ya-ho-games 2024/07/04 08:00

ご報告 (Combat Command: "Courage)

最初に、
ci-enの記事は家族の介護の最中に作業ができないタイミングで記述しているため、制作に影響はありません。

ご報告

長く投薬治療と過酷なリハビリを真剣に続けていたおかげで、検査のデータ上、内臓の疾患がほとんど回復しました。正常一歩手前くらいです。
まだ投薬と限りなくストイックな生活をやめることはできないことと、無理をしたら元に戻る可能性が高いので無理はしないで下さいと医師に言われていますし、まだ一過性の回復かもしれないので定期的な検査は続くのですが、先日の検査の結果では奇跡的な回復を見せているという感じでした。
医師の言葉でいうと、半年かかってこの半分の回復があれば御の字ということだったので、
人間の生命力の素晴らしさ、人間が一生懸命取り組めばそこには必ず可能性があるということを文字通り身に染みて理解しました。
活動の邪魔になるものをちゃんと取り除けたので、このまま健康体でいられるようにがんばりたいと思います。
わずかでも気にかけてくださった皆様、本当にありがとうございます。
お陰様で、もう一度無事に制作に向き合うことができるようになりました。

皆様も健康を第一にお過ごしください。無理を続けると体は簡単に壊れますし、元の状態に近い健康に戻すだけでも本当に大変でした。

ya-ho-gamesのスタンス

ya-ho-gamesはここに『いついかなる時も人類の自由と平和、作品や文化は守らなくてはならない』というスタンスをはっきりと示します。
人類の自由と平和を望まず作品や文化は守られなくても構わない、という考え方とは相容れない姿勢です。
悪の秘密結社かなにかくらいしか、人類の自由と平和の敵になるような者はいないので大丈夫だと思いますが、どんな人でも話せば絶対に分かり合えるとはわずかにも思っていませんので、色々な考え方はあっていいはずだと思います。

答えが決まっている人を変えることはできませんし、それはそれでその人の人生にとって大事なことなので尊重されるべきです。
創作においては、ぜんぜん人の話なんか聞かない能力も部分的に必要です。
望まず誰かに歪められたものは、多くの場合、本当にその人が送り出したかったものではなくなります。
『やりたいことがあるなら自分でやればいい(やっていい)』のが同人の豊かさと自由さなので、挑戦することに特に制限がないというところが本当に素晴らしいことです。免許とかもいらないですし。全年齢ならやろうと思えば子供でも挑戦できるのです。
本当にそれが必要だと思っている人は自分で創造してしまえるという驚異的な自由度なのです。無限大の可能性です。
この世にまだない何かを、どうしても自分で見つけたい。そうせざるを得ない衝動や熱意が本人を突き動かした時、誰かに止められるでしょうか?無理です。
そして、それが本人にとってどんなに小さなことであれ、創作に挑み、作品として成した人を私は尊敬しています。

長くて読まない人がいても実は全然かまいません。
私が自分の考えを勝手にここに書いて残せることに意味があるからです。
それがなにものにも脅かされず行えることはとても大切なことで、世の中が平和で豊かで多様性に溢れているから成立することです。

もう一つのテーマ

ya-ho-gamesのRPGにおける共通のテーマにはもう一つ『人間賛歌』があります。
(もうひとつはこちら

人間賛歌と言われてもピンとこない人の方が多いと思いますが、

『勇気とは何か?』
『勇気とは怖さを知ること』だと私は教わりました。

勇気とは恐怖を知ってなお、弱さを持った普通の人間が、それでも人間らしさや気高さを失わず困難に立ち向かうことだと私は思っています。
ノミが無茶苦茶に人間に飛び掛かってくることとはわけが違うのです。

それが人間賛歌であり、人間賛歌とは『勇気』の賛歌だと私は教わっています。

『人間のすばらしさは勇気のすばらしさ』だと。

『過程や方法などどうでもいい』とか、
『過程をすっ飛ばして結果だけを得られればいい』という考えとは違うのです。

私の尊敬するその偉大な作家はかつて「人類のために描く」と仰られています。
だからこのテーマもya-ho-gamesの中では揺るがないものとして存在します。

大人としての責任

先ほども書きましたが、
ya-ho-gamesはここに『いついかなる時も人類の自由と平和、作品や文化は守らなくてはならない』というスタンスを示しました。

人類の自由と平和を望まず作品や文化は守られなくても構わない、という考え方とは相容れない姿勢です。
外力や危害を加えることで他者の自由を奪うことは、害を与えようとする者を止めるためのどうしてもという時以外にはあってはならない思います。
ジョン・スチュアート・ミルの他者危害原則とだいたい同じです。

〇〇は低俗だから無くなってもいいとか、〇〇はちっぽけだから守られなくてもいいということはなく、
人間が命を懸けて、時にその人生の血と涙で作り上げた作品や文化は、守られねばならないと考えます。
小さな子供ががんばって描いた技術的にまったく未熟な絵や物語であっても、その先には無限の可能性があるはずです。
みんな最初は子供だった。ちょっと大きくなっただけです。だから自分の可能性を信じて、今もがんばっている。
その可能性を他者が勝手に奪ってはならないはずです。
自己の責任の中で、他者の権利を不当に侵害しなければ誰からも止められる理由はありません。

私は、自分や誰かの大切な作品や文化、誰かが命を懸けてその人生の血と涙で作り上げたそれらが、ないがしろにされることがない世の中であることを望んでいます。
作品や文化をないがしろにするということは、そこに関わる人間の命を、その人生をないがしろにすることと同じです。
それは社会の中で多くの人が命を懸けて取り組む、さまざまなごく普通の仕事においても同じです。
だから職業に貴賎はなく尊いものなのです。
人間の一生懸命さや命、人生をないがしろにするところに多様性も繁栄もあり得ません。
それらを軽んじ、ないものであるかのように扱ってしまえば、その先ではいずれ、人類の自由と平和も失われてしまうでしょう。
趣味に合うあわないとか好みとはまったく別の問題なのです。

私は、私が愛する作品からも、今は亡き最愛の人生の師からも、それらをないがしろにすることが正しいことだとは教わっていません。
私は、利己的ではなく他者のために一生懸命になる人や、困難に挑戦する人をないがしろにするような人間に育ててもらってはいません。

最初はみんな未熟です、少しずつ成長していくのです。
本人も周りの人も上手だとは思わない未熟さであっても、小さな積み重ねの先に、とんでもない成長を見せることもあるかもしれないのです。
私は自分が子供の頃に、人間の可能性は無限大だと教わりました。
私は、未来を担う子供たちに、胸を張って人間の素晴らしさや豊かな可能性を伝えられる大人でありたいです。
大人である私でも、無限大まではいかなくても命が潰えるまで成長し続ける可能性はあると、行いの中で示せる人間でありたいと願っています。

でもうちの作品は成人になってから買ってね!という感じなので、ya-ho-gamesの活動においては、直接的に子供たちに何かを伝えることはありませんけどね。
ルールを守るということはとても大切なことですし、そうでないと他者に犠牲を押し付ける結果につながります。

現実が追い越していくのはやめてほしい+表現規制の話

なぜこんなことを書いたかというと、
クレジットカードの規制関係で言葉狩りが行われてしまったことで、
現実に追い越され、本来はるか前に準備していた『言葉狩り』の物語にまつわるような出来事が先に現実で起こってしまってOh, mio Dio。
クレジットカードの規制が起こったことが、その物語の根源だと思われるのが癪で仕方がないので憂さ晴らしも半分兼ねた感じですが、現実の方が予定していたものを追い越していくのは本当にやめてほしいと思います。
でも、これを言い切った以上、起きてしまった現実を超えていく素晴らしさでその物語を送り出せるよう力を尽くしたいと思います。
ここまで読んでくれたあなたに、少しだけその作品の予告をします。
『言葉刈りのマスタークラウド』それが、予定されていた物語のタイトルです。
あまり聴いたことのないと思われる、サークルとしては画期的で、サークル初のシステムが組み込まれる予定です。ある『言葉使い』の物語です。

もしかすると、表現規制が今後強まっていき、好きに同人の世界で楽しむことができる時間はそんなに長くないということもあるのかもしれません。
心配しなくても、意外と同人というものの懐の深さや豊かさが粘り強ければ、自由に楽しくいられる可能性もあるかもしれません。
ただ一つ、平和で寛容な世の中でないと、同人のような文化は衰退し、自ずと豊かに育まれていくことはないでしょう。
個人的な小さな情熱をスタートとした予想外のイレギュラーの中に、人の心を動かすものや人の記憶に残るもの、思いもよらない何かが生まれることもあると思います。

伏字だらけのタイトルのRPGもそれはそれで興味を引くかもしれませんが、
望まず誰かに歪められたものは、多くの場合、本当にその人が送り出したかったものではなくなります。
最初から全部伏字ならそれ以上伏せられないというトンチのようなことも1度くらいは楽しそうですが、できれば早めに元の状態に戻ってほしいと思います。
表現できることが外力によって狭められていくことはろくなことではないので、これ以上悪化しないことを願っています。本当にやめてほしいと思います。

ya-ho-gamesとして、すでに外力によって表現が狭められてしまったという出来事が、冗談では済まない問題だと思っている、そういうスタンスを示す必要があると思いました。仕方なく受け入れたままではなく、いずれ解決されなければならないと思っています。
いずれ、それがタイトルだけでなく誰かの作品の中にまで手を伸ばしてくることがないように、そうしたふざけた事態が起きないように。そう願っています。
その先にはやがて、人の心の中にまで手を伸ばしてくる事態が待っていると考えるからです。

信じることと勇気

どんな作品の場合であっても、最後は作品と出会う一人一人を信じて送り出すことしかできません。
結果は誰にも分かりません。『絶対』はどこにもないからです。
だから最後は勇気が必要です。その先の人間を信じて送り出すしかないのです。
初めて作品をリリースする人も、何十何百とリリースしている人でも一緒です。
大切な作品だからこそ、死力を尽くした先でさえ、そこには少なからずこれは本当に伝わるのか?という恐怖があり、それを乗り越える勇気が必要になるのです。
そんな勇気を持っている人を私は尊敬します。

そうした勇気を失うことなく、これからもya-ho-gamesは制作を続けていきたいと思いますので、変わらず応援して頂けますと大変嬉しく思います。

皆様も健康を第一にお過ごしください。

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