【再掲 / 玲と悠馬⑩】victim
「いたっ」
ホテルの一室。
扉を閉めるなり悠馬が抱き着いてきて、あたしはしたたかに後頭部をぶつけた。
絶対、明日あたりたんこぶになる気がする。
涙目になりながら悠馬を睨みつけたが、彼の暴挙は止まらない。
羽織っていた上着を床に乱雑に脱ぎ捨て、あたしの頬に何度もキスを落とす。
「ゆ、悠馬、せめてベッドに…んぐっ」
抗議は、彼の舌の間に滑り落ちていった。
唾液の泡立つ音、熱くとろけてしまうかのような舌の感触が一気に襲い来る。握った手は興奮からだろうか、震えている。
やられてばっかりも癪なので、彼の腰をぐいと引き寄せて彼の口内を貪った。
荒い吐息の隙間で、彼の上ずった喘ぎ声が聞こえる。
「あう、うっ、ぅん」
もっとして、と強請るように舌を差し出すので、きつく吸い上げると悠馬の身体から力が抜けていく。
視界の端で、彼の膝ががくつき始めているのが見えた。
ここまで快感を積極的に受け止めようとしている悠馬を見るのは初めてだ。
いつもなら理性が働くのか、押し返したり、逃げるように身体を引いたりするのだが、今日は全くその素振りが無い。
彼の股の間に膝を差し入れて、肌に沿わせる。
キスをしながら膝を前後に揺らし始めると、その微弱な刺激すら気持ちいいのか、身体をびくりと震わせた。
あたしは、少しずつ彼の身体を愛撫し始める。
背中や、首筋、胸板、脇腹に手を這わせる。時折、耳や乳首をきゅっとつまむと、彼は可愛らしい声を出した。
そのうちに、彼の身体が沈み込んだ。膝が笑っていて、もう踏ん張れそうにないようだ。
慌てて支えようとするが、いかんせん体重差があるうえに、お互いがお互いに身体を預けていたので、二人してホテルの床に崩れ落ちる。
図らずも彼に覆いかぶさるような形になった。
しばらく二人とも、体勢を変えずに見つめ合ったまま、ぜえぜえと荒い息を整えるかのように黙っていた。
彼のはだけたシャツから覗く鎖骨の隆起をそっと指でなぞる。震える吐息が、彼の口から零れ落ちた。
白くて綺麗な肌だ。
今からの数時間で、彼の身体にいくつ赤が散らされるのだろう。
そんな事をぼんやりと考えていると、悠馬が口を開いた。
部屋は静かだ。彼が言葉を発しようと吸い込んだ息の音までも聞こえるくらいに。
「…どうしよう」
その声は、自分の身に何が起きたのかさっぱりわからない混乱とともに吐き出された。
彼は喉の奥でひゅっと息を飲み、顔を歪めた。
「自分がすごくはしたない事をしてるのは、わかってるのに」
歪んだ顔に、赤みが差していく。
彼はいつも、無駄な抵抗とわかっているくせに、最後の最後まで理性と恥で、欲を制しようとする。
だけど、この日限りは違った。
部屋に入った時点から、否、もっと前の段階から、彼は抵抗していなかった。
飲み込まれてしまいそうなほどに深いその欲求は、彼の理性を完全に制御不能にしていた。
「あなたの餌食になりたい」
自分が無意識に生唾を飲み込んだのがわかった。それと同時に彼の喉仏も、上下にごっぐりと生き物のように動いた。
「もっと…!」
上ずったその声が、彼の理性の断末魔だったように思う。
それは、ホテルの一室に飛び込む数時間前。
ため息一度。テーブルの上のお菓子に目をやって、もう一つため息。
三時を指す時計を見てさらにもう一回ため息。
眉間を指先でこりこりとかいて、駄目押しにもう一度ため息。
「みーちゃん、今日すっごくため息つくねぇ、どうしたの」
映画研究会(とは名ばかりの菓子パサークル)の同期、小野寺くるみが私の顔を覗き込んできた。
いつもにこにこ笑顔が絶えない、いかにも「女の子」といった可愛らしい彼女の、茶色くて大きな目と視線が合う。
映画研究会に用意された小さな小さな部室には、彼女とあたし、そしてもう一人、国川香夏子しかいない。
同期はこの3人だけ。
一応、体面上は月2回の定例会なのだが、机の上にお菓子を大量に広げ、今日も今日とてどうでもいい事ばかりをベラベラとしゃべっている。
「何よ何よ?またあの可愛い彼氏の事で悩んでんの?」
するめいかにかぶりつきながら、香夏子が嬉々として身を乗り出してきた。
目は新しいおもちゃを見つけたかのように、らんらんと輝いている。
「…香夏子、めちゃくちゃ面白がってるでしょ」
「当たり前よ!人の色恋沙汰が面白くないわけないでしょうよ!」
いっそ清々しいほどに即答されてしまった。
香夏子のこういう裏表なくさっぱりしたところ、実は嫌いではない。
「まあまあ、一回話してみたら、すっきりするかもしれないしさ。何があったかくらいは、話してみなよ」
「まあ、それはそうかもね。じゃあ、話すけどさ…」
悠馬って基本的に、いかがわしいビデオとか漫画とか、あと、雑誌? そういうの、あんまりみない人なのね。
ほら、何度もお話してる通り、彼は生粋の恥ずかしがり屋だから。
しかも、ビデオの中で女の人がされてる事を自分がされてるわけだから、思い出して余計に見れないのよ。
ところがね、先週にあたしが悠馬の家に泊まりに行った時に、偶然見つけちゃったのね。
ベッドの下にいかがわしいビデオが隠してあるのを。
しかも、ついでにその横にその、あー、えーと
「いかがわしいオモチャ?」
「そう。ピンク色で震える系のオモチャ。なんでくるちゃん、知ってるの…」
「私も彼氏に使った事あるからねぇ」
そっ、その話めちゃくちゃに気になるから、またあとで聞かせてね。
そう、そのいかがわしいオモチャも一緒に隠してあったわけ。
その場で問い詰めてみてもよかったんだけど、何だか見ちゃいけないもの見た気がして、あたし、慌ててそれをもう一回元あった場所に戻したんだよね。
一瞬見ただけだから内容がけっこう朧気なんだけど、たぶんローションプレイだったのよ、内容が。
身体にオイルだかローションだか塗りたくって、ぬるぬるにするやつね。
「それは私、彼氏とやった事ある!」
かっ、香夏子まで…あとで詳しく聞くからね!
でね、問題なのは、今までいかがわしいものを見てなかった悠馬が、急に見始めたって事なのよ。
しかも、オモチャまで買ってるの。これってさ、これって、つまり。
「マンネリになってるのかもねぇ…」
「やっぱりそうだよね」
私はもう一度ため息をついた。
「結構いろいろやってるつもりだったんだけどなぁ。筆責めとか、目隠しとか、手錠はめるとか…」
「まあ、確かに色々やってるけど、あんたが想像してる以上に彼氏の性欲が強かったのよ。それに、いつもどっちかの部屋でやるんでしょ、そういう事」
「マンションの部屋だと制約が多いからねぇ。できる事、限られちゃうかも」
香夏子は新しいポテトチップスの袋を開けながら、こちらに向かってニヤニヤと笑った。
「たまにはラブホでも行けばいいじゃん」
「そうだよ。お家じゃできない事、いっぱいできるからねぇ」
くるちゃんも、うんうんと頷いている。
今までどうしてこの二人は、あたしと悠馬の話を引く事もなく聞いてくれたのか不思議だった。
しかし、さっきからの言動といい、彼女たちは下手するとあたしより経験があるのではないだろうか…。
くるちゃんと香夏子の彼氏たちは、一体どれほど喘がされているのだろうか…。
そんな事を考えながら、震える手でポテトチップスを一枚取る。
「そ、それでやっぱり解決策としては…」
「ラブホ行きな」
「ラブホだねぇ」
「それ以外での解決策は…」
二人は笑顔で言い切った。
「ない」
凍り付く私をよそに、彼女たちはスマホを取り出し、ここのラブホが安いだの、ここならビジネスホテルっぽいから見分けつかないだの、ラブホ談義に話を咲かせ始めた。
一体、何なのだ。このカオスな空間は。
現役女子大生が、嬉々としてラブホを語るこの空間は一体なんだ。菓子パの話題にしちゃ、スパイスが効きすぎちゃいないか。
こうして私のため息が、再び映画研究会の部室に吐き出されたのだった。
夕方五時。菓子パ(定例会)を終え、私は鬱々とした気分で自宅へと向かった。
夕焼けの中、カラスがかあかあ鳴いている。
というか、もはや「アホー」とののしられている気分である。
ああ、家へと向かう足取りが重たくて仕方がない。
一体どうすれば…。どういう伝え方をすれば、不自然じゃないだろうか…。
いや、いっそ不自然でもなんでもいいから、彼が欲求不満になっている事には微塵も気づいていませんよ、という雰囲気を醸し出さなくてはいけない。
信号を待っている間、腕を組んで考え込む。
あの生粋の恥ずかしがり屋が、自身の欲求不満を気づかれたと知ったら、たぶん3日くらい布団から出てきてくれないに違いない。
かと言って「欲求不満です」なんて、馬鹿正直に言ってくれる事も期待できない。
確かに、割れたマグカップを隠したあの事件から、彼は自分がしてほしい事を少しずつ口に出せるようにはなってきた。
とはいえ、まだまだ素直に甘えてくれない事も多い。
信号が青色に変わった。
人と車の流れが入れ替わり、横断歩道を足早に駆けていくサラリーマンたちに押されるように、私も歩き始めた。
歩きながらさらに考える。
やはり、ここはひとつ私が「欲求不満です」と宣言し、(形だけ)嫌がる悠馬を無理やりにでも連れていく、という流れが一番誰も傷つかなくて済む気がする。
私自身、ラブホに興味がなかったわけではない。
(できたら初回は、くるちゃんと香夏子と、ラブホ女子会とかそういう形で行きたかったけれど…)
悠馬も悠馬で、私に無理やり連れていかれたんだ、という言い訳ができるわけだし。
しかし、私の目論見は二秒後にあっさりと崩れ去った。
不意に取り出したスマホに、何件もの着信履歴が表示されていたのだ。
信号でうんうん考え込んでいる間に、悠馬から着信があったらしい。
しかし、こんなに何度も繰り返し電話をしてくるなんて事は、今まで一度もなかった。
とっさに嫌な予感が頭をかすめる。悠馬の身に何かあったのかもしれない。
あたしは慌てて折り返し電話をかけた。
もし、急に体調が悪くなったとしたら、出られるだろうか。コール音がいやに耳障りだ。胸騒ぎがする。
お願いだ、せめて電話に出て…。
スマホを握りしめた次の瞬間だった。ピッ、と軽やかな音がして、電話がつながった。
「悠馬?どうしたの?なんかあった?」
『玲…お願い、早く、来てほしい』
明らかに声がおかしい。切羽詰まっていて苦しそうだ。息も荒い。
「何があったの?どこか痛む?苦しいの?」
『違う、頼む、早く』
さっぱり状況がわからない。
だけど、「違う」と言っているから、少なくとも病気や怪我で苦しんでいるというわけではなさそうだ。
「とりあえず悠馬の家に今すぐ行くから!それまで待てる?」
『待てる。でも、早く来て、おねがい』
電話を切り、悠馬の家へ走り始めた。
自分の息遣いが、ぜえぜえ、ひゅうひゅう、うっとうしくてかなわない。
雑音を振り払うかのように頭を振り、足を進めた。
五分後、あたしは彼のマンションの部屋の前に立っていた。
「悠馬!悠馬!」
彼の部屋の扉を何度もガンガンと叩くと、しばらくして鍵が開く音がした。中からドアが開く。
悠馬が顔をのぞかせたかと思うと、急にすごい力で部屋の中に引きずり込まれた。
背後でドアが大きな音を立てて閉まるが、あたしは身動きを取る事ができなかった。
彼があたしに思いっきり抱き着いてきていたからである。
「何?何、どうしたの、悠馬」
明らかに様子がおかしい。
抱きしめ返した瞬間、悠馬の身体がじっとりと熱を帯びている事に気づく。だけど、風邪を引いて熱が出ているわけではない事は確かだ。
というか、これ、もしかして…。
「玲、どうしよう、からだ、変だ」
目にいっぱい涙をためて、頬を真っ赤に染めた悠馬があたしに縋り付いてくる。
「どんな感じに変か、言えそう?」
「う、ずくずく、する。身体、熱い」
いや、まさかな…。まさか、そんな事ないよな…と思いつつ、あたしは質問を続けた。
「あついだけ?」
「え」
「熱くて、身体ずくずくして、他に何かない?」
その質問を聞いた瞬間、悠馬が明らかに動揺し始めたのがわかった。
言いたい事があるのに、なんだか言いづらそうにしている。
あたしの中の疑念が、だんだん確信に変わり始めた。
「わかった。質問を変えるわ。何か、得体のしれないもの飲んだりしなかった?」
「飲んだ…」
「誰かからもらったの、それ」
「あの、映画の、玲の、同期のひと…サークル棟で会ったときに…」
あたしは頭を抱えた。やりやがった、あの二人…。
スマホを取り出してすぐさま電話をかける。
相手は2コールで出た。
『みーちゃん、彼氏さん、どーお?』
「どうもこうも。ばっちり仕上がってるわよ。あんたら何飲ませたの」
『なんかねぇ、香夏子ちゃんがこの前自分の彼氏さんに飲ませたヤバめのお薬だよ。ねぇ?』
「香夏子いるの?」
『代わろうかぁ?』
電話の向こうでくぐもったしゃべり声が聞こえて、すぐさま香夏子の明るすぎる声が耳に飛び込んできた。
『いや、定例会の途中で席外した時に、彼氏さんとばったり会ったから、渡したのよ。せっかくだから楽しんでね』
あたしは電話を切った。
これは怒るべきなのか、感謝するべきなのか。頭が痛くなってきた。
しかし、どちらにせよ悠馬が苦しそうなのは、変わらない。どうにかしてあげないといけない。
あたしも、こんな状態の悠馬を見続けてたら、我慢できなくなってくる。
「玲…?」
「ラブホテル行こうか、悠馬」
これが、あいつらのやり方か…と、どこぞのお笑い芸人のような事を思いながら、あたしは悠馬をラブホテルへと連れていく事にした。
互いの利害が完全に一致してしまったのだ。仕方ない。
とりあえず、あの二人はあとでシメる。
かくして我々は、まんまと悪魔二人の策略によりラブホテルの一室へ飛び込んだ。
電話した直後、ご丁寧に彼女たちはおすすめラブホテルのHPリンクを送り付けてきていた。
とりあえず、あの二人は絶対に後でシメる。絶対だ。
さすがに床で事を進めるわけにもいかないし、悠馬は薬のせいでひどく汗をかいていたので、シャワー室に無理やり連れ込む事にした。
「やだ、もう焦らさないで、頼むから」
悠馬はもうもどかしいのか、小さい子のようにぐずり始めた。
仕方がないので、彼の服を脱がせていく。
上着をドアの近くに脱ぎ捨てたままだった気がするが、もういい。あとで回収しよう。
シャツのボタンを一つずつ外して、肩からするりと剥ぎ取る。
衣擦れの音と、肌に触れる度に悠馬が漏らすうめき声が、脱衣所を満たしていた。
あたしまで媚薬を飲んだかのような気分になってきた。
ベルトを外し、ジーンズを下ろそうとした時。悠馬があたしの手を掴んだ。
「下着は、自分でする…」
「何を今更」
「いい。いいから!嫌だ!」
あまりにも必死なのが少し面白くなってきたので、悠馬の手を振り払って、そのままジーンズを下ろした。
「うわ、すご…」
下着は先走りで濡れそぼっていた。
すらりと伸びる白い太ももに伝い落ちる愛液が、脱衣所のライトを反射してなまめかしく光っている。
あたしは、その太ももにそっと指を這わせた。
「見るな、見ないで、あ」
「みっともないくらいに濡れてるの、見られたくなかったのね」
すぐに脱がしてしまうのは、もったいない。
下着の端に指を差し入れ、下着のラインをなぞるようにして手を動かした。もう片方の手で、太ももを撫ぜ続ける。
緩やかな刺激に合わせて悠馬の身体が反応する。
あたしは、それを見ながら自然と自分の口角が上がっていくのを感じた。
「だから…焦らすな、って…ぅあ」
「嫌。焦らされてる時の君の顔が一番好きなのに」
そう、その切なげに寄せられた細くて綺麗な形の眉、色気を滴らせた吐息をこぼすために半開きになった口、触られている部分を凝視した後に恥ずかしくなってきて不意に逸らした茶色の瞳。全部が好き。
「辛いでしょ。身体が疼いて、熱くて、触ってほしくて、たまんないんでしょ」
悠馬はうなずいた。あたしは悠馬の耳元に口を寄せる。
「あたしだって、必死で我慢してるよ」
彼が息を飲んだ音が微かに聞こえる。耳を舌先でちろちろと刺激すると、悠馬は身をよじらせた。
最近分かった事だが、彼は乳首の次か同じくらいに耳が弱い。
軽く舐めただけで、彼の口からは熱い吐息と甘ったるい声が零れ落ちてしまう。
「ぅあ、あう、うっ…ぅ、や、も、ああっ」
可愛い。こんなに可愛い反応されたら、もっと虐めたくなってしまう。
あたしは、シャワールームの扉を開けて、悠馬と中に入った。
ラブホテルのシャワールームと言えば、ベッドの方からシャワールームの中が透けて見えるイメージを抱いていたが、ここはどうやらそうではないらしい。
見る限りは普通のお風呂だ。
だけど、ラブホテルの中、というだけで何だかいかがわしい雰囲気が増してしまう。
「そういえば、悠馬とお風呂一緒に入るの初めてかもしれない」
「え、あ、そうか…」
「あれ、入ったっけ。あたしが忘れてるだけかな」
「いや、お泊りする度に脱がされてるから、間違えて覚えてたみたい…」
その節は大変ご迷惑をおかけしております。
二人ともざっとシャワーを浴びた後、あたしはボディーソープを手に取り、お湯に溶かして泡立てた。シャボンの香りがふわりと漂っていい気持ちだ。
あたしは悠馬の後ろに立って、「右手伸ばして」と言った。
悠馬は素直に右手を伸ばす。
二の腕に泡を置いて、すうーっ、と手首の先めがけて伸ばしていく。そしたら手で作った輪っかで手首をぐるりと一周して、もう一度二の腕に向かって泡を滑らせた。
腋まで来たら、そのまま手を脇腹に沿わせていく。
「んっ…」
「くすぐったい?」
悠馬はこくこくと頷く。
可愛いので、そのまま脇腹を何度も往復して虐めてみると、悠馬は体をひくつかせた。
あたしの手から悠馬の体がすり抜けていく。
「こら。逃げちゃだめ」
あたしは、慌てて彼の身体を引き留めるように抱きしめた。
彼が息を飲んだのがわかった。
泡でまみれた手を彼の胸板の上で滑らせると、ゆっくりと弓のようにしなり始めて快感を逃そうとする身体。
あたしはつんと上を向いた二つの突起の周りをやわやわと撫ぜ始めた。
「あ、あ、んっ、んぅ」
焦らすようにくるくると乳首の周りを触り続ける。
欲しがっているのは、もう身体のびくつき方からしてわかっているけど、強請るまでは永遠に焦らし続けてやろう。
そう思った矢先、意外にも早く悠馬は首を振ってねだりはじめた。
「じ、じらさないで。も、つらい。きもちいの、ほしい…っ」
「気持ちいの欲しいの? どこをどうしてほしいの?」
質問する間も手は止めない。一番悠馬が触ってほしいところには触れないまま、その周りをじわじわと焦らしていく。
かくついた細い腰が前後に揺れて、彼の身体は欲しい欲しいと泣き叫んでいるけれど、言わない限りはしてあげない。
「ち、くび…」
「聞こえないよ」自分でも思っている以上に冷たい声が出た。
「ちくび、かりかり、し、して…っ」
「お願いする時は、なんて言うの?」
「ちくび、かりかりして、くださ、い、あ、あぁ、っあ」
「かりかりするだけでいいんだ」
その程度じゃすまないって、自分でもなんとなくわかっているくせに。
「ふうう、ゆびで、はじいて…」
「ほかには?」
「きゅうって、つまんでほしい…」
「それだけ?」
悠馬はゆっくりと首だけを動かしてこちらを見た。
睫毛を震わせ、眼尻にきらきらした涙の粒をいっぱい溜め込んで、羞恥と欲望の間から必死で手を伸ばしてくる。
「…あぅ、な、なめて…っ、かんで、も、いっぱい、いじめて…」
「いい子。よく言えたね。舐めるのと噛むのは、ベッドでいっぱいやってあげる」
あたしは、胸の奥がきゅうと締め付けられるような気分になった。
もうちょっと意地悪してやろうと思ったのに。そんな切実な顔で見られたら、どうしようもないじゃないか。
爪を立てて乳首を引っ掻く。
暖かいシャワールームの中で、血液の巡りが良くなったのかほんのりと紅に染まる白い肌。
そこにぽつぽつと浮き上がる小さな二つの突起を爪で引っ掻く。
彼の理性が、まるでスクラッチのようにあたしの爪先にはがされていく。
媚薬を飲んだのと、長い間焦らされ続けたせいで、悠馬はもう声を抑えようともしなかった。というか、できなかったの方が近い気がする。
彼は、襲い掛かって来る快感を、もう抵抗もせずに受け入れていた。
「ぅううー、う、あ、ぁあぁ、あー…あ、ぁああ…」
激しくキスをした後、口端から自然と唾液が零れ落ちていくように、彼の口端からは絶えず喘ぎ声が零れ続けていた。
あたしが話しかけても、「あぁ」とか「ぅあ」とか、言葉で答えてくれない。
指で乳首を弾かれるのに弱いらしく、人差し指で両方の乳首を弾き続けると、まるで笑い声かのような喘ぎ声を吐く。
「あっぁあ、あは、あ、あぁはあぁ、へ、あ、う、んんぅ」
もしかして、これって俗に言う「アヘってる」状態なのだろうか。
確かに彼は理性をぶっ飛ばす。
それでも最後までなんとか会話ができるものなのだが、今はもう会話すらできそうにない。
「悠馬、気持ちいい?」
「んぅ、えへ、あ、は、へ、ぁああううう…っ」
ダメだ。これだもんな。あたしは彼の顔を後ろから覗き込んだ。
彼の目は虚ろで、口元にひくついた笑みを浮かべていた。
あたしは手を止めた。
彼の身体から泡を洗い流し、シャワールームから出る。
ふらつく彼の身体をろくに拭く事もできないままベッドルームに向かい、二人してベッドに倒れ込んだ。
悠馬は、不思議そうにあたしの顔を見つめている。
まるでどうして飛行機が空を飛んでいるのか知りたがっている子供のようだ。
あたしは、彼の両頬に手を伸ばした。
火照った頬の熱が手のひらにじんわり広がる。そのまま見つめ合った。
「ぅ……?」
悠馬が首を傾げた。それに合わせてシーツがずざりと乾いた衣擦れの音を立てる。
今はキスさえしたくない気分だった。
このまま二人見つめ合ったまま、眠れたなら、もうそれだけで満足なほどだ。
なんとなく胸の内側がざわざわしている。このざわざわの正体をあたしは知っている。
トラウマだ。前と同じ思いをしそうで、手が止まってしまう。
頬に触れるぐらいで精いっぱいだ。
「水飲もうか、悠馬」
あたしは悠馬の頬から手を離し、ベッドから降りた。
裸足のまま、床に落ちていたリュックのところまで歩いていき、リュックサックの中にあるペットボトルを取り出す。
キャップを開けて悠馬に渡すと、彼はそれを受け取って一口飲んだ。
「ちょっと落ち着いた?」
悠馬はペットボトルをあたしに返しながら、こくりと頷いた。
「まだずくずくする? 身体」
「する、けど…さっきよりはまし」
あたしはリュックにペットボトルをしまいながら、努めて明るい声で言った。
「今日は、おしまいにしよっか」
「れい…?」
「寝たらなんとかなるよ、きっと。そうだよ、媚薬って言ったって、ヤバい物飲んだ事には変わりないんだから安静にしてなきゃ」
「玲」
あたしは床の上にリュックサックを放り投げた。どさりと音がして、それっきり部屋は一気に静かになった。
何もかもが一切の動きを止めた。世界中の時が止まったのだと思うような一瞬だった。
悠馬があたしをそっと後ろから抱きしめた。
「玲」
「……怖かったの」
声が、震えてしまう。どうしてあたしが泣きそうになってるんだ。
「悠馬、初めてこういう事した時と、同じ顔してた…」
怖い思いをして苦しむのはいつだって悠馬のほうなのに。
「怖いのと気持ちいいのがピークになって、頭の中がもうぐちゃぐちゃになってて、防衛本能で顔が笑っちゃってるの。だけど目が笑ってないの」
初めてこういうことをした時もそうだった。
あの表情になってすぐに、悠馬は高校時代のトラウマを思い出して、半狂乱になった。
何度も何度も誰かに許しを請い、過呼吸寸前まで見えない何かを怖がった。
悠馬はあの時、なだめようとしたあたしの手すら払いのけた。
伸びてくる手の全てが、彼にとって脅威だった。
震えが止まらないのに、抱きしめられる事すら恐ろしくて、必死で自分の腕で自分を抱きしめるしかない悠馬の姿は、あまりにもむごかった。
「戻ろう、今からでも世間一般の普通に戻ろうよ。男の人が上で女の人が下で。それがいいじゃんか」
そう言うと、悠馬があたしから腕を離して、あたしの正面に回り込んだ。
「なんでそんな事言うんだ」
まっすぐな目で追及してくる悠馬を直視できなくて、あたしは顔を逸らした。
「そっちの方がいいじゃんか。人体の構造から考えたって、世間体から考えたってそっちの方が普通だよ」
「普通って何がだ。普通が良いのか。今までの俺たちが普通じゃなくて、異常だったって言いたいのか」
悠馬があたしの肩を掴んだ。だけど、あたしはまだ悠馬の方を見る事ができない。
「どの線引きで異常って言いたいんだ。俺が今まで玲に抱かれた事が、全部おかしい事だって言いたいのか。冗談じゃない」
悠馬が無理やりあたしの顔を正面に向けた。
声の調子からして怒っているのかと思ったが、悠馬の表情は全く違った。
困惑しているようにも見えた。あたしに縋っているような目をしていた。
「玲は、俺を抱きたくないのか。本心から普通に戻ろうって言ってるのか」
「……だって、だって」
目の端に溜まった涙が視界を歪める。悠馬の顔がちゃんと見えない。
「大好きだから……。大好きだから、悠馬の事、抱きたいし、可愛い顔いっぱい見たいし、いっぱい気持ちよくさせたげたいよ。だけど、悠馬に怖い思いさせてまで、エゴは通したくない。また、こういう事してる最中に悠馬が昔の事を思い出したら、あたし、たぶんもう悠馬の事、抱けないよ……。でも、そんなのやだ……」
自分が支離滅裂で、とてつもなくワガママな事を言っている事が嫌で嫌でたまらない。
悠馬があたしの涙を指で拭った。やっと、悠馬の表情がちゃんと見えるようになった。
彼は、さっきよりも優しい顔をしていた。
「俺の事を抱くのが、辛い?」
「……辛くない。悠馬の可愛い顔が見れるから、好きだよ。でも、たまに、こんな風にどうしようもなく怖くなる」
自分の手を見降ろすと、震えていた。
固く握りしめて、開いて、また握りしめて、開いて、震えを逃そうとするけれど、おさまらない。
見かねた悠馬が、あたしの手を握った。
「ごめん。怖い思いさせて」
悠馬が謝る事なんか何もない。
そう言いたいけれど、口を開いたら泣いてしまいそうで、あたしはぶんぶん首を横に振った。
「でも、社会科教室でされた事を忘れるのも、トラウマを完全に消すのも無理なんだ。多分なんだけど、抱いても抱かれても、思い出す時は思い出してしまう。これから先も、もしかしたら思い出して発作を起こす時があるかもしれない。それで玲を悲しい気持ちにさせたり、苦しめたりしてしまう事があると思う」
悠馬は、困ったように眉を下げて笑った。
「今でも、トラウマでしんどい思い事をする時はあるからな。特に男の人と二人きりで個室にいたら吐き気がする。バイトの休憩室なんか大変なんだぞ。ハゲ頭の店長とでも、吐き気が止まらないんだから」
悠馬はそう冗談めかして話した。だけど、あたしの手を握る悠馬の手は少し震えていた。
あたしの知らないところで、彼はどれだけトラウマに苦しめられてきたんだろう。
想像してあげる事しかできないのが、もどかしい。あたしが、代わりになれたなら。
「でも仕方ないんだ。トラウマとはもう一生付き合っていくしかないと思ってる。例え、あの男が土下座してきたって許せないし、トラウマが消えるわけじゃないから」
あたしは知っている。
人が冗談めかして話す時は、皮肉を言う時か、何かをごまかしている時か、面白い話をしようとしている時だって。
そして、皮肉も言わずストレートに怒るこの堅物な男が、冗談めかして話す時は、何かをごまかしている時一択である事も。
そしてごまかしている「何か」が、「恐怖」である事も。
あたしは、ありったけの力で悠馬の身体をベッドに押し倒した。彼はびっくりしたような顔で、こちらを見つめている。
あたしも、自分でこんな力が出るとは思わなかった。そして気づいてしまった。
自分がどうしようもなく怒っている事に。
彼を怖い目に合わせた男に、彼を救わなかった全ての人に、恐怖をごまかし続ける彼自身に、そして何より悠馬に恐怖をごまかし続けさせてしまった自分自身に。
「言って」
頬を涙が滑り落ちていく。
「怖いって、素直に言って」
滑り落ちた涙が、悠馬の頬にぽつりと当たって弾ける。悠馬の顔から一切の表情が消えた。
「怖いの、誤魔化さないで…」
怖い思いをさせたくない。それすらも、あたしのエゴでしかなかった。
あたしは怖がる悠馬の姿を見たくなかっただけだ。
悠馬はあの日から今まで、そしてこれからもずっとトラウマと一緒に生きていかなければいけないのに。
悠馬が腕を伸ばしてきた。あたしは彼の手を取って、自分の背中へ回させた。
「怖い」
悠馬は、ぽつりとつぶやいた。唇が震えていた。泣くのを堪えているようにも見えた。
「怖い事、全部忘れたい」
「うん」
「だから、怖い思い出の餌食になる前に、あなたの餌食にして」
悠馬の腕があたしの身体に絡みついてくる。抱き寄せられて、顔が近付く。
今、きっと世界にはあたしと彼しかいないのだと、そう錯覚するほどに近く。
互いの吐息しか聞こえなくて、互いの瞳の奥しか見えなくて、互いの体温しか感じない。
「全部忘れさせてほしい……」
瞬きを一つすると、悠馬の目から涙が零れ落ちた。
「二度と普通に戻ろうなんて言わないで」
「……ごめん」
「俺が怖がっても、何度でも抱いて。ワガママだって自分でもわかってる。でも、愛してる人と肌を重ねる事は、涙が出るくらい幸せなんだって、身体に教え込んでくれなきゃ嫌だ。玲じゃなきゃ、嫌」
彼の顔がぐしゃりと歪む。
「…お願い、早く来て」