【廃棄神譚】巴火蜂メインの短編シナリオ『棄望の道』を公開!!【進捗報告】
今回は、『廃棄神譚』ヒロインの『巴 火蜂』メインの短編ストーリー、
『棄望の道』を公開です!!
火蜂が芥達と出会うまでのお話。
今回も執筆いただいたのは星野彼方さん(@BeyondTheStar)
※他の短編ストーリーをまだ読んでない方は、↓こちらから是非!!
前日譚「芥とノラの世界」
https://ci-en.dlsite.com/creator/3595/article/228008
短編ストーリー『落果少女』
https://ci-en.dlsite.com/creator/3595/article/381605
短編ストーリー『棄望の道』
恐ろしいものを、見た。
恐ろしい未来を、識ってしまった。
本当に恐ろしい。
悲鳴が喉に詰まって、身が張り裂けそうなほどに。
だから……彼女は、逃げ出した。
当てもなく、ただ逃げ出した。
どこでもいい。
とにかく、この場所ではない、どこかへ。
どんな未来でもいい。
とにかく、別の未来に繋がる道へ。
走って、走って、走った。
それからのことは、あまり記憶にない。
恐怖と、混乱と、すがるような懇願と……
ありとあらゆる感情が去来する中で、ひたすらに手足を動かした、その先で。
巴火蜂は、彼らと出逢った。
*
「痛っ!」
指先が、ささくれだった樹皮と擦れて痛みが走る。
「あ、ちょ――」
身を震わせた拍子に、傷んでいた紐が千切れてしまったらしく、肩に掛けていたザックが身を離れて落ちていった。
突然に重量を失い、身体がバランスを崩す。
慌てて、背中の翅を動かし、浮力を利用することで辛うじて、蔓にしがみつき直すことに成功した。
「はぁ……」
巴火蜂は、わずかな溝にしがみつき、安堵の息を漏らす。
上を見上げると、自身がしがみついている巨大な世界樹が、遥か上空まで高く伸びている。
あの上――本国から逃げ出して、どれほどの時間が経過したのか……もう分からない。
背の翅で重力に逆らいながら、世界樹という大木の幹に巻きついた蔓を伝い、這うようにして下りていく。
この高度では、翅で一気に下りることは不可能だ。
確実に体力が持たない。足を踏み外さぬよう慎重に、蔦を辿る。
「下は、まだなの……?」
世界樹の幹の太さは、火蜂の身体の何十倍もあり、巻きついている蔦を伝っていくだけでは、木の幹を何周もしなければならず、時間がかかり過ぎる。
だから火蜂は、上の蔦から下の蔦へと移るようにして、垂直に下りていた。
(あと、どのくらいで着くんだろう……)
本国の下、世界樹の根が張る世界。
その場所について、火蜂は、ほとんど何も知らなかった。
知る必要がなかったからだ。
知らずとも、豊かな生活と安全が保障されていた。
――されていると、思っていた。
おぞましい光景を思い出し、全身が粟立つのを覚える。
ふと、手首が誰かにつかまれたような感触があった。
何事かと顔を上げ、自身の腕の先を見る。
そこに――“アレ”がいた。恐怖に身が竦む。
「……ニガ……サ……イ……」
“ソレ”は言う。濁った目。開いた大きな口から、異臭が吐き出される。
「……ニガ……サナイ……」
(こんなところまで来ているはずがない! これは幻覚! 私の恐怖心が反映した――)
頭を強く横に振る。
すると、たちまちのうちに“ソレ”は姿を消し、世界樹の幹が目前にある。
よく見ると、蔦が手首に絡みついていた。
世界樹も、運命も――、この身を絡めとり、離してはくれない。
(嫌だ。あんな末路を辿るなんて、私は――)
「――ぃやっ」
短く悲鳴を上げ、蔦を振り払った。
「……ぁ」
両手が、大木を伝う蔦から離れる。
足が滑り、一気に重力が身体を捕らえる。
(落ちる……!)
背の翅を羽ばたかせようとするものの、ここまでに積もっていた疲労が一気に襲いかかり、思うように動かすことができない。
「嫌、だ――」
(こんな、ところで……!)
歯を食いしばり、体力の残り総てを翅に注ぎ込もうとする。
先程まで自分がいた場所がぐんぐん上方へと離れ、目の前を世界樹の幹が凄まじい速度で縦に過ぎていく。
視線をわずかばかり上に向けると、そこには、これまで暮らしていた世界の裏側があった。
すなわち、世界樹の最頂部で渦巻く無数の枝から成る、本国の裏側である。
背中を、鞭で打たれたような激痛が走った。落下中、周囲に生えている木の枝にぶつかったのだと理解する。
立て続けに、太ももや腕にも、同一の痛みが襲いかかってくる。
(痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――!)
(周辺に生えている木にぶつかったということは、地上が近いということ)
(痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ――!)
激痛と、冷静な分析とが、脳裏で交互に瞬いて、思考が鮮やかに混濁する。
いつ終わりが来るとも知れぬ落下の末、ついに身体が泥濘へと叩きつけられた。
衝撃は、途中の枝によってだいぶ相殺され、痛みこそあれど意識は明瞭だった。
喘ぐように息を吸い、吐く。
(――生きてる)
生きている。
「生き、てる……」
全身が、己の生を認識しようと、目まぐるしく機能した。
血が巡り、心臓が跳ねる。肺いっぱいに吸い込んだ空気は、どんよりと湿度が高く、濁っていた。
「――は、ぁっ」
粘つく泥濘に半ば沈んでいた顔を上げると、頬を泥の塊が伝い落ちた。
口の中で、血と泥が混じり合っている。
誰も見ていないとはいえ、それを控え目に、ぺっと吐き出した。
「……痛い」
全身を検め、身体が問題なく動くか確かめる。
傷だらけであちこち痛むが、骨を折るなどの重大な怪我は無いように思えた。
ただ、翅を傷つけてしまったかもしれない。
周囲を見回す。
そこは森だった。
辺りの異様な薄暗さや湿度の高さは、話に聞く沼地というものに近いかもしれない。
「ここが、腐海……」
名を聞いたことはあった。
どれほど恐ろしい場所なのか、至極簡潔に語り聞かされたこともあった。
けれど――“あの光景”よりも恐ろしいものが、この世に、在るだろうか。
(逃げなきゃ。もっと……遠くへ)
そんな心に突き動かされ、火蜂は痛む脚を叱責しながら、何とか立ち上がった。
*
「……完全に迷子ね」
漂流、という言葉を、書物か何かで読んだことがある。
今まさに、火蜂は漂流していた。
足が勝手に動き、火蜂の身体を、意識と共に運んでいく。
行く先は分からない。
ただ、風や音や臭いに流されるまま、歩いていた。
今自分がどこに居て、どこへ向かっているのか……まるで不明だった。
「歩けど歩けど、景色変わらないし……参ったわね」
空を見上げても……そこにあるのは、空ではない。
世界樹の上に広がる、本国の裏側だ。
太陽がなくては、方角も分からない。
そもそも方角が知れたところで、どちらへ行けば何があるのか不明なのだから、同じことだが。
それに、唯一つの標となる世界樹は、どこへ行こうと、その姿を確認することができる。
要は、あれから離れられれば良いのだ。
(脳裏にこびりついて、離れない……大きな影と、妖しい湿った音……)
すぐ背後にピッタリと張りついてくるような呪われた運命。
進んでも進んでも、振り払い拭い去ることができない。
いや……自分が本当に進んでいるのかどうかさえ、確かではない。
周囲の風景に一切の変化はなく、目に入るすべてが未知だった。
振り返ると、巨大な世界樹との距離はあまり変わっているようには見えず、あたかも追いかけてきているかのように感じることさえある。
この土地はまだ、世界樹の支配下だ。
世界樹の影に浸された地。
土の下には、世界樹の太く長い根が張り巡らされて、この森の命を養分として吸い尽くしているのだろうし。
見上げると、天井のように、世界樹が空を覆っている。
ここは、一種の果てしない回廊だった。
周囲には、歪な形をした木々が石柱のように無数に立ち並び、火蜂を見下ろしている。
「気味の悪い森……」
世界樹を這い下りている最中に落としたザックを出来ることなら見つけたかったが、それは叶わなかった。
これは非常に由々しき事態であった。
あの中には、詰め込めるだけ詰め込んだ、非常食糧などが入っていたのだ。
(この森のもの……恐らく口にするのは不味い)
周囲に立ち込める腐臭。
目に入る木も土も植物も果実も、何もかもが朽ち果て、腐っている。
あのようなものを口に入れたが最後、身体を内側から蝕んでしまうだろう。
(このままでは、もって数日……いや、まともな水さえ無いとしたら、もっと早くに動けなくなる)
どうすれば、いいのだろうか……どうすることもできない。
今はただ、歩き続けることしか――世界樹から少しでも遠く離れることしか、できない。
それしか考える余裕がない。
(逃げ出したはいいけれど……)
この先、どうするのか。
そんなことを、考えていたはずもなかった。
衝動的に、本能的に、逃げ出したのだ。
徐々に理性が浮き上がってきたところで、今さら、どうしようもない。
「――ああ、もうっ!」
つい悪態を吐いた。
(どうして、私がこんな目に……)
理不尽だ。
あまりに不平等ではないか。
――そんな苛立ちが、歩く力に変換される。
ぽつっ、と何かが鼻先に当たった。
「……雨?」
繊細な雨が、頭上から降り注いできていた。
(世界樹に覆われた空から、雨が降ってくるなんて……?)
恐らくは、本国の土から漏れだした地下水が、世界樹の裏に染み出し、下の世界へと降ってきているのだろう。
腐海は、何もかもが本国のお零れで成り立っているのか……。
(こんな場所に、この先、私が生きていけるような場所があるんだろうか)
湾曲した禍々しい木々の間に、新たな泥濘が出来上がりつつあった。
ただでさえ酷かった足場が、ますます悪化しそうだ。
それから、どのくらいの時間が経過したのか。
徐々に、身体の気怠さが、実感として圧し掛かってきていた。
蓄積された疲れによるものか。或いは、全身の怪我によるものか。
(――違う)
この森の空気を吸うごとに、身体が重くなっていく。こんな感覚は初めてだった。
曖昧な不安が膨れ上がっていく。
(この森に……蝕まれてる?)
それは直感的な印象だった。だが、そうとしか思えないほどに、身体や意識が何かによって汚染され始めている。
(このままじゃ、いけない――)
気ばかりが焦り、足を速める。
けれど、森はどこまでも続いている。
(……ん?)
つと、足を止める。
葉や土を打つ雨音の隙間から、まったく別の、何か有機的な音が聞こえてきた。
(獣の、声)
警戒して、辺りを見回す。
それと同時に、安心してもいた。
(完全に死の森かと思ったけれど……少なくとも、生き物はいるみたい)
ならば、己が生き抜くチャンスは、あるのかもしれない。
そんなことを思いながら、物音を立てないよう、恐る恐る歩んでいると――
(な、何!?)
目の前の茂みから茂みへ、ピンク色の肉塊が横切っていった。
ぎょっとして立ち止まる。
肉の塊。
そうとしか、見えなかった。
ゆっくり忍び寄り、茂みを掻き分けて、肉の塊が向かった先を覗き込む。
そこに、やはり妖しげにピンク色をした生き物の尻が見えた。
もぞもぞと動いている。
何か、落ちている木の実でも貪っているらしい。
(……豚?)
それは、本国でも度々目にしたことのある生き物だった。
豚、と呼称されるものだ。
(豚なら、食べられるかも)
近くに落ちていた大きめの石を引き寄せ、両手で持ち上げる。
(これで背後から殴りつければ、一発で仕留められる可能性も……)
我ながら野蛮な発想だったが、次にいつ食材が手に入るか分からない。
今の状況では、ここで動物と出逢えたのは、奇跡とも言える。
歩くたびに足を持ち上げてしまうと、泥が音を立てかねない。
一歩一歩、獲物へと向かい、足を滑らせる。
ようやくその背後に迫り、石を持ち上げた、その時だった。
「――え」
視線の先、茂みの中から、別の個体――新たな豚が、顔を覗かせていた。
その隣に、さらに別の豚が顔を出す。
ぞっとして、岩をその場に落とした。足元で泥が跳ねる。
物音に反応して、最初に狙っていた豚が、こちらを振り返った。
円らな瞳が、火蜂を見上げ、捉えている。
「や、ちょっと……」
次々と、複数の豚が茂みから顔を出した。
じっと、火蜂を見つめている。
(……やられる)
やけに鮮やかなピンク色の群生は、くすんだ緑や焦げたような茶色が支配するこの森において、毒々しくも感じる。
(何よ、これ。嘘……でしょ……)
獲物は、火蜂のほうだった。
気がつけば、豚たちは火蜂を囲むようにして、次々と茂みの向こうへと群がってきている。
瞬間的に、火蜂は踵を返して逃げ出した。
(やばいやばいやばい――!)
背後から、複数の足音が重々しく響いてくる。確実に追いかけてきている。
「来ないでっ!」
そんな主張をしたところで止まってくれるはずもないが、つい叫んでしまう。
所々で隆起している木の根に足を取られないよう注意しながら、とにかく走る。
横を見ると、不気味な木々の向こうに、火蜂と平行して走って来ている個体も見える。
左右を挟まれ、その感覚は徐々に迫ってきている。
「はぁっ、はぁっ」
普段よりも早く、息が切れる。
やはり、身体の調子がおかしい。
呼吸がし辛い。
自分の荒い息遣いに、豚たちの鳴き声が重なる。
泥を蹴散らす、無数の足音。もう、すぐ後ろまで――
「伏せろ」
突如、そんな声が降りかかってきた。
火蜂の身体が声に従い、咄嗟に身を屈める。
頭上を、何かが振り切る音がした。
鈍い衝撃音と共に、一匹の豚が茂みの向こうへと吹っ飛んでいくのが見えた。
「来い」
腕を、誰かに引かれる。
見上げると、精悍な顔つきの男性が、そこに立っていた。
(人……人間、だ)
命の瀬戸際に颯爽と現れた男の顔を、つい、ぼぅっと見つめてしまう。
瞬間、世界が止まったように感じた。
迫り来る豚の群れも、空を覆い尽くし大地を見下ろす世界樹も、恐ろしい未来も、その一瞬だけは、完全に忘れ去ることができた。
火蜂は、男の顔だけを見ていた。
(助けてくれた……?)
男は、ちらりと火蜂に目を合わせた。
かと思うと、そのまま火蜂の身体を無造作に抱き寄せる。
「ひゃぅっ、えっ、えっ!?」
男の顔が目の前に迫り、自分のものとは思えない変な声が出る。
だが男は、こちらには目もくれず前だけを見て、片手で、火蜂の身体を抱えている。
「な、何を!?」
「話すな。舌を噛む」
火蜂の疑問に男は淡々と応え、火蜂の身体をそのまま肩に担いだ。
「ひゃぁっ! ちょ、ちょっと――」
男に触れられたことで、瞬間的に身を引こうとするも、がっしりと固定されてしまい、動けない。
自然、胸元が男の背中に当たって押し潰される格好となり、これではまるで、男に胸を押しつけているみたいになってしまう。
「は、離してっ」
「文句は後にしろ」
男が走り出す。
担がれた火鉢の顔が、ちょうど男の背中にぶつかった。
鼻先の痛みに顔を上げると、後ろから迫ってきている無数の豚たちを、まともに目の当たりにする。
「ま、まだ追って来てるわよ!?」
「だから逃げている」
やはり男は端的に応じ、火蜂を抱えたまま走った。
火蜂を支えているのとは反対の手に、大きなスコップを持っている。
どうやらそれで、先ほどの豚を殴打したらしい。
「だからって、こんな荷物みたいに――」
突然の救世主たる男に対し、火蜂はもちろん感謝していた。
とはいえ、女の子を肩に担いで運ぶとは、あまりにぞんざいな扱いではなかろうか。
男の肩が、火蜂の腹に食い込む。
ただでさえ、しばらく食事ができておらず疲労困憊だった火蜂の腹は、そんなわずかな刺激によって誘発され、盛大に空腹の音を鳴らした。
「あぅ……」
かぁっと頬が赤くなる。
火蜂の腹は、男の肩に乗っている。
その振動は確実に伝わっただろうし、男の耳は火蜂の腹のすぐ横にあるのだ。
聞こえなかったはずもない。
こんな状況でも、羞恥心というものは正常に機能するものらしい。
必死に誤魔化そうとした結果、火蜂は口を開いた。
「ちょ! ちょっと! こんな、扱い、して、良いと、思ってるの!? 私を、誰だと、思って!? 身の程、わきまえ、なさい!」
口をついて出たのは、自分でも嫌になるほど自尊心に満ちた罵詈雑言。
男が言っていた通り、危うく舌を噛みそうになるため、飛び飛びの言葉になる。
「とーさま、それ、捨てよう?」
横から、そんな物騒な言葉が聞こえてきた。
顔をそっちへと向ける。
小柄で幼い印象の少女が、男の隣を、同じペースで走っていた。
少女は、無表情ながらも批判的な視線で火蜂を見る。
「もったいないだろう」
男は少女にそれだけ言うと、火蜂を担いだまま、さらに速度を上げた。
しばらくすると、どこまでも追いかけて来ていた豚の一群が、次第に速度を落とし、やがて完全に静止して、こちらに興味を失ったようにバラバラに散っていった。
「諦めた――?」
火蜂が呟くと、走りながら男が頷いた。
「そのようだな。念のため、もう少し離れる」
火蜂を担いだ男と、それに並走する少女は、さらに森の奥へと走っていく。
安心して息を吐き、火蜂は解散していく豚たちを眺めた。その向こう、これまで移動してきた森の先に、高くそびえる世界樹が見える。
雨は上がり、灰色の霧が生じて、徐々に世界樹の姿を覆い隠していく。
例え隠れても、そこに在ることに違いはない。
未だ逃れられた心地はしないけれど、少しだけ距離を置けたような、そんな気がした。
*
「おかえりなさい。……あの、その人は?」
緑に埋もれた小さな廃社。
そこに併設された古民家が、男たちの生活拠点らしかった。
玄関先で、さらに別の少女が立ち、男たちを出迎えた。
その丸い目が、大きく開いて、予期せぬ来客である火蜂を見つめていた。
(この子……)
そして、火蜂もまた、少女を見て驚いていた。
彼女の服装が、明らかに本国のものであったからだ。
「腹を空かせているらしい。食事を頼む」
男が家へと入っていきながら、少女に言う。
その言葉に、やはり腹の音を聴かれたのだと気がつき、赤面する。
「準備はできています。一人増えたようなので、追加で作りますね」
少女は男に笑顔で応え、火蜂に向きなおった。
「さ、どうぞ、中へ」
少女に促され、火蜂は警戒心を保ちながらも、家の戸をくぐった。
すれ違いざまに、少女の視線が火蜂の身体の一点へと寄せられているのを感じる。
「お……大きい」
何のことかと思いつつ、家の中に入る。
濡れた身体に、室内の温度は暖かかった。
「ただいまー」
幼いほうの少女が、律義にそう口にしている。
男が上着を脱いで椅子の上に放り、卓の前に腰を下ろした。
卓上には、肉や山菜、木の実などからなる料理が並んでいる。
「遠慮はするな。座ってくれ」
男が火蜂に言った。火蜂は、言われるがまま男の正面に腰を下ろす。
命の恩人とは言え、素性の知れぬ相手を信じることはできない。
そんな火蜂の警戒心に、男が気づいていないはずもないが、特に気にした様子はなかった。
「堀部芥だ」
男が唐突に言うので、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
だがすぐに、相手が名を名乗ったのだと気がつく。
「……火蜂。巴火蜂よ」
「あたしは穐里明狸ですー」
部屋の向こうで鍋をかき混ぜていた、丸い瞳の少女が笑顔で続く。
「…………」
男の真横に座った幼い少女は、無表情のまま火蜂を一瞥すると、
「ノラ・バルヒェット」
とだけ言った。
「すぐ出来ますので、あたしのことは気にせず、先に食べちゃってください」
明狸が声をかけてくる。
「ありがとう」
男が顔を上げ、明狸に礼を言う。すると彼女は、「えへへ」と嬉しそうに照れ笑いを浮かべた。
「そうだな。冷めると、もったいない。食事にしよう」
そう言って、男が手を合わせる。
その横のノラも、両手を合わせた。
二人の視線が火蜂に注がれ、火蜂は、ゆっくりと手を合わせた。
その瞬間、ふと、泣き出しそうになっている自分に気がつく。
こんな、当たり前の所作を、当たり前にするというだけで。
遠い昔のような、かつての暮らしを思い出してしまう。
「いただきます」
「いただきます」
芥とノラが口にする。火蜂は、ただ黙って、一礼をした。
顔を上げると、前の二人は、既に食べ始めていた。
見ているこちらが気持ち良くなるほどの豪快な食べっぷりで、ノラに至っては、その小さな口のどこにそれだけ詰め込んでいるのか不思議になるほどだ。
そんな二人を見ていて、少しだけ、自分の中で緊張の糸が解れていくのを感じる。
こんな光景を見せられれば、誰だって微笑ましくなるというものだ。
「……助けてくれて、ありがとう。感謝してるわ」
脇目も振らず食べ続ける二人に告げる。芥は少し箸を止め、火蜂を見た。
「私の素性、気にならないの?」
そう。
火蜂が警戒しているのと同様に、彼らだって火蜂のことを警戒していないはずはないのだ。
それなのに、信じられない速度で家に招かれ、食卓を囲んでいる。
「人の過去というものは、得てして崩れやすく脆い。土くれみたいに掘り進んでいいものじゃあない」
芥は言って、椀を置く。
要するに、詮索する気はない、ということらしい。
「そう……」
火蜂は目を伏せた。これではまるで、聞いてもらいたいみたいだ、と思う。
誰かに話して、何もかもさらけ出して、楽になりたいとでもいうのだろうか。
そんな火蜂の様子を見て、芥が口を開く。
「本国の人間だろう」
芥の言葉に、離れたところで鍋を回していた明狸の手が止まったように見えた。
「元……ね。今は、どこの人間でもない」
「捨てられたのか?」
「――いいえ」
「では、逃げてきたのか」
「それも違うわ」
目の前に並ぶ料理を見下ろしながら、心の内を整理するように、言葉を吐き出した。
「私は逃げ出したんじゃない。……捨ててきたのよ」
そう呟いた火蜂を、芥はしばし眺めてくる。
「そうか」
やがて肩をすくめ、芥は食事を再開した。
「ほら、どんどん作ってますので、食べてください」
明狸が新たな料理を手にやって来て、火蜂の隣へと座る。
「お代わり、ありますからね」
「え、ええ。ありがとう」
「いただきます」
明狸も手を合わせ、箸を手に取る。
それに倣い、火蜂もようやく箸を手にした。
肉をつまみ、口へと運ぶ。
口に入れた途端、何もかもが肉汁と一緒に溶け出してしまいそうな感覚に襲われた。
このままだと、泣いてしまいそうだ。
そう気づいて、肩の力を抜く。
(何よ……)
咀嚼していくうちに、本国での暮らしが脳裏を過ぎった。
口の中の肉を一噛みするごとに、思い出を噛み砕いていく。
そうしないと、平静でいられない。
(お願い。お願いだから、私の中から、いなくなって)
切なる願いが、自身の内なる世界に、虚しく木霊する。
芥が何かを言った。
それを聞いて、明狸が横で明るい声を発する。
そんな明狸に対してノラが静かに呟き、芥がまたそれに応える。
そんな、当たり前みたいな景色を眺めながら、火蜂はまだ独りだった。
どこか客観的に、目の前で繰り広げられている当たり前の光景を眺めている。
「火蜂さん、美味しいですか?」
横からそう問われて、火蜂は箸を止めた。
顔を動かして明狸のほうを向くと、彼女はニコニコと笑顔を浮かべて、こちらを見ていた。
しばし彼女の笑顔と向き合った後、火蜂は自分が、一心不乱に肉を頬張っていたことに気づく。
己の身体は、こんなにも命を渇望していたのだ。
火蜂は改めて、新しく出逢った人々を見回した。彼らの住む家の中を見渡した。
懸命に生きている。
この人たちは、この地で生きているのだ。強い意志とともに。
惰性や諦念による生存ではない。生き抜いている。
何となく生きていけるほど、この世界は甘くない。
そんな領域は、とっくに消え去っていた。
(ああ……)
生きたい。
(私も生きたい。強く、凛々しく、気高く――)
「私、らしく」
肩が震える。
止められない。
それでも、涙は一滴も零さなかった。
(泣くもんか)
誰かの手が、そっと肩に触れる。明狸だった。
「馴れ馴れしく……触らないで……」
「はい」
そう答える明狸の手は、しかし力強く、ほのぼのとした雰囲気のどこにそんな精神力を隠していたのか、決して火蜂を離さない。
そのままそっと、火蜂の顔を胸元へと抱き寄せる。
火蜂は、されるがままの自分に驚きながら、明狸の心臓の音を聴いた。
(ああ、生きている……)
「もう、大丈夫ですよ」
優しく語りかけてくる明狸の声に、どこか自分と似たものを感じ、撥ね退けることもできない。
彼女は分かってくれている、と心で気づいてしまったから。
もちろん、ここに来るまでに体験したこと、思いを、この出逢ったばかりの少女が知るはずもない。
(でも、今は――ちょっとだけ……)
恥ずかしい、と思う余裕もなかった。
火蜂は両手を明狸の身体に回した。
すがるように、彼女の身体にしがみついた。
押し寄せていた疲労、恐怖、不安、そのすべてが渦を巻いて心の奥を滅茶苦茶にする。
どうにかなってしまいそうで、火蜂は肩を震わせることしか出来ない。
「よしよし」
明狸の手が、火蜂の髪を撫でる。
やっぱり涙は出ない。
だけど喉の奥から、押し潰されたような、しゃがれた声が漏れた。
「大丈夫です。大丈夫」
何が大丈夫なのか。
根拠も脈絡もない言葉。
なのに、今の自分に必要なのは、ただその言葉だった。
もっと言ってほしかった。大丈夫だよと抱き締めてほしかった。
「私は、大丈夫……」
呟く。
何度も何度も、そう呟く。
火蜂の言葉に、明狸は何度も頷いてくれる。
まだ生きていける。これからも生きていける。
(私は私のまま、生きていくことができる。そのために――)
――強くなろう。
そう思った。
こんなところで腐らない。
まだまだ自分は終わらない。
だから、
(強く、なろう)
口の中に残っていた肉の欠片を、火蜂は静かに呑み込んだ。
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短編ストーリー『棄望の道』はここまでとなります。
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いつでもお待ちしておりますっ!!