有坂総一郎 2023/04/23 12:00

75mm/3インチ級戦車砲

75mm/3インチ級戦車砲

装甲やら発動機やら戦車について再考しているところであるけれども、75mm/3インチ級戦車砲を搭載した戦車戦を行う戦車という代物の元祖はやはりT-34であると言わざるを得ない。

確かに41年以前に70-76.2mm戦車砲を積んだ戦車はいくつか存在している。

ドイツはⅣ号戦車A-E型、NbFzがそうであり、フランスはB1がそうである、また日本は九五式重戦車がある。ソ連においてはT-34だけでなくBT-5A、BT-7A、T-35などがある。

しかし、純粋に戦車戦を意識してそれに用いることを前提とした戦車はT-34だけであると言わざるを得ないだろう。それ以外は皆、歩兵直協を前提とした支援戦車の側面が強い。

では、それ以外の国家における41年時点の標準的な戦車砲と言えば概ね37mm/40mm/45mm/47mm/50mm/57mmである。

37mm:九五式軽戦車、Ⅲ号戦車A-F型
40mm:マチルダⅡ、ヴァレンタイン、チャーチル、カヴェナンター、クルセイダーⅠ/Ⅱ
45mm:BT-5、BT-7
47mm:九七式中戦車改、M13/40、M14/41、S35
50mm:Ⅲ号戦車G-J型
57mm:九七式中戦車、八九式中戦車、チャーチル(予定)、クルセイダーⅢ(予定)

57mmを搭載している九七式中戦車と八九式中戦車は短加農であるから戦車戦に用いるのに適当ではなく、チャーチルやクルセイダーに至ってはQF6ポンド砲(口径57mm)の生産目途がつかないため予定でしかない。

よって、41年時点の最も有効な戦車砲と言えばⅢ号G-J型に搭載された50mmということになる。

しかし、イギリス戦車が搭載している40mmが役立たずかと言えばそうでもなく、装甲貫徹性能は口径で上回る47mmや50mmにも匹敵するもので、対戦車戦闘を行う上で十分な能力を備えていた。※逆に榴弾がないため非装甲目標への攻撃能力に劣る。

その後、41年6月に始まるバルバロッサ作戦によってT-34ショックを受けて、ドイツが長砲身75mmを投入するのが42年3月である。同時期にイギリスではチャーチル及びクルセイダーにQF6ポンド砲が装備され、57mmに対戦車用のそれが実装される。日本においては九七式中戦車改の量産が開始されている。

イギリス戦車が75mmを搭載するのはチャーチルMk.Ⅵ(44年)、クロムウェルMk.Ⅳ(44年)と戦争後半に突入してからのこと。それまではQF6ポンド砲を搭載している。

42-44年の一年半の間、QF6ポンド砲で凌いだことになるが、十分にその性能があったことと、戦時生産の都合がイギリスに75mm搭載を遅らせた理由になるだろう。

米帝?

あぁ、あの異界のイキ者は別枠。旧大陸の列強は全部列強同士のそれが連動しているけれども、あれは規格外だから相手にしなくても良い。理解を妨げる。独自進化のガラパゴス相手に理解しようとしても無意味だ。

同盟国の大英帝国でもレンドリースで戦車を受け取っているけれども、その影響を受けるつもりはなく、それどころか魔改造して自前のQF17ポンド砲(口径76.2mm)を搭載したシャーマン・ファイアフライをこさえている。植民地人なんかに英国面は負けない。

そんな調子だから米帝なんかは無視しても良い。

さて、遅れて日本はノモンハンのそれから新中戦車(甲)を策定、47mm砲搭載の対戦車戦闘を重視した戦車の開発に取り掛かる。しかし、57mm砲搭載へと変更、更に独ソ戦の報告から75mm砲搭載へと進化していく。この間、一年。やっと方向性が固まったのが43年7月のことであった。これが四式中戦車の基礎となったのは語るまでもない。

同時に新中戦車(乙)も策定されるが、これは駆逐戦車的な性格でスタートし、新中戦車(甲)と同様に43年7月に五式中戦車の基礎として方向性が固まる。

しかし、一年の足踏みが大きく影響し、甲・乙両方共に開発の遅延が明らかになる。そんな中、44年5月に新中戦車(丙)が策定され、44年9月に試作車完成、三式中戦車として制式化、10月に量産開始となった。イギリスに遅れること半年で75mm砲搭載戦車が実現したこととなる。

では、足踏みしていた期間は無駄であったのかと言えばそうでもない。

この一年間に独ソ戦における両軍戦車の分析評価をし、戦車運用ドクトリンを歩兵直協から対戦車戦闘を重視するものへと変更し、これに適合した戦車開発を決定している。

また、新型戦車は既存の架橋資材、渡河資材では性能が不足することから、これに合わせた機材の開発と調達が行われている。そういった面からも無駄に一年間を過ごしていたわけではない。

だが、同時に戦局は悪化の一途を辿り、対ソだけでなく対英米の戦車戦すら現実性を帯びてくると理想的な新型戦車の開発を待っているわけにもいかない。そこで、拡張性に余裕がある九七式中戦車由来のシャーシに九〇式野砲を載せた三式中戦車をでっち上げることで急場を凌いだ。

これはこの一年間の研究や方針策定があってこそ短期間に実を結ぶ結果を出せたと言える。

結局、当事者でなければ、戦車開発に大きな進歩をさせることが難し側面があるという事実がそこにあると言わざるを得ない。

実際、ドイツは泥沼の東部戦線で、イギリスは北アフリカで、それぞれ戦訓を得て、また敵戦車を鹵獲し研究することで自身の血肉としたのだから。

そういう意味では日本はノモンハンくらいしかその機会はなかったと言える。しかし、そのノモンハンこそがソ連戦車の劇的進化の素地の一つとなっていることを考えると頭を抱えたくなる出来事であると言えるだろう。

ソ連の大味な要求が技術者の血と汗によって実現してしまったこと、それを後押しする結果をノモンハンで出してしまったこと、それが世界を狂わせたのだと思うと・・・・・・やってられん。

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