[♀/連載]不浄奇談 [4-2.休憩 高坂三夏]

『不浄奇談』キャラクター紹介


    4-2.休憩 高坂三夏

「だ、だから――もう、こんなのやめにしましょうよお」
 自分の話を終えた途端だった。間髪を容れずに、えりかが再び提案を始めた。
「今すぐ。今すぐ、みんなでトイレに行きましょうよお。絶対、それが一番いいですって。怖くて危ない所だからみんなで行く。それの何がいけないんですか。私、全然わかりません」
 その語調は、ほとんど哀願とも呼べるものだった。その切羽詰まった声音は、えりか自身の『我慢』にもうほとんど余裕がないことを窺わせた。
 本当のところ、えりかの提案に、三夏も同意したかった。この泣き言めいた発言が、許容される世界だったらどんなにか良かっただろうとも思う。でも、演劇部は、現実の学校は、そういう『やさしい世界』ではない。だから、三夏は沈黙を守る。表立って同意する愚は犯さない。
「ふうん、えりかちゃん、そんなに一人で屋上に出たいんだあ」えりかの提案に対して、悠莉が小馬鹿にしたような言い方で突っかかってくる。あくまで、悠莉は『不浄奇談』続行を唱えるつもりのようだった。「言ったよね? 次、やめたいって言ったら、屋上行きだって。ねー、湯田ちゃん、手伝ってー。こいつ、屋上に放り出すから」
「い、いや! そんな……屋上は、屋上はイヤです!」悠莉と湯田に腕を取られそうになったえりかが、悲鳴じみた声を上げた。床に跪いて、身を縮める。そして、弱々しい声で言う。悪いことをしたわけでもないのに、許しを求める。「……わ、わかりましたからあ。も、もう言いませんからあ」
 そうして、戦いは瞬く間に終焉した。三夏は落胆しなかった。こうなることは、わかっていた。『みんなでなかよく』『弱者にやさしく』などという大人達が提唱する理想論なんて、現実にはまるで通らない。演劇部は、現実の中学校は、あくまで先輩ファーストの世界であり、あくまで弱肉強食の力が物を言う世界。泣き言を言って弱みなんて見せたら、それで最後。舐められて、見下されて、オモチャにされるだけなのだ。
「そ、それじゃあ、全部、終わったら!」えりかは諦め悪く続けた。三夏は意外に思う。そこにはもう、周囲の流れに合わせて如才なく振る舞う、日常のえりかの面影はなかった。「全部終わったら、もう、いいですよね。みんなで仲良くトイレ、でいいですよね。わ、私、もう、夜の学校のトイレで一人でできる自信、ないんです」
「だーめ」悠莉は至極楽しげに言う。年下の後輩をいびるような、からかいの意図を多分に含んだ口調で続ける。「みんなー、特別ルールね。今夜は連れション禁止だから。終わっても、ちゃんと一人で行くんだからね。えりかちゃんも一人ね。どうしても無理なら、一人でびくびくしながら我慢し続けて、さっき自分で笑っていた子みたいに自分の設定した着信音で『びっくりおもらし』でもしたら? 最高にかっこ悪くてみっともない、十年語り継がれる演劇部の伝説になれるよお」
「ど、どうして、そういう意地悪な言い方……!」
「……悠莉、その辺にしときなよ」三夏は口を挟んだ。悠莉の不満げな目が、三夏に向けられる。その視線を受け止めて、三夏は負けじと見返す。悠莉に絡まれているえりかを助けたいわけではなかった。単純に保身のためだった。今ここで余計な特別ルールを増やされたら、三夏自身もわりを喰うことになる。「変な新ルール、勝手に作らないでもらえる? 悠莉がルールってわけでもないんだからさ」
「……あーあ」睨み合う姿勢は、長くは続かなかった。悠莉が早々と視線を逸らす。演技がかった仕草で肩をすくめてみせる。「ちぇー、つまんないなあ。せっかく面白かったのにー。三夏もさあ。いっつも硬いことばっか言わずに、たまには一緒に後輩いじりとかしようよ。絶対楽しいんだからさあ」
 悠莉の軽口に、当の『後輩いじり』の対象となっていたえりかが表情を硬くする。
「――これで四人。結構、進んできたね。あと二人?」三夏はどちらの肩も持たない。どちらの不満にも取り合わない。何が起きても自分の世界を崩さず、自分のペースで自分の口にしたいことだけを口にする。それがこの中学校における高坂三夏の『キャラクター』だった。「次は……」
「私の番、か」
 三夏の送った視線を受けて、琴美は覚悟を決めるように瞼を伏せた。ぴったりと揃えた膝の上には、固く握られた拳。その仕草が恐怖から来るものなのか、それとも生理的欲求から来るものなのか、三夏には判別がつかない。
「その前に」黙っていた湯田が口を開く。静かに押し殺した、だけど、どこか秘めた興奮を感じさせる声。「一応、休憩時間ですよね。トイレに行きたい人、いますか?」
 場にいる全員が、押し黙った。お互いに探るような目線を交わす。
 唯一、すでに一度トイレに立っている三夏にだけは、誰も視線を送っては来なかった。三夏は演劇部員の面々を観察する。『行きたい人』という括りで言えば、間違いなく全員が『行きたい』はずだった。でも、誰も手を挙げない。この場にいるほとんど全員が、明らかな怯えや戸惑いを表情に滲ませていた。それも当然だ、と三夏は思う。
 外ではしとしとと陰気な雨が降り続いている。踊り場の床はこの季節にしてはやけに冷たく、指で触れれば独特の湿り気を帯びている。天井の灯りは、依然、点灯していない。とうの昔に、点灯される時刻は過ぎているはずなのに――そのせいで、辺りは時が経過するごとに暗さを増す一方だった。先ほどまではこの踊り場からでも確認できた階段下の廊下も、密度を濃くした暗闇に遮られ、今やその様子を見通すことは難しくなっている。
 毎日通っている秋ヶ瀬中学校。その校舎内にあって、三夏は学校の『表の顔』とはかけ離れた、謂わば『裏の顔』を目の当たりにしているような気分でいた。
 昼間の学校には闇を払う陽光があって、施設内を照らす白々とした電灯の光もある。数多の言葉を交わしたことのない生徒達、数少ない親交のある生徒達、そして先生達がいる――無数の人間達が作る黒々とした影がそこかしこに落ちてはいても、それでも、多くの生きた人間の息吹がある。最低限の平穏と身の安全は、保たれている。決して安心はできないけれども、身の回りの警戒さえ怠らなければ特別な危険はない。秋ヶ瀬中学校は、三夏にとってそういう場所だった。しかし、今は違った。日中の学校とは異なり、敵となり得るものは人間だけではなかった。ここには人生で経験したことのない、どこに繋がっているのかもわからない、底知れない暗闇があった。いかにもおぞましいモノが潜んでいそうな、不気味に沈黙した、一種の異界が広がっていた。
 外見の不気味さだけには留まらない。現実に奇妙な現象が起き始めてさえいるこの状況下で、誰が安心して一人でトイレになんて行けるだろうか。少なくとも、三夏には今からトイレに向かうことなど、想像がつかなかった。トイレに行った亜由美はいまだ帰って来ていない。湯田の指摘した演劇『不浄奇談』との類似が的を射た仮説だとしたら、トイレに立ったが最後、もうここには帰って来られないかもしれない――。
 ぶるるっ、と三夏は身震いした。その、背筋から這い登ってくる嫌な感覚に、内心、戦慄を覚える。
 その時だった。出し抜けに、悠莉が立ち上がった。
 そして、わざとらしく嘆息しながら、つかつかと歩いて階段へと向かう。皆が目を疑う。三夏も疑った。まさか、と思う。
「はーあ、まったく。みんな、びびっちゃってしょうがないなあ」
 全員の視線を受け止めて、誇らしげに悠莉は笑う。へらへらと、いつも通りに。
「このままじゃ、どうせ誰も行けやしないんでしょ? しょうがないから、私がトイレに行ってきてあげる。ついでに、下の様子も見てきてあげる」
「ま、待って。でも」三夏は思わず口を開いた。こんなことを言うのは、自分の、高坂三夏のキャラには馴染まない。わかっていても、黙ってはいられなかった。「悠莉。本当に、大丈夫なの? 亜由美はまだ帰って来ないし、もし湯田の言う通り、劇と同じだったら……」
「私が帰って来られないかも、って?」はは、と悠莉が声を上げる。「あんたがそれを言う? 真っ先にトイレから無事に帰ってきたあんたが。三夏、4Fの端のトイレに行ったんでしょ? 行った時、なんともなかったんでしょ?」
「それは」三夏は言葉に詰まる。逡巡してから、言う。「もちろん、そう、だけど」
「だったら、大丈夫でしょ。困っちゃうよねー。みんな、フィクションと現実の区別もつかないお子ちゃまなんだからさあ」悠莉は自分の発言に自信を深めたのか、笑みを濃くする、「私がさ。証明してきてあげる。これは現実で、作り物の劇なんかとは全然違うんだってこと。『怖い話』なんて真顔でしてはいるけどさ。実際は、幽霊なんて、心霊現象なんて、この世にはそうそうないんだってこと」
 それだけ言い残して、悠莉は階段に足をかける。皆の視線を背に受けながら、そのまま階下へと降りていく。
 三夏は声をかけなければ、という義務感に駆られる。でも、なんと声をかけていいのか、三夏にはわからなかった。悠莉は振り返らない。悠然と歩を進めていく。
 その後ろ姿が暗闇の中に溶けて、見えなくなってしまっても、三夏は言うべきことを口に出せずにいた。複雑な心境で、悠莉の消えた暗闇にじっと視線を据える。足音は、まだ、聞こえる。悠莉の足音。しかし、足音は次第に遠ざかっていく。今なら間に合う。今なら、まだ――。
 悠莉の背中が暗闇に紛れて見えなくなってしまって、響いていた足音までもがついには聞こえなくなってしまった瞬間。三夏は不意に、取り返しのつかない罪を犯してしまったような想いに捉われた。どうしよう、と思った。
 ――どうしよう。言えなかった。止められなかった。もし、悠莉が帰って来なかったら。もし、大変なことになったら。全部、私の……。
 三夏は心の中で独白する。まさか、とは思う。しかし、不安だった。どうしても、嫌な予感がして抑えきれなかった。表には決して出せない弱音が、泣き言が、心の中で渦を巻く。
 ――で、でも、だって。そんなこと。今更、言えないよ。
 ここまで来てしまったら、もう、絶対に口に出せなくなってしまった秘密。それを、自分の中だけで独白する。

 ――『本当はトイレに行ってない』、なんて。言えるわけ、ないじゃない……。

 一つ目の、亜由美の話が終わった直後のこと。
 三夏は確かに生理的欲求と虚栄心に背中を押されて、トイレに行くと宣言した。事実、その場を立って、トイレに向かうには向かった。でも、階段を降りて、一人きりで誰もいない廊下に降り立ってしまった途端。
 突然、怖さが戻ってきた。意味深げに静まり返った廊下を見るだけで、全身の肌が粟立った。恐る恐る目的地に向かって廊下を進むそのうちに、亜由美の話の内容が脳裏に蘇ってきた。
 つい最近、学校のトイレで亡くなった同学年の子の話。トイレにいる葵ちゃん。もしも彼女に出会ったら、絶対に無視しなければいけない。もし無視できなければ、その子は――。
 一歩進むごとに、恐怖が膨らんでいく。纏わり付く恐怖に、どんどんと足取りが重くなる。情けないことに、怖がりの三夏はトイレで葵ちゃんと遭遇してしまうことを想像するだけで、おしっこをちびってしまいそうだった。
 そして、音一つない、異様な雰囲気に満ちたトイレの前に辿り着いた時。死霊が待ち受けているかもしれない、その曰く付きの物語の舞台へと踏み出していく気概は、もう、残ってはいなかった。階下の他のトイレに入ろうかと思ってはみたものの、無駄だった。一度挫けて逃げることを覚えてしまった臆病な心は、それがどのトイレであっても、決して首を縦には振らなかった。亜由美の話によると、この学校のトイレはどこのトイレであっても、葵ちゃんと遭遇する危険性をはらんでいるのだ。他の幽霊だって、いないとは限らない。入って用を足す勇気なんて、湧いてくるわけがなかった。
 三夏の身体は、トイレを目の前にして童女のように叫んでいた。トイレ行きたい、トイレ行きたい! おしっこしたいよお! はやくはやく、我慢できなくなっちゃう!
 三夏の心は、トイレを目の前にして童女のように震えていた。トイレやだ、トイレ怖い。怖い所なんて行きたくないよお。一人は心細いよお。早くみんなの所に戻ろうよお。
 尿意の波に追い立てられて逸る身体と、恐怖に囚われて後退りする心。その板挟みにあって、三夏はその場で立ち尽くすしかなかった。冷たい汗が、背を伝う。まるで、立ち止まる三夏を急き立てるように。
 しかし、そうしてじっとしている間にも、恐怖はどんどんと際限なく膨張していった。終いには、トイレ前の廊下に留まっていることさえ、怖くてたまらなくなった。もしも、葵ちゃんが自分の気配に気付いて、トイレの外に出てきてしまったら――。もしも、一人でいるところを、学校を徘徊する他の幽霊に見つかってしまったら――。
 尿意と恐怖で、恐怖が勝った。恐怖に追い立てられた三夏は下腹部の要求を無視して、トイレに背を向けた。来た道を逆に辿る。小走りだった。でも、走れば走るほど、心臓の鼓動が早く大きくなって。早く大きくなった鼓動のせいで余計に怖くなって。不安のあまり呼吸が乱れて。乱れた呼吸のせいで余計に怖くなって。もっともっと早く走らなければいけない強迫観念に駆られて。足音が大きくなればなるほど、自分の足音なのに、後ろから何かが追ってきているような気になってしまって。ただただ怖くて、怖くて、怖くて。
 最後にはほとんど全力疾走だった。気持ちばかりが先行して、脚が何度ももつれた。何度も危うく転んでしまいそうになった。そして、ある瞬間、何も障害物がない廊下で、ついに自分の足に足を引っ掛けられたような形になり、バランスが大きく崩れた。それでも、正体のわからない恐怖から逃げ出したい気持ちが勝って、自分の身を守るのが遅れた。結果、幼児がよくするように、前のめりにほとんど顔面から倒れ込むような形になった。びたーん、とうつ伏せの姿勢で全身を地面に叩きつけられる間抜けな音。顔面を強打する寸前、すんでの所で手を突いたものの――直後、あああああ、と三夏はなさけない声を上げた。もわわわ、と。転んだ衝撃で、パンツの中に温もりが生まれてしまっていた。幼児だけが味わうことが許される、どこか懐かしい、あの甘やかな感触。幽霊に怯えるあまり、一人で逃げて、一人で転んで、その衝撃で一人でおしっこをちびって――三夏は一人、顔を赤らめた。滑稽以外の何物でもなかった。中学二年生の三夏にとって、それはあまりにも屈辱的で、恥ずかしさに満ちた失敗体験だった。
 そして、三夏はみんなの前に戻ってきた。廊下でちびってしまった分を除いては、出発時に下腹部に抱えていた荷物を一滴たりとも下ろすことができないままに――。
 三夏は本当のところ、悠莉のことがそれほど好きではなかった。むしろ、いつも飄々としていて、得体の知れない子だと警戒していた。その上、弱みを見せたら付け込んでくる厄介な奴でもあると理解していた。しかし、だとしても、今は無事を祈らずにいられなかった。
 悠莉はきっと、最後まで、自分の演技に騙されてしまっていた。最後まで、無事にトイレに行って帰ってきた人間が、演劇部の仲間の中にいると信じ込んでいた。そこに安心材料を見出したからこそ、トイレへと向かったのだ。恐らくは安全なはずの、4F端のトイレへと。
 でも、その安心材料は、全て紛い物なのだった。三夏の虚栄心が作り出してしまった紛い物。三夏は思う。思わずにはいられない。自分が生み出してしまった嘘の安心材料で、もしも悠莉までもが姿を消してしまったら――。
 考えるだけで、ぞっとした。想像するだけで、責任の重大さに、出来事の恐ろしさに、おしっこをちびってしまいそうだった。でも、それも今更だった。実のところ、すでに三夏の下着はじっとりと湿っていて、ひどく冷え切っていた。
 廊下で転んだ時に加え、階下のけたたましい音、こっくりさん、奇怪な亜由美の声、轟音と共に叩かれる屋上の扉。どの際も、必死に我慢してはいた。それでも、恐ろしくて恐ろしくてたまらず、事あるごとに三夏は人知れず下着の中にちびってしまっていた。悠莉が怖くないと不満を垂れていたえりかの話ですら、保健室にいたという影がまさに真後ろにでもいるような錯覚に陥って寒気がした瞬間、しょろろ、と下着の中を新たに温かくしてしまっていた。
 三夏はもう動けなかったし、立ち上がることもできなかった。何故ならば、丈の長い制服のスカートで隠した三夏のお尻の下には、すでに小さな小さな水たまりができてしまっているのだった。何度も何度も性懲りもなく、小規模な失敗を繰り返してしまった末にできた、誰にも見せられないおしっこちびりの水たまりだった。
 悠莉とえりかの口論に口を挟んだ際にも、トイレに行こうとする悠莉を止めた際にも、三夏は自分のおしっこの水たまりにお尻を浸けたままだった。なるべく平生の態度を崩さぬよう苦心してはいたものの、自分のおしっこの冷たさをお尻に感じながら、いつも通りの自分を演じるのはひどく骨が折れた。自分の情けなさに、涙が出そうになった。
 しかも、それだけの量を溢してしまっていても、なお、溜まったものはほとんど減ってはいない。一向に我慢を楽にはしてくれない。それどころか、時が経つにつれて、苦しさは増すばかりだった。
 三夏の身体は、トイレの前にいたあの時よりも、ずっと大きな声で叫んでいる。追い詰められた童女のように、声高に、早口で叫んでいる。トイレトイレトイレおしっこおしっこおしっこはやくはやくはやくもれちゃうもれちゃうもれちゃう――。
 だけれども、三夏の心も、トイレの前にいたあの時よりも、ずっと大きな声で泣きじゃくっていた。もうやだもうやだもうやだかえりたいかえりたいかえりたいパパママたすけてこわいよお――。
 頬を、背筋を、汗が伝う。べっとりした、不快な脂汗。
 どんなに行きたくても、行けない。どんなに逃げたくても、もう逃げられない。一人立ち上がって注目を浴びてしまったら、そこでお終いだった。お尻の下の水たまりとお尻から垂れる液体で、おしっこをちびっていたのがバレてしまう。仮にこの瞬間だけ逃げ切れたとしても、今もなお動画は撮影され続けている。後から確認すれば、きっと、自分がちびってしまっていたことが露見してしまうに違いなかった。だから、チャンスは一度きり。『不浄奇談』が終わって、動画撮影も終わって、みんなが一斉に立ち上がる時。その時なら、もっと暗くなっている。みんなが立ち上がる音に紛れられれば、お尻から垂れる液体の音も気付かれない。きっと、バレずに済ませられる。パンツは濡れてしまっていても、どうにかスカートさえ濡らさずに済めば、きっと大丈夫――。辛く苦しい我慢と、周囲を取り巻く状況への恐れに、三夏の顔色は紙のように白くなっていた。それでも、『トイレ』を声高に叫ぶ下腹部を抱えて、じっと我慢を続ける。続けざるをえない。
 悠莉のいなくなった踊り場は、しん、と静まり返っている。誰も何も言わなかった。静寂の中、休憩時間はゆっくりと経過していく。そうして、約束の時間がいよいよやってきた時――。
「時間、だけど」琴美がぽつり、呟いた。「帰って、来ないね……」
 悠莉の姿は、まだ、そこにはないままだった。

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