遠蛮亭 2023/12/15 14:58

23-12-15.中国史書翻訳(北斉書_斛律光)

こんにちはです!
さっきまで台本制作やってたんですが、あまりに先が見えない作業なのでちょっとくじけてちょっと休憩。その間に「これでも上げとくか……」とカクヨムさんにあげましたのがこちら。「古今統帥者列伝」100話目、中国南北朝時代、北斉の名将斛律光。普通に変換すると国立校って出てしまいますが……、まあ武辺優れた名将です。ただ、治軍厳正に過ぎて厳酷なサド、また後半生はあきらかに傲慢で彼が悪い部分もあり、清廉潔白な人物とはいきません。かつて「中華名将録」というブログでこの人のことを「きわめて謙虚で篤実な人物だった。傲慢とするのはおかしい」と論戦を挑んできた方がいらっしゃいましたが、北斉の世が終わり、斛律光のことを惜しむ歴史家が書いてなお彼の驕慢ぶりを隠せなかったのですから推してしるべしです。

ちなみに遠蛮は中国史のなかでも「史記」「三国志」に関してあまり書きません。もうあまたの研究者と作家さんがうんざりするほど書いてある時代だし、だれがどう書こうがもとの時代と人物が変わらないのだから多少切り口を変えたところで変わり映えもしません。唯一すげぇわこれ、と思ったのは「泣き虫弱虫諸葛孔明」における新釈孔明像でしたが。なのでこの2つ時代にはあまり魅力を感じないのでした。それでもたまには書きますし、そっちのほうがpvとか回りますけども、はっきりいってやる気は出てません。面白いのはやっぱり宋と明。宋であれば孟キョウ(最盛期のモンゴル軍相手に不敗、しかも人格が完璧と言っていい高僧のような人物)だし、明であれば戚継光(名将にして拳法と剣術の達人。鴛鴦陣という8人で倭寇1人をボコる戦法の創始者。のちにこの戦法は日本の土方歳三に踏襲され新選組で猛威を振るいました)です。ほかに特筆すべきなのは唐初の二大頭脳、李靖と李勣。宋代であっても岳飛とかは正直どうでもいいです。岳飛という人物は史書読んでても「あー、こいつ誣告したくなるのわかるわ……」って思うタイプなので、岳飛を称揚する方々の気持ちというのは正直わかりません。

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斛律光(こくりつ・こう)
斛律光、字は明月。若くして騎射に巧みであり、武芸を以て世に知られた、というのは異民族系の武将には少なくない。まあ普通の経歴であろう。東魏末年、斛律金に従って西征する。周文帝の長史・莫者暉が行軍しているところに馳せて矢を射掛け、これを生捕り擒えたとき、まだ十七歳。驚嘆すべき若者であった。高祖は非常に喜んで彼を賞し、十七歳の若造を即刻、都督に抜擢する。世宗が嗣子として立つと、推薦を受けてその親信都督となり、漸々と昇遷して征虜将軍さらに官を加えられ衛将軍に。武定五年、永楽県子に封ぜられる。世宗が?橋で狩猟しているとき、たまたま一羽の大鳥が舞い上がり、雲に向かって飛翔したところを、斛律光は一箭これを射、みごと首を貫いた。鳥は車輪を描き、旋回して墜ちるとこれ信じられないほどの大雕だったという。世宗はこれを見て詠嘆し、斛律光の弓技の冴えを讃えて、丞相属の刑子高も感嘆して、「これ射雕の腕なり」と。それでついたあだ名が落雕都督。ついで左衛将軍を兼ね、伯爵に進められる。

北斉建国当初、斛律光は開府義同三司を加えられ、伯爵位とは別に西安県子に封ぜられた。天保三年、出塞して北伐に従軍、斛律光は真っ先に敵中に躍り込み、首を獲ることきわめて多く、また多くの牧畜を得て還る。帰還後、晋州刺史を拝す。晋州の北には北周の天柱、新安、牛頭という三か所の城があり、常に擾乱絶えない必争の地であった。天保七年、斛律光は歩騎五千でこれらを攻め、大いに北周の将・王敬儁らを破り、五百数十人を捕獲し、牧畜千余を得た。九年、また周を率いて北周の絳州、白馬、?交、翼城の四城を取る。同年、朔州刺史。十年、特進して正式に開府義同三司とされた。同年二月、一万騎を率いて北周の開府・曹迴公を討ち、これを斬る。時の柏谷義同・薛禹生は城を棄てて逃げ出した。斛律光はさらに文侯鎮を取り、さらに営を置き柵を立ててから還った。乾明元年、并州刺史とされる。皇建元年、爵を鉅鹿郡公に進められた。時に楽陵王・百年が皇太子とされ、粛宗は斛律光を以てその教育係に任じ、さらに彼を王室に入れるためその長女を太子の妃とした。大寧元年、尚書右僕射。中山郡に俸邑を得る。翌年太子太保。河清二年四月、歩騎二万を率いて識関(職は正しくは車編)に勲掌城を築き、万里の長城を二百里に渡って修築、十三の戌営を置く。三年正月、北周は将軍・達奚成興らを遣わして平陽に侵攻させたが、斛律光は詔を受け歩騎三万を率いてこれを迎撃、達奚成興らを潰走させる。斛律光は敗軍を北に追い、境内に入って俘虜二千余を獲て還る。同年三月、司徒。四月には騎兵を率いて北に突厥を討ち、軍馬一千余を獲て還った。ここまで武功が重なればただ武芸に長じ騎射に優れただけの猪武者ではないと誰もが信じるであろうが、さらにその名将ぶりを際立たせる大戦役が発生する。この年冬、周武帝は柱国大将軍・尉遅迥、斉国公・宇文憲、柱国庸国公・可叱雄らに十万の兵を与えて遣わし、洛陽を攻めさせた。対するに北斉は斛律光が五万の兵を率いて反撃、?山において戦い、半数の兵で尉遅迥らを大敗させる大殊勲を挙げる。斛律光は自ら矢を射て可叱雄を射殺し、斬獲三千余を獲た。尉遅迥、宇文憲らは単身かろうじて逃れる。武器甲冑と輜重多数を鹵獲して、また戦死者を洛陽を望む丘の堆肥に埋めた。世祖は自ら洛陽まで駕御し、斛律光の驍名勲功を賞して太尉(軍総司令官)に任ずる。このとき世祖の命にて斛律光の次女がまた太子の妃とされた。天統元年、彼女は皇后に封ぜられ、斛律光は大将軍の任を受ける。三年六月、父の喪に服して官を辞したが、同月、詔が下って斛律光とその弟斛律羨を前任に復すとされた。秋、太保に任ぜられ、父の爵位を世襲して咸陽王に進み、斛律一族の酋長となった。咸陽王とは別に武徳郡公に進められ、趙州に俸邑を得る。遷せられて太傅。

天統元年十二月、北周は兵を遣わして洛陽を囲み、糧道を截つ作戦に出た。武平元年正月、斛律光は歩騎三万を率いてこれを討ち、軍を定隴に屯す。周の将軍で張掖公の宇文桀、中州刺史・梁士彦、開府司水大夫・梁景興らは鹿廬交道上に駐していたが、斛律光は甲をかぶり矛を取り、身を士卒に先んじて敵陣を衝き、鉾が刃こぼれするまで戦い抜いて、宇文桀らを潰走させ斬首二千余を獲る。そのまま直ちに宜陽に向かい、北周の斉国公・宇文憲、申国公・?抜顕敬(?は正しくは手偏)らと対峙すること百日。斛律光はその間、統城、豊化の二城を築き、宜陽の交通にダメージを与えた。軍を還すとついで安?に往き、宇文憲ら五万の攻撃をその背に受けながら、騎兵をほしいままに動かして反撃し、敵兵を大潰走させ、開府・宇文英、都督・越勤世良、韓延らを俘虜とし斬首三百余を獲る。宇文憲はさらに令じて大将軍・中部公・梁洛都と梁景興、梁士彦らに歩騎三万で鹿廬交道の要路をふさがせるが、斛律光は韓貴孫、呼延族、王顕らと兵を合して大いにこれを破る。梁興興を斬り、軍馬一千頭を得た。詔により斛律光は左丞相兼并州刺史とされる。同年冬、斛律光ははまた玉壁にあって歩騎五万を率い、華谷、龍門の二城を築城、ここで宇文憲、?抜顕敬らと対峙するも、過去幾たびも苦渋をなめさせられている宇文憲らは敢えて動かず。斛律光はそこで兵を進めて定陽を囲み、南汾城を築城、州治を置いて夷華の衆万余を帰服させる。

武平二年、斛律光は平隴、衛壁、統戎など十三鎮を修築。北周の柱国・枹罕公・普屯威、柱国・韋孝寛ら歩騎余万が平隴戌を攻めたので、斛律光はこれを迎えて汾水に戦い、大いにこれを破った。韋孝寛はのちに斛律光を除かぬ限り北周の覇業ならぬとして謀略を駆使、ついにこれを斉廷の手で殺させるという斛律光最大の敵手なのであるが、このとき両者はそれを知らない。ともかく、斛律光は周軍一千余を斬り、中山郡公に進められる。食邑は一万戸。大軍を返還するも詔によって再び出征、歩騎五万で平陽道に出て、姚襄、白亭などの城戌を攻め、ことごとく攻め下し、城主、儀同、大都督ら九人を俘虜とし、捕縛したものは数千に上った。また特進を受け長楽郡公とされる。同月、北周は柱国の?干広略を派遣して宜陽を囲む。斛律光は歩騎五万を率いて救援にはせ参じ、城下で大戦の末、逆に北周の建安など四城戌を奪い取り、千余人を捕獲して還る。大軍がまだ?都に還る前に皇帝は命令を下してこれを解散させた。これは斛律光の大きくなりすぎた勲功を警戒したと見るべきであろう。事実斛律光は軍の解散に対して恩徳が施されず、密通の疑いが(そんな事実はないが)自分にかかっているのではないかと恐れて、軍を解散させずに?都まで進んでいる。朝廷が使者を派遣して命令の遅延をとがめるとようやくにして軍を還した。その後紫陌、光に営使として派遣される。帝は斛律光の部隊が已に軍営に入っていると聞いて心に甚だこれを憎み、急ぎ舎人を遣わして斛律光の入見を追う、とあり、斛律光と北斉朝廷の齟齬はここに始まる。しかるのち斛律光は部隊の兵を労ってこれを解散させた。再び左丞相を拝し、また別に清河郡公に封ぜられた。憎しみはあってもすぐに逮捕して牢屋にブチ込んで○問、処刑なんてことは行われないのがこの時代救いではある。まあしばらく間を置いて処刑、というのはよくあることなわけだが。斛律光の側にも国家最大の功臣と言うおごりが見え始め、互いの擦れ違いは日増しに深く大きなものになって行く。

斛律光は入朝に際して、朝堂に御簾を垂れることをゆるされる。祖?がこれを知らずに馬に乗って斛律光の前を走り抜けると、斛律光は怒りをあらわにして手近の人に曰く「この人はついに我が前を犯した!」と。のち祖?は宮内から省かれ、声高に斛律光の驕慢を鳴らす。斛律光は多所でこれを聞き、ふたたび怒りを発したというがこの場合祖?が正しかろう。知らずに犯した罪なら許すのが大度というものだろうに、この時期の斛律光にはそれがない。ともかく祖?は斛律光の態度を聞いてまた憤懣やるかたなく、斛律光の奴婢を賄賂で買収して曰く「相王、孝徴(祖?の字)に瞋るや?」と問えば応じて曰く「あなたたちが在朝して以来、相王は毎晩膝を抱えて言っておられます。“盲人たちがある限り、この国は必ず破れるであろう!”と。」穆堤婆が斛律光の庶娘を妻にと求めたが、斛律光はかたくなに拒んだ。帝は穆堤婆に晋陽の田地を賜ったが、斛律光はそれにすらケチをつけて「この田は神武帝以来、常に種を発芽させ、馬数千を養うに足ります。今は寇難の時、堤婆ごときのために軍務を欠くのですか?」と。これより祖、穆両氏は斛律光に深い恨みを抱く。

周の将軍・韋孝寛は斛律光の英雄を忌み、歌を作ってこの謡言をお得意のスパイ網を使って?都に流した。曰く「百升上天に昇り、明月長安を照らす(百姓の上に登極する皇帝は、明月と言い長安を照らす)」あるいは「高山推さずして自ら崩れる、斛樹扶けなくして自ら立つ(高氏の天下自壊して、斛は助けなくして自立するであろう)」祖?はこれらの童謡に言葉をつなげ、「盲目の老翁は背に大斧を上下させ、饒舌の老婆も語るを得ず」と。これらの童謡を城中の子供たちに教え、ひろめさせた。穆堤婆はこれを聞き、その母令萱に告訴。令萱は饒舌を以て周囲の女たちから罵られており、盲目の翁というのはまさに祖?のことであったが、韋孝寛の作に比べわかりづらく取るに足らん謡であると断ぜざるをえない。やはり詩賦の才が違うのだろう。ともかくも祖、穆の両家は共同して謀議し、皇帝に告訴し、「斛律家がいくら代の全部族の大将であり、明月また北周を震わし、豊楽から突厥を討ってすなわち威光あり、その娘は皇后、公主であるといっても、今世に流行る謡が明月の野心を現しております。」と。皇帝は斛律光拿捕のため韓長鸞を遣わしたが、韓長鸞は証拠不十分で斛律光を逮捕できなかった。祖?はまた独り皇帝に時間を取らせ、ただ一人何洪珍をそばに置いた。皇帝は言う。「先日汝が彙めた報せは、もとより打算からの行動であろう。韓長鸞が言うに斛律光謀反の事実はない」祖?はこの正当性に当たりえず、かわって何洪珍が口を開くに「もし今は翻意がなくとも、もしかしたら地下でひそかに活動を起こしてい連中がるかもしれません。万一それが露見した場合、いかがなされますか?」と。帝曰く「洪珍の言うこと、尤もである」しかし事ここに至っていまだ決せず。たまたま丞相府の佐・封士譲が密告して「斛律光は前に西を討った還り、勅命で兵を放つべきところを聞かず、全軍で京師に逼りました。まさしく行動不軌、事果さずして止むものの、家には弩甲が蔵され、奴僕は数千、ことごとに使いして豊楽、武都と連絡し、陰謀往来であります。もし早晩これを討たずば、恐るべきこと測るべからず」と言ったので、そう言えば「軍を以て京師に逼る」という前科があったなと皇帝もここで斛律光への疑義を抱く。何洪珍のいう所に依れば「人心とはまさに恐るべし、わたくしは前に斛律光が兵を帯びて京師に逼った時から疑いを抱いておりました。果たしてまさにそのとおりではありませんか!」と。皇帝は性格怯懦であり、心に大変の発生が刻み込まれるとなると何洪珍の言葉に完全に惑わされる。祖?は乗っかって曰く「まさしく経営の地より呼び戻しましょう。彼が自身にかかった疑いに肯んずなら恐れず来るはず、その時は駿馬の一頭でも与えてお茶を濁せばよろしい。しかし彼が朝廷の恩に肯んぜぬならば入室して逮捕すべきであります」皇帝はこれを聞き彼らの話を了解。まもなく斛律光は懼れずやってきたが、凉風堂に引き込まれて劉桃枝に急襲され、殺害された。時に享年五十八歳。詔が下り、斛律光は謀反を企み、国法に伏さなかったという罪で一門全員が誅殺された。のちまた詔が下り、九族誅戮とされる。愚帝と昏臣により殺戮された斛律光だが、その死には彼自身の傲慢にも十分な原因があった。

斛律光は性言葉少なにして剛健、急変を好み、その統御するところの部下には厳、彼の督するところの兵は、みな杖刑を恐れたというからよほど厳しかったかサディストであったのか。常に鞭撻の士を左右に控えさせ、一般人でも彼の暴虐には困らされたらしい。十七歳で軍に入って以来、闘っては一度の敗北を喫することもなく、隣敵は彼を畏れ恐れて忌み憚った。その罪により屠殺されたとき、斉の朝野はこれを痛惜したが、周武帝は斛律光の死を大いに喜び、境内に大赦を出したほどである。のち?都を蹂躙した際、彼に上柱国、崇国公を追贈して詔に曰く、「この人ある限り、朕は?の土を踏めなかったであろう!」と。

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