀なんて行われる筈もなく、すぐに焼かれて灰になって終わるだろう」

 だからどうした、と問い返した。
 否、寒さで口も動かないから、私の喉から零れた声は酷く掠れた呻き声だけだった。けれど、その女性は私の言いたいことを理解してくれたのだと思う。にぃ、と口角を吊りあげ不気味な笑みを浮かべて見せた。
 不気味で、けれど不思議と美しいと感じる、そんな笑み。

「ここで死ぬか、それとも私についてくるか。まぁ、ついて来た所で、一月後には死体になっているかもしれないけれど、そうだな……さしあたり、今夜お前は生きのびて、明日の食事と暖かい寝床くらいは手に入る」

 なんて、言って。
 彼女は私に「どうする?」と問うた。
 生まれてこの方、路地裏を這いまわる鼠のように生きて来た私に与えられた、初めての選択肢。生きるか死ぬかの二択。
 彼女が何者かは分からない。きっと碌でもないものだ。もしかしたら悪魔の類なのかもしれない、と私は思った。けれど、私は生きたかった。死にたくなかった。ここで死んでしまえば、私には何も残らない。憂さ晴らしと称して、私を蹴りつけた酔っ払い達にも、一欠片のパンを巡って殴り合いをした他の孤児達にも仕返しが出来ない。
 私は非力で、貧弱で、鼠のように生きて来て、けれど私は人間だ。
 蹴られれば痛いし、殴られれば赤い血が流れる。ちっぽけなものではあるけれど、私にだってプライドはある。
 私は、私を虐げた者達に、私を踏みにじったこの世界に復讐したい。
 だから私は、彼女の手を握りしめた。
 生まれて初めて差し伸べられた他人の手を決して放してなるものか、と。凍える指先に目一杯力を込めて、彼女の手首を握りしめる。

「生きたい」

 震える声で、私は彼女にそう答えた。

 彼女の名前は「ムスカリア」と言うらしい。街の外れにある工場地帯に住む魔女だとムスカリアは名乗る。
 薄汚れ、朽ちかけた工場地帯の最奥に、そこだけやたらと綺麗な洋館が建っていた。洋館の扉を開けながら「今日からここがお前の家だ」とムスカリアは言った。
 ムスカリアに促されるままに玄関を潜り、そして私の意識は途切れる。
 
 次に目を覚ました時、私はベッドの上に居た。ベッドの傍にはムスカリアが居る。ムスカリアは目を覚ました私を見て、にぃ、と初めて会った時と同じ不気味で美しい笑みを浮かべた。
 私はムスカリアに向かって手を伸ばす。どうしてそんなことをしたのか、自分でも分からないけれど、きっと私は、私に手を差し伸べてくれた彼女が本当にそこにいるのか、触れて確かめたかったのだと思う。
 けれどそれは叶わなかった。
 私の両手は、手首から先が無くなってしまっていたからだ。
「あれ?」
 と、喉から零れた声は小さく掠れた、弱々しいものだった。
「凍傷が酷かったからね。切らせてもらった。命の対価だと思えば安いものだろ」
 くっくと肩を震わせながら、ムスカリアは私に告げる。
「一応、切った手は取ってあるけど記念に持っておくかい?」
 そう言ってムスカリアは、部屋の隅にあるテーブルの上を指差した。そこにはガラス瓶に入れられホルマリン漬けにされた私の手が安置されていた。見慣れた、あかぎれだらけの小さな手だ。
「いらない」
 無くなってしまったものは仕方ない。それに、ムスカリアの言う通り命の対価だと思えば両の手なんて惜しくは無い。
 否……惜しくない、というのは嘘だ。指が無ければ不便なので。けれど不思議と悲しくはなかった。私の胸中に渦巻く感情は喪失感。今までずっと一緒だった身体の一部が、突然いなくなったことに対する、なんとも言い難い感情である。
「お前、名前は?」
「ない」
「では、お前は今日からプレムナだ」
「プレムナ……」
「そう。プレムナ。魔女から名前を貰ったのだから、お前は今からこの私の使い魔だ」
 なんて、言って。
 何がそんなに面白いのか、ムスカリアは腹を抱えて笑っていた。
 その日私は、両の手を失い、代わりに住処と名前を貰った。
 
 ムスカリアは廃墟に暮らす魔女である。魔女、と言っても大窯で薬草を煮込んで薬を作るわけでもなく、箒に乗って空を飛ぶわけでもなく、呪文を唱えて火を起こすわけでもなく、ただ普通の人達よりも機械の扱いに詳しくて、寿命がやたらと長いだけだと彼女は私に教えてくれた。

 ベッドの上で数日間、ムスカリアの作ってくれた不味いスープを飲みながら体力を回復させて、その後、彼女の作ってくれた義手を付けてもらった。
 それから毎日、ムスカリアの手伝いをしながら暮らす日々。歯車を磨いて、ネジを回して、工具の点検をして、ついでに料理を覚えさせられる。

「技術を身につけなさい。生きたければ、プレムナにしか出来ない技術を。何も出来ない人間に優しくしてくれるほど、世の中は優しくないからね」

 事ある毎に、彼女は私にそう言った。工具の扱いを、計器の味方を、機械の仕組みを、文字の読み書きを、計算を私に教えてくれた。料理に関しては、ムスカリアは大層苦手らしいので、それだけは自力で覚えるしかなかった。
 毎日食事にありつけるのはありがたいけど、人間とは不思議なもので、どうせなら美味しいものが食べたいな、という欲が出るのだ。
 路地裏で寝起きしていた頃は、パンに黴が生えていようが泥に塗れていようが、腹に入れば幸せだったのだけど、なんともおかしな話である。
 ムスカリアの作ったスープを不味いと言って残した私を見て、彼女はまたくっくと肩を震わせ笑う。
「欲が出て来たね。人間らしくなったじゃないか」
 そう言われて、私はなんだか救われた気がした。
 人間らしい、と言われただけで私は幸せだった。

 ムスカリアと暮らし始めて三年が経った。貧相な小娘だった私は、貧相な少女へと成長した。その間、ムスカリアは歳を取らなかった。
 魔女の寿命は人間なんかとは比べ物にならないほどに長いらしいので、身体の成長はある程度成熟するとそれ以降は酷くゆっくりになるのだと言う。
 聞けばムスカリアは今年で二百歳になるらしい。
 彼女の誕生日にケーキを焼いて、蝋燭を二百本突き立てたら、翌日食事を抜きにされた。解せない。女性に歳の話は厳禁だと言うけれど、それは魔女も同じらしい。
 真夜中にムスカリアの目を盗んで、こっそり食べたベーコンはとても美味しかった。

 ムスカリアは、発明品を売ったり、街で壊れた機械なんかを修理することで生計を立てているらしい。ムスカリアの下で技術を磨いた私は、ある日彼女に「簡単なものなら私でも修理できる。私もムスカリアと一緒に街に出る」とそう言った。
 けれどムスカリアは「やめておけ」と言うだけで、私を街に連れて行ってはくれなかった。
 そんなある日のことだ。
 街に出かけたムスカリアが、翌日になっても帰って来なかった。

 ムスカリアは人間が嫌いなのだろう。人間は自分と違うもの、異質なものを恐れ、嫌うからだと言っていた。自分よりも美しいから、醜いから、頭がいいから、悪いから、人間よりも寿命が長いから。それだけの、些細なことで人間は自分と同じ形をしている生物を嫌悪し、迫害する。
 だからムスカリアは人間が嫌いだ。
 けれど人間は、ムスカリアが優秀な技術者だと知っている。二百年を生き、培ってきた彼女の技術は人間なんかには理解出来ないし、到底真似できないものなのだ。
 そんな彼女を、人間は恐れ、けれど必要としていた。

 ムスカリアが帰って来なくなって一週間が経過した。私は心配になって、ムスカリアの言い付けを一つだけ破ることにした。
 工場地帯から出て、街に行くこと。
 たったこれだけの事を、彼女は私に禁止した。
 せめて顔がばれないようにと、ムスカリアのワードロープから真っ赤なマントを借りて纏い、私は街へと向かう。
 数年ぶりに見た街は、私が知っていた頃よりも少しだけ綺麗になっていた。
 ムスカリアを探して街を歩く私の耳に、とある噂話が聞こえて来る。それは「工場地帯の魔女が捕まった」という内容のものだった。「魔女は死刑になるらしい」と、そう聞いた瞬間、私は目の前が真っ暗になった。上下の感覚が無くなって、頭の奥がぐらぐら揺れる。
 これはきっと、恐怖なのだろうと思う。
 ムスカリアを失うことが、私は怖かったのだろう。
「すいません。魔女の死刑は、いつですか」
 私はムスカリアに助けられたから。
 今度は私が、彼女を助ける番なのだろう。

 人間に手を差し伸べてくれた優しい魔女が、人間の手で殺されようとしているのだ。
 だったら今度は、人間が、ちっぽけな人間だ魔女に手を差し伸べてもいいだろう。
 もしかしたら、魔女の死刑を邪魔した私は人間の手で殺されてしまうかもしれない。
ムスカリアはそれを望まないかもしれないけれど、彼女が助かるのなら、彼女を助けるためならば、命くらい捨ててもいいかとそう思ったのだ。
 なにしろ元々、雪に埋もれて死ぬ筈の命だったのだから。
 それを彼女に救われたのだから。
 命のお礼は命を持って。
 ここで死ぬのも悪くはない。

 魔女の死刑は翌日だそうだ。街の広場で張り付けにされて、衆人環視の中、炎で焼かれて殺される。なんて悪趣味なのだろう。魔女だから、人間とは違う生き物だから、と。それだけの理由で、何も悪いことなんてしていない優しい魔女を殺すのだ。
 人間とは、なんて愚かな生き物だろう。
 自分達が世界の頂点に立っていて、この世の全ては人間様のものだとでも思っているのか。人間が定めたルールが、人間以外に適用されると本気で思っているのだろうか。
 もしもそうだとするならば。
 そんな人間、炎に飲まれて死んでしまえばいいのである。

 死刑当日、広場に詰めかけた大衆に紛れ私はムスカリアが張り付けにされるのを眺めていた。噛み締めた唇から、握り締めた拳から血が零れる。殴られて、ボロボロになったムスカリアの右目は潰れていた。詰めかけた大衆達は皆、声を揃えて「魔女を殺せ」と叫んでいる。散々世話になっておきながら、死刑が決まった途端にこの変わりよう。

 一人が石を投げつけた。他の者も、それに追従して次々に石を投げつける。皆でやれば怖くない、の精神なのか。ムスカリアが魔女であると言うだけの理由。石と悪意を投げつける彼ら彼女らには、自分の意思というものがないのだろう。
 誰かが魔女は“悪”だと言った。自分以外の皆も魔女は“悪”だと言っている。だから魔女は“悪”なのだろう。石を投げても許される。そんな風に考えているのなら、私にとっての“悪”は人間達に他ならない。
 けれど、悲しいことに、私も同じ人間なのだ。
 この日ほど、人間に生まれて恥ずかしいと思ったことはない。
 ムスカリアに拾われた日、私は人間に復讐する為に生きることにした。
 だったらそれは、今日なのだ。
 復讐するのに、今日ほどいい日はないだろう。

 役人が松明に火を灯す。貼り付けにされたムスカリアの足元には大量の薪が積みあげられていた。油をかけられた薪へ、松明の炎が近づけられる。炎が薪に着火したら、あっという間に燃え上がって、ムスカリアは火達磨になる。
 だから私は、衆人の列から前に出る。真っ赤なマントを風に靡かせ、震える脚を拳で殴って一歩一歩、前へと進む。松明を掲げた役人が、処刑を見守る衆人が、張りつけにされたムスカリアが私を見ている。
「プレムナ……?」
 掠れた声で、ムスカリアが私の名前を呼んでくれた。
 この世界でただ一人、彼女しか知らない私の名前。プレムナという、彼女がくれた大切な名前。
 たったそれだけで、脚の震えは止まっていた。
「魔女を焼くというのなら、魔女に焼かれても文句はないよね」
 マントを脱ぎ棄て、私は声を張り上げ叫ぶ。
 顕わになった私の顔を見て、役人は一言「赤い目だ」とそう言った。役人を睨みつけ、詰めかけた大衆へと視線を向ける。真っ赤な瞳で睨みつける。
「不吉な目だ」「呪われている」「不気味な子供だ」
 口々に投げかけられる悪意と嫌悪を孕んだ言葉。
「だから街に出ては駄目だと言ったのに」
 と、ムスカリアは言った。
 私の目は生まれつき赤かった。赤い目は不幸を招く呪われた目だと、そう言われて私は石を投げつけられた。赤い目のせいで、私は両親から捨てられたのだろう。もしかしたら、ここにいる人達の中に私の本当の両親もいるかもしれない。
 私を捨てた、憎い憎い両親が。
 だったら、むしろ好都合だ。
「こいつも魔女に違いない」
 と、誰かが言った。
「その通り、私は魔女だ。魔女、ムスカリアの娘だ。母は返してもらう。母を傷つけたお前達にはその報いを受けて貰う」
 マントの下から、マッチの箱を取り出して、私はそれに火を灯す。
 処刑を知った昨日から今まで、私が何の準備をしていなかった筈がない。処刑場の周囲には、火薬を十分に隠しているし、目立たないように導火線を張り巡らせてもいる。
「これは魔女の与える鉄槌だ」
 マントの下に隠していた導火線の先に、マッチで炎を灯して投げる。ジジジ、と炎が地面を走る。十数秒ほどで最初の火薬に火が灯る。これだけ人でごった返しているのなら、彼ら彼女らは逃げることなど出来ないだろう。
 火薬が爆ぜる。爆音で地面が激しく揺れる。誰かが悲鳴をあげて、逃げようとする。後ろの人にぶつかってこける。爆音、爆音、あちらこちらで火が上がる。悲鳴が上がる。それの繰り返し。混乱は更なる混乱を呼ぶ。
「くそっ」
 と、松明を手にした役人が言う。
「くそはお前だ、人殺し」
 街の広場に火を放った私も、大概くそだとは思うけど。
 役人は積み上げられた薪の中へ松明を投げ捨て走り出す。炎に囲まれる前に広場から逃げ出すつもりなのだろう。その選択肢は正しい。
 正しいけれど、行きがけの駄賃とばかりに私の顔の真ん中を殴りつけていくのは止めて欲しかった。なんて、言っても現状私は、魔女の処刑を邪魔した放火犯なので殴っておきたい気持ちは分かる。
 私だって、ムスカリアに敵意を、悪意を向けた連中を一人一人殴りつけてやりたい。
 残念ながら、そんな時間的余裕も力もないのだけれど。なにしろこちらは非力な少女なのである。
「とか、言ってる場合じゃない」
 殴りつけられた鼻が熱い。鼻の下を拭った私の手の甲には、べったりと赤い血が付いていた。幸いなことに鼻の骨が折れたりはしていないと思うけど、それはそれとして呼吸が苦しい。
「プレムナ、逃げなさい」
 立ち昇る煙と熱気に顔をしかめながら、ムスカリアはそう言った。
「無理」
 此処まで来て、今更ムスカリアを見捨てて逃げるわけにはいかないだろう。彼女はそんなことも分からないのか。
 否、分からない筈がない。
 私が自分を見捨てないと分かっていて、それでも私を逃がそうとしているのだ。
 こっちはムスカリアを助ける為なら、命の一つくらい賭けてやるつもりだと言うのに。
 どうせムスカリアのおかげで拾った命だ。
 
 燃え盛る炎の中に手を伸ばす。ムスカリアが張り付けにされている十字架へ歩み寄る。鋼の義手が熱されて、皮膚の焦げる臭いがした。
 私の手が、足が、炎に焼かれて焦げていく。
 ムスカリアの足が、身体が炎に巻かれて焼けていく。
 零れそうになる悲鳴を、唇を噛み締めることで飲み込んだ。
 ムスカリアの右足首に打ち付けられている太い金釘を掴んで引っ張る。随分と深く、人の身体に釘を打ち込んだものだ。それほどまでに彼ら彼女らは魔女という存在が怖かったのだろうか。
 確かに魔女は、人間より格段に寿命が長い。頭が良い。記憶力が良い。
 だけど、それだけだ。
 切りつけられれば怪我をする。怪我をすれば血が流れるし、血が流れれば痛いのだ。炎に焼かれれば死んでしまう。
 人間と魔女の違いなんて、寿命の長短くらいのものだ。
 たったそれだけの差異が、異質が、人間達には怖いのだろう。
 なんて、私も人間なのだけど。
「う、ぁぁあ」
 足首に刺さっていた釘を引き抜く。その拍子に私は後ろ向きに転倒、崩れた薪の山が顔の上に降り注ぐ。火の付いた薪に頬から首を焼かれながら、私は起き上がる。義手の隙間に引っかかっていた釘を放り捨て、左足首に打ち付けられている次の釘へ手を伸ばした。
 炎に焼かれたせいか、それともさっき倒れた際に打ち付けたのか、右の義手の動きが鈍い。どうやら故障したらしい。
 三年ほど、ムスカリアの下で技術を学んで来たけれど。
 壊れた義手を、自分一人では修理出来ない。
「まだ……私にはムスカリアが必要なんだよ」
 なんて、言い訳。
 本当はただ、ずっと彼女と一緒にいたいだけなのだ。

 ムスカリアの両足首と、両手首に打ち付けられていた釘を全て抜き終わる頃には、私の義手は左右とも完全に動かなくなっていた。
 炎に焼かれて、私もムスカリアも身体中火傷だらけだ。
 だけど、二人とも生きている。
 炎に巻かれた広場を抜けて、私とムスカリアは街から逃げ出す。お互いに満身創痍で、支え合わなければまっすぐ歩くことも出来ない。
 それがなんだか嬉しかった。
 今までの私は、ムスカリアに助けられてばかりだったから。
 だけど今は、私とムスカリアは肩を並べて歩いている。私の存在が、ムスカリアの助けになっている。
「仕方の無い奴」
 なんて、言って。
 呆れたように、ムスカリアは笑う。
「この街にはもう居れないわ。工場地帯の屋敷に戻るわけにもいかないし……」
「別にいいよ」
「住む場所も、工具も、何もかも無くなったのよ。プレムナの義手も修理できないわ」
「ムスカリアの眼も作らないとね」
 暴力に晒されたムスカリアの右目は潰れている。きっと、潰れたその眼に光が戻ることは二度とないだろう。
「お礼は言うけど……あまり無茶はしないで」
「無茶じゃないよ」
「……。何を言っても無駄みたいね。それで、プレムナ……これから何処に行こうって言うの?」
 私達は、二度とこの街には戻れない。
 ムスカリアが長年住んでいた、工場地帯の屋敷も破棄するしかないと思う。
 私達は、家も、仕事も、その他色んな何もかもを失った。
 残っているのは身体だけ。それも、あちこち欠けている。
 一番大事な、ムスカリアだけは取り戻したから別にいいけど。
「どこでもいいよ……。何処かに行こう。ムスカリアと一緒なら、私はどこでもいいんだよ」
 なんて、言って。
 私は笑う。
 ムスカリアは何も言わなかったけど。
 煤に塗れた汚い顔で、呆れたように笑っていた。

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