神原だいず / 豆腐屋 2024/07/02 19:01

【再掲 / 単発】手フェチの女と舐め回されたい男

 視界の端に、神経質そうに浮き出た人差し指の第一関節が見えた瞬間、私は学生生活の終焉を覚悟した。
 目の前に突然、長年探し求めた完璧な手が現れた。
 心臓から指先、耳、足先にまで一気に熱い血液がぎゅわりと張りめぐらされていく。

「桐坂恵麻さん」
 絶対に顔を上げてはいけない。
 いいや、上げられそうにない。
 冷や汗と重力と降り注いでくる低い声が、私の首根っこを押さえつけている。
 私はシャーペンを強く握り直した。ぬるつく汗が手のひらの皺からじゅわと溢れる。

「何?」
 ついでに言うなら、貴方は誰なの? 
 目の前に広げたノートに、意味もなく蛍光ペンで線を引いていく。
 大して重要でもない項目が、さも重要であるかのように黄色く派手になっていく。

「今日、俺たち日直なんだけどさ」
 声が震えそうなので二度軽く頭を上下に動かして、貴方の話を聞いていると合図を送る。

「日誌は俺が書くから、黒板消しお願いしてもいい?」
 もう一度頷く。黒板消しくらい、いくらでもやりましょう。
 すると視界の中で掌が消えた。
 会話が終わった。
 肩からふわりと力が抜け、想像以上に体に力が入っていたことに気づく。

 次の瞬間、前方から微かに風が吹いて、手の持ち主の顔が目の前いっぱいに広がった。
 困ったように眉を八の字にして、口元に引きつった笑みを浮かべている。
 重たそうな黒色の前髪が眼鏡の淵で揺れた。
 すらりと瞼に入った二重の切れ込みが上下にぱちぱち。その度に、焦げ茶の目が見え隠れ。
 とんでもなく整っているわけではない。
 でも、好みなのだ。
 ドストライク好み。

「お、怒ってる?」
「ぁあぐ、あちがっ」
 人語とは思えない謎の言葉を口にし、慌てて顔の前で手を振る。
 すると眼鏡の奥の目が、にわかに細くなった。
 彼が目の前で肩を震わせて笑っている。

「あ、アグー?」
「いや、違う違う違う」
「沖縄のあの…豚のやつ?」
「違う違う違う! な、何を笑ってるの、ねえ!」
 私は頭を抱えてしまった。
 目の前の男はというと、こらえきれずにお腹を抱えて笑い始めた。

「絶対、言ってたよう、アグーって…言ってたもんっ、ふ、へ、あはは」
「言ってないよう! そっちが急に覗き込んでくるから、びっくりしちゃっただけだよ! それまで、骨の浮き出方、指の細さ、長さ、何から何まで完璧な手しか見えてなかっ」
「手?」
「ぐぅあ!」
 私は、焦って口を手のひらで覆った。

 いけないいけないいけない。
 目の前の男、完全に首をひねってきょとんとした顔をしている。
 そりゃ、そうだよね! 急に「完璧な手」とか言われたら、びっくりするもんね! 
 雄たけびみたいな声を上げてしまった恥ずかしさと、手フェチがバレそうになっているこの危機的状況。
 顔面が赤くなったり青ざめたりしているのが、血流の満ち引きでなんとなくわかる。

「え、手? ど、ういうこと……?」

 終わりだ、新学期。
 病的な手フェチが、バレてしまった。
 「アグー」の段階なら、まだ言動がちょっとおかしい面白いクラスメイトで済んだのに。
 あからさまに声色に困惑がにじみ出ている…。

 私は、ついにやけくそになった。
 親の仇と言わんばかりの強さで、彼の手首を掴んだ。
 手首の細さも程よく太すぎず、細すぎず。
 そのちょうど良さに、何故か悔しさすらこみあげて来る。

「こ、この事を言ったら……」
 固唾を飲む音がこちらまで聞こえてきそうな緊張感。
 朝を迎えた教室には、まだ私たちしかいない。
 冷たくどこまでもまっすぐな朝日が、窓の外から彼の完璧な手の上に平行四辺形を描く。

「言ったら……?」
「あなた様の、手、隅から隅まで、舐め回させてやがりますよ」
 終わりましたわ。
 読者の皆様、ここまで気色悪い手フェチの新生活終焉までの過程を読んでくださってありがとう。
 終わりました。
 私の学生生活もーう、全て終わりです。日本語すらおかしいし。

 諦めがつくと、身体に起きていた異常が全て収まり、体内と心が凪いでくる。
「や、あう……ぐ」
 完全に引かれた。
 呻くような声。
 手を振り払われ、今すぐに不審者がいますと職員室までダッシュされてしまう。

 ああ、お父さんお母さん、わたくし桐坂恵麻は中学3年間塾に通わせてもらって第一志望校に合格したにも関わらず、たった3日で不登校になりそうです。
 私はなんて親不孝なんでしょう。
 合格した日には、パソコンの前で一緒に抱き合って喜んでくれましたね。
 お父さんなんか、涙浮かべちゃったりして。
 一緒に食べたお寿司、人生で一番美味しかった。
 だけど、簡単に壊れます。幸せなんて、簡単にね、壊れるんですよ。

「お、お願いします……」
 ほら、気持ち悪いって言われてね、壊れるんです。不登校まっしぐら……

「はああああああ!?」

 あまりの衝撃で、隣の教室どころか、2階全ての教室に響くんじゃないかってくらいに大声を出してしまった。
 聞き間違いではないだろうか、脳内で先ほどの音声を繰り返し再生する。

「o, onegai simasu」「o, onegai simasu」「o, onegai simasu」

 どう考えても言っている。
 「お願いします」と言っている。
 私は目の前の男を凝視した。
 見た目はいかにも真面目そうだ。THE 常識人。誰もがそう答えるだろう。
 それが、手フェチのとんでもない願望に対して「お願いします」と二つ返事?

「あ、あの……脅してるみたいな口調になっちゃったけど、別に逃げてくれていいんだよ。気持ち悪いでしょ、私はそもそも君と話たことないし、君の名前も知らないし。舐めてみたくないって言ったら嘘になるけど、今すぐ私のヤバさを言いふらしたっていいのよ。立場は圧倒的に君の方が上だよ。無理しないで」

 しかし、目の前の男はモジモジと指先をこねくりまわし、こちらを見つめた。
 心なしか、頬は赤く、目は潤んでいるようにも見える。
「無理はしてないよ……。その、俺、桐坂さんに、その、すごく興味があって。新学期で、同じクラスになってから目が離せないというか……。桐坂さん、なんかすごくクールで、いつもどこ見てるんだろうって、何考えてるんだろうって、俺のほう見てくれないかなあって、思うから」

 おおむねクラスメイトの手ばっかり見てたし、誰が優勝してるかそれしか考えてなかったが、外野から見たらクールに見えたらしい。

 目の前の男は右の袖をまくり、肘までを私の目の前に晒した。
 私は生唾を飲み込んだ。
 浮いた血管、引き締まって白くすらりと伸びた綺麗な腕。
 体毛も同い年の男子からすればかなり薄いだろうか。
 これまたなんて完璧な……。

「見て、もっと。俺の身体、見て……」
 私は雲行きが怪しくなってきたことを悟り始めていた。
 明らかに男の息が荒くなってきたのだ。
 もしかして、こいつ私よりヤバイ奴なんじゃないの……? 
 そんな疑惑が頭の中を埋め尽くし始める。

 しかし、完璧な手、腕、さらにはドストライクの顔面には抗えそうにない。
 私は男の手を取った。男が、ひゅうっと息を飲み込んだのが聞こえる。
「名前は?」
「え」
「あなたの、名前」
 私は男の手に顔を近づけながら思った。
 私はこいつの名前を知らなかったけれど、こいつは私の名前をフルネームで知っていたな、と。

「火ノ川……」
 口を開けて、舌を伸ばした。あと3mmで、届く。その白い肌に。
「火ノ川、潤、ッ」
 薬指を根元から爪先に向かって、ずるりと舐め上げる。

 くすぐったさに火ノ川が手を引こうとする。
 私は、彼の手を思いっきり引っ張った。
「懐に飛び込んできといて、一発で逃げようとすんじゃないわよ」
 中指と薬指の間、人類が水から上がってきた生物であることを如実に語るその部位に舌を差し込む。
 中指と薬指をきゅっとまとめて拘束し、舌を前後に動かすと、たまらず火ノ川はうめき声をあげた。

「う、う、それ……やらしい」
「セックスみたいで?」
「んぅうう……」
 こいつも新手の変態だということはわかったので、もう遠慮することもオブラートに包むこともやめることにした。

「する? セックス」
 冗談交じりでそう言うと、火ノ川は顔をしかめた。
「あうぐうう、し、しな……うぅん」
「アグー?」
「い、言ってない! そっちが急にセッ……変なこと言うからっ、あっ」
 火ノ川の弁明も聞かずに、私は口の中に彼の薬指を丸ごと咥え込んだ。
 わざとじゅぐりと音を立てて、舌の上で薬指を舐め回す。
 彼の身体がびくりと震えているのを見上げながら、内心彼を見下ろしているような気分だった。

 手フェチがバレた時はどうしようかと思ったが、お互い変態どうしだとわかってしまえば、我々は共犯関係だし、晒し合いで相手の度量を見極め合うのだ。
 とはいえ、さすがに誰かが来てしまうかもしれない。
 二人揃ってクラスから村八分にされるのは私も望まない。口から指を離そうとした時だった。

「か、んで……」
「んむ?」
 見上げると、どろどろに色欲が溶けた視線が、こちらをじっと見つめている。

「くすりゆび、結婚指輪、みたいでしょ」

 一気に全身が熱くなる。
 私は勢いに任せて、噛み切るほどの勢いで彼の薬指に歯型を残した。
「いぎっ!」
「……変態。結婚するわけないでしょ」
 ありえない、結婚なんて。私は吐き捨てるように言った。

 火ノ川は、満足そうに自分の薬指をさすりながら笑いかけた。
「お互い様でしょ、変態。絶対結婚するよ、俺たち」
 悔しいことに、こいつの変態さ加減に全く不快感を覚えていない自分がいる。

「やかましい」
「あてっ」
 軽く彼の頭をはたいた。

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