【サンプル】淫蕩王の花柩/プロローグ~2章サンプル
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プロローグ
「――ジャンヌ」
私の名を呼ぶ声は、少し高い青年のものだった。
月に三度だけ足を踏み入れることができる王城で、私が許されているのは彼と他愛のない会話をすることだけだった。
「ニコラ様。お久しぶりです」
「うん……その、久しぶり……だね」
指定された部屋の中で本を読んで待っていると、侍従に連れられた婚約者がやってくる。
ニコラ様――この国の第七王子であるニコラ・エル・モンクティエ様は、私よりも二歳年下の十五歳だった。背は高く手足が長いニコラ様だったが、表情はどこか幼く見える。
「この前、ジャンヌにお勧めしてもらった本を読んだんだ。普段恋物語なんて読まないから、読むのに時間がかかったよ」
「城下ではとても流行っているんですよ。元々吟遊詩人が歌う物語だったのが、当代随一の作家の手で本になって――もしかして、面白くなかったですか?」
「う、ううん! すごく面白かった。……面白かった、けど」
色白で、やせっぽちの第七王子。
彼が置かれている立場はなかなかに難しいと、おじいさまが言っていた。
私も幼い頃に両親を亡くしているが、ニコラ様も生まれたばかりの頃に母親を亡くしている。
王位継承権の低い第七王子ということもあり、彼の周りには有力な貴族がいない。それゆえに、王宮の中ではもっとも軽んじられた王子であるという話だ。
「面白かったけど、悲しい気持ちの方が強かったかな。騎士と姫君は確かに結ばれたかもしれないけど……二人で毒薬を飲むなんて、誰も救われてないじゃないか。神の御許で結ばれたって、生きている間に愛しあえないなら――」
そこまで言ってから、ニコラ様はハッとして自分の口を押さえた。
長いまつ毛を何度も翻して瞬きを繰り返すその表情は、明らかに焦っている。
「ご、ごめん! せっかく君に勧めてもらった本を……」
「いいんです。その本を読んでどんな感想を持ったかっていうお話を聞きたかったので――ニコラ様が悪いことなんて、一つもありませんよ」
私がそう返すと、ニコラ様はなんとも言えないような表情を浮かべた。
怯えているのか、あるいは笑っているのか――柔らかい銀髪を揺らすその表情はどことなく不安定で、普段彼が置かれている状況の過酷さを物語っているようだ。
「ジャ、ジャンヌは……怒ったりしないんだね」
「本の感想なんかで怒ったりはしません。だって、どんな感想を抱くのかなんてその人の自由じゃないですか」
「……古典文学の家庭教師は、いつも僕を叱るんだ。多分そういうのは正解があって、僕がそれを見つけ出せないのがいけないんだろうけど」
肩をすくめたニコラ様は、それからじっと私の方を見つめてきた。
なにか言いたげに口を開きはするものの、そこから先の言葉が発せられることはない。
私も言葉をかけられずにいると、やがて彼はふいとこちらから目を反らしてしまった。
「ニコラ様?」
「ん……その、今度僕が好きな本を持ってきてもいいかな? 今読んでいる物語で、妖精が旅をする話なんだけど――君には、少し子どもっぽいかも」
ニコラ様はかなり色白で、ほんの少し話しただけでも頬が朱赤に染まってしまう。その様子がどこか可愛らしくて、私は思わず小さく笑ってしまった。
「ジャンヌ……?」
「も、申し訳ありません! その、ニコラ様がなんだか可愛らしくて……」
「……可愛い?」
心外だと言いたげに眉を寄せたニコラ様はムッと唇を尖らせた。
この国の王族は十六歳で成人とみなされる。年上の婚約者に子ども扱いされるのは、彼の矜持が許さなかったらしい。
「僕は可愛くないよ。痩せて、体は骨ばってるし――どんどん背は伸びるのに肉付きは悪くて、骸骨みたいだって言われてる。……確かに、黒いローブを着たら死神みたいだ」
「だ、誰があなたにそんなことを……?」
薄い唇からこぼれ落ちた言葉は衝撃的で、私は目を見開いて彼の側に近づいた。
床に跪いて節張った手を握ると、ニコラ様はそっと扉の方に視線を向け、体を屈めてくる。
「……外に、見張りの兵士がいるから」
だから、言葉には出せない。
耳元で優しい声が囁かれると、どうしてだか体が震えてしまう。
そっと肩を抱き寄せてきたニコラ様は、私の手を取ってその指先を自らの唇に当てた。
「――わかった?」
唇の動きだけで、彼がなにを言いたいのかが理解できた。これは、私たち二人の間だけで伝わる秘密の合言葉みたいなものだ。
(……あにうえ、って言ってた……)
ニコラ様は、兄君たちとは半分しか血が繋がっていない。
父親は同じこの国の国王陛下なのだが、それぞれ母親が異なっている。王子たちの権力というのはそのまま母親の権力に等しく、後ろ盾がない彼は兄たちからも軽視されていた。
「……ニコラ様」
すぐそこにあるニコラ様の瞳は、心細そうに震えていた。
国王陛下は子どもたち同士のやり取りにはそれほど興味がないようで、末子のニコラ様がどれほど軽んじられようと注意すらしない――王宮の事情に詳しいおじいさまから聞いた言葉を思い出して、彼のことを抱きしめたくなってしまう。
「……僕、成人したら父上に申し出て、王族の身分を返上しようと思うんだ」
私の手を握り締めたままで、ニコラ様はぽつりとそう呟いた。
軽んじられているという割に彼の行動はひどく制限されていて、見張りの兵士が耳をそばだてている。
だから、私たちはこうして身を寄せ合って、隠れるように会話をしていた。
「君のおじいさまにそう言ったら、叱られてしまうかな」
「いいえ。……いいえ」
ニコラ様が国王になる可能性はとても低い。
そのことをおじいさまもわかっていたし、その上で私と彼の婚約を進めてきたのだ。臣に下ればむやみに命を狙われる心配もないし――彼はきっと、王族よりも官吏などになるのが向いているだろう。
聡明だが優しいニコラ様に玉座は荷が勝ちすぎる。それは、長らく彼とともにいた私もよくわかっていた。
「ニコラ様がどんな選択をしても、私はあなたのお側にいます」
彼の手を握り返すと、ニコラ様は小さく笑った。
そうして身をかがめた彼は、そのまま柔らかく私の唇を食んだ。――本来なら、婚前の触れ合いは許されないことだ。
お互いに吸い寄せられるようなくちづけは吐息の交わる音すらも憚るように静かで、それが余計にいけないことをしているような気持ちを増大させる。
「……これも、内緒にしてね? 誰にも言っちゃだめだよ。僕たちだけの秘密だ」
耳元でくすくすと笑うニコラ様は、一度だけ強く私の体を抱きしめると、ゆっくりとその手を離した。
そのぬくもりが離れるのが心細くも感じたが、どちらにせよ私たちが二人でいられる時間はそこまで長くはない。
「僕はね、できれば君と……どこか田舎の領地でも治めながら、のんびり暮らしたいんだ。王都の空気はあんまりよくないし――ちょっと退屈かもしれないけど」
それができるかどうかはわからないけれど、と付け足して、ニコラ様はふと壁にかけてある時計を仰ぎ見た。
するとすぐに、部屋の扉をノックする音が聞こえてくる。――どうやら、もう時間が来てしまったみたいだ。
「……それでは、ニコラ様。私はこれで」
「うん。じゃあ、また――次に会う時には、さっき言っていた本を持ってくるね」
美しく笑ったニコラ様が手を振ると、二人だけの時間はそれでおしまい。
私は来た時と同じように、馬車に乗って屋敷に戻るだけだ。
(ニコラ様と、キスしちゃった……)
貴族たるもの、できるだけ表情を崩さないように。冷静を装って、淑女たる仕草を忘れないように。
おばあさまから何度もそう言い聞かされてきたのに、馬車の中に足を踏み入れた途端に顔が熱くて仕方がなくなる。
柔らかい唇の感触も、甘い香りも、たくさんのことを思い出して胸が苦しくなった。
(おばあさまに叱られちゃう――でも、このことは秘密、だから……)
口元を押さえたまま、夢のような心地で屋敷に向かう。
たとえ彼が王族としての立場を捨てようと、田舎の領地で静かに暮らそうと、私はその選択を尊重する。
それが彼とともに生きる、私の運命だ。ニコラ様と生きていくことが、私の幸せなのだから――そう、思っていた。
「――お嬢様宛てに、ニコラ殿下からお手紙が届いております」
それから一年後、私が十八歳になるその日の夜。
祖父母から祝いの言葉をもらった私は、侍女から差し出されたその手紙を何の疑いもなく受け取った。
ここ一年、ニコラ様とはやや疎遠な日々が続いている。
彼が成人王族として認められ、公務に追われているのだと伝え聞いていた私は、その言葉を信じ切っていた。
王族と違い、この国の一般的な人間の成人年齢は十八歳だ。
こうして私も大人になったのだから、いずれニコラ様と婚姻を結ぶ日が来るだろう。
屋敷の人間は誰もがそう思っていたし、祖父はテーラーに注文を付けて結婚式のためのドレスを作らせていた。
南国出身の祖母からも、お守りとなる銀のアクセサリーをもらったところだ。
だから――なにも、なにも心配なんて要らないと思っていた。
一度だけ交わしたくちづけも、優しい彼の微笑みも、なにもかもが永遠に私に向けられるのだと、そう信じ込んでいた。
「……は」
手紙の内容も、きっと誕生日を祝うためのものだろう。
そう思って封を開けると、そこには甘い――彼が好む香りがついた便箋が一通。
「お嬢様? どうかなさったんですか――お、お嬢様!」
ぐらりと視界が傾いて、心臓が早鐘を打っている。
たった一枚、そこに記された言葉は誕生を祝うためのものでも、愛を囁くためのものでもなく――ただ一言、私との婚約を破棄したいという一文だけだった。
(婚約、破棄……? なんで――どうして、いきなりこんなこと……)
力が入らずに落としてしまった手紙を拾い見て、侍女が悲鳴を上げる。
それに驚いたおじいさまやおばあさまが次々と私の周りに集まってきたけれど――正直、私自身何が起こっているのかなんてわからなかった。
「ジャンヌ、なにか心当たりはないのか?」
「わ、わかりません――だって、最近はニコラ様ともお会いできていなくて……」
おじいさまに理由を尋ねられても、そう答えるのが精いっぱいだった。
オリオール伯爵家が王族の不興を買ったのか、あるいはニコラ様に別の婚約者ができるのか――それすらもわからない。理由が何も書かれていない、ただ一方的に別れを告げるだけの手紙を目の当たりにして、私の頭の中は塗りつぶされたかのように真っ白になってしまっていた。
「……とりあえず、明日私が王城へ向かい理由を尋ねてくる。もっとも、答えが返ってくるかどうかはわからんが――」
おじいさまは渋面を浮かべながらそう言うと、まずは私に部屋に戻るようにと告げた。その横では、おばあさまがさめざめと涙を流している。
私は呆然自失になりながら、侍女に支えられて自室へと戻った。驚きと悲しみで眠れない私は、侍女に温かいお茶を淹れるようにと頼み――そこから先の記憶はない。
(そう――確か私は、出されたお茶を飲んで……それから、どうしたんだっけ)
気分が落ち着くようにと出されたお茶を飲んで、それからどうなったんだっけ。
何故だか、遠い昔のことのように記憶があいまいだった。
遠くの方で誰かが私の名前を呼んでいた気がするけれど、それすらも思い出せない。
甘く、優しい――大きな手のひらで何度も頬や頭を撫でられたような記憶もある。もしかして、あれは幼い頃に亡くなったお父様だったんじゃないだろうか。
そんなことを考えながら、ふと思いだした。
……そう、私は眠っていたのだ。今の今まで、深く心に傷を負いながらも眠りについていた。
目を開くのが恐ろしい。目を開けてしまったら、現実がやってきてしまうから。
頭の奥が鈍く痛むのを感じながら、私は現実から逃げるようにぎゅっと目を閉じた。
「……ジャンヌ?」
おじいさまの声、ではない。
落ち着いた男性の声だけれど、もっと張りがあって若々しい声だ。
どこかで聞いたことがあるような、けれど聞いた覚えがないような――そんな声が、そっと私の鼓膜をくすぐってくる。
(いや、だ――起きたら、目が覚めたら……私は――)
現実を受け入れたくはなかった。
大好きなニコラ様の隣に立つことができない。そんな現実ならば、すべてを忘れて眠り続けていたかった。
けれど、優しく声がかけられたのを無視することもできない。
(――いっそ、目を開けた瞬間に死んでしまえたらいいのに)
そんなくらい気持ちを抱きながらも、私はゆっくりと瞼を持ち上げる。
なぜかそれだけの動作がひどく億劫で仕方がなかった。
「っ、――」
「ジャンヌ? ――ジャンヌ、目が覚めたんだね……!」
弾むような声の次に感じたのは、強烈な頭痛だった。
目を開けようとすると、差し込んでくる光が矢のように眼球を焦がす。
「ぅ、あ……?」
ゲホ、と大きく咳き込んでしまうほどに喉が渇いて、頭が痛い。目を開けられない。体を起き上がらせることもできない私に、何度も声が降り注ぐ。
「医師の手配をしろ。それと、侍女を数人こちらへ」
やっぱり、その声は若い男性のものだった。
なんとかして薄く目を開けると、祖父の白髪とはまた違った、艶のある銀髪が視界に映る。
「あ、なたは……」
視界はひどくぼやけていた。
物の輪郭を掴むのに時間がかかり、じっと凝視するように目の前の人物を見つめてしまう。失礼だとはわかっていたが、どうしても目の焦点が合わないのだ。
それでも、時間をかけると少しずつそれが鮮明になってくる。
薄暗く、埃っぽい部屋の中――ぼんやりと室内を照らす古ぼけたランプの光が、じっとこちらを見つめてくるその人の姿を照らしていた。
「ジャンヌ……ジャンヌ、僕がわかる? ずっと眠っていたから、君は忘れてしまったかもしれないけど」
滲んだ世界が、徐々に鮮明になっていく。
オレンジ色の光を跳ね返す美しい銀髪も、吸い込まれそうになるほど鮮やかな翠緑の瞳も――優しい微笑みも、私は全てを知っている。
「ぁ、うっ……は、ニコラ、さま……?」
ゲホゲホと不格好に噎せ返りながら、それでもようやくその名を口にすることができた。
私が知っている彼よりも少しだけ大人っぽいけれど、私がニコラ様を間違えるはずがなかった。
「そう、僕だ――僕だよ、ジャンヌ」
優しく、甘く。
そっと私の腕を引いた彼は、相変わらず色の白い頬を微かに赤く染め、それからぎゅっと体を抱きしめてきた。
甘ったるい、嗅いだことのない香水の匂いを漂わせながら、ニコラ様は優しく頬を擦り寄せてきた。
「ずっと待っていたんだ。計算通り十年で目が覚めたけど――このまま君が目覚めなかったら、明け方にはここで喉を掻き切って死ぬつもりだった」
「は――」
「おかえり、ジャンヌ」
言葉の意味がいまいち理解できないまま、私はそっと彼の背中に手を回した。
……なにかがおかしい。だって、私の知っているニコラ様とは服装も、背の高さも違う。さらに言えば、私はほんの数刻前彼に別れを切り出されたはずだ。
「あの、……本当に、ニコラ様……?」
「君はずっと眠っていたからね。信じられないかもしれないけど――うん。僕がニコラだ。十年も経つと多少顔かたちも変わってしまったかな」
「じゅ、十年?」
ゴクっと喉が鳴った。
今の状況を理解できないままの私は、ばかみたいにポカンと口を開けたまま、ニコラ様を見つめることしかできない。
――確かに、ニコラ様の姿は変わっていた。
どこか幼さを残したその顔立ちは美しい男性のものに変わっていたし、声も記憶の中のそれより一段低くなっている気すらする。
「そう、十年。……君は十年間、ここで眠り続けていたんだ。十八歳の誕生日の夜、僕が贈った薬を飲んでから――どれだけ国が荒れても、どれだけ悲惨なことがあっても、変わらずに眠り続けていたんだよ」
優しい口調でそう告げられても、実感なんてまるで湧かなかった。
ただ、一つだけ――彼の言葉の中で、一つだけ気になったことがあるとすれば。
「ぁ――あの、か、仮にそれが本当だとして……おじいさまと、おばあさまは」
「オリオール伯爵は五年前に、伯爵夫人は三年前に亡くなってしまったよ……痛ましいけれど、二人ともご高齢だったからね」
後頭部を、思い切り殴られたような心地だった。
訳が分からない。目が覚めたら十年も時間が経っていたことも、おじいさまやおばあさまが亡くなっているという事実も、目の前にいるのが婚約破棄を言い渡してきたはずのニコラ様だということも――なにもかも信じられなかったし、信じたくはなかった。
「だ……だって、わたし――おじいさまもおばあさまも、ついさっきご挨拶をしたばっかりで……ニコラ様からの、手紙が……」
「――あぁ、そうか。君の時間は、あの日の夜に止まったままなんだね。混乱してしまうのも無理はない」
ニコラ様は、悲しげな声を出すとそっと頬を撫でてきた。
咄嗟にその手を除けようとすると、逆に体をぎゅっと抱き寄せられてしまう。
「っ……」
「逃げないで。……君にとってはたった一瞬だったかもしれないけど、僕は……十年待っていたんだ」
「んぁっ……」
熱っぽい声を耳元で囁かれて、体の力が抜けてしまう。
すると、小さな足音がこちらに近づいてくるのが聞こえてきた。どうやら、彼が先ほど手配させた医師がやってきたらしい。
見覚えのない顔をした侍従が、そっとニコラ様に声をかけてくる。
「――陛下、医師が到着いたしましたが……いかがいたしましょうか」
「とりあえず、彼女に鎮静剤を。薬を投与したらすぐ王宮に戻るから馬車を回してくれ。それと……」
ちらりとこちらを見たニコラ様は淡い笑みを浮かべたが、それもすぐに掻き消えた。侍従に向けて険しい表情を向けて、ニコラ様は吐き捨てるように命令を下す。
「医師に伝えておけ。彼女を診察させるが、その体に直接触れることは禁ずる。禁を破った者は首を落として、その首を城門に掲げろ」
「は――かしこまりました。すぐに伝えてまいります」
侍従は一礼するとすぐに行ってしまったが、私は今まで一度も見たことがないニコラ様の姿に唖然とするばかりだった。
……少なくとも、彼はあんな風に冷たい物言いをする人間ではなかったはずだ。
「……ニコラ、様」
「ん、どうしたの? あ、もしかしてお腹が減ったのかな……ごめんね。お水は飲ませてあげられるけど、食事は城に戻ってからの方がいいと思う。ずっと眠っていたから、まずはお粥を食べてみようか」
僕が食べさせてあげる、と笑うニコラ様は、本当に先ほどまでと同じ人物には見えなかった。
背中に冷たいものが伝うのを感じていると、やがてお医者様がやってきて私に薬を差し出してくる。
「陛下……その、脈拍をお調べしたいのですが……」
「絹布の上からでもできるだろう。彼女のことは、歴代の王妃と同等に扱えと命じたはずだ」
お医者様に対しても、ニコラ様は冷たく突き放すような対応を続けていた。
私に話しかける時と、私以外に話しかける時では、まるきり人が違うようだ。
「ごめんね、ジャンヌ。不自由を強いてしまうかもしれないけど……まずはその薬を飲んでくれるかな。馬車に乗って具合が悪くならないように、気分を落ち着かせる薬だよ」
手首に乗せた絹布の上から脈を測られながら、ニコラ様の方を仰ぎ見る。
……彼の言葉に逆らって、機嫌を損ねたくはなかった。私に向けられる優しい視線が冷たいものに変わるのが恐ろしくて、差し出された薬をそっと飲み下す。
「……陛下、って……」
「あぁ――うん。君が眠っている間に、ちょっと色々なことがあったんだ」
十年間もの間眠り続けていたという彼の言葉が本当か嘘なのかは、深く考えないことにした。おじいさまもおばあさまもいない屋敷と、なによりも大人の男性に成長したニコラ様の姿が、その言葉が嘘ではないことを物語っている。
「僕、王様になったんだよ。……今はニコラウス一世って呼ばれてる」
「お、王様……?」
ひゅ、と息をのんだ瞬間に、視界が大きく揺れた。
薬が効いてきたのか、はたまた単純に気分が悪くなったのか――傾いた体を、ニコラ様がそっと抱き留めてくれる。
「脈は」
淡々とした口調でお医者様にそう尋ねたニコラ様の体温が、じわじわと私の体を温めている。――思っていたよりもこの部屋が、そして私自身の体が冷え切っていると気付いたのはこの時だった。
「は……呼吸、脈拍、共に乱れはございません。しかしながら、全体的な筋肉量はかなり落ちているものかと」
「そうか……それなら僕が彼女を抱えるから心配はいらない。すぐに馬車を回せ。……ここは寒い。ジャンヌが風邪をひいたらいけないから」
そういうなり、ニコラ様は私を抱きしめたままで立ち上がった。
今までの瘦躯からは信じられないくらい、体には一切のブレがなかった。
「寒いだろう? もう少し我慢してくれるかな……王宮に戻ったら温かい部屋で食事をとろう。たくさん眠った後だから、体を休めるのは大変かもしれないけど――僕が朝まで傍にいるよ」
「……あ、あの――ニコラ様? いえ、へ、陛下……?」
なにもかもが、私の意思の外で決められている。
必要なことがなにも説明されないままで、ニコラ様はそっと歩き出す。
見慣れているはずの屋敷の中はどこもかしこもボロボロで、彼が言う十年の月日を私に突き付けてきた。
「ニコラって呼んで。君だけにはそう呼ばれていたいんだ」
砂糖菓子のように、どこか危なっかしい笑い方――その笑い方は私が知っているニコラ様の笑顔そのもので、思わず目を大きく見開いてしまう。
「っ、ぅ……」
ゆっくりと、熱い唇が私のそれに重ねられた。
触れるだけのキスは永遠に続くんじゃないかと思うほどに長くて、甘くて、クラクラしてしまう。
「ぁ――待っ、んっ……♡」
「待ったよ。もう長い間――君を迎え入れることができる日を、待ち望んでいた」
鮮やかな翠緑の瞳が、すっと細められる。
その光景から目を離せないでいると、再び柔らかく唇が押し当てられた――二度目のキスも拒むことができず、今度は甘く下唇を歯で噛まれる。
「く、ぅっ……♡」
「随分と穢れているけど……それでもよければ、僕はこの王冠を喜んで君に捧げよう」
ニコラ様の言葉の意味が、この時の私には何一つ理解などできていなかった。
彼がどんな思いでその王冠を手に入れたのかも、そこに至るまでになにがあったのかすらも――一つたりとも、理解できてなどいなかったのだ。
1
王都ディレグラ――多くの貴族たちが暮らす七番地区の奥にあった生家は、十年の月日ですっかりと廃れてしまっていた。
朝目が覚めたら十年後だと言われて、訳も分からないまま馬車に乗せられた私は、ニコラ様が住まう王宮へと連れてこられた。
「陛下、お戻りでしたか。……そちらがオリオール伯爵令嬢ですね?」
「あぁ。お前は会うのが初めてだったかな」
「陛下が頑として令嬢のお姿を見せてくださらなかったおかげで、今宵のお目見えが初めてですよ」
奥へと進む私たちの目の前に現れたのは、ニコラ様の側仕えと思しき若い男性だった。自らをカムイと名乗ったその男性は、私に視線を向けると優雅に腰を折ってくる。
「侍従長のカムイでございます。普段は陛下の側仕えをしておりますが、ご用命がありましたらなんなりと申しつけください」
「は……はい、ありがとうございます……」
銀縁の眼鏡に、しっかりと撫でつけられた黒髪――見るからに執事や家令という言葉が似合うカムイさんに頭を下げると、頭上からもったいぶった咳払いが聞こえてきた。
「彼女には専属の侍女をつける。……お前は一人でジャンヌの部屋に入るなよ」
「かしこまりました。陛下のご随意に……しかしながら、些か過保護が過ぎるのではございませんか?」
「随意にって言ったばかりの口でそこまで言う? ……僕が嫌なんだ。それに、不必要な出入りを制限することで彼女の身の安全を確保したい」
私以外にここまで砕けた喋り方をするニコラ様は初めて見た。
それほどにカムイさんは彼に信用されているのかもしれない――ぼんやりと二人の会話を聞きながら、私は所在なく周囲を見回した。
……心なしか、宮殿の中を歩く人々がじろじろとこちらを見ている気もする。
(いや――国王がいきなり知らない女を抱えてたら、それもそうなるか……)
未だにあらゆることの実感が沸かず、まるで気持ちだけが宙に浮いているような気分だ。
「しかし、いかがなさいます……伯爵令嬢の前で申し上げることではございませんが、以前の――」
「メオルレイン公爵令嬢のことなら既に手は打っただろう。彼女の母親が行っていた事業で、貴族院への不正な献金をしていたことが明らかになったはずだ。既に、彼女は王宮に顔を出せる立場にはない」
二人の間で交わされる会話を見守っていると、なんだか聞いてはいけないようなことまで耳に入ってくる。
できるだけそれを聞かないため、ニコラ様の胸に耳を押しつけるように体を預けた。すると、大きな手がそっと私の手を握ってくる。
――もしかしたら、なにか怖がっていると思われたのかもしれない。
「それでも邪魔をするというのならば排除する。……あとは良しなに頼むよ、カムイ。それより、ジャンヌがお腹を空かせてしまう。まずは重湯からになるだろうけど、温かいスープも用意してくれよ」
「かしこまりました、すぐに厨房に伝えてまいります――それでは、私はこれにて」
恭しく腰を折ったカムイさんが行ってしまうと、ニコラ様はふぅっと大きく息を吐いてこちらを見下ろしてきた。
「長々と話し込んでごめん。つまらない話だっただろう?」
「い、いえ……その、私が聞いてもいいことなのかとは思いましたが……」
「大丈夫だよ。君に聞かれて困る話はこんなところでしないから」
にっこりと笑ったニコラ様は、そのまま私を抱えて宮殿の奥へと進んでいく。
――本来、この宮殿で寝起きすることができるのはごく一部の人間だけだ。国王陛下と王妃様、そして王太子殿下――それ以外の王子たちは、宮殿を取り囲む離宮で暮らしている。
おじいさまから聞いていたことでもあったし、私自身ニコラ様に会うために離宮を訪れたことがあったから、その辺りは把握していた。
「あ、あの……ニコラ様……私、普通に歩けると思います……」
「だから下ろしてほしいって? だめだよ。医師も言っていたけど、筋肉量が著しく低下してるはずだ。君自身が思ってるより、君の体は衰えている」
低く優しい声でそう窘められると、なにも言えなくなってしまう。
……私にとっては、いつもと同じ目覚め。けれど彼や他の人々にとっては、十年間の空白がある。そのことをじっくり考えようとするたびに、気が遠くなった。
「――っていうのは口実で、本当は僕がこうしたいだけなんだ。その……君のことを抱きしめられる日を、ずっと心待ちにしていたから」
「……へ」
「し、心配なのは本当だよ? でも、その……ずっと抱きしめたいって思っていたから」
色白の頬をほんのりと染めながら微笑むニコラ様の姿は、私が知っている彼と何も変わらない。その分、ほんの少し大人びたその口調や仕草が、どことなくちぐはぐなようにも見えた。
「……じゃあ、どうしてあんなことをしたんですか」
ぐっと胸が詰まって、呼吸が苦しくなる。
無意識に唇からこぼれた言葉の裏側には、胸を裂くような痛みがあった。
「ジャンヌ……?」
「どうして、婚約の破棄なんて――あなたにとっては十年も前のことかもしれないけど、私は……ッ」
ズキッ、と頭の芯が鈍く痛んで、思わず息をのんだ。
するとニコラ様はぎゅっと私の体を抱きしめ、そのまま足早に王宮の最奥――国王の居室へと向かっていく。
「ごめん、ジャンヌ――もう少しだけ我慢してほしい。部屋についたら本当のことを話すから……」
「本当のこと……?」
ニコラ様はなにも言わず、ただ申し訳なさそうに微笑むだけだった。
王宮の奥まった場所に近づくたびに、すれ違う人々は官吏から侍女や侍従たちの比率が高くなる。
国王が居住する王の間のすぐ近くには、王妃様が寝起きをする王妃の間があり――私はなぜか、その場所に通された。
そして侍女たちにあれこれと指示を出したニコラ様は、彼女たちを部屋から追い出して私のことを寝台に座らせてくれる。そのあまりの手際の良さに、思わずぽかんと彼を見上げてしまった。
(昔は……見張りの兵士にすら怯えているような人だったのに……)
第七王子という立場上、ニコラ様はとても軽んじられていた。後ろ盾のない痩せた王子の話を聞く人間はとても少なくて、侍女たちにも声を掛けられないような有様だったのだ。
「……驚いた? 皆僕の言うことを聞くんだよ」
「お、驚きました……いえ、でも……今は国王陛下なんですもの、ね……」
混乱で頭の中がぐるぐるする。
寝台に備え付けられたいくつものクッションに体を預けると、ニコラ様はその縁に腰かけて深く息を吐いた。
「うん。そうだね……色々あったから、ジャンヌにもたくさんのことを話さなくちゃいけないんだけど」
そっと、長い指先が頬に触れた。
その手に触れられると、強張っていた心が少しずつ解れていくような気がする。――どうあっても、私はやっぱり彼のことが好きなんだろう。
「誕生日のこと――悲しい思いをさせたと思う。……ごめんね、本当にごめん」
その言葉に、ぎゅっと心臓が鷲掴みにされたような気分になる。
その先を切り出されるのが怖くて仕方がなかったけれど、ニコラ様の方が泣きそうな声をしていた。鮮やかな翠緑の瞳がにわかに潤んで、こぼれ落ちてしまいそうだ。
「君の命を守るためだったんだ。信じてもらえないかもしれないけど――本当は僕だって、あんな手紙を送りたかったわけじゃない」
「……それは、どういう――」
「リック兄上……第三王子の刺客に、毒を盛られてしまったんだ」
その言葉に、サッと体から血の気が引いていく。
滅多に会えなかったのは成人王族としての職務に追われていると思っていたが、彼は数か月の間毒に苦しみ、ベッドの上から起き上がれない日々が続いていたのだという。
「このままじゃ、兄上は君のことも狙っていたはずだ。とにかく自分が王位に就くための障害を取り除きたいって思っていた人だったからね」
「で、でも……そんな話は一度も……」
「絶対に君の耳に入らないように、できるだけ手を回しておいた。……じゃないとジャンヌは、僕に会いに王宮まで来てしまうだろう?」
婚約破棄の手紙を出したのも、徹底的に自分と私の繋がりを断ち切る目的だったのだという。王族からの婚約破棄に貴族は逆らえない――そうなれば第三王子の追手が、私やおじいさまたちを脅かすことはないと考えたそうだ。
「ただ、それでも万が一ということは考えられる。……だから先に手を打ったんだ。――君に薬を飲ませて、生命の維持機能を極限まで低下させた。対外的に、オリオール伯爵令嬢は死んだことになってしまったけれどね」
誰かに殺される前に殺す。
そう呟いたニコラ様の表情は冷たく、まるで仮面をつけているみたいだった。
一瞬ゾクッと背筋が震えたが、ふと彼の言葉の中で気になった点を見つけてしまう。
「あ……じゃあ、私が眠り続けていたのって……」
「僕が手配した薬が原因だ。君が飲んだお茶に、ほんの数滴……ある薬師に頼み込んで、特別に調合してもらったものだよ」
ほんの数滴水に溶かしただけで、人間一人が十年もの間眠り続ける薬。
そんな恐ろしい薬があるのかと思うと、背中に冷たい汗が流れていく――下手をすれば、あのまま目覚めない可能性もあったということだろう。
「計算が正しければ、君は十年で目覚めることになっていた。だけどもし、その計算が狂って君が目覚めなければ――さっきも言ったけど、僕はあの場で首を掻き切って死ぬつもりだったんだ」
「ぁ……お、おじいさまたちは、そのことは……?」
「老伯爵には事情を説明した。大切なジャンヌを守るためにはこうするしかなかったって話したら、渋々だけど納得してくれたよ。君が目覚めた後は絶対に危険な目に遭わせないって、念書を書いて約束した」
おじいさまもおばあさまも、どうにかして私のことを守ろうとしてくれていた。
私が目覚めるまでに自分たちが死んでしまうかもしれないということを考え、敢えてニコラ様の提案に応じてくれたのだという。
「私は……てっきり、ニコラ様が私のことを嫌いになったのだと思って……」
「ジャンヌのことを嫌いになんてなるものか――僕には、ずっとジャンヌしかいなかった。君が……君だけがずっと、僕の側にいてくれたのに」
頬に触れていたその手が、ぎゅっと私の体を抱きしめてくる。
微かに震えた腕と声が、十年もの間抱え続けていた彼の葛藤を表しているようだった。
「本当に、辛い思いをさせたと思う。君の時間を奪って、家族まで――だけど僕にはこうするしかなかったんだ……絶対に君のことを、死なせたくなかった。どれだけ身勝手で危険なことをしたかは理解しているし、君に許してほしいとは言わない」
十年。その間に彼は王様になって、おじいさまとおばあさまは亡くなってしまった。屋敷はボロボロになって、大切なものはみんな記憶の中だけに存在している。
「……ぁ」
ボタ、と音が聞こえたかと思うと、目尻から熱いものが次々と溢れ出してきた。
子どもみたいに泣きじゃくりたくなんてないのに、止め処なく溢れてくる涙をこらえることができない。
「や、やだ……ごめ、なさっ……」
お父様とお母様がいなくなってしまったように、おじいさまとおばあさままでもが亡くなってしまった――大好きだった家族にもう会えないという事実と、ニコラ様が私の知らないところで戦い続けていたという真実が胸の中をしきりに搔きむしってくる。
「ジャンヌ――」
「やだ、み、見ないでください……ッ、わた、し――」
――これも、夢なんじゃないだろうか。
目が覚めたらおじいさまもおばあさまもお元気で、時折ニコラ様と会うことができて……いつか彼と一緒に、小さな町を治めて暮らしていく。そんな未来が待っているんじゃないだろうか。
目の前の現実から目を反らしたくて硬く瞼を閉じても、何も変わらない。
最初からわかっているのに、どうしても事実を受け入れがたい自分がいる。
「恨んでいいよ。憎んでくれてもいい……君からすべてを奪ったのは僕だ」
ぎゅっと私の体を抱きしめたままで、ニコラ様は低くそう囁いてきた。
「ち、がいます……ニコラ様のこと、恨んでなんか――恨めるはずなんて、ない……」
恨めるはずがない。憎めるはずがない。
ニコラ様は自分ができる精一杯のことをしてくれた――自身が毒に侵されて苦しんでいる状況で、私の命を守る最善の手を選んでくれたのだ。
そんな彼の真意を知らずに、一人で傷ついていた自分が恥ずかしい。みっともなく取り乱して、子どもみたいに泣きじゃくっているのが嫌になる。
「もう大丈夫。誰も僕たちを傷つけたりはしない。誰も……僕たちの邪魔をする悪い大人は、もうどこにもいないよ」
「ニコラ、さま……」
「これから先、ジャンヌのことはずっと僕が守る。……君の記憶の中の僕は、随分と頼りない子どもかもしれないけど」
目蓋に唇を落としてきたニコラ様は、まるで子どもをあやすかのように、トントンと背中を叩いてくれた。
規則的で優しいその動きに頷くと、彼は小さく息を漏らして笑ったようだった。
「これからのことは、なにも心配しなくていい。君はこの城で暮らすんだ」
「で、でも……その、流石にお世話になりっぱなしというのは……」
「今の君には後ろ盾がない。既にオリオール伯爵令嬢は死んだことになっているし、屋敷だってあの有様だ。戻ることはできないだろう?」
……確かに、それもそうだ。
半ば廃墟のようになっている自宅を思い出して、重苦しいため息が口をついて出てきた。
「そう、ですよね……」
「そうそう――君の扱いは王妃に準じるもので、滅多なことでは侍女以外の他人がこの部屋に入ることも許してない。少し窮屈かもしれないけど、ジャンヌのことを守るためだから」
そう言われてしまったら、私には反論できない。
こくりと頷くと、ニコラ様はパッと体を離してにこにこと微笑みを浮かべた。
「いい子だね。……じゃあ、食事を持ってこさせようか」
ぱん、と彼が手を叩くと、先ほど出ていった侍女が食事を持ってきてくれた。それほどお腹が空いているという感覚はなかったが、温かい料理の湯気を見ていると少しずつ空腹感が頭をもたげてくる。
「食べさせてあげようか」
「だ、大丈夫です! その……あまり、子ども扱いしないでください」
美しい大人の男性に成長した彼から見て、十年間眠り続けた私は少女のように見えるのだろうか。
むっと眉を寄せると、ニコラ様は一瞬だけ目を見開いた後でおかしそうに喉を鳴らし始めた。
「違うよ。子ども扱いなんて――ただ、僕がそうしたいって思っただけ。それにほら、スプーンは持てる? 君の体力が今どれくらい落ちてるのかわからないし――」
「これくらいなら、も、持てます……」
――なんだか、この距離感には慣れない。
ちょっと前までは私の方が年上だったし、ニコラ様だって今よりもっと余裕がないような感じだった。
それなのに、今の彼は――この国の王様で、ゆとりがある優しい性格をしていて、なにより目を合わせるのが恥ずかしいと思えるほどに美しい。
(本当に、十年も経っちゃったんだ……)
彼の変化が、流れた時間の長さを如実に教えてくれる。
哀しい気持ちと、少し誇らしい気分がぐちゃぐちゃになりながら、私はゆっくりと食事を進めていった。
「その、ニコラ様……先ほどお話されていたことですが……」
「うん? どの話だっけ……」
「私の扱いを、王妃様に準じるものにするって――その、そこまでしていただかなくても、私は……今のニコラ様にも、婚約者の方とかがいらっしゃるのでは」
一般的な王族は、伯爵家以上の爵位を有した家柄から婚約者を迎えるのが常だ。婚約破棄をした場合は新しくどこかの家の令嬢を迎え入れるのが決まりで、恐らくはニコラ様もその慣習にのっとっているだろう――そう思って呟いた言葉は、低く鋭い声にかき消された。
「いないよ。そんなもの」
「は、い……?」
「ジャンヌ以外の人間を僕の隣に置くことは絶対にしないって決めていたんだ。僕に必要なのはジャンヌであって、形だけの婚約者なんて必要ない」
あまりにきっぱりとそう言ってのけるニコラ様は、美しい翠緑の瞳を細めると、そっと私の頬に触れた。
「身勝手なことをした自覚はある。けれど、僕にはどうしてもジャンヌが必要なんだ……ジャンヌ以外の女性……というか、君以外の人間に対しての恐怖心が、未だに拭えていない」
「ニコラ様……」
彼の生い立ちを考えれば、それは至極当たり前のことかもしれない。
母を生まれてすぐに亡くし、父親からは干渉されず、幼い頃から兄や臣下たちに虐げられてきた過去は、彼の心に大きな影を落としていた。
「傍にカムイを置けるようになったのも、ここ数年のことで――女性は未だに怖いよ。明確に、男である僕とは姿かたちが違うから」
根深い人間不信――いや、他人に対する恐怖心。
彼がそれをずっと抱いていたのは、側にいた私もよく知っていた。王太子とされていた第一王子とはここまで違うものかと思えるほど、彼の扱いは粗雑を極めていたと思う。
「僕はジャンヌしかいらない。今までも、これからだって」
引き絞るような声が、ニコラ様がこれまで抱えていた思いを突きつけてくるようだった。
王宮は彼にとって、きっと心地好い場所ではなかっただろう。恐らくは、自分を取り囲むほとんどの人間に対して恐怖心を抱いていたはずだ。
(十年――ニコラ様は、ずっと一人で……)
その深い孤独と恐怖を思い浮かべただけで、寒気がした。
きっと王冠を手にした彼の周囲には、たくさんの人が集っただろう。手を差し伸べてくれる人も、優しく笑いかけてくれる人も、たくさんいたに違いない。
「カムイは忠実は臣下だ。けれど彼は、ジャンヌみたいに僕の心を救ってくれるわけじゃない。……都合がいいって、思うかもしれないけど」
「私は――いえ、そんな……」
私の知らない十年間。私が眠り続けた十年間。
たった一人で玉座に臨み、押しつぶされそうな孤独と重責の中で国を治め続けたその腕を、振り払うことはできなかった。
縋るように延ばされた手に体を絡めとられて、そのまま手に持っていたスプーンを床に落としてしまう。けれど、それを咎める人は一人もいない。
「そばにいてくれないか。ずっと、僕の隣に」
睫毛に吐息がかかるほど近くで囁かれる――ごく、と小さく唾を飲むと、そのまま熱い唇が押し当てられた。沈黙は肯定と取られたのか、唾液で濡れた舌先が柔らかく唇をなぞってくる。
「ん、ふ……♡ぁ、むぅ♡」
ちゅ、ちゅっ♡と啄むようなキスは、角度を変えて何度も繰り返された。
ただ唇を押し当てるだけがキスなのだとばかり思っていた私の体からは徐々に力が抜けていき――いつしか、ひたすらそのくちづけを甘受するばかりになっていた。
「んふ、ぅっ♡ぁ――まって、ぁ、んんっ……♡」
「ジャンヌ――僕の、僕だけのジャンヌ」
呼吸をしたくて口を開くと、わずかな隙間から舌をねじ込まれる。
柔らかく蠢くそれはまるで別の生き物のようで、ほんの少しだけ恐怖が勝った。
「や、むぅっ……♡んちゅ、ふ……♡♡んっ♡ん……♡♡」
それでも、ニコラ様は私のことを離してはくれなかった。
より深く――舌と舌がぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てて絡まるようなキスを繰り返していると、体がどんどん熱くなってくる。
未知の感覚はじわじわと私の体を侵していって、次第に自分から彼を求めてしまう。そっと肩に手を置いて唾液をかき混ぜるように舌先を動かすと、抱きしめてくる腕の強さがさらに強くなった。
「んぁ……♡は、っ♡はぁっ……♡♡」
「……ごめん。我慢できなかった――このままじゃジャンヌのこと、無理矢理襲っちゃいそう……」
ぞっとするほど低く、雄っぽい熱がこもった声で告げられて、体の奥がびくっ♡と反応したのがわかった。
ここから先に踏み出すのはまずいと理性が告げる一方で、どうしようもなく本能が叫んでいる。
(ここで、頷いたら……そしたら、私は本当に――)
本当に、ニコラ様にすべてを暴かれる。
ぶるっ……♡と体が震えて、かすかな恐怖と期待が頭の中を埋め尽くす――だが、ニコラ様が放った言葉はどこまでも残酷なものだった。
「――ごめんね。怖かっただろう……ちょっと頭冷やしてくるから、ジャンヌは食事の続きを……冷たい水を持ってこさせるね」
「え、ぁっ……は、はい……」
すっと立ち上がったニコラ様は、そのままこちらに背を向けて部屋を出て行ってしまった。
残された私の元には、彼が言った通り冷たい水の入った水差しを持って侍女がやってくる。
体の中に生まれてしまった熱のやり場が見つからないまま、羞恥心だけが残っている。結局ニコラ様がその後部屋に戻ってくることはなく――私はただ黙々と、出された食事を平らげたのだった。
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