時事ネタに関する記事です。
私たちのようなエンターテイナーは見る人を楽しい気持ちにさせるのが仕事であり、フォロワーさんも決して中の人の政治や時事に関する発言を期待してフォローしているわけではないので、基本的には政治や時事について極力扱わない方針でいます。特にCi-enでは。
ただ、いじめについては私自身が『される側』の当事者であり、どうしても看過できない部分があるため、意を決してここで触れようと思います。
私自身、子供の頃からいじめの加害者とは違ったベクトルの問題児であったため、その点についても触れることになります。
不快にしたくて書いてるわけじゃありませんし、これからもサークルの作品を楽しむ上では決してプラスにならない話なので、いじめ問題に興味ある人だけがこの先を読んでください。
なお本件は、子供のいじめ問題にフォーカスして記載されています。
(理由については後述します)
先日、「いじめは、いじめられる側にも原因がある」という話がニュースになってました。
(記事リンク)「だから『いじめられている人にも原因がある』って俺は言います」
この論調自体は昔から存在するのですが、有名人が発したことで話題になった形ですね。
当人の発言では、『いじめる側が100%悪い』と前置きしつつも、『いじめられる側にも原因があるし、いじめが制御できないなら、いじめられてる人が自分を見つめ直して、いじめられる原因を失くせばいい』という論調です。
その上で、いじめの被害者を過度に保護し庇うってしまうと、いじめ被害者がそこから抜け出せなくなってしまうので、いじめられる側にも原因があると言いたい、といった主張です。
まず初めにどうしても言っておきたいことがひとつあるのですが......
『いじめられる側にも原因がある』と考えてる時点で『いじめる側が100%悪い』とは絶対にならないよね。
......まあ、いじめる側が悪いけど~なんて枕詞みたいなもんですからね。そんな重箱の隅を突くような指摘は置いとくとして。
私は、特に子供のいじめ問題について、被害者は絶対的に保護されるべきだと考えています。
いじめられる側も変わらないといけないとか、そんなのは保護した次のステップの話ではないでしょうか。
無暗に被害者に変わることを迫る論調は、無意味どころかむしろ危険だとさえ思います。
そんな私の考えについて、体験談も交えながらお話していきます。
さて、いじめは、世界中に存在する問題です。
日本のいじめは陰湿だと言う方もいますが、世界中どこも似たようなモンで、スクールカーストだって発祥は海外です。
世界中がいじめの問題を抱えていて、それを完全に克服できた国はない。つまり、いじめを撲滅することは現状では不可能(制御できない)という点は確かにその通りかもしれません。
ですが、いじめる側が暴力を制御できないのと同様に、いじめられる側も自分を制御することはできません。
いじめ問題は「自殺」「不登校」といった結果を以てして語られることが多いですが、殆どのいじめ被害者は一直線に自殺や不登校の道を選ぶのではなく、悩み、もがき苦しんだ末にそれらの選択肢を選ぶことについて、忘れてはいけません。
変わろうとしても変われなかった、正しい選択ができなかった、そして、誰にも頼れなかった。こうした子供が、自殺や不登校といった極限の選択まで追い詰められていくのです。
そもそもの話、人間というのは年を重ねて経験を積むことで、何が正しく何が間違いかを理解し、自分を客観的に見れるようになります。
更に、大人の世界には法律があり、必要であれば環境を変える選択をでき、それを実行する権限とお金も持っています。
子供には、何もありません。
子供の世界はほぼ無法地帯です。いじめられた時、決定権も金も無い子供に、環境を変える選択はできません。
足掻いて、もがいて、それでもどうにもならなかった時、大人を頼れなかったら、その子供の人生は終わります。
そして非常に残念なことに、いじめられる子供の多くは『大人は頼れない』と思っています。
何故か?大人に頼ったところで、いじめから抜け出せるビジョンが全く見えないからです。
それくらい、大人の世界は、子供たちの無法地帯に対して、有効なアプローチができていないのです。
そんな状況で、信頼されていない大人が、いじめられる側にも原因が~なんて言い始めたらどうなるか?
余計に信頼されなくなるだけだと私は思います。
大人だって、鬱病になった時に、どこの誰ともわからない、事情もロクに知らない人に、「あなたも悪いところがあるよ。自分を見つめて直さなきゃ」って言われて、はいそうですかとはなかなかならないでしょう。
子供だって同じです。事情を理解して、保護してくれて、そうして信頼関係を築いた上で「あなたもこういう所はちょっと直さないといけないね」と言われて、初めて自分と向き合えるんじゃないかと思います。
無暗に変わることを迫る行為は上記の理由でほぼ意味が無いと思われますが、意味が無い以上に最悪の結果を招く場合もあります。
人生経験の少ない子供が、正しい選択をできなかった場合です。
『いじめを克服して楽しい学生生活を送る』ことが正しい変化だとすると、間違った選択肢は主に
自殺、不登校、傷害、殺人
となります。
ここで、私の体験談を少し綴ろうと思います。
まず前提として、私は少し変わった子供でした。
先に言っておきますが、あくまでも『私』というちょっとおかしな子供の一例の話で、いじめられてる子供がみんな変わってるわけじゃないので、ご注意ください。
幼稚園の頃から、みんながプールで水遊びをしてる中、ひとり教室に戻ってブロックを積んで遊んでいたのを覚えています。
小学校でも低学年の頃に、体育の授業を抜け出して隠れたり、ひとり教室で絵を描いていて怒られた記憶があります。
それ以降は学校のルールに従うようになっていきましたが、集中力が極端に低く、運動も勉強も全くできませんでした。
正直言って、今でも変わった人間です。今は自分の良し悪しを客観的に評価できているので、表面上は上手く取り繕えているだけで。
冒頭で、私自身もいじめられた経験があると触れましたが、私は小学生の頃から、鬼ごっこやドッジボールで執拗に狙われる、物を隠される、などのいじめを受け始めていました。
小学校の頃で一番酷かったのは、運動会の際に水筒を隠された上、中身を小便に入れ替えられたケースでしょうか。
小便を飲んだことはありませんが、その味と、飲んだ瞬間のいじめっ子たちの反応を見て、それが小便だと直感しました。違ったとしてもロクなものではないです。
ちなみに、この時点で私は大人を信用できていなかったので、様々ないじめ行為にただ耐えることしかできませんでした。
私は貧しい母子家庭の育ちで、親が非常に厳しく、殴る蹴るは当たり前、時には蝋燭で手を焼かれ、時には顔の色が変わるほど首を絞められ、時には裁ちバサミで襲われて血まみれになりながら抵抗するレベルの暴力を受けていたため、大人は畏怖の対象であって、頼れる存在とは認識していなかったのだと思います。
加えて、休み時間のドッジボールで外野に出てるのに執拗にボールをぶつけられた際、キレで反撃した結果、いかなる理由でも暴力は良くないと私が責められた経験もあり、それもかなりトラウマになりました。
中学になると、明確にいじめられっ子としての地位が確立され、いじめの内容に暴力も追加されるようになりました。
中学に入って以降、私もいじめられる状況を打破しようと様々な試みを実行したものの、尽く正しい選択ができなかったため、その内容は次第に過激になっていきます。
最初はいじめグループと仲良くしようと試み、口下手だった私は彼らがどんな話をしてるのか観察して真似ようとしましたが、調子に乗るなと言われ逆効果でした。
それでも、なるべくいじめグループに媚び売った方がいいと考えていた私は、その作戦を継続し、その中で、いじめグループの行うプロレスごっこに参加して戦ったりもしました。
しかし、いくら体を張ってもいじめっ子の気分次第で「お前少しはやるじゃん」と言われる程度で、いじめのターゲットであることは変わりませんでした。
休み時間に黒板の端に落書きしてれば笑われ、画用紙で工作すれば壊され、オリジナルのカード作って遊んでたのも、知らない間にビリビリに破かれて下駄箱に突っ込まれてました。
そこまでされるのってお前に原因があるからじゃ?と思う人もいるかと思います。
中学2年の時、プールの授業が終わって教室で着替えてる際に、女子が待っている廊下に全裸で放り出されたことがあります。
さすがにこれは問題になって、先生が生徒を呼び出して叱ってましたが、その時に語られた理由は「みんなやってる(私のことをいじめてる)からいいと思った」でした。
いじめにおいて、いじめられる側に明確な落ち度がある場合なんてそうそうないと思ってます。殆どは、なんとなく気に食わないからで始まり、一度いじめのターゲットにされれると「こいつはいじめていい」という認識が根付き、生徒が入れ替わらない場合は小学校から中学校卒業までいじめが続いたりします。
中学2年辺りまで、様々な手段でいじめグループに取り入ろうとしましたが、次第にそれは「いじめグループと仲良くなる」から「いじめグループに認めてもらう」に変化し、とにかく認めてもらいたい、こいつはすごい奴だと思われたかった私は、学校に刃物を隠して持ち込み、それをひそかに自慢するようになります。
まあ、自慢してる時点で密かにとは言わないので、すぐ教師にバレて、それはそれは大変な問題になりました。
しかし、そこまでやっても私が得られたものはせいぜい「おかしな奴」のレッテルだけで、問題の解決にはなりませんでした。
最終的に不登校の身に落ち着いたのですが、厳しい親に隠しての不登校だったため、それをネタに兄から脅され、実の兄から性的な暴力を受ける弊害もありました。通知表で親にもバレて結局怒られたし。
「いじめられる側にも原因がある」と言う人は、私の経験に対して「根本的な考え方が間違ってる」「そんなんじゃいじめられても仕方ない」と考えるでしょう。
でも、いじめの本質ってそういうモノなんです。
根本的な人間性に適応障害やコミュニティ障害を持っていたり、容姿や生い立ちに難があったり、そういう『変われない』人間をターゲットにして、いじめは行われるのです。
そして、根本が違えてる人間が無理に変化しようとすると、私のように間違えた変わり方をする人間が出てきます。
私は「自殺」とは全く違ったベクトルで間違えた考え方をしたのですが、間違いがすぐ表に出るタイプの人間だったため、その度に問題になったりで「自分が間違えてる」と認識するうち、少しずつ人間性を修正することができました。
(それでも二十歳過ぎくらいまでは難の多い人間でした)
しかし中には、間違えた方向性を内に秘めたまま、ただひたすらに耐えて、成長してしまう人もいます。
そして大人になってから、取り返しのつかない選択をしてしまうのケースもあります。
私は運よくそれなりの大人になれただけで、どこかで一歩踏み外してれば取り返しのつかない人間の仲間入りをしてました。身バレもあるので省いてますが、他にも危ない綱渡りを何度もしてきてます。でも。子供の頃はそんなの全く考えてなかった。考える余裕もなかった。
むしろ、大の大人でさえ、極限状態では「正しい判断」ができなくなるのが実情です。
社会経験があり、善悪の判断ができ、自分の生活についての決定権があり、お金もいくらかは持っている、そんな大人でさえ、変わることはおろか逃げることさえできず、命を絶つケースがあるのです。
だから私は、未熟な子供に対して無暗に変化を迫る行為を、非常に危険だと考えてます。
じゃあどうするべきか?
まず大事なのは、いじめに対して大人が積極的なアプローチをし、子供からの信頼を得ることです。
加害者へのアプローチ、被害者へのアプローチ、その双方が重要になってきます。
いじめの発生する最大の要因は、いじめを行う上でのリスクがほぼ存在しないことです。
『いじめは制御できない』と言いますが、少なくとも日本の教育現場では、いじめを抑制する環境がほぼ整備されていないのではないでしょうか。
(諸外国の対策状況はわかりかねますが)
いじめることで自分の力を誇示できて、失うものは何もない、そりゃいじめたくなるよね、私でもわかる。
いじめに手を染めることで進学や就職に影響が出るような環境を整備して、それでもいじめに歯止めがかからないなら「制御できない」が正しいですが、現状は「制御してない」が正しいのではないでしょうか。
そういえば、中学の頃の私の同学年に究極の狂人がいました。いじめグループとはまた違うタイプの人間で、いじめる連中が人間的にいじめを楽しんでるのに比べて、この狂人は野生の猿とかそういうレベルで無差別に暴れまわっていました。
なんか私がお気に入りだったみたいで、見つかるたびに襲われ、押し倒され、舐められたり唾を飲まされたりしてたのですが、噂によると少年院に収容されたそうです。
聞いた話なのでどこまで真実か不明ですが、実際それ以来その狂人を見ることは一度も無く、私の学生生活で唯一、いじめの加害者が大人によって完全に制御され、被害者の私が『安堵』を感じた事例です。
被害者の保護も重要で、各学校、各学年には、いじめを受けたりクラスと馴染めない子供が、希望して編入できる教室が必要だと感じます。
仲直りの握手とか、そんなもん大人が解決してる気になるだけです。加害者と被害者を物理的に隔離することで「加害者と会わないで済む」という絶対的な安心感を与える必要があります。
もちろんこれらは言うほど簡単な話ではありません。ですが、いじめの被害者が自力でそこから抜け出すことは、それ以上に困難だと思います。
子供の変化を促すなら保護して安心安全を提供してからだと思いますが、そもそもの話、加害性のある性格でもない限りは直す必要もないでしょう。
自分を見直すなんて言えば聞こえはいいですけど、それってつまり精神的な更生であって、刑務所なんかで犯罪者が受けるものですよね。
更生すべきは加害者なのにそれを被害者に求めた挙句、変われないならいじめ続けられるだけだよなんて無茶苦茶な正論で捻じ伏せる論調は、どうにも賛同しかねるところです。
例えば私みたいに、幼稚園の頃からみんなと離れてブロック積んでたような人間が、平然と他人を虐げられる人間と仲良くできると思いますか?という話なのですが、こういうコミュニティ障害を持たない人から見れば、気持ちの持ち様で変われるだろくらいにしか感じないのかもしれません。
もちろん私も、子供から大人になる間に様々な変化をしてきました。変化自体は大事なことで、子供の頃のままの自分で居るべきだったとは、当然思いません。
しかしどう変化すべきかは自分で考えることであって、それが成長というものなのではないでしょうか。
自分がパワハラを受けて鬱になってるとき、「あなたも変わらないといけない、仕事がバリバリできるようになればパワハラなんて受けないよ」と言われたらどう感じるか、自分の立場に置き換えて考えてみて欲しいなと思います。
いじめやパワハラ受けたことない人にはなかなか理解できないかもしれませんが。
......ところで私、今年に入ってから、子供を支援するとあるNPO団体に参加を申し込み、説明会にも参加しました。
まだそこそこ若くて、いじめや家庭内暴力の経験のある私のような人間なら、難しい境遇にいる子供に少しでも寄り添えるんじゃないかと、そう思ったわけです。
ただ、祖母の認知症が進んだり、私の体調が崩れたり、仕事が忙しくなったりで、一応は会員として登録したものの、まだ活動に参加できてません。とても申し訳ない気持ちです。
状況が落ち着いたら改めて報告して、活動に参加したいものです。
いじめをなくすなんて大層な話は難しいと思いますが、例えひとりでも、苦しんでる子供を救える大人になりたいものです。